竜胆を胸に抱く

 桜並木は狂った様な薄紅に彩られた。春風に乱され舞い散る花弁は無数の小さな蝶にも見える。吹く風に乗って地面を転がる様子は、光を放つ貝殻に似ていた。
 入学式が過ぎ、寮にも後輩が数多く入居した。己れは二年生になり、更には寮長に任命され、まだまだ不慣れな事だらけだが日常生活へ戻りつつある。
 後輩達は、昨年の己れ達二人を思い出させる。夢と希望に溢れ、それと同じ位の不安を胸一杯に抱えた姿は初々しく好ましい。桜吹雪の中で、真新しい制服をぎこちなく着る彼等もすぐに慣れるだろう。
 親衛隊は変わらず、寮の前へ集まっている。後輩達は己れが絶大な人気を集めていると勘違いしているので、どうしたものかと考えている。殆どは清陽のフロイラインなのだ。彼女らは自らの心を納得させる為に、未だここへ通っているに過ぎない。暫くはひっそりと泪に濡れた花道となるだろう。清陽の身の回りの物は、形見分けとして少しだけ彼女らへ渡した。それでも清陽が居なくなってしまった現実に慣れるのには、まだまだ時間が必要だ。
「そういえば、進級試験の結果が返ってきた。いやはや、一年掛かった。」
 漸く清陽の点数に届いた。満点同率など中々無い事だ。健闘を讃え合い、鼻唄を歌いたくなった位だ。
「それに明日は身体測定だ。お前の背に追いついているだろう。嗚呼、今から明日が楽しみだ。」
 己れの清陽の身長がどれほど伸びていたのかは知っている。解剖時に清陽の身体は隅々まで調べ尽くされたからだ。
 宗田家に返された清陽は、葬式の為に亡骸を見せられる状態を保つ様に配慮して貰えたので、非常に綺麗に残った。その為欠損や見える部分で大きな傷は無かった。そして己れも、清陽を清陽とする調和を傷付ける気は起きなかった。
 清陽の死に化粧は、本当に人間だったのかと疑わしくなるほど美しかった。精巧な陶器の人形が横たわっていると言われたら、鵜呑みにして信じてしまいそうだった。献花は白い薔薇が選ばれ、参列者は花だけにされた切り花を一つずつヘイゼルの周りに添えた。最後に己れのピンを清陽の左胸へそっと置き、その頬を撫ぜた。胸元に咲いた薄紫は高潔で美しかった。
 献花を手向けられた己れのヘイゼルは白に埋もれ、白い煙となって青空へと溶けていった。鎌倉の海で感じた時の様な、不安で衝動に突き動かされる感情は無く、只それが無くなるまで己れはジッと空を見上げた。今思えば、あの時の己れは妙に映っただろう。母様ははらはらと落涙し父様はその肩を抱き、身を寄せ合っていたというのに、己れは只管、真上を向いて瞬きもせず清陽の煙を眺めていた。その姿は、薄情に映ったかもしれぬ。
 だが、それは己れが清陽を手に入れていたからこその安らぎだ。そして己れは清陽の総てを連れ去る事に迷った。骨だけは母様と父様に返すべきではないのか、という考えが脳裏を掠めたのも、この時だった。
 清陽の中身は殆ど持っていかれてしまったが、幾つかは己れの手に渡ってきた。未熟者への指導という大義名分のもと、憐憫極まる己れへ正しい保存方法を教えて下さった方々には感謝しても仕切れない。
「さぁ、今日も美しいお前を見せてくれ。」
 一人になってしまった己れの部屋。響く声は一つしか無い。だが決して独りではない。
 清陽が使っていた机と椅子は片付けずに残してある。燻んだ水晶を随分気に入っていたのか、小さな標本匣に飾られていた。書きかけの恋文の返事は、差出人そのままに渡しても良いかもしれぬ。己れには必要の無い物だ。
 それらと共に、机上の壁際とその壁には様々な《飾り付け》をしてある。
「清陽。」
 《飾り付け》を保護する白い布を丁寧に捲り、留め具にしたピンの針を抜いた。

 美しい淡褐色の瞳は、周りに花弁を散らし飴色の硝子と共に。
 美しいキャラメル色の髪は、赤いリボンと共に。
 美しい白い半月は、これ迄の時間を溶かした時計と共に。

 今日も己れのヘイゼルは美しい。その事実に己れは自分の事の様に誇らしげに思う。
 どれを組み合わせても清陽その物にはならないが、どこを取っても清陽である事実に己れは心を満たされる。淡褐色の瞳もミルクを溶かした珈琲色の髪も、清陽を清陽足らしめていた大部分だ。様々な角度からそれらを眺め、感嘆の息を吐く。
 それらを絹の白い布で被せ、清陽と交換したピンブローチで留めた。
 この竜胆の花は、美しかった心臓の代わりだ。後から分かった事だが、己れが手向けたブローチは松虫草の花であった。実物を見たが、丸く花弁を広げ、嫋やかに咲く姿は控えめで美しいと思った。
「清陽。」
 新たに開けたピアスの穴に、清陽が付けていたもう片方を通す。これは毎日行われる神聖な儀式となった。血を分けた後、また自らに返って来たのだ。約束の証は耳朶に少々の痛みを もたら すが、それが愛おしくて堪らない。己れのヘイゼルと一つになる心地になる度、強い陶酔感に見舞われる。
「お前は、お前だからこそ美しい。」
 左手の小指に嵌めた硝子の指輪。差し込む朝日に照らせば、綺羅と輝く。その煌めきは太陽の光を受けて虹色を作り出した。清廉で、陽気で、人当たりの良い清陽らしい色だ。清らかな眩さに思わず目を細める。
 沫雪の様で、弾けた珊瑚の様で、清陽の芯ある言葉に似た遺灰を閉じ込めた指輪。今にも話し出しそうな表情に、己れは蕩けそうな至福の風に吹かれる。

 己れは清陽を幾ばくか連れさった。
 肉体を、精神を、魂をそれぞれ少しずつ。
 己れの人生に連れ回す為に。

「清陽。」
 指輪に口付けを落とすと、最初で最後となった終末の匂いがする。己れにとって最も幸福な香りに、思わず頬が緩む。
「行こうか、己れのヘイゼル。」
 寮の門を潜れば、華やかなフロイライン達。呼び掛けられる挨拶に、微笑みを一つ浮かべた。
 春、麗らか。舞い踊る桜の風が祝福している様だ。己れは清陽と共に、一歩踏み出す。

 部屋の郵便受けは相変わらず満杯である。宛名が清陽の物が未だ多い。
 そこに紛れ込んだ郵便物に、気が付いたのは数日経ってからであった。

『僕が死んでから、ひと月ほど経った頃のシリカへ。』

 死して尚、驚かせてくれる己れのヘイゼル。
 己れはお前を、一等愛している。

【竜胆を胸に抱く】 了