翌朝。
窓辺から海を眺める。鱗が作り出した天の川はもう見えることは無かった。人魚の洞窟から拾い上げた鱗を、朝日に透かす。やや紫色がかった色合いで、ステンドグラスの様な輝きであった。鱗越しの海辺は、水中で目を開けた時の透明な青を彷彿とさせる。
「……おはよう、S。」
Sの写真にキスを落とす。相変わらず溶けた笑顔である。《翡翠の天使》などと同級生に呼ばれて恥ずかしがって居たのが、昨日の事の様だ。
「お前にそっくりな人魚が居るんだ。」
ジッとSを見る。クリスマスの夜に撮った写真の一つ。洋風の椅子には俺が腰掛け、其の肘掛けにSが長い脚を見せつけるかの様に座っている。
人魚とSの美貌も、雰囲気も、生き写しかと思うくらいだ。違いは脚が有るか無いか。
「あれは、お前なのか。それともお前は、人魚の兄弟が居たのか。」
何方も不正解だし、何方も莫迦げている。頭ではそう思っている。然しそれでも、問わねば気が済まなかった。
小棚からロケットペンダントを取り出す。其の中のSはくしゃりとした笑顔を見せている。麗人の表情も、屈託のない此の貌も、俺を惹きつけてやまない。診察では邪魔になってしまう為、あまり身に着けることはなかった。今日ばかりは、Sを連れ出したい。特別な思い入れがある指輪は、眺めるに留めた。
Sの写真を、人魚に見せたらどうなるのだろうか。
不意にそんな考えが浮かんだが、
朝食にしよう。如何なる恋慕や思考を持ったとしても、平等に腹は減るのだ。
◆ ◆ ◆
此の町が最も盛んになるのは朝と夕だ。日が高くなると、住人は休憩をとりのんびりとした時間を過ごす。
其の間でも忙しいのが、M先輩の現場であった。
「おお、K。何かあったか。」
「いえ、近くを通りかかったので、見に来ただけです。」
白いシャツが焼けた肌と隆起した筋肉を引き立てる。M先輩の人柄もあって眩しく感ずる。生命力に溢れた彼の声が休憩開始を告げた。
「丁度良い、話したい事があるンだワ。」
事務所では無く、人気のない資材置き場に手招きされる。
足を止め、人目を気にする素振りを見せてから、草叢の陰から何かを取り出した。
「……漁師たちから貰ったモンだが、お前はどう見る。」
密やかな声と共に掲げられた物に絶句する。
硝子レンズの様に透ける、人魚の鱗だった。
「これが幾つも網に掛かっていたらしいンだ。鱗なのは間違いないが、俺たちでさえ知らない色で、此の大きさだ。」
歪な円鱗は直径四
「形は鰯や秋刀魚に似ているが、此の大きさとなると……。」
M先輩はそれきり黙った。俺は焦燥と狼狽を隠すべく、手を口許にあてて考える振りをする。
此の儘では町中が人魚の噂話で持ちきりになるのも直ぐだろう。彼をどうやって隠すべきか。或いは逃すべきか。
人魚の快復力ならあと三日もあれば完治するはずだ。
「此れだけでは、何とも。」
俺はやっとの事でそう言った。
「確かに不可解ですが、……そんな、真逆。」
声が震えていないだろうか。不自然ではないだろうか。言葉を発する度、冷や汗が吹き出る。
「暫くは調べてみる事にするワ。患者はどうだった?」
「快復に向かっています。俺が何もせずとも、もう大丈夫でしょう。」
なら一安心だナ。そう笑う彼を直視できなかった。
「そうだ、飯はちゃんと食ってるか。」
彼是と世話を焼いてくるのは、俺がSへ奪われた心が如何許りかを知っているからだ。此の人は正直者で、苦労人である。年下想いの善なる部分に背いている心地になり、俺は顔を伏せた。
「昨日は刺身でした。」
海風が強い。日差しも。
俺は、海と太陽が自身を灼くのを待っているのかもしれない。
◆ ◆ ◆
小舟で岩陰に乗り付け、人魚の居る洞窟へ。昨日の様子からして、食糧を自らで確保できるので必要は無いが、林檎を携えた。
昼過ぎになると気温が高くなり、少し動いただけでも汗が滲む。そういえば人魚の適温はどれ程なのだろう。
足音を察知したのか、ひょっこりと人魚が貌を出し、満面の笑みで迎えてくれた。
余りの無防備さに、溜め息を吐く。
「こら。隠れている身のだから、易々と貌を出すんじゃない。」
戯れて腰に纏わりつくので、適当な場所に腰掛ける。蒼玉の瞳は薄暗い中でも輝いていた。
怪我の様子を見たが、殆ど傷が塞がっていた。三日も掛からないだろう。今からでも此処を離れた方が良い状況だ。
一つ呼吸を置いて、話を切り出す。
「お前の鱗が、漁の網に掛かった。お前の存在に皆が気が付くのも、時間の問題だ。」
人魚は瞳を見開いて、ジッと此方を見た。
「幸い、怪我は動いて問題ない程度に治っている。」
直ぐに、海へ帰った方が良い。そう告げると、人魚は数回瞬きをした。言葉は通じているはずだ。
不意に、彼が俺の頬へ触れる。
「あ……。」
指だけではない感触に気が付く。生暖かい涙が、知らず知らずに溢れていた。拭っても拭っても、はらはらと落ちていく。
最初に溢れた物を自覚すると、あとはもう堰を切った様に流れ出していく。もう一度、幻でさえ良いから会いたいと思った姿形が、また俺の目の前から消えると思うと、心が千切れそうになる。
如何に似ていようと、全く別の物だという事は理解している。それでも尚、離れがたい気持ちが体内で渦巻き、目や頬を濡らしていった。
肌が違う。歯が違う。造りが違う。
違いを確かめながら、人魚へ触れていく。水気を含んだ肌はしっとりとしていた。硝子レンズの鱗が光を孕んで煌めいている。
彼と目が合った。美しい翠がかった瞳が物憂げに揺れる。
「ッ、おい。」
頬に接吻された。然し啄むような仕草から、流れた涙を舐めとっているらしかった。子供の様な辿々しく幼稚なやり方であったが、それが余計に俺の胸を締め付ける。
瞼を焼いてしまうほど熱い粒が、瞬きと共にはじき出されていく。
「S……!」
耐えきれず俺は彼を抱き締め、唇を奪った。彼は黙って抱擁を受け入れ、俺の背中に腕を回す。しっとりとした肌は僅かに凹凸があった。射し込む日差しに、ドゥルージーの表面に似た煌めきが踊る。
舌のザラつきや歯の質感が、俺の舌に直接的に伝わる。
Sとは違う物だ。違う造りだ。それでも舌を絡ませれば、切なく甘い。
『泣き虫さん……。僕のK。』
懐かしき声が聴こえる。薄らいでしまっていた、忘れかけていた愛しい声。其の言葉には覚えがあった。子供の頃に、膝を擦りむいて涙目になっていた時に揶揄い半分で言われた日を思い出す。
「お前、矢張り……!」
不思議そうに首を傾げ、笑みを浮かべる人魚。
『君って、意外と食い意地張っているよね。』
『嗚呼、身体が……。僕の、身体……。』
此の声は、幻聴なのか。何れも此れも聞き覚えがある。夏祭りの食べ歩きでの一言。病で倒れた時の譫言……。
然し、聞こえてくる声が仕草と表情に全く噛み合っていない。人魚は上機嫌になったのか、尾をはたはたと動かした。
呆気にとられている内に声は聞こえなくなり、俺は人魚を今まで以上に、注意深く観察する様になった。
◆ ◆ ◆
人魚は結局、岩場から離れずに居る。怪我は完治しているので、毎日海へ帰れと促すが、笑みを浮かべて首を傾げるばかりだ。俺が顔を出せば変わらず引っ付くし、果物を持っていけば顔を綻ばせて咀嚼する。
「……もしや、食い物が気に入ってしまって帰らんのか?」
半ば独り言として呟いたが、人魚は悪戯っぽく笑った。どうやら図星の様だ。
知恵の果実を与えたのは俺である。文字通り味をしめたといえよう。ここから離れない事に何処か安堵している自分がいるのもまた、事実なのだ。
いっそ攫ってしまおうか。そう考えたが人目については面倒だし、かといって俺の部屋は手狭で巨大な水槽を置く場所もない。海水でなければ忽ち衰弱するだろう。
ならば、小舟を出入りさせる所ならどうだろうか。私有地であるから誰かが勝手に立ち入る事もない。俺の家からでなければ辿り着けない。陸地から降りる事は出来ぬ地形だ。
「俺の家に来るか?」
名案に思えてきた。早速人魚に尋ねてみると抱き着いてきたので、了承したと取った。
幾らか準備は必要だろうが、此処にいるよりは安全だろう。
小舟で人魚を慎重に誘導し、停泊地へとたどり着く。停泊地といっても、小さな洞窟に粗末な木の板を組み込んだだけの、簡単な乗降場だ。小舟を縄で固定し、人魚の方を向く。
「此処は俺の家の一部だ。周囲から目に付きにくい。ジッとしていられるか?」
人魚は無邪気に頷いて、機嫌良さげにくるくると回る。波立つ狭い水場に朝陽が差し込む。光り輝く星が閉じ込められている様にも見え、俺は唾を飲んだ。
「色々と持ってくる。良い子にしておけよ。」
不意に、丸でSに話し掛けている気分になって来る。彼奴が身体を崩してから、何かと世話を焼いた時、今の様な台詞を良く言ったものだ。病室のベッドで笑うSは「退屈させてくれるなよ」と軽口を叩くのが常だった。
乗降場に簡素な棚を設置した。主に果物や缶詰を置いたものである。果物は早めに食え、と伝えると人魚は俺に頬ずりして喜んだ。肌の滑らかさに擽ったさを覚えるが、人間との差に未だ戸惑う。
町に出て色々と買い足さねばならぬ。それも仕事を簡単に済ませてからになるだろう。
「昼過ぎか夕方前にまた来る。人目に付かないようにな。」
人魚は害ある物ではなさそうだ。然し周囲の人間を説得したとて、許容されることは無い。異端を遠去けるのが人間であるし、難癖付けて迫害する事だろう。
かつてのSが、心無い人から発せられた言葉に苦しんだ様に。
同じ人間同士ですらそうなのだ。
彼にSの面影を追っているのは間違いない。然し彼はSではない。分かりきっていたが、あの日聞こえた声に、俺は期待しているのだ。
彼はSで姿を変えて俺に会いに来た、という淡い夢を。
◆ ◆ ◆
診療所の看板を出しつつ、往診へ。
例の患者はすっかり快復していた。寧ろ気が有り余っていると言っても良い。俺のお陰で良くなったと仕切りに言うものだから、此の歳になって気恥ずかしさを覚える。
「K先生、有難うねぇ。」
婦人と患者から礼として差し出されたのは果実のバスケットだった。見舞い品として貰ったのだろう。バナナやパイナップルの黄色が眩しい。其の中からほんのり赤くなった林檎だけを取り、白衣のポケットへと落とした。
「気になる事があったら直ぐに言ってくれ。」
そう言って席を立つと、二人は満面の笑みで手を振って送り出してくれた。表情が硬くあまり愛想のない俺を、こうして信頼してくれているというのは、大変有り難い事だ。
其の他の往診を終え、生活品を買い揃える。缶詰や干物、果物ばかりだ。何時もなら暑さに挫け、大荷物を抱えて帰る事はしないのだが、今日ばかりは妙に身体が軽かった。人魚が居る生活に、間違いなく浮き足立って居るせいだろう。
M先輩のいる現場を通りかかったが、会うのは得策ではない。妙に勘の良い人なのだ。人魚の鱗を手にした事から、存在を疑っている。M先輩が人脈や人材を十二分に使えば、人魚の所在はすぐに割れてしまう。
何か手を打たねば、と考えると足は更に急く。商店街をまっすぐ抜ければ、左の路地から少し登れば着く程度の道のりだ。足早に立ち去り帰路につくと決めたが、とある煌めきに足が止まる。
土産屋の前に、風鈴やビードロがずらりと並んでいた。当然それらも美しいが、俺の目を捉えて離さないのは、俺とSとで分けたピアスに似ている、雫の形をした装飾品の数々だった。
夏色を其の儘閉じ込めたかの様な、仄かな水色の硝子に惹きつけられる。一見、正面から見れば無色透明だが、角度を変えると様々な青色が見える一品だった。
人魚の白い肌に似合うだろうか。細かに輝くあの肌に、此の硝子を透かしたら、どの様な光を持つのだろう。身に付けるとしたら、人魚の構造から考えればチョーカーが最も良い。じっくり眺めてみたい。細かな気泡を含んだ瑞々しいソーダ水にも見えるかもしれぬ。
「おや、K先生。買い出しですか。」
店主に声を掛けられ我に返る。人魚へプレゼントなど無意味だ。頭で分かって居ても、一度抱えてしまった好奇心と欲求を無視するのは難しかった。
「嗚呼、ちょっとな。此の硝子は、特産品か?」
「特産ってほどじゃないですが、まァそこそこに評判が良いですよ。」
聞けば、近辺は工房を構えるのには丁度いい土地であるらしい。硝子職人が構える工房が何件か側にあるのだという。彼らが作る物を此処で売買することで、町の活性化に繋げているとの事だった。
「これを一つ、貰えるか。」
毎度! という明るい声と共に手渡されるチョーカーは、思っていた以上に華奢に見えた。留め具には繊細な彫刻が施されており、紐は丁寧に編まれているものだった。此れなら簡単に千切れないだろう。
代金を支払う最中、「先生にも良い人が居るんですネ」などと言われたが、否定せずにニッと笑う。
夕暮れ前の太陽は、初夏には似つかわしくない程、強く燃えていた。
◆ ◆ ◆
自宅に到着し、いの一番に向かったのは当然、人魚の所だ。帰ったぞと呼び掛けると、水面からひょっこり顔を出した。
西日が人魚を照らしているからか、人魚は光を纏って見えた。
早速、買って来たチョーカーを渡す為、手招きする。木の床を嵌めこんだ部分に腰掛け、肩越しに俺を見つめて来た。
「お前に似合うかと思って、買ってきたんだが……。」
其処まで言って、言葉に詰まった。此れでは飼い犬に首輪を嵌めるようなものではないのか。其の様なつもりは全く無かったが、チョーカーを首輪に思う者が居るのだ。
そもそも人魚に装飾品の概念が通ずるかどうかも分からぬが、一度出したものを引っ込める訳にも行かぬ。人魚の手のひらに載せてやると、目を見開いていた。
「硝子は……分かるよな。其の首飾りだ。貰ってくれるか。」
彼は大きな瞳を何度も瞬かせ、硝子を光に透かす。やがて、頬を赤くして満面の笑みで頷いた。嬉しそうにする仕草に俺も思わず頬が緩む。
早速人魚の首に付けてやると、想像していた通り、美しい色と光が硝子に宿った。人魚の肌が細かに光るおかげで、硝子に星を閉じ込めたように見えるのだ。
青の中に輝く光は、満点の星空を思い出させる。Sとでと二人で見た、湖の流星群は格別であった。其の時の輝きを具象化した硝子が、人魚の首元で佇むのは、何とも不思議な感覚であった。
「良く似合っている。」
そう言って撫でてやると、猫が擦り寄る様な素振りで、俺に引っ付く。だが人魚の胃袋から、間抜けな腹の虫が音を上げた。波の音ではないとはっきり分かる。洞窟なのものあって反響してしまったのも、
人魚は両頬を手で挟んで、恥ずかしがるように頭を振った。
棚を見やると、果物が早速平らげられていた。言いつけた通りではあるが、思っていた以上の量を食している。食欲があるのは良い事だ。
簡素な木の椅子を水際にまで近づけて腰掛ける。人魚がすぐ側まで寄ってきて、上半身だけを木の床に乗り上げた。
頬杖をついて、瞳を輝かせて俺を見る。期待に満ちた表情に、思わず頬が緩んだ。
人魚用に買ってきた果物を渡すと、真っ先に噛り付いたのは林檎であった。好物になったらしい。無邪気に食べるのが面白く、俺も白衣のポケットにある林檎を、棚に置いてあったナイフで皮を剥く。
不思議そうに、寝そべるような体勢で眺める彼は、丸で幼子にも見えた。それが愉快で、皮剥きをする理由ややり方を語る。
料理無精ではあるが、出来ない訳ではない。
一人で暮らして彼此経っているが故に、油断した。
左手の親指にナイフが、鋭く食い込んだ。弾みで林檎を落とし、地面に転がって行く。指の腹がばっくり割れ、血がだらだらと流れ出る。半端に皮が剥けた林檎は、俺の血と泥で奇妙な色になっていった。
礼の品を駄目にしてしまった落胆と、人魚に不恰好な姿を見せてしまった羞恥が混ざった。
「深くは無いか……。」
止血しようと立ち上がったが、人魚にスラックスの裾を掴まれる。思わず振り返れば、色素の薄い瞳が意味ありげに瞬きをした。手招きをするのでしゃがむと、手を引かれる。
「ッ、こら、……!」
舌でなぞるようにして、傷を負った俺の親指ごと口に含んだ。どうやら治療しようとしているらしいが、俺には目の毒だ。
神経が敏感になった傷口に人魚の口内の凹凸が触れるたび、息が引き攣れる。寝そべる形で俺の指を丁寧に舐める姿は、倒錯的な景色であった。
僅かに水音を響かせながら、人魚の口が指から離れる。ほんの少しの時間だというのに、血は止まっていた。矢張り、特別高い治癒能力があると見える。
「……人魚は皆、傷の治りが良いのか?」
厳しい海の環境であれば、確かに必要な事なのかもしれない。となれば、俺の様な医者の出番は本来なら無いのだろう。
礼を述べたが、人魚はニコリともせず、ジッとこちらを見つめる。何かを考えているのか、尾鰭がゆるゆると左右に揺れていた。
人間の血は人魚にとって、何かを鈍らせるのだろうか。手を伸ばして様子を伺おうとした途端、視界がグルリと回った。次いで、襲いかかったのは背中から抜ける強い衝撃だった。
「ぐっ……!?」
覆い被さる様に人魚が伸し掛かる。此の時初めて、俺は人魚に引き倒されたのだと悟った。人魚の貌から表情らしいものは一切無かった。
何を思ったのか、人魚は自らの唇を噛んで血を滲ませる。より赤くなった唇は、ふっくらとした輪郭を際立たせ、強烈な色香が匂い立つ。
「な、にを……!」
疑問を口にする暇も無く、今度は俺の口内に舌を滑り込ませる。驚愕で反応出来なかったが、鋭い痛みが走った。
「──ッ!」
舌の先を噛まれた。鉄の味が瞬時に口の中に広がっていく。上半身全てを使って俺を組み敷く人魚の力は凄まじく、抵抗しようにも身動ぎ一つ取れぬ。
人魚は俺の口内を舌で搔きまわす。其の間も絶えず俺の舌噛み、止血させぬようにしている。人魚もまた、自らの頬や舌を噛んで血を流していた。
「は、ッ、──!」
息が上がる。呼吸も儘ならぬ程の濃厚な接吻だ。Sとも交わした事の無い、貪るようなものだった。Sと交わした口付けは一度だけ。それも触れ合うだけのものだった。
否、これは友愛などの行為では無い。人魚の目的は不明だが、行為の主旨を薄々感じ取っていた。
血を、交わす為だ。
散らばりそうになる意識を掻き集めながら、思考を保った。
「っぁ、あ、何故、……!」
患者は海水で薄まった人魚の血を浴びて、虚脱状態となった。ならば、俺は? 血を直接、経口摂取したら、一体どうなる?
頭の芯から痺れる様な、恍惚に震え上がる。最早抵抗するなどという気は失せた。全身の境目が曖昧になり、彼と一つになりそうなくらいだ。
『僕のK──。』
人魚の声が聞こえる気がする。遠い所から、近い所から。これは人魚の声だろうか、それとも……。
『愛しているよ、僕のK。』
『僕の兄弟、僕の親友、僕の、僕の──。』
乱れたラジオに似ている。もっと人魚の血を得て、人魚に俺の血を与えれば、明瞭な声が聞ける様になるのだろうか。ならば其れは聞いてみたい。
「ぁ、──……。」
人魚が口を放すと、俺の首元からぶら下げていたロケットペンダントを取り出した。中には、屈託のない笑顔を浮かべたSが居る。それを見た人魚は、壮絶に美しい笑みを浮かべたかと思うと、再び俺に口付けを施し始めた。
傷つけられながら交わされる行為は、日が沈んでも続けられた。ぐずぐずに溶けた身体には熱が灯り、為すが儘であった。身体中の熱が渦巻いて、出口を求めている。
「あぁ、あ……! S、Sッ……!」
声がする。景色が見える。目の前の人魚を感知しながらも、遠い日の記憶が広がる。
Sと共に育った屋敷。駆け回った庭。談笑に夢中になった自室。Sが溶けていきそうだった海。無茶な遊びをした山。互いの願いを祈った星空。手の甲に接吻しあった湖。それぞれの道筋を決めた豪奢なホテルの一室。
温かいミルクを飲み、暖炉の前で語らった日。
夏祭りで花火を見ながら抱擁しあった日。
試験で競い合いながらも、一度として僅差で勝利できなかった。
背比べをして、一度として追い抜けなかった。
ずっとずっと、追い続けていた。
「S、……。」
手を伸ばせば、愛しい存在が居る。俺を置いて死んだ、最愛のSが居る。
Sは俺の首元に鼻を埋め、擽ぐる様なキスを振らせる。Sの手首を取って舐ると、絹の様な肌触りに夢中になった。
其の刹那。
「ッああぁ!」
首に歯を立てられた。一気に現実に引き戻される。思いがけぬ傷みで、目の前に火花が散った。弾みで、自らの花芯が爆ぜる。
壮絶な脱力感の中、俺は意識を繋ぎ止めるのに精一杯であった。
Sではない。あいつは死んだ。目の前にいるのは、──!
「や、めろ。やめてくれ……!」
じくじくと痛む首元を堪らず押さえれば、手のひらにべったりと血が付いた。
人魚は、俺が舐めていた自身の手首と指先に噛み付いて、皮膚に穴を開けた。ブツリと肉が切れる音が嫌に耳につく。
差し出された指先から滴る赤に、とある儀式を思い出す。
Sと互いに、片耳に開けあったピアス。赤い硝子の滴が揺れるデザインの物。ピアス穴を開けた直後は出血し、硝子と血液が混ざり合った。
互いの血を分ける様な、神聖な儀式だった。天涯孤独の身である俺に取って、心を掴んで離さないものだったのだ。Sが死んでからは、俺の両耳を飾るもの。
「ぁ、ぐッ……!」
指を口の中に突っ込まれる。人魚の血が不思議と甘く感じる。無理矢理に大きく口を開かされ、舌を挟んだり頬肉を滑らせたりと、俺の中を蹂躙していく。垂れ流された涎は顎を伝い首筋へと落ちていく。
首の噛み傷からの出血と唾液を、人魚が啜るたび、身体が痙攣する。失血によるものではない。あるとすれば人魚の血が、毒の様に身体を駆け巡っているのだ。
俺は此の儘、こいつに食われるのだろうか。人魚の目的が見えない。生きた儘に食すのが、彼等の流儀なのか。
「僕のK。」
はっきりとした声だった。生理的な涙をじっくりと舐め上げる表情は淫靡であり、眩暈がする。
「ねぇ、K。ずっと僕に会いたかっただろう?」
朦朧とする意識の中、眼前の麗人だけが明瞭であった。口の動き、表情、全て噛み合った姿だ。
「僕と一緒に来て。一緒に生きよう。僕、君を連れ回したいんだ。」
甘美な誘いであった。伸ばされた手を取れば良いだけだ。
今度はSが俺を連れ回す番ならば、…………
不意に、人魚は何かを注意深く辺りを観察しだした。
弾かれた様に身を翻す。派手な水音を立てて、海へと飛び込んだ。俺は其の姿を、視線だけで見送る事しか出来なかった。
「K!」
野太い声が船の乗降場に響く。岩肌によって反響した声でも誰が叫んでいるかは直ぐに分かる。此の島で、先生の名称を付けずに呼ぶのはたった一人しか居ない。
「
M先輩が、俺を抱え起す。弛緩した身体に力は入らず、先輩に任せきりになった。
何があった、寝るな、俺が分かるか、と言っているのは分かる。だが残響がひどく、頭の中で幾重にも重なり、耳詰まりを起こしているかの様だった。
人魚は、M先輩の気配を察知して逃げたのだ。
「Sが、……。」
目を開けるのも億劫になり始めていた。M先輩は俺を横抱きし、慎重に立ち上がる。恐らく、休ませる為に部屋に行くとか、多分、其の様な事を言っているのは分かった。
日が沈みきった海に輝きはなく、塗りつぶした墨の水面を湛えていた。
Sは居ない。死んだのだ。そして面影のあった人魚も──。
涙が再び頬を濡らしていくが、それを拭うこともなく、そっと目を閉じる。
『幸せ者だな、僕は……。』
目蓋の裏に浮かぶのは、病床で最期の笑みを浮かべたSであった。
◆ ◆ ◆
比較的すぐに目を覚ました。時計は二十時過ぎを指している。M先輩が側に付いて、世話を焼いてくれた様だ。
「具合はどうだ。」
意識はあるが、凄まじい虚脱感に襲われていた。指先一つ動かすのにも気力がいる程だ。
然し、M先輩に悟られるのは嫌だった。人魚が居たことも、彼がSに似ている事も、危害を加えられた事も──。
全身の力を使い無理に起き上がる。それだけで汗が噴き出た。結局、先輩に支えられる形で、身を起こすことが出来た。
「怪我は……、今は無いみたいだが……。」
そう言われ、口の中や首を確認する。人魚に噛まれた所は何の凹凸も無いほど綺麗なものだった。
「俺が駆けつけた時は、血塗れに見えたンだが……。何にせよ、生きていて良かった。」
「M先輩は、何故……。」
「飯でも一緒にどうかと思って来たンだ。だが、あまりに静かでな。お前が鍵を開けっ放しにして外出する事なんぞ、まず無いだろう。妙だと思って、彼方此方探したンだワ。」
先輩の勘はやはり鋭い。思わず鼻から息が抜けて、笑ってしまう。
「先輩。とある部屋に、俺を連れて行ってくれませんか。」
無理に笑みを作る。先輩は怪訝な貌をした。俺に聞きたいことが山程あるだろう。
だがまずは、Sに会わねばならぬという思いが早った。