合同演説会、当日。
カラリとした空だった。太陽光線が夏を急かしている。身動きするだけで薄っすらと汗をかくが、じめじめした空気よりは良い。憂鬱な気分は光が散らして行った。
講堂は早くも人が犇めき合っていた。集会を聞きつけた民警が来なければ良いが。心配事はたった其れだけで、演説に対する不安などは全くなかった。
やつがれは学帽を被り直し、壇上を見遣る。登壇するのは、慶応の雄弁会会長。其れから中央公論の編集主幹だ。演説会は、雄弁会会長から始まり、恙無く進んでいった。
雄弁会会長は、丸刈りの男であった。眉も目も鋭く、声も良く通る。制服ではなく背広を着ており、貫禄が漂っていた。演説の内容も良い。賛同を得ているのは聴衆の反応を見れば明らかだ。
其れで尻込みする訳ではないが、もう少し身なりを整えるべきだったかとは思う。髪を梳く位で済ませてしまったが、不潔には見えぬ筈だ。貧弱さを隠せる物は学ランくらいしか持っておらぬが問題は無い。
雄弁会が演説を終えた。男からは汗が吹き出しており、然し充足に満ちた表情であった。愈々、やつがれの出番である。雄弁会らに目配せされ、頷き返した。この空気を台無しにするわけがない。
やつがれは脱帽し、一礼をした。
「帝都大学、辯論部の立科永という。以後、お見知り置きを。」
緊迫感があり、其れでいて心地が良い。視線を多数浴びても恐怖や緊張は感ぜられなかった。
「我が部の機関紙に掲載した記事から、私の考えを述べさせてもらう。」
既に機関紙は聴衆らにばら撒いてある。後ろ盾や支援者を増やす為の布石である。先を見据えた投資をすべきだと息巻いたのは城島部長であり、其の部分に関してはやつがれも同意見だった。
「先ず、諸兄らに問いたい。民主制とは、そもそも何か。」
此れは、辯論部が常日頃、見誤らぬよう注視し続ける題目である。そう続け、数拍置く。思考せよ、論考せよという雰囲気を、作り出していく。
「選挙権がある事? 自由である事? 其れらは、民主制の一側面に過ぎぬ。民主制はあくまで制度であり、芯がなければ忽ち形骸化するものだ。」
かつての、自治権がそうであったように。遡れば日ノ本の國は強者に
其れでは上が変わったとて、
「民主化には熟孝する國民が必要だ。では其の國民とは、何か。諸兄らの様に、この日本を我が事に思う民に他ならぬ。
利益や、権力や、損得といった観点を捨て、日の元に照らしても恥じぬ國家を想う、我ら國民だ。」
喝采が起きる。聴取を味方につければあとはやり易い。
「では、民主的な國民とは何か。成熟した思想や思考を持つ者で成り立つとしたら、其の國民はどういった者達で構成されるか。理想から言えば全ての民がそうあるべきだ。
だが、考えてみて欲しい。現時点で、果たしてそう言い切れるだろうか。」
窓から入る日差しが暑い。人の熱も加えて、其れなりの広さがある講堂は更に熱されていく。汗を拭わず、語り続ける。
「例えば、身近な弱者を思い浮かべて欲しい。怪我や病気に喘ぐ者も居る。老人や女子供も其れに当たる。國を憂う余力もなく、明日の食い物について脳内を支配されて居る貧民もだ。
今、思想を持ち、強者たり得るのは、諸兄らしか居ないというのが現状だ。」
弱者、或いは守るべく者。彼等にとって近しいのは養う家族だろう。聴衆の瞳に光が宿って見えた。両手を広げ、講堂全体を見回す。ざっと百人以上は集まっただろうか。
「此処に集まった者達は、間違いなく今と将来を背負う者だ。弱者に対し、施しを与えるのもまた、強者の務めである。
然し、施すだけでは弱者も怠ける。食い物を与えるのではなく、食える様に技術を教えてやるのと同じ事だ。」
聞き入る静寂が心地の良い。頭の中が回転するのが分かる。不調は吹き飛んだ。やつがれは檀の際を握る。
「で、あるならば、何をすべきか。」
腹に力を入れつつも、声のトオンを下げる。聴衆は一層聞き入っていく。雄弁会も、辯論部も、中央出版関係者も、答えを待っている。
其の空気には、寒気に似た高揚があった。
「今後、益々の産業発展が巻き起こる。其の時、労働者を如何に確保するかが焦点となるだろう。然し、数を押さえれば良いという訳ではない。」
徐々に論調を強めていく。誰もが期待を込めた瞳になっていく。
「烏合の衆が思考するだろうか。そんなものは、火を見るよりも明らかである!」
多くの聴衆が頷いた。一つ二つ、賛同する声が上がる。やつがれは声のする方を向き、礼の代わりに視線と笑みを返した。
「諸兄らは、労働者を思考する職人に育てねばならぬ。職人といっても物を創り出すだけではない。創り出したものが、果たして、世にどの様な影響を与えるかを思考する者達である。
其の為には、職人らを集中させてやらねばならぬ。空腹を満たし、彼等の矜持を満たし、生活を充足させねばならぬ。」
熱心に耳を傾けているのが分かる。
意識の束をまとめ、やつがれに全て集結されるべく、全体を隈なく見渡して、演舌を続けていった。
「では、其の実現はどの様にして行われるか。行き過ぎた労働は、不平等や不条理、果ては不満を生む。働き損という感情は、社会主義を生む。そうなれば忽ち、労働者らは手を抜くだろう。
腐敗した
汗が落ちる。思想や主義の話が差し込まれれば、拒否反応を示す人間が少なからず居る筈だ。不満の種が芽吹いて居ないかを注意深く観察しつつ、身振りを大きくした。
「海外との開きを埋める為に牛歩ではならぬ。かといって職人は一人では限界がある。打破する策は一体、何か。
簡単な事だ。夜を徹しての技術獲得が必要ならば、其れを強いるのではなく、競わせれば良い。
優秀な者に追いつき追い越せば、必然、技術の天井は近づく。日本ならではの技術も生まれるだろう。其れを活かさぬ手は無い。」
少し間を置くと、各人が様々に思考している様子が見えた。此処らで、《正義の商人》を産む為の種子を撒いてもいい頃だろう。
「話を少し横に逸らす。
私は、貴族でもなければ権威ある身分でもない。下賤な生まれが故に、こう考える。
贅沢を尽くし、権威を振るい、威張りちらすだろう。果ては恐らく快楽を求める。手っ取り早いのは、きっと薬物だろう。」
響めきが走った。暫く騒つく聴衆が落ち着くのを待つ。
声のトオンを落として、再び語った。
「近い将来、医療目的以外の薬物に対する法が策定されると私は考える。然し、法を潜り抜ける輩はかならず現れる。
我々は許してはならぬ。日本全体が阿片窟と同等になる未来は、望まない。」
ビリリとした空気となった。阿片による汚染は記憶に新しく、敏感な話題である。かの明治政府が禁制に乗り出したのは、其程に國力を損なうものと判断したからだ。
利益を得るのは極一部であり、労働者の破壊にも繋がるのだ。
「此の未来を潰すのは、間違いなく諸兄らだ。雇主となる立場の者が、不届き者や、惑わす物を撲滅させねばならぬ! 其の姿勢や方針が、此の日本を救う事になる!」
胸に手を当て、均一な役割ではなく、選ばれた者のみに当てられる役目であると強調する。講堂は熱気と喝采に包まれた。
「優秀な労働者を抱える事。健全な心を持つ強者である事。たった此れだけを聞けば容易い事だと思うだろう。然し乍ら、貫徹は厳しい。
だからこそ諸兄らであれば、成し得る事が出来ると信じている。何故ならば! 今、此の話を聞き、日本を我が事の如く憂う國民であるからだ!」
両腕を広げ、講堂の最後尾まで声を届ける。やつがれの演舌が熱狂を生む。異様な盛り上がりを見せる聴衆らに、心が躍る。
やつがれはとにかく、夢中であった。
◆
集会を無事に終えた。当然といえば当然なのだが、編集主幹の話は
先ず々々の手応えであったし、主幹からは及第点を寄越された。玄人からの及第点とあれば、本心ではやつがれを十分に認めたという事だろう。
辯論部を、否、《立科永》を無視できぬ人物と知らしめる事ができたのだ。やつがれは満足であった。
嵯峨崎の姿は、壇上からは見えなかったが奴は見ていたらしい。興奮した様に、やつがれの辯論について讃えた。どろりとしたシロップが、奴の瞳の中に溢れていた。
打上げをしましょう、と言われたが、懇親会に呼ばれているから、と曖昧に笑って誤魔化す。耳の垂れた犬の様にしょぼくれた姿となり、やつがれの心はちくちくと傷む。
嵯峨崎のあの痴態を見てから、警戒を解く事は難しい。二人で飲みに行くのはまず心が折れ持たぬ。
其れから、終ぞ、青泉は見つける事は出来なかった。
懇親会は学舎側のカフエを貸し切って行われた。全員は入れなかったので、幹部と何人か選抜されたメンバアであった。
彼此一刻ほど過ぎた頃、
其処から少し離れた所で、やつがれは焼酎をチビチビと飲んでいた。
電氣ブランが恋しい。酒は強くはないが、猛烈に酔いたい気分であった。話の輪に入るには気力が無く、ぼんやりと周囲を見渡す。
漆喰の壁、黒茶色の梁。都会的で洗練された調度品。見慣れはしたが、不意に馴染めぬ心地となる。
灰藤先輩は城島先輩に着き、彼是と手助けしていた。辯論部部長は酒の所為か口が回っていない。序でに言えば頭も回ってないだろう。青泉や嵯峨崎はメンバアに含まれておらず、会話する人間も居ないので、やつがれは隅の席に落ち着いた。
窓側の席には誰かが寄贈した本が並べられている。手持ち無沙汰だったので適当に一つとって頁を捲る。女学生が好みそうな表題であった。
活字を追うが頭を素通りしていく。恋愛小説らしかったが、どれ一つとして食い入る様なものは無かった。すぐに飽きて、再びメンバア達を眺める。
活発な活動と、密接な交流。いつだって人の出会いは財産となる。重々承知の上だ。然しやつがれが話したいと思う人間は編集主幹を除いては居なかった。城島先輩を差し置いて話に行くのは、部長である彼の顔を潰してしまう。登壇した雄弁会の彼は別の集団の中心となっており、割って入る気も起きぬ。
懇親会が始まって直ぐは、やつがれに話しかける輩も居たが、矛盾を突いて指摘しているうち、人が寄り付かなくなった。辯論や雄弁を語ったとて、論理を否定されると人格をも否定された気分になるのだろう。
語りたいだけを語り、酔っ払いたいだけだと判じてからは返事をするのも億劫になった。
登壇し、辯論部の顔となり論を講じたとしても、やつがれ自身がこの空間から切り取られてるのも滑稽なものだ。
居なくなったとて、特段、問題は無い。
コトンと落ちた思考に従い、側にいたメンバアに疲れたので帰るとだけ言って店を出た。
夏の夕日が音も無く沈んでいる。行き交う人々の影が、忙しなく帰路に着く。
やつがれは何処に帰るのか。
そう思うと足元から抜け落ちそうな錯覚になる。
有象無象に溶けてしまえばそんな物は気にせずに済みそうだが、途轍もなく無意味で、途方もなく絶望に満ちている様に思えた。
『由芽子さん。』
あと二日。たったあと二日なのだ。だというのに一日千秋の思いが吹き荒れる。
もうすぐ由芽子さんに会える。あの庭園で再び落ち合う事になっている。
由芽子さん。貴方に会いたい。
貴女に会わなければ、やつがれは此の儘、輪郭を無くしてしまいそうだ。
長くなり始めた影は、歪な頭痛を引き連れたが、全て悪酔いの所為にした。
◆
来たる日。やつがれは普段使わぬ整髪剤で前髪を上げ、新品の洋シャツを下ろした。持ち物があまり無い——序でに言えばハイカラな格好も分からぬ——為、普段とあまり変わらぬが、少しでも由芽子さんと並んでも可笑しくない格好にしたかった。
天気は良い。気の早い入道雲が見え、一足飛びの真夏日和である。
寮から出る時に、意味もなく辺りを見渡した。
此の関係が明るみに出れば、やつがれは愚か、由芽子さんだって無事ではない。
由芽子さんとの関係が始まってから、手紙は直ぐに捨てていた。慎重になり過ぎて損になる事はないのだ。
大通り沿いにある人形屋の角を左に折れ、路地一つ入って、右折。庭園は変わらず開かれており、やつがれは衣服に塵が付いていないかを確認した。
どうにも胸の高鳴りで手汗をかく。あの聴衆を前にしても、アガりはしなったというのに、由芽子さん一人に会うだけで、足が竦む思いがする。
由芽子さんは、やつがれの何処を気に入ったというのだろう。そう考えると、単に手頃な存在だったに過ぎぬのではないかと要らぬ考えが過ぎる。
其の様な
太鼓橋へ静かに向かう。
彼女は既に、橋に佇んでいた。薄黄色の
暫し其の後ろ姿に見惚れてしまう。普段は和服であったが、真逆、やつがれに会う為に洋服にしたのだろうか。
無性に抱擁したい衝動に駆られ、意を決して踏み出す。隣に並ぶだけだというのに、心臓が早鐘を打った。
「待ちましたか。」
「いいえ。」
気の利いた事が言えぬばかりか、目すら合わせられなかった。早鐘を打つ心臓を沈めようと池の鯉を眺める。静かな時間が穏やかに流れていた。
「合同会、お疲れ様でした。編集主幹、とても評価していらしたわ。」
流石、耳が早い。彼女程の地位や人脈であれば、直ぐに情報が集まるのだろう。
「お褒めに預かり光栄です。」
「私も、永さんの勇姿を拝見したく思いました。」
名を呼ばれただけで、赤面する心地がした。やつがれは言葉少なに、どうも、としか言えなかった。
話したい事は山程あるのだ。今日の姿も美しくて見惚れてしまった事、今日が待ち遠しかった事、其れから、——。
「生活は、落ち着きましたか。」
微笑む表情に心を撃ち抜かれるかと思った。前髪を落ち着きなく搔きあげ、呼吸を落ち着かせる。
「以前よりは、幾らか。」
「左様ですか。良かった。」
暫しの沈黙が落ちた。
生活は、確かに真面になった。然し、問題は相変わらず山積みだ。徐々に居場所さえ無くしている。孤独で良いと開き直った此の考えが、正しいのかすら判断できぬ。
「由芽子さんは、如何ですか。」
「何も、変わりません。」
「其れは、」
良かったです、と続けようとして息を呑んだ。
由芽子さんは、静かに涙を落としていた。
「由芽子さん……。」
「御免なさい。……折角、永さんとお会いしているのに。」
堪らず、掻き抱いた。彼女の日傘が揺れる。幸いにも顔が隠れる。白昼堂々の逢瀬であるが、構わなかった。
「永さん……。」
「やつがれは、やつがれは無力です。貴女の涙を止める術が、たったこんな事しか、思い付かぬのです。」
——逞しい腕に抱かれるの。
何時ぞやの女学生の言葉が脳裏を掠める。ぎゅうと腕に力を入れて込めれば、由芽子さんは身体を預けるかの様に力を抜いた。
「やつがれは、貴女を救うには無力です。でも、此の腕だけは、貴女の為でありたい!」
洒脱な事が一つも言えぬが、本心であった。言語化しても支離滅裂な言葉にしかならぬ。辯舌を振るう事に勤しみ乍ら、彼女一人を救う力が無い。
「……嬉しい。」
彼女はそう呟いて、肩口に頭を擦りよせた。仄かな花の香りがする。彼女の
「私ね、身分と此の顔以外に、取り柄が無いと言われたの。旦那様は、私自身を愛してはいないと告げられました。」
震える声に胸が締め付けられる。斯様に魅力に溢れた女性を捕まえて、何ということを言うのか。好いた人の旦那を悪くは言いたくないが——否、好いた人の旦那であるからこそ——、此れだから成金は、と怒りが湧く。
「やつがれも、到頭、孤独に堕ちました。」
言葉にすると、途端に自らが矮小で惨めな存在に思えてくる。自分で孤高であるべしと、決断したというのにだ。
「青泉とは顔を合わせる事が無くなりました。頼りにしていた後輩も、其の、やつがれに……。」
口籠ってしまったが彼女は察してくれたらしい。少し身を離し、日傘を持たぬ方の手で頬に触れた。
「やつがれは、独りで良いと思いました。孤高に辯論を振るい、活動家として生きられれば、其れで……。」
彼女につられて、鼻が突っ張る。男児たるもの、女性の前で涙は落とすまいと歯を食いしばった。
「永さんは、とても優秀で、凛とした御顔で、其れに釣り合う振舞いが出来ますから、きっと人を惹きつけてやまないのでしょう。」
潤んだ瞳同士で見つめ合う。木漏れ日が映り込み、彼女の目は、水中での透明感を切り取ってきたかの様だった。
「由芽子さんは、教養も美貌も備え、向上心のある素敵な方です。だから、多くの人を魅了するのでしょう。」
だからこそ。他人に踏み荒らされ、他人の枠に嵌る事を押し付けられる。
だからこそ。遂には孤独となり、寂寥が心に吹き荒れる。
「似ていますね、私達は。」
泣き笑いを浮かべる彼女は、澄んで見えた。彼女は立場や地位、身分で其の身を引き裂かれても、心は気高い。
其の心に触れられた事が、嬉しくも、悲しかった。
「また、会いましょう。」
「ええ、必ず、また。」
誰かに知られたら、誤魔化せる自信が無い。其れは双方に言える事だった。前回の食事会までは、関係を持って居なかったが故に幾らでも否定出来たが、今となっては否定する事其のものが、八つ裂きにされる心地がするからだ。
離れがたい激情に胸を掻き毟る。彼女に背を向け、一歩離れる度に、皮を剥がされていく様な痛苦に襲われた。
とっくに、後戻りは出来ない。然し一歩も進めない。
何かを捨てなければ、此れから、一歩も。