春宵、灰に泣く

清陽きよあき
 掠れた れの声は虫にも劣る細やかさであった。冷える気配はしたが、寒さは感じない。己れは存在の全てを清陽だけに注ぐ。
「清陽。」
 とうとう膝の上に乗せれば包み込む事が出来る大きさになってしまった。自ら、この己れに連れ去る権利をやると言ってから三日も経たず、咀嚼を止め、血流を止め、ヘイゼルの瞳を縁取っていた長い睫毛や猫の様な髪は、この箱の中へ灰となって納められてしまった。
「……清陽。」
 木箱を開ける。骨壷はつるりとした陶器であり、清陽の肌を思い出させる。看病してやった時と同じく、慎重に触れ、蓋をずらした。
 珊瑚が弾け、吹けば飛んでいってしまいそうな淡い桃色をした骨が覗く。大小様々な骨は清陽の内面にあった、芯のある言葉達に似ている。
「清陽。」
 お前はどんなになっても綺麗な奴なのだな。少しばかり皮肉を零したくなる。
 降り積もった沫雪が底に溜まっている。二月の大雪を思い出す。
 遺言通り、清陽の中身は隅々まで調べ尽くされた。骨は大きい物は砕かれていて、観察すれども見分けは付かなかった。
「清陽。」
 己れが今からしようとしている事が、もし、咎められるとすれば、それは一体何の罪とされるのだろう。
「清陽、良いよな?」
 己れが総て連れ去って良いのだろう?
 声にせず問いかけたが、春の宵に応える者は無い。
 総て、と言ったお前はやはり心優しい男だ。横顔も伏した眼も、最期までお前はどこまでも美しく、紛れもなく己れの親友だった。
 骨片を指先で摘み拾う。ハラリと音もなく表面が剥がれ、壺の中で粉となった。清陽のどこかの骨は、清陽の腹や耳だった物に混ざっていく。脆く去っていくその様は最期に笑った奴の貌その物だ。死んでもやはり、これは清陽なのだ。その証拠に己れの中の清陽への想いは変わる事なく在り続けている。

 手に入る為の手筈は整っている。清陽を連れ、ひっそりと裏手から抜け出し、裏門から川沿いに歩けば朝には駅に着く。切符も既に手元にある。取り出した清陽の一部も全てまとめてある。連れ去るなら、今しか無いのだ。
 それにも関わらず、鮮やかな薄桃に目を奪われて動く事さえ出来ぬ。死してなお美しい。誰かにこの事実を伝えたい。清陽はやはり美しく何者にも代わる事の無い唯一の存在であると!
 だがこの優美さを伝えたいお前が居ない。

 己れの清陽。
 己れはお前に、確かな欲を抱いていた。聖母に恋をする様な無邪気さは、そこに無い。肉食獣が獰猛さを露わにし食らう、本能的で只管に猛烈な食欲に似た執着があったに過ぎない。たわわな乳房に齧り付く男児のほうが恐らく健全と言えよう。お前を愛し、お前に焦がれ、お前を手に入れたいと強く願ったのは間違い様もない。だがそれは恋と呼べるほど清らかな物では無かっただろう。

 己れの清陽。
 己れはお前の横顔に、伏した眼をこちらに向けて、己れとお前だけの世界にどれほど憧れたか。飽くほど憧れ、それでも飽きず。お前というお前の総てに渇きさえ覚えた。ベルベット生地の二人がけのソファーで、身を寄せあって眠った夏の日。美しい夢を見たのを覚えている。

 だというのに、己れは今、尻込みをしている。
 お前の母様や父様には、己れも大層世話になっている。まるでもう一人の息子の様に接してくれる。父母を亡くし、血縁者の居ない己れは世間から疎まれたって可笑しく無かったのだ。その己れに普通なる生活も価値観を与えたのは、清陽とお前の両親だ。感謝しても仕切れない。
 だからこそ、その《普通》が囁く。お前は両親の元にきちんと帰るべきで、己れが全く総てを連れ去って行くべきでは無いと。はらはらと涙を流す母様と、その肩を抱く父様を見て、それでも尚お前を奪うという考えは霧散した。踏み留まれた事に安堵したと同時に、己れは結局の所、凡庸極まりない事を認めざるを得なかった。己れは、総てを失ったも同然だ。お前に心を奪われたままでありながら、お前の総てを受け取る事に二の足を踏んでいるのだから。
「……清陽。」
 お前はそれを喜んでくれるだろうか。それとも甲斐性なしと笑うだろうか。いずれにしろ、確かな事が一つある。
「己れは、……半端者だ。」
 床に伏し、零さないよう清陽を掻き抱く。己れの呼吸に合わせ、中身が微かに揺らいで、何故か戸惑っている様にも見えた。
「……己れは、お前を、総てを貰い受ける人間では無い様だ。」
 壺の輪郭が二重になる。ゆるゆると開いていく涙腺は鼻腔を突っ張らせていく。喉から手が出るほど渇望しているのにも関わらず、己れには清陽を全て背負うだけの心が無い。
「それでも、お前無しで生きられる様な、人間でも無い。」
 なんという、無様な姿であろう。互いに己れの清陽、僕の けい と呼び合っていたというのに。互いに半身であると信じ疑う余地も無かったというのに。
 兄弟で、親友で、好敵手であった、愛しい己れの清陽。
 最期に見た己れの貌は、笑えていたか。
 ヘイゼル色したその瞳に泪の膜が張られていたが、良い夢は見られたのか。

 清陽、清陽、己れの清陽、おれのきよあき……。

「己れの、ヘイゼル。」
 骨壷に泪が流れ落ちる。共に見た流星群の景色を思い出す。湖に降り注ぐ星々に見守られながら、互いの手の甲に接吻したあの夜を――……。

 これは懺悔であり懇願だ。
 千々に千々れた、最後の我儘だ。

「……どうか、幾ばくか。お前の幾ばくかを、己れの人生に連れ回す事、どうか赦してくれ。」

 ――愛しているよ、僕のシリカ。

 少し呆れて、それでも陽だまりに似た微笑みを浮かべるのだろう。木漏れ日の下で、煙水晶を翳したその指先で、己れの泪を掬うだろう。
 それを分かっているからこそ、己れは愚行を突き進めるのだ。

 薬匙で清陽を掬う。骨粉は月に照らされ、青白く仄かに光っていた。