藤が咲いて、紫陽花の蕾が膨らみ始めていた。手を入れた木々は、ひと月経っても良い形を保って居た。彼は元々、どこに出しても恥ずかしくない弟子である。勤勉さに於いては信頼しきっていた。
初めに比べて、二之部君からほんの少し悪戯っぽい素振りが見られる様になった。悪戯といっても、大したことでは無い。食事をキヨさんと作る様になってから、私の好物とそうで無いものについて、幾らか知識を付けた為だ。ひじきに入っている大豆がどうにも苦手なのだが、弟子と取っている立場である手前、残す訳にもいかず。黙々と咀嚼する私を見て、彼はこっそり笑んだりするものだから、余計に食べ残せぬ状態だったのだ。私から提言する場面は無いものの、二之部君も私の僅かな表情の変化を感知出来る様になってしまったのだろう。その証拠に、「残さず食べて頂き、嬉しく思います」等と弾んだ声をさせて言うのだ。私は言葉少なに頷くしか出来ぬし、またそうした態度さえも何だか許せてしまうのだから困ってしまう。
分を弁えているからこそ表には出さぬ様に努めて居たが、私はすっかり彼を気に入り倒していたのだ。
梅雨入り前、此の儘夏に向けて転がり落ちそうなほど暑い日があった。汗と埃に塗れて、二之部君と駿河君がやって来たのを良く覚えている。彼等は仲間の中でも一目置かれる存在だったらしく、野球部の助っ人として練習試合をして来たのだと言っていた。特段、家の中が汚れる程では無かったが、簡単に水を浴びたいと言って、庭先で身を清め始めたのだ。
背中を互いに拭き、さて此れで終いかと思った矢先、駿河君が悪戯心を働かせて、水浸しの手拭いを二之部君の顔に向けて投げつけた。反撃に出た二之部君は、手拭いを鞭の様にして駿河君から距離を取る。運動後の高揚なのだろう、子供っぽい戯れ合いは暫く続き、結局、二人ともずぶ濡れの有様であった。
私は大層可笑しくて、くつ〳〵と喉を鳴らす。大笑いした事は無いが、どうしても笑いを誤魔化すことが出来なかった。
「せ、先生……。」
私が見ているとは思っていなかったのか、二人とも石像の如く硬直し、静かに姿勢を正す。畳での爪研ぎが明らかになってしまった猫が、急激にしおらしくなる姿にも見え、私はます〳〵笑ってしまった。
「駿河君。着替えは要るかね。」
「いえ……。歩いて帰れば乾きます……。」
童の如き振る舞いに、大いに恥じていたらしかったが、私から見れば二人ともまだ〳〵子供であると思えた。
「二之部君。今日は暑い日だったが、幾ら何でもこれから冷える。一番風呂は譲ってやるから、早く温まりなさい。」
「あの……、いえ、お言葉に甘えます……。」
駿河の横腹を肘で小突き、忌々しそうにする二之部君に、私は新鮮さを覚えた。彼にも子供染みた顔が出来るし、その相手もいるのだ。駿河君を一番の友人と称して連れて来た事に偽りは無いのだろう。
ふと、胸の奥がちくりと痛む。此の時は何故か解らなかったが、今なら断言出来てしまう。私は、二之部君と対等に出来る駿河君に、みっともなくも嫉妬していたのだ。駿河君は勢い良く頭を下げて、気まずそうに退散していったので、彼と私で言葉を交わさぬ儘であったが、もし此の時に正面から会話する事になっていたら、私は恐らく八つ当たりしていたかも知れぬ。
二之部君もまた、恥ずかしくて穴があったら入りたいと言わんばかりで、目を合わせぬ儘、風呂場へと足早に去って行った。
無人になった庭先で、紫陽花の葉が水遊びの為に艶やかに光る。胸の内にあった物と比べた後、私は見ぬ振りを決め込んだ。
風呂から上がった二之部君は、浴衣姿で現れた。きちんと温まった様で、紅潮した頬から湯気が立ちそうだ。
「お見苦しい所をお見せして、大変申し訳ございません。」
「ハハ、良いじゃないか。駿河君は良き友の様だね。」
悪友かもしれません、と苦笑いする二之部君であったが、彼もまた駿河君という人格や実力について認めているのだろう。将来、私と三木谷に近しい間柄になるかも知れぬ。
二之部君は、キヨさんがもうすぐやって来るのでと付け加えて、夕飯の支度をする為に下準備をし始めた。
自宅であるというのに、自身は滅多に厨に立たなくなった。何となく彼を視界に入れておきたくて、厨が見える茶の間で新聞を読む事にする。
竃の火を付けている彼の後ろ姿を何となしに眺めていると、不意に頸の産毛に視線が定まってしまった。風呂上がりの彼は、いつもとは違う風に見える。先程まで濡れ鼠になって素肌を曝け出して居たが、浴衣から覗く肌は湯の為に仄かに色付いており、濡れた髪は黒々しさを増していた。烏の濡羽色という言葉が真っ先に思い浮かぶ。
じっくりと彼を観察している自分に、助平心があったのだと思い知らされる。それでも目が離せぬのだから、若さによる瑞々しさは恐ろしい。女学生相手にはこうならぬ。カフエーの女給にも、遊女にもならぬだろう。自らの情動に戸惑いつつも、目のやり場に困った私は、新聞の活字を追う事で誤魔化したのだった。
◆◆◆
此の年の梅雨は、冷える日が多かった。もしかしたら、自身の記憶を強固にすべくそう感じているのかも知れない。或いは、此の頃の事ばかり思い返すからか。
此の年の六月には、社の祝賀会があった。銀座のホテルを借りての催事であり、世話になっている身としては参加せざるを得ない行事であった。
正直に告白すると、あまり気が進まぬ心持ちだったのだ。人が多い場所は得意ではない。祭りや参拝であれば、脇道へ避ける事が出来るが、一箇所に固まって玉になる人混みは、空気が薄くなる様な心地がして息がしづらい為だ。
場所も自宅から歩くには骨が折れそうだったので、開通して間も無い電車に乗って其処へ向かう事にした。二之部君は連れずに一人だけだ。彼には、夕方には駅に着く旨だけを伝えると、億劫がる私を見抜いてか、言葉を尽くして送り出してくれた。空が愚図ついていたが、降っても小雨程度だと判断した私は、傘を持たずに出発した。
電車というものは興味深い物だと思う。各社で電車の出願を挙って行なっているのは、
銀ぶらなる行動は然程した事は無かったが、街並みは面白いと思える。煉瓦造りのビルヂングが建ち並ぶが、暖簾が店の目印になる文化は江戸・明治を経ても変わらぬ様子であった。街路樹の柳は、桜や松を植えていた時よりもしっくりと来ている様に見え、灰色の空の下でも風に靡く枝葉は美しかった。
カフエープランタンや洋食屋は、昼前であっても行列が出来ていた。庶民的な価格で本格的な味わいを楽しむのが昨今の流行である様で、長蛇の列であっても人々は期待に胸を膨らましていた。西洋雑貨店は噂通りの盛況ぶりであるし、新聞社や広告社が軒を連ねる区画周辺では、新しいものに敏感なジヤアナリストがあちこちに行き来している。
若い頃に、牛鍋屋に行った事があった。三木谷が強く薦めてきたので、そこまで言うならばと連れられて行ったのだ。なけなしの金を握りしめ、当時にしては大枚叩いて食した味は、今でも覚えている。実家からの支援は受けぬと心に決めた後の頃で、物書きの真似事で稼いだ金を使った事もあって、その味は格別であった。久しく口にしていない事を思い出し、何かの折に付けて二之部君を連れて行っても良いかも知れない。そんな事を考えたからか、気付けば、二之部君が興味を引きそうな店を探していた。
洋服店、靴屋、鞄屋、時計商、西洋家具店……。そう言えば、彼の部屋では物が増えていない。必要な家具があれば取り揃えると言ったが、未だに遠慮している可能性もある。今度彼を連れて来ても良いかも知れぬ。次の話の題材にすると訳を付けて、手伝って貰いたいと誘い出せば良いだろうか。
まるで、恋や愛に身を沈める哀れな男そのものである。弟子相手に逢瀬と同じ事を求めてどうするのかと
カンカン帽の鍔を、ついと指で持ち上げる。
目的地に無事到着したので一安心して周辺を見回すと、これまたカンカン帽だらけであった。着物羽織といった出で立ちは私の他にちらほら居るが、紳士の必須品がぞろぞろと集まる展覧会の様である。粧し込んだ衣服は不思議と輝いている様にも見えるので、少々眩しく思えた。
広く取られたホテルの入口の空間、大階段と踊り場に、真っ先に目がいく。階段上にはステンドグラスが嵌め込まれており、洗練された空間作りの要となっている。二階に続く赤絨毯の先が、今日の会場らしかった。天井の、巨大なシヤンデリアが特にモダンな一室であった。色違いの硝子板を交互に組み合わせたもので、細部に細工された金属枠は植物の蔦の様でもある。
西洋の、立食式の食事会に則ったものであり、私は壁際に逃げて辺りを観察した。出版社社員やその他の作家だけでは無く、雑誌社、広告社等の他社の人間も多く集まっている。前から見知っている者、古い作家仲間も居るには居るのだが、複数人で談笑する場に割って入るのも憚られる。適当な酒を煽って、さていつ帰ろうかと思案し始めた。
◆◆◆
式の挨拶、乾杯を経て、歓談の場になった会場は、暑さを感じる程の熱気に包まれていた。料理を口にし、酒を楽しみ、人脈を広げんとする人々をぼんやりと眺める。私の手元にも数枚の名刺があった。
三木谷を見かけた。忙しそうに、会場の隅から隅まで挨拶周りをしている様だった。私はなるべく奴の視界に入らぬ様にしていたが、向こうも此方に気がついてしまった。
「居た、居た! オイ、久慈先生!」
先生と敬称をつける割に、雑な呼びかけをする。私は諦めの溜息を吐いて、奴と正対する。近寄った途端、肩に手を回すくらいの勢いで引っ付かれ、私は逃げ場を失った。
「お前も挨拶周り、してるンだろ?」
「イヤ、隙を見て帰ろうかと。」
「馬鹿モン、逃すか。」
半分冗談、半分本気といった所であった。
名刺を渡し渡された所で、最早顔も名前も一致しておらず、社交性の無い私にとって、此の場は苦行である。物書きを生業にしてそれなりに長い為、繋がりを持とうとする者も少なくは無い。我ながら薄情であると思うが、特筆すべき物が無いと記憶に留まらぬのだ。それこそ、二之部君の様に文字からして個性が滲まぬ限りは……。
其処まで考え、私は眉間を指先で揉む。外出しても家で仕事をして居ても、二之部君の事を考え過ぎだ。書く物に影響が出ていないので良いが、師弟という距離感を知らぬ訳ではない。
「ところで、お前の自慢の弟子は連れて来ンかったのか。」
「連れて来る訳に行かないだろう。彼は作家になるつもりは無いと、断言しているのだ。」
「別に良いじゃねェか。鼻の下を伸ばしている久慈先生が見られるまたと無い機会だったのいうのに。」
背中を強く叩かれて飲み物が溢れそうになる。それにも構えぬ程、私は動揺していた。
「そんなに、顔に出ているか。」
「ハ?」
三木谷は呆気にとられた表情をしたので、私は「しまった」と思った。奴の悪い冗談だったのだ。カマをかけた訳でもなく、腹を探った訳でも無い、只の揶揄う台詞であった。
「……帰る。」
「待て〳〵、詳しく聞こうじゃあ無いか、エ? 久慈先生よ。」
背を向けた私の肩を思い切り掴んで止める。仮にも編集長という立場の人間が、指が食い込む程、担当の作家を引き留めるべきでは無い。何か揉め事がと勘違いされる上、私が締め切りを守らぬ不良作家に思われてしまうかも知れない。
「お前にだけは、絶対に聞かせぬ。」
色恋などでは断じてない。単に、二之部君という人間が持つ魅力から目が離せないだけで、彼自身とどうこうなりたい訳では無い。三木谷が好む浮説では無いのだ。
「……その台詞だけで大いに墓穴を掘っていると、何故、思わンのだ。」
浮かれ顔から一気に呆れ顔に変貌した悪友は、今度は軽く、私の胸に拳を当てる。
「あの頃以来、そういう気も無いお前なンだ。相手は兎も角として、少しくらいは良いと思うぞ。俺としては。」
憐れみさえ含んだ声であった。あの頃、とは私が三木谷に出会う直前の事を指している。普段行きもしない飲屋街に行く切っ掛となったのは、詰まらぬ失恋なのだ。奴はそれを知っているし、私も奴には隠さなかった。
私は珍しくニヒリスティツクな気分になり、自虐気味に笑みを浮かべる。
「彼には彼の、素晴らしい人生があるのだ。」
「苔が生えそうだよ、全く。」
否定せず、肯定もせず。然りとて無関心でもあらず。明確に言葉にせずとも、本質で遣り取り出来る人間の存在は、心の支柱となる。鬱陶しさを感じる事も多いが、基本的に私は三木谷に頭が上がらぬと思っている(本人に直接口にする場面など絶対に訪れぬだろうし、また本人が此の文章を目にしても、それについて触れる事はしないだろう)。
「だがなぁ、彼奴には彼奴の心算があるはずだ。確かめ合っても良いと思うがね。」
下卑たにやけ笑いを見せたので、前文は撤回しようと思う。大体、確かめ合った所でその先が無いのだ。余計な事はしないに限る。
私は態とらしく、再度深い溜息をして、三木谷の挨拶回りに付き合ってやる事にした。
◆◆◆
帰り路は、ほんの少し歩く事にした。数寄屋橋近くを通り過ぎて日比谷辺りを散策する。酒気はあっさり抜け、素面へと戻った。何だかんだと締めまで居たので私はすっかり疲弊していたが、冷えた空気は涼しく、肉体の疲れを僅かに癒してくれた。小雨が降る中で傘を差す人が殆どであったが、手元に無い上に少し頭を冷やしたい気分でもあったのだ。
夕暮れに差し掛かる時間帯になると、いくつかの店は仕舞いになり、代わりに飲み屋が盛んになる。洒落た高級洋酒店は、洒落た人を吸い込んでいく。珈琲で覚めた後に酒を飲んで酔うのは本末転倒な気もする。私は逆に、今、珈琲が飲みたいと思った。
三木谷には伝わってしまった上に否定されなかった。その事実が、大きな要石になったと今なら解る。その時の私は、揺れて居たのだ。自身が持つ弟子への好意について向き合う度胸が無く、規範の面からしても否定し続けねばならなくなって居た。
漫然と歩くうち、結局元いた場所に戻ってきてしまった。答えは無く、然し取るべき態度は決まりきっている。ならば私はそれに従うべきである。何とかそう腹落ちさせ、電車に乗ると決めた。
行きとは違い、満員となった車両には、今日を振り返って充実を味わいながら、日常へ帰る事へ一抹の侘しさを隠しきれぬといった風な人ばかりである。私も、日常的とは違う日であった。余所行きの袴姿であるし、普段は被らぬカンカン帽も身に付けた。慣れぬ物は心を弾ませる事もあれば、生気を吸い取る事もある。そうなれば心の動きも普段と異なるのは致し方ない事である。
道路を進む電車は、周囲の景色を絶え間なく変えていく。人が降り、疎らになり始める辺りで、私も下車した。
本格的に降り出した雨に、私は陰鬱な気分が募った。家に帰れば、いつも通りの暮らしに戻るだけだ。キヨさんに世話を焼かれながら、二之部君と本について語らい、時に教えを説く。二週に一度、三木谷に会って原稿を渡す。今の私には十分な、暮らしぶりである。
「先生。」
腹落ちさせたが、心は相変わらず浮かれている様だ。二之部君が帰りを迎えてくれる妄想まで育てて居るのだから、末期であると言える。
「先生。久慈先生!」
質感のある音だった。声のする方へ視線を遣ると、二之部君が傘を差して立って居た。周囲に人通りはあるが、彼だけが鮮やかに浮き上がって見えた。
駆け寄ってきた彼は、透き通る肌を一層白くして、息を弾ませる。
「迎えに来てくれたのか。」
「お出掛けの際、面倒がって持って行かなかったでしょう。」
たったそれだけの事で、待っていたのだと知る。左胸がぎゅう〳〵と絞り上げられる感覚に、多くの言葉を出せなかった。
「いつから待っていたのかね。」
「つい先刻です。読みが当たって良かったです。」
指の先が赤くなって居るのを見逃しはしなかった。吐く息は白く、梅雨冷えと呼ぶに相応しい気候である。
「傘は一つか。」
「僕の傘は、骨が折れてしまいました。修理に出しています。」
そっと傘の柄を持つ。彼の手に、一瞬触れた。手を温めてやりたいと考え、真っ先に浮かんだのは手を包み込むという発想だった。衝動的に湧き上がったものを一気に消火する。
「ならば、二人で使おうか。」
そう言うと、彼は頬を赤らめて笑う。赤くなっているのは、冷気が彼の肌に棘を刺しているからなのか、将又別の理由であるのか、区別は付かぬ。私は、自身の希望的観測に寄って認知を歪める程、都合良く考える事はない。然し同時に、浮かれ立ちそうな心模様は無言でも漏れる恐れがある。当たり障りのない世間話をして、道中の沈黙を凌ごうとした。
「今日の夕飯は、準備してあるのかい。」
「立食と伺っていたので、軽い物を幾つか。」
正直言うと、祝賀会の間、料理を口にする気が起きなかった。三木谷に引っ付かれていたのもあるし、それよりも疲労から気力が削がれていたのだ。
ふと、二之部君の姿を見てから、先程感じていた怠さは吹き飛んでいる事に気付く。食欲が湧いて、腹の虫が騒ぐ気配さえした。
「少し摘んで帰ろう。」
例のおでんが食える小料理屋へ行こうとしたが、今の時間では未だ開店していないと気付く。暫し思案していると、二之部君が近くにある庭園を覗きたいと言い出した。身体が冷えている二之部君を連れ回すのもどうかと思ったが、折角の、彼からの提案である。
互いの肩が濡れぬ様に身を寄せる。
閉園間近な時刻ではあったが、入場はすんなりと出来た。人気は無く、緑の匂いが溢れかえっていた。その所為か、私達二人きりだけ、という感覚が冴え冴えとする。息を深く吸うと、足りなかった空気か肺に目一杯溜まる。額の辺りに新しい風が吹き込んで、洗われる心地がした。
皐月の光を受けて伸び伸びと育った草木は、水無月の雫に濡れて白っぽく輝いていた。道に沿って進むと溜池が広がっており、四季の移り変わりを感じられる種類の物が植えられていた。躑躅や藤の季節は過ぎてしまったが、今が盛りなのは紫陽花である。池に沿って歩き続けると、巨大な鞠を幾つも付けた株が、立ち並ぶ区画があった。石階段沿いにも植えられた紫陽花が赤紫や青紫に辺りを染めていた。
まるで此の世界にあるのは紫陽花だけで、私達はそこに紛れ込んでしまったのだとさえ感じさせた。
自宅近所と言える距離にある庭園であるが、深くまで散策したのは初めてであった。出不精なのは自覚しているが、紫陽花を見たいだけなら自宅の庭に咲くもので充分だったのだ。然し、こうも視界を埋め尽くす景色というのは圧倒される。それは二之部君にとっても同様らしかった。
「先生の執筆名も、紫陽花ですよね。」
一番側にある一朶に顔を近づけて、彼は言った。紫陽花は私達と同じくらいの背丈があったので、花も大きかった。両手で包んでも載せきれない程である。
「聞いてみたかったのです。名前の由来について。」
私の執筆名である四葩は、紫陽花の別名である。それには、香りと呼べる物はなかったと思うが、二之部君が萼に唇を落としたら、細やかだが目で追ってしまいそうな香りがしそうだ。もしかしたら、彼が触れた所から色付くかも知れない。
「大した理由は無いさ。ただ……。」
移り変わる色が好きだ。土によって変わる色も好きだ。手毬の様に、或いは花輪の様に連なる姿が好きだ。秋を迎えても、更には冬になっても、姿を残して枯れる姿が好きなのだ。
「似ているから。」
世話をすることも出来ぬし、面倒を見る事も得意では無い。気を払った所で取り零すし、勝手に落ちる事もある。はっきりしない色合いは、特に類似している。
花は騒がぬが雄弁である。花は笑わぬが咲き誇る。花は泣かぬが閉ざしてしまう。そして、等しく、死ぬのだ。
人間と同様に。
私と二之部君はそれきり、沈黙した。
肩が触れ合った儘の距離であったが、互いに何も言わなかった。雨は止んでいたが、互いに言い出す事はしなかった。
傘は一つしか無いのだ。一つしか、無いのだから。
◆◆◆
翌朝、私はいつもより早く起きた。二之部君は未だ床に就いているだろう。雨戸を開け、朝焼けを眺める。
干した傘はどうにか乾いた。今日も薄曇りで快晴とはいかず、愚図ついた天気になる雲が出ていた。今日も傘が活躍するかも知れない。
そんな事を考えつつ、玄関にある傘立てに目を遣る。
二之部君の傘が、そこにあった。
出迎えてくれた時に見せた笑顔を思い返す。頬を染めていたあの表情は、悪戯が成功した子供が見せる達成感と、隠し事が見抜かれなかった安堵感が混ざり合った物に思えてくる。だが、仮にそうだとしても、彼がそうするだけの理由という物がある事に変わりは無い。
壊れたと言っていた彼の傘を開くと、何の異常もなく綺麗な円となったので、茎を手折るが如く、その骨を曲げ折った。
思いの外、軽い音がして、台無しとなる。だらりと垂れた先は、袂に潜ませた。
見て見ぬ振り。気付かぬ振り。花はせずとも人間だけがする行為だ。愚かしい限りである。それは無かったことに出来ぬというのに。
──咲くだけ咲いてしまった感情に、どう始末を付けるべきなのだろう。
此の時に圧し折った傘の骨と同じく、内から湧くものも折れてしまえば良かったのだ。