第四話

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 熱が引いたのは、木曜日の昼だった。風邪にしては長引いてしまって、作り置きもなくなってしまった。自分で大量の食料を買い出ししたりフライパンを振ったりするのは、多分また手首を痛めることになると予想できたので、大人しく一食分だけ買いに行くことにした。
 久しぶりに浴びた太陽光は今が盛りと言わんばかりで、コンビニまでの道のりだけで日焼けしてしまいそうだった。生白い肌は健在である。
 茹だる暑さで帰り道になるまで気が付かなかったが、浴衣姿の人たちと行き交う回数が多かった。出店もいくつか準備が進んでいて、すぐに祭りがあるのだと分かった。民家の塀で見たポスターを思い出し、意外と規模が大きいのかな、なんて思う。

 帰宅してすぐ、暑さで溶け切って、リビングのソファーにもたれてサンドイッチとアイスを食べる。
 真角くんとは、連絡を取っていない。そういえば昨日くらいから夏休みに入っているはずだ。今日、来ることはないだろう。
 タイミングが合えば花火でも、と言ったセリフを現実にしたいなら、自分から動かなければならない。頭で分かっていても、一歩踏み出す度胸がない。
 怠惰ではあるが、頭は幾分冴えていた。久しく見ていなかった軍人の自分と、衆愚の自分が頭の中で議論を交わす程度に。自分自身はそれを傍観者のように眺めて、自身の空虚にも目を向ける。

 ──……一週間経ったのだ。そして俺は真角くんよりも年上なのだ。ひどい振る舞いをしたのも俺だし、今すぐに謝罪の連絡を入れるべきだ。遅れてしまったのは風邪をひいていたからだと記せば、きっと分かってくれるに違いない!

 ──……一週間経っている。それは果たして十分な時間だったか? 俺は何か答えを得たのか? 謝罪をするのがみっともないのではない。その謝罪をすることで自分自身が何が許されて欲しいなどと考えている有様がみっともないのだ!

「ああ、うるさい」
 頭の中がやかましい時は、自分に対していじけている時だ。分かっている。自分で自分の機嫌を取る方法が、今のところ眠りに着くことだけしか見つかっていない。それでは問題があるのに。
 夕方になったら、駅まで出よう。縁とか絆とか、そういう馬鹿げたものに賭けたつもりになって、この恋を終わらせるために。

 ◆ ◆ ◆

 夕方五時。晴れやかな夕焼けが広がっていて、ふと夢に見た空を思い出す。
 直射日光は無くなって和らいだものの、熱帯夜には違いなかった。何もしなくても汗が額から滲んで顎に伝う。予め買っておいたミネラルウォーターがすぐさま温くなってしまった。手首のサポーターが蒸れないように、定期的に締め直す。
 半袖の白いTシャツに黒いジーンズという面白味もない格好で、万が一を待った。改札出てすぐのところにベンチがあるので、そこにいれば、真角くんがくれば嫌でも気付く。気付かれる可能性もあるけど、……そういえば、気付かれたらどうしようか。否、来るわけがないから、想定する必要もない。
 木曜日だし、ふわっとした口約束にもならない夏祭りのポスターをお互い目にしているし、もしかしたら今日、真角くんが来るかもしれない。来なかったら、謝罪だけして今後連絡もしない。勝手にそう決めた。
 自分なりの区切りをつけたかった。ただそれだけなのだ。

 一時間過ぎて、本格的に祭りが始まったらしい。人通りが増えて、かなり賑やかになってきた。普段は人なんか居ないベンチの席も、待ち合わせの人が来ては埋まって、空いて、また埋まる。改札から出て来る人たちに注意を払い続けていても、あまり疲労はなかった。
 ミネラルウォーターが無くなり、クーラーボックスに氷を入れて販売している露店からお茶を買う。冷えていて気持ちが良い。振り返り様に気付かなくていい連中に気付いてしまった。
「アレェ、酒依くんじゃん」
 例の三人組。結構な人混みだというのに、スマホで配信しているようだった。棒の先にカメラが付いていて、こちらに向ける。
「同じ学校の酒依くんでーす」
 何の許可もなく撮影し始めるし、悪意ある笑みが透けて見えて反吐が出る。不思議と、以前感じたような恐れは無かった。
「ねー、何でここに居んの。ウケる」
「酒依くんアレでしょ、学校近くのちょっといい部屋住んでたじゃん」
「え、何。見かけによらず金持ち?」
 ツイテネェ! とは思わず、マジウゼェ、程度の感想だった。もしやあの時、尾行されていたのだろうか。それをわざと、配信で俺の情報をばら撒こうとしているのであれば本当に悪質だ。
「酒依くんはー、実はうちのキャンパスの、目立つところに作品展示されてます! マジ一回見たほうがいいよ!」
 好意的に見せた攻撃。あまりに滑稽で鼻で笑ってしまった。
「躊躇い傷だらけの、リスカみたいな作品ですが、気になるのならどうぞ」
 俺が何か声を出すと思っていなかったのか、三人はギョッとした顔をしてこちらを向いた。
「アレは本当に駄目だった。迷いの頂点に達しているときに作ったものだ。恥晒し以外の何者でもないし、あれを見られたら学校のレベルを疑われるかもしれない」
 今まで、こんなに流暢に言葉が出てきたことがあっただろうか。雑踏で音声が拾われているかどうか知らないけれど、鳩が豆鉄砲食らったような顔が見せ物としては良かったので気が大きくなる。
「自分が、いつだって、迷いなく、芸術を《やれている》なんて思う人がいるならお目にかかりたいけどね。そう思わない?」
 三人に質問を投げかけるフリをしてニヤリと笑ってやった。夢で見た俺は、……十三歳の俺は、ある意味無敵だった。一番自由だったのだ。子供じみた理屈で支えられた発言を覆すのは意外と骨が折れるので、これ以上言及してくることは無いだろう。
「酒依くんも、彼氏とお祭り楽しんでね!」
「な、……!」
「馬鹿、バラすなよ。ごめんねー、酒依くん。じゃあねー」
 人混みをかき分けて進むような足取り。あっという間に遠ざかっていく姿を見て、彼らはああいうことを日常茶飯事的にしているのでは無いかと思い至った。あれを見ている人はどれくらい居るのだろう。
 つまらない人間の相手をするべきじゃなかった。大きいため息を吐いて、改札前に移動する。ベンチが空いたのでまた座り、冷えた茶を流し込んだ。各駅停車と快速とが交互に到着するので、上りと下り合わせて五分ごとに人が降りてくる。だが、間違いなく集中力が無くなっていることは確かだった。
 あいつらのフォロワーはそれなりに居るだろう。同じ大学だと明かされ、名前も出され、作品のことにも触れられたのだ。「ゲイ大生ですね」なんて言われ、心ない噂が立つのは目に見えている。何かしらのアーカイブに残っていれば、処分は可能だろうけれど、途方もない労力になる気がする。
 苦し紛れに吐かれたセリフだとしても、許せるものではない。他人のセクシャルな部分をネタにしてのコメント稼ぎ。真実かどうか問わない晒し上げ行為であり、大学に知られたら一発で処分を食らう発言だ。だからといって、噂というものは無関係に広がるのが常だ。
 今の状況であれば、真角くんには迷惑はかからない。彼に何か不利益を被るような事態になったら……そう考えると、ここで真角くん待ちをするのも時間の無駄だ。
 そこまで想像して、さっさと真角くんをブロックして離れた方が良いと判断した。家に帰って引きこもろう。そう思って立ち上がると、改札前に見慣れた姿があった。
 大きく目を見開いて、更に日焼けした肌になった、真角くんだった。
「もえぎさん!」
 呼び掛けられて、反射的に逃げ出す。
 どうして。何で来たの。あいつらに見つかったら。真角くんに迷惑が。どうして。
 逃げ出したところで結果は見えていた。でたらめに走った先の、裏路地に入ってすぐの小さな公園で、真角くんに腕を掴まれた。観念して立ち止まる。ひと気がなく、ひっそりとしたところだった。
「何で、……!」
 静かな空気が余計に、真角くんの声をくっきりとさせる。色々な「何で」が含まれていると思う。何で逃げたの。何で居るの。具体的な言葉にされなくても、俺も似たようなことを考えているのだ。
 息切れがして、汗も噴き出て、体温がかなり上がっている。真角くんに掴まれたところが、火傷しそうなくらいに熱い。
「オレが来るの、待ってたんですか?」
 半分泣きそうな表情。震えた声は、どういう感情から来るものなのだろう。感情が昂ると、大抵は涙に変換されてしまう。彼を傷つけることになると分かっていても、正直に話そうと決めた。
「自分の中の、賭けだった。真角くんが来なかったら、もう連絡しないと決めてたんだ。でも、事情が変わった」
 俺は先程起きたことを説明する。あの三人組の発言。厄介な噂になりそうな状況。俺を助けてくれた真角くんに、被害が及ぶのを恐れていること。
「だからさ、もう、来ないで」
 下手くそな笑顔になったと思う。俺もまた、泣きそうな表情になってるかもしれない。でもこうして二人でいるところを、また見つかってしまったらどうなる? 真角くんに何かひどいことが降りかかるのが恐ろしい。
「そんなの、納得するわけないじゃないですか。やっと、やっと……!」
 引き寄せられて抱きしめられる。頭ひとつ分近く違うので、真角くんの心臓の音がすぐ近くから聞こえてくる。抱き合ったまま、しばらくお互い無言だったが、大きい風が吹いたのをきっかけに、真角くんが口を開いた。
「昔、もえぎさんに教えてもらったことがあるんです。忘れてるかもしれないですけど」
 深呼吸で胸が上下している。汗に混じって真角くんの匂いがした。突っぱねようとしていたのに、離れ難くなってしまう。
「何を足しても良い。何色を足してもいい」
「あ……」
 夢で見た昔の台詞。紡がれる言葉が、俺の中の記憶も呼び覚ましていく。
「他人がどう思うかより、自分がどう思うか」
 ギプスに描かれたものをかっこいいとか、面白いと思うのは自分なんだから、誰かに何か言われても、これの良さが分かるのは自分だけって胸張っちゃおう。
 脳裏で蘇る、幼い俺の声。
「何なの。俺が言ったこと、俺より覚えてるじゃん」
「当たり前じゃないですか。もえぎさんとの事だったら、何でも覚えてますよ」
 腕の中で猛烈に恥ずかしくなる。俺が持っていていつの間にか落としたものを、容易く拾い上げてくれるなんて思ってもいなかった。
「自分がしたいことを、一個ずつ繋いで、時に形を変えて、花開かせること。もえぎさんが、教えてくれたんです」
 だから全然、本当に大袈裟じゃないんですよ。そう照れるように言うと、真角くんの瞳から滴が俺の頬に落ちた。
「オレがあの連中をどうにかします。絶対勝てる試合みたいなものです。それに噂が立とうが、構わないです。それよりも、オレは……」
 真剣な表情で、腕の中の俺を見下ろす。影になっていても分かるくらい、赤裸々な思いを語ろうとしてくれている。
「もえぎさんの心に、オレを足したい」
 もえぎさんは? そう目で訴えられる。
 真角くんを泣かせたいわけじゃない。笑っていて欲しい。こんな俺を好きだと言ってくれるのなら、その俺を含め、真角くん自身を好きで居たい。この先もずっと一緒に居たい。
 だから、今日はその始まりにしたい。
 ヒュウ、と風を切るような立ち上る音。心をきゅっと掴むように響くのは、始まりの笛の音にも思える。頭上で色鮮やかな閃光が開き、二人に赤と緑の色が降り注いだ。
「ずっと一緒に、花火を観よう」
 紙花火を作っていた時。この花火を知っているのは大きな病院で俺ら二人だけだね、なんて言ったけれど。こうして君が元気になって、二人で打ち上げ花火が見られる日が来たんだ。
「こういうところ、本当にもえぎさんだなぁ」
 そう言って笑う真角くんが可愛くて、視線が絡んだのも途端に恥ずかしくなって目を瞑ってしまった。
「もえぎさん」
 呼びかけに応じる前に、柔らかい感触が唇に触れる。心臓が口から飛び出てしまいそうになるが、啄むように動かすと、応えるようにまた触れ合った。胸の奥のほうで固まっていたものが溶けていくのを感じ取る。

 嗚呼、きっとこれは、馬鹿みたいなハッピーエンドだ。
 身を寄せ合って、夜空を彩る星の花を眺めた。