夢を見た。と思う。
スマートフォンのアラーム音が夢の隙間に入り込んで、じわじわと現実世界の水面に顔を出していくような感覚で目を覚ました。どんな夢だったか、早速忘れてしまっている。ただ何となく、嫌な夢ではなかった。ふわふわとした居心地をもうしばらく味わいたいと思いつつ、布団から自分の身体を剥がした。
何の変哲もなく、今日も今日が始まった。昼の勤務は無いが、バーの方は早く行かねばならない。季節は春半ばであっても睡り込む訳にはいかず、貧乏暇なしと口ずさんで、衣類を脱ぎ捨てる。躊躇いなくシャワーのコックを捻ってやると、ユニットバスのカーテンがしとどに濡れてポタポタと音を立てる。冷水から温水に変わり始める辺りで、使命感に似た感覚で湯を浴びた。
荒れ始めた部屋を片付けて、清潔を保たねばならない。生きてるだけで散らかるし、息するだけで金もかかる。節約と倹約は一種のゲームと捉えて、金を貯めるのが趣味みたいなものになった。使うアテは無いが、無一文ではいられない。生きる為の金と色付けしていたので、ボロアパートから引っ越すつもりもなければ、洒落た家具なんかを買うつもりも無かった。
強いて言えば、なんかのオマケでもらってきたサボテンがベランダ側の日陰でじっとしているくらい。気が向いた時に結露を集めた水をやって、肉厚なボディを控えめに膨らませている。
正直に言えば、金の使い方が分からないのかもしれない。煙草と酒をガソリンがわりに身体を回し、食費を削っているくらいだ。カフェや喫茶店も嫌いでは無いが、コーヒーを啜って本を読むのさえ抵抗がある。家で出来ることをわざわざ外出してまですることは、何か自分に余裕があると、見ず知らずの人間にアピールしている姿に見えてならないからだ。パソコンは無くともスマホで事足りる。書類を作りたければアプリでやれる。だからパソコンを広げてどこぞの外で作業をするのも微妙な気持ちが湧いてくる。そんなアピールに何の意味があるのか。出先でやらなければならないほど時間に追われているのだとしたら、それは只の能力不足だ。自身のスペックの低さを露呈する行為に思えるので、滑稽極まる。
同じ理由で、衣服や装飾品に対しても思うところはあった。物体だけで完成したものに対して、人間が加わると途端にダサくなる。高い時計は背伸びしたがりの臭い連中ばかりだ。ファッションだって、奇抜な形状や色彩をお洒落だと言い張る阿呆ばかり。シンプルで、使える物を選びさえすれば、失笑を買わずに済むというのに頭の回らない馬鹿に違いないとさえ思っている。
本も読まない、パソコンも無い。動画に唆られるものはなく、ネット回線はモバイルwifiで事足りる。ファッションに関するアイテムも着飾るものは要らない。使えれば良い。合理的に考えれば済む話で、余白を塗りつぶすような浪費に価値も興味も見出せない。
冬みたいな気配が、足首にまとわりついているような感覚だ。首の後ろに湯を当てて、体温を上げようと試みた。
首から伝う湯をにだけ集中してみる。もし、首の後ろを刺されて出血したら、こんな感覚なんだろうか。本当に刺されたら痛覚でそれどころではないのは想像できるが、自分の身体というポットで温められた液体が、自分の皮膚を滑っていったら、きっと、やはり温いだろう。水よりは粘り気があって、背中の産毛や、皮膚の上から筋肉、骨の溝をなぞっていくに違いない。せっかくこうやっって体を温めても、そばから出ていくんなら意味がないか。こんな風にボダボタと水音をたてることになったら、間違いなく御陀仏だ。
そこまで考えて、バカバカしくなってやめた。後ろから刺されるような憎まれた人生を送ってないし、裏を返せば、憎しみでも慈しみでも持って俺をは追いかける人間は居ない。
使い古しのタオルはパイルが潰れていたが、肌ざわりは気に入っていた。
コートハンガーにかけてあったトップスから、適当に一枚取って着込んだ。ボロを纏ったとして、精神が高潔であればそれで充分だ。叔父から押し付けられて来た諸々を思い返す。みっともないと思われぬためといって、学生には不釣り合いなブランドロゴが入った文房具やハンカチに始まり、靴や鞄、衣類の数々。初めは意味がわからなかったし、大事にされていると錯覚しそうになった。しかし全て、偽ブランドや類似品であると知ったのは中学半ば頃だ。その上で恩を返せなどと言われて、ハイソウデスカと唱えられるほど、俺の精神は単純では無かった。いや、逆に単純過ぎたのかもしれない。無料でも良いものはあるし、高価だからといって良質とも限らない。
人にも物にも、《本物》を求めがちになったのはそんな背景故だろう。
今日はニューブラックのスキニージーンズとコットンカットソーを選んだ。動きやすいしそれなりに見栄えがいい。カットソーは丈が長めでレディース物にも見えたが、栄養が足りなさそうな手足なら見劣りしなかったし、無闇に着痩せしなかった。色違いで揃えても良いくらいだ。第一に品質、第二に金額。
量販店でもブランドでも、どこが売っているかは興味がない。何を売っているか、だ。それ以外にこだわりは無かった。
どこか、というのが重要になるのは、自分にとって箔が付くかどうかだけで語るべきだ。それ以外は大抵、重要になるのは「だれ」と「何」に当たる要素とそのバランスだ。もし仮に、今のバーの人間関係でコンビニバイトをやれと言われても、間違いなく断るだろう。バーは金払いが良いから我慢しているだけだ。クソみたいな先輩どもは役に立たないが、あのバイト先で得ないものが全く無いわけではない。
散らばった意識はそのままにごみをかき集め、何もかもを燃やせるごみ袋に押し込んでいく。空ペットボトルを洗いで、コンビニのビニール袋に詰めた。階下の収集所は緑色のネットがもっさりと被せられているので、腰を上げて気分が向いた時でないとゴミを出す気力が起きない。ペットボトルはいつ出してもOKで、今日は可燃ごみの日。念の為、鍵をかけた上でゴミ出しに向かった。
春の空気はやや冷える。背筋は伸びるが、肩が竦む。首回りの防寒だけでもすりゃ良かったと思いながら何の材質でできているのかいまいち分からない階段を降りた。コン、ともトン、とも付かない音が反響して跳ね回る。他の住人はどんな奴らか特に把握していない。生活リズムが無茶苦茶な俺だが、偶に人影とすれ違う程度だ。顔を見ずに会釈だけして通り過ぎれば、後の瞬間からは無関係の他人になる。
例のもっさりネットにため息を付く。なるべく汚れていなさそうな場所を摘んで退かし、収集カゴの中にゴミ袋を投げ入れた。手元から離れれると、それだけでスッキリした心地がする。同じ手順でネットを戻して、パンパンと両手を払う。ゴミが付いていたわけではないが、何となしに汚(けが)れを払いたくなるのは仕方のない事だ。
室内の掃除をしよう、と考えて自室に戻ると、スマホが間抜けな通知音を鳴らした。万津からの連絡で、今日入る予定だったが、オリエンテーションの時間を間違えてしまい、代打を頼めないかという打診だった。文字が打つのが面倒だったので、スタンプ一つ返して引き受ける。幸い、今から出れば間に合う時間からだった。
軽量化されたグレーのジャケットを羽織って、それなりに身だしなみを整えれば、《何の変哲もない陰鬱な若者》っぽい姿を鏡が映す。
まあ、どうやったって、こんなもんだろう。そう呟いて、安売りで買ったスニーカーを突っかけた。
◆
新たな元号となったおかげで、伝票の書き損じが増える。西暦で書けばいいものを、わざわざ和暦を指定してくるところもあるので、さっさと馴染まねばと用紙を丸めた。通じるとはいえ誤りは誤りだ。
今は店長ともう一人がレジに出ており、俺はバックヤードでデスクワークを片付けている。店長が珍しく、「目が死にそう」と弱音を吐いたのだ。ある程度の業務なら内容も分かるので、目を休ませがてらレジと交代しないかと、俺から持ちかけた。
シフト表を調整しつつ、本社への書類提出をし、週次の売上報告、備品の返送、受発注管理……。仕事はいくらでもある。
「土屋くん、休憩行っていいわよ」
中年女性特有の、作った声音で呼び掛けれたので顔を上げる。パートのおばちゃんで、三戸(さんのへ)さんという。中肉中背で、髪の毛はショートカット。多分、クリーム状のトリートメントかなんかで、なんとなく手入れしているような髪質だ。証拠に量産された整髪剤の、安価そうな匂いがする。しかしそれも三戸さんの雰囲気にあっていて、気安さを覚える匂いだった。
「いや、座って書類作ってるだけなんで、大丈夫ッすよ」
「良いから、タバコ休憩でもしなさい。本当は今日の予定じゃないのに代打で助かってるんだから、少しくらいバチ当たらないわよ」
柔和な性格だが、勢いは強い。肝っ玉母ちゃんというワードが脳裏をかすめ、思わず笑ってしまう。お言葉に甘えて、と断って、裏口から外へと出た。従業員しか出入りしないところで、赤くて四角い灰皿が鎮座している。
ソフトパッケージから一本取り出して火を付ける。そういえば、今日は駅前で一服せずに出勤していたんだったと、煙を吐き出しながら思い出した。
煙を辿ると、青空へ消えていく。青空。何か、思い出深い色だった気がする。夕焼けが綺麗とか、田舎を思い出すとか、そんなものではない。もっと心に焼きついたものだったと記憶しているのに、それが何だったのかが霞みがかって思い出せない。
忘れているのを覚えているというのも妙な話だ。
どこだってそうだが、外に出ると自室だけでは見て触れることもないもので溢れかえっている。ここにはお人好しな店長、親切心が強い三戸さん、生真面目な万津に、芯のある顔立ちをした七橋さん。この赤い灰皿も、いかにも「現場によくあります」といった風貌だし、保身と処世にずぶずぶに浸かったバーの連中。それぞれの常連客だって、職場という接点がなければ、良くも悪くも出会うことのなかったものだ。
学生時代にも同じく、学校という接点がなければ顔見知りにもならなかったというのに、今では誰一人、顔も名前も思い出せない。
玉突き式の記憶や心情は、惰性と呼ぶ以外に何かあるだろうか。
そこまで考えて、白い棒きれが燃え尽きた。もみ消して、手を洗う。水に溶ける悪臭は綺麗サッパリ流れていった。
「店長、三戸さん、休憩ありがとうございます」
穏やかだと思うここの職場さえも、惰性だと言うなら、俺そのものが惰性でできたでくの坊だ。仕事に打ち込んで、少しでも俺の働きに価値がほしいと思うのは、結局の所、喫煙所から眺めているテクスチャじみた群衆と同じであるという裏返しである。
気がついていても、目を背けていたかった。
◆
やはりこの職場はクソッタレだ。他の客が居なくて助かったと思ったが、苛つきに歯止めは掛からない。
客の吐瀉物を片付ける羽目になり、息を止めて多量のティッシュとキッチンペーパーを被せて液体を吸わせる。先輩方々は例によって例のごとく、俺に掃除を押し付けてカウンターへ出てヘラヘラとしていた。
饐えた匂いに貰いそうになる。せり上がろうとする胃袋を叱責して一旦トイレの外の空気を肺に溜めた。
大衆居酒屋ならまだしも。ここは少しでも洒落た雰囲気を持つ飲み屋なんだろう。なんで俺がこんなことを。沸々とした怒りが足の裏を熱する。
発端は単なる、飲み比べだ。ウィスキーの種類が豊富だということをマチの野郎が客に話したのは、まぁ良い。客の限界を超えて酒を提供するのは、バーテンとしてどうなんだ。客も客だ。乗せられて、イイトコロ見せようとする気持ちも、まぁわからなくもない。見栄を張りたい気分のときだってあるだろう。だが、自分の許容量くらいは管理しておけと言いたい。トイレに駆け込んだが間に合わず、便器ではなく床にぶちまけた。ふざけやがって。何の手当も出ないのに、なんで俺が!
マチの野郎は、潰れた客に水を差し出しつつも「いやぁ、酒がもったいないっすね」「もう一度飲み直します?」なんて言ってやがる。ぶちまけた本人は「お恥ずかしい」「いやもう年かな」なんぞほざいてる。何が年だ。さっき二十代最後の年で異例の大出世をしたとか自慢吹いてたじゃねぇか。
燃やせるごみに吸わせた紙くずを突っ込んで、事故現場に洗剤をびしゃびしゃと景気よくかけていった。ぬれ雑巾で拭いて水を流して、乾拭き。あとはこの手順を無心で行えばいい。だというのに、カウンターでの声を拾ってしまう。
「清掃代だすよ。いや、本当に申し訳ない」
「良いンすよぉ。どうせ毎日掃除はするし、アイツの仕事のうちなんで!」
マチは軽い気持ちだったのだろう。いや、奴からは軽い言葉しかどうせ出てこない。だからこんな感情は無駄なのだ。怒りを感じている事自体が無意味なのだ。
「いやいや、いい年した大人がやらかしたなら、やっぱそれくらいしとかないと」
「二十代ならギリセーフってことで! オレだってやらかすときはやらかしますし」
ヤスと呼ばれている男が、軽口に軽口を重ねる。風船とクラゲが客の周りにまとわり付いてるみたいだ。我慢ならない高ぶりは頂点に達していた。
アイツの仕事のうちなんで?
お前が酒を作らせないくせに? 俺に雑務ばかり押し付けてるのは、お前らだというのに?
臭いが移ってやしないか。洗剤で荒っぽく手を洗う。自分自身の制御をすべく、物理で温度を下げようとするが、こいつらは俺の努力を全て台無しにしていく。
「おい、ドボン。お客さんお帰りだ。会計しろ……と思ったけど、触んなくていーわ。ヤス、頼んで良い?」
「いいよー、手洗っとけよ、ドボン」
ゲロった客の目の前でそれをいうのか。お前は何のためにその制服を着ているんだ。客に対して良い空気と、酒と、時間を過ごしてもらうために働いているんじゃなかったのか! どころか客の失態に対して店員が世辞でも被ることもせずに、何がバーテンなのか!
矛盾極まり、無礼極まる態度で拳に力が入る。客の会計が済んで、扉が完全に閉じたところでマチの顔面を殴り飛ばした。すかさず、ヤスに突き飛ばされる。尻もちを付くことはなかったが、体重で負けているからか三歩も下がることになった。
バックヤードで控えていた店長が、大慌てで出てくる。スーツを着込んだチビハゲで、経理と人事だけが仕事だと言わんばかりの無能さで、ふいにコンビニバイトの店長がよぎる。あの人の、十分の一以下にしか見えず、劣った存在に脅威を感じるわけがなかった。
「ちょ、ちょっと、何してんの!?」
「やめます」
「は?」
「やめます」
一音ずつ区切って制服のエプロンを脱いで叩きつけた。誰も彼もが呆けていて、気分が良い。胸がすいた勢いに任せて、髪を乱して簾を作る。
ようやくこれで、こいつら全員を嘲笑ってやれる。
「何がバーテンだ。くっちゃべってるだけでレシピも適当。客に気遣いもできない。俺に仕事も教えずに格好だけ気にしやがって。大体店長も出てくるの、遅すぎやしませんか。客に気まずい思いさせてどうするんです。オーナーにバレたらどうなるんでしょうね」
仮にそうなったら全員クビだろう。店長はすでに及び腰で「当人で話し合ってくれる?」と言って背を向けた。店員の管理や仲裁もできないので仕方が無いが、徹頭徹尾、無能であると語る背中はますます丸まっていった。
「とりあえず、裏いこうか、土門くん」
わざとらしい爽やかな笑顔と声音で、安っぽく怒りを顕にするマチとヤスが哀れに思えてくる。肩に手を回そうとしたので、躾けるような手付きで払った。
「名前も覚えられない馬鹿な相手に取り合うとでも? 義務教育、本当に受けてます?」
それが引き金だった。店の外に無理やり引きずり出されて、二人がかりで殴る蹴るの暴行を加えられる。生意気だの、バカにしやがってだの、ボキャブラリーもクソもへったくれも無い語彙力で、頭が悪いと格好がつかない証明をしてくれるもんだから、可笑しくて仕方なかった。
「潰れてしまえ、こんな店」
吐き捨てた言葉に後悔は無いが、力もない。奴らに届いたかは知らないが、痛めつけられながら「ざまあみろ」と舌を出した。