一話目

 朝早くに起き、家を掃除し、簡単な飯を食い、仕事である小説を書くという生活を送っている。住まいは東京、川の側。親族から十八の頃に与えられた家に一人。私は末の子であったのもあり、家業について関わりを持たなかったし、私自身も家から離れたいと考えていた。若気の至りから誤った過去を刻んだのもあり、家の敷居を跨ぐ事も無い。
 彼此、長いこと此処に住んでいる。もう二十年近くなるだろうか。住込みで働く者を見越しての広さであったが、今は私以外に住人は居ない。飯炊きをお願いしている、キヨさんという婦人が訪ねに来るのみだ。
 
 彼から、初めて手紙を貰ったのは五年前だった。
 当時、私は三本の連載を抱えていた。編集担当者を経由して、時折フアンレタアを受け取る事があった。拝受した手紙を読むのは、私にとって細やかな楽しみであり、然し返事をするのは稀であった。
 そんな私の目を引いたのが、 二之部瑞基にのべみずきの手紙だ。几帳面さを覗かせる美しい文字は、何通か同時に届いたどの便りよりも目立った。
 火鉢で暖を取りながら中身を取り出す。短い話を書き連ねた物が三篇。あとは三つ折りになった手紙だった。
 詳細の明記は控えるが、手紙には私の元へ弟子入りしたいという内容が認められていた。父親は大学教授であり、来春に大学へ通う為に上京するのだという。
 そうなると歳の頃は二十歳そこそこか、と独り言を溢した。
 唐突な事であったが、部屋は空いている。男一人には広い家なのだ。書生の一人や二人居ても差し支えはない。過去に弟子は何人か取った事がある。慣れているといえば慣れているが、弟子を取る程、本来の私は偉く立場ある人間でもない。
 迷いを火に焚べる気持ちで、手紙を読み直す。均整の取れた文字から紡がれる言葉から、何度も手紙を練り直したのだろうと窺える。更に三回、四回と読み返した私は、受け入れる返事を出すと決めた。
 単純に、彼に会ってみたくなったのだ。宛先として記された私の名前を指先でそっとなぞる。 久慈四葩くじよひら執筆名ペンネエムだ。彼はどの様な思いで、此の名を丁寧に書き上げたのだろう。
 火鉢の炭が弾けた音に我に返った。それから、永らくしまい込んでいた葉書を探すべく、立ち上がったのだった。
 
 返事を出してからはトン〳〵拍子で話が進んだ。二之部君がやってくる事になったのは三月の末であった。少し遅めの雪が降った二日後だったのを覚えている。
 雪解けし、足許が悪くなっていた昼下がり。トランク鞄一つと、ブックバンドで束ねた四冊の本。それらを携えて、彼はやって来た。
 都会的な雰囲気を持つ青年、というのが彼の第一印象だった。
「お初にお目にかかります。二之部瑞基です。これから、お世話になります。」
 凛とした声は耳触りが良く、名前から受ける印象と同じでもあった。私と同じ程度の背丈であるが、頭を深々と下げ、腰を折る姿は好感が持てた。
 彼は、文字から想像する通りであった。礼儀正しく清潔さ溢れる。彼の放つ空気は湧き水の如く清廉でもあり涼やかでもある。そして同時に華やかさある顔。しゃんと伸びた背筋や引き締まった四肢、雪国の出身である為か日に焼けておらず、透き通る肌をしていた。何処となく、水仙を思い出させた。
 私はすっかり、一目で気に入ってしまった。小ざっぱりしすぎている家に若者がいるだけで、随分家の雰囲気が変わるものだとさえ思った。口下手な私は、精一杯の歓迎の意を込めて宜しく、と一言発するのみであった。
 
 自己紹介を簡単に済ませ、一通り家屋の案内をする。平屋でそれなりに広い家だが、丸一日かかる程ではない。玄関に入ってすぐの客間(応接室と兼ねている)、二階への階段がある。廊下を真っ直ぐ進むと、書斎、風呂場、厠が左手に並ぶ。更に進んで突き当りには三方向に襖扉がある。正面が茶の間、左手が厨、右手が八畳間だ。茶の間と厨の扉は大抵開けっ放しで、茶の間の一番奥に座れば厨の竈あたりまで見通す事が出来る。茶の間には縁側が付いて入るので、玄関から入るのが面倒な時は、庭を通って其処から上がったりもする。
 二階は私の寝室と空き部屋が二つあった。彼には私の向かいにある部屋を与えた。卓袱台と押入れしかない、簡素な部屋である。家具は必要なものがあれば増やす旨を伝えた。
 自身の仕事についての説明を兼ねて書斎を見せた。私の資料室でもあり、憩いの場である。此処で書き物をしないという規則を定めているが、誰かが出入りするのは気にならない。
「簡素な家だが、蔵書はちょっとした自慢だ。質が良いものを選んである。好きな物を読むと良い。」
 聡明な瞳が一層輝いた。見た目通り、本好きの青年の様だ。はき〳〵とした礼の言葉に、私の身は擽られた。
「食事は」と尋ねると、未だとの事だったので朝に炊いてもらった飯で遅めの昼食を共にした。
 残り物で拵えた食卓でも、彼は正座して丁寧に咀嚼した。小さな口に運ばれて行く様子から良く躾けられたのだろうと観察してしまう。
 今日くらいは、歓迎会として外食にしようか。そう脳裏に浮かんだ思い付きに従うと決めて、記憶している店を思い返し始めた。私は意外にも、浮かれていたのだ。
「街を案内した後、夕食にしよう。外食は好きかね。」
 暗に好物があるかを尋ねる。態度は崩さぬ儘だったが、逡巡するのが伝わる。一拍程度の間の後に、彼は口を開いた。
 
 ◆◆◆
 
 連れて来たのは馴染みの小料理屋だった。おでんが食べられる所に、と言うのでそこに決めた。理由を聞けば関東炊きを食べるのが密かに楽しみだったのだという。歳相応な無邪気な一面に、二之部君の頬には照れ恥ずかしさが薄っすらと載っていて、酒酔いによる紅と混ざった。御猪口に唇を濡らす度、目を細めてうっとりとする様は、しなやかな猫がこっそり 木天蓼またたびに擦り寄る仕草を思い出させた。
 図書館、編集社、本屋、郵便屋とあちこち回った。道中で、弟子として家の中でも仕事が欲しいと申し出があったので、掃除全般を任せる事にした。掃除といっても元より家に何もない。茶殻を撒いて箒で掃けば終わるだろう。それよりは短篇を書くなり、大学で勉学に励む等して、成果を出して貰うほうが望ましいと考えた。
「二之部君は、何故私の所に?」
 気になっていたが中々聞き出せずにいた。彼ほど見目も良く、優秀ならばもっと勢いのある文士でも良かった筈だ。彼が寄越した短篇から彼の賢さは窺い知ることが出来た。教授に弟子入りしたとしても不思議は無い。父親が大学教授ならば、後者が自然かもしれぬ。
 彼はよくぞ聞いてくれた、と言わんばかりに笑顔を振りまいた。
「僕、久慈先生の作品を《紅花》で見かけた時から、此の人の所へ弟子入りするのだと決めていました。」
 私は面食らう事になった。雑誌の《紅花》は十年も前に廃刊となっており、然も寄稿したのは更に前だ。更には、《紅花》は世俗的な内容であり、彼の年齢を考えたら辻褄が合わない。大方、大人が買ったものを隠れて読んだのだろう。
「初めは、その。何が書いてあるか意味は解りませんでした。それでも、先生の文章は光り輝いて見えたのです。」
 二之部君は真新しい生徒手帳を取り出す。其処に、切抜が糊付けされてあった。
「先生の話の中では、特に此の話が好きで、中の一説を此処に。」
 上気した頬は酒帯びの為ではなさそうだった。切抜は私が当時の二年前に完結させた《櫻庭の月》の一部であることは見てすぐに分かった。
「君、僕のフアンなのか。」
 熱心にも程がある。然し、過去に二之部君からフアンレタアを貰った覚えは無い。彼の字ならば、私が記憶しているに違いない。字に惹かれて弟子入りを許したと言っても過言ではないのだ。
「フアンです。でも、手紙を出すなら、その……。」
 言葉を濁し、目を泳がせた。ぐいと一気に酒を煽る。声に出す為に酒の力を借りねばならなかった様だ。
「先生に一目置かれるよう、頑張ります。」
 話の前後が繋がっていなかったものの、彼の健気さは伝わった。胸の中を、和毛で擽られる心地がしたのを覚えている。普段、考えていることが表情に出づらい性質といえど、此の時ばかりは顔が緩んでいた事だろう。
「弟子である以上、きちんとして貰う。私も師として、君に教えられる事は惜しみなく出すと約束しよう。」
 私がそう言うと、彼は喜びを額に湛え目を輝かせた。表情こそ締まったものであったが、顔の奥に眩い明かりを灯している姿を見せてくれた。その様な弟子ならば、誰でも教え甲斐がると感じる事であろう。無論、私もそうであった。
 
 ◆◆◆
 
 四月となり、二之部君の大学通いが始まった。 襯衣シヤツ姿の彼が桜の樹の下に立つ。背はそこまで高くない樹であるが、毎年華やぐので晩酌の肴になる。はら〳〵と散る花弁は彼の瑞々しい黒髪や絹肌を滑る様に撫でる。庭掃除だけでも絵になる男だ、と私は素直に感心してしまった。
「久慈先生。キヨさん、いらっしゃいました。」
 彼の声もまた、心地良さがある。瑞基という名が二之部君の身体隅々まで染み込んで、静かな湖畔を作り出しているとさえ思う。
 ウン、と私は頷く。起き抜けに入れてもらった茶を飲みながら、新聞と雑誌に目を通していたが、嵐の様な足音にそれらを傍らに置いた。
鏡四郎きょうしろうさん、起きてますか!」
「起きておりますよ、キヨさん。」
 隣の家に住むキヨさんは、不摂生だった私の食事について激怒に近い心配をし、以来十五年に及ぶ世話焼きを続けている奇特な婦人である。私よりも幾分歳上で四十五を越している筈だが、声や肌艶は若々しい。貫禄ある声や腕には、子育てをやりきった母親ならではのものだ。
「アラマー、瑞基君! 今日もイイ男ね!」
「アハハ……、有難う御座います。」
 彼女に圧倒されるのも致し方ない。独り立ちした子供らや、彼女の旦那も、彼女には敵わないと評するのだ。朝早く起きて自宅の朝食を作り終えると、私の家に来て、キヨさんが作った惣菜をウチに持ち込んで、釜で飯を炊く。私は朝昼の飯をまとめて済ませるため、私自身の飯は多少遅くとも問題は無かったが、二之部君は朝早い。その為、彼女の自宅で調理されたものを弁当にしてもらっている。
 彼女は慌たゞしそうに厨に立ち、味噌汁を温めなおす。その間に昨晩作り置いた品々を卓の上に並べていった。簡素な木机があっという間に彩られていく。簡単なものが多く、決して派手な食事ではないが、どれも美味である。
「二之部君、今日の講義は遅いのかね。」
「二限目からです。その前に図書室へ行こうかと。」
 彼は熱心で、時間があれば本を読み漁っている。インクに飢えているのかと思うくらい貪欲に、そして確実に血肉にしていく姿は好ましい。
「此の前、案内した出版社は覚えているかね。」
「はい、大通り沿いの所ですね。」
「授業が終わり次第、其処に向かってくれ。私の名を出せば通して貰えるだろう。」
 彼は背筋を一段と伸ばし、快い返事をした。そうこうしている間に食卓の準備が整ったので、手を合わせて朝食を摂る。
「鏡四郎さん! アンタも仕事ばっかじゃなく、瑞基君のお世話しなきゃ駄目ですからね! 鉄皮面もどうにかしなさいな!」
「分かっていますよ、キヨさん。」
「瑞基君も若いんだからちゃーんと食べなきゃ駄目だからね! 嗚呼、ホラ、今日のお弁当だよ。」
「有難う御座います。」
 準備が終わるや否や、これまた騒々しく去っていく。二人だけになった我々の空間は、正に嵐の後に残る静けさに包まれた。
 キヨさんに感謝する事は多いし、大層世話になっていると理解しているが、もう少し淑やかにならぬものかと思う。然し、そんな事を口に出したら、何倍にもなって私の至らぬ部分を指摘されるだろう。あれが彼女らしさでもあるのだと言い聞かせる事にした。
 不意に、二之部君が細やかに笑う。僅かに詫びるが止む気配は無い。どうにも堪えられない、といった様子だった。
「先生にああも言える人、そんなに居ないのではないですか?」
 そも〳〵、私と付き合いのある人間はそう多くない。寡黙な印象を持たれるし、そしてその通りである為、深い仲になる者が居ないのだ。代わりといってはなんだが、数少ない友人はキヨさん以上に図々しい。
「悪辣な友人に比べたら、キヨさんは可愛らしい方だ。」
 あくらつ、と二之部君は鸚鵡返しをした。呆気にとられた表情もまた、新芽の青さに満ちていた。
「私の担当であり、お負けに編集長までしている輩さ。」
 今日、会わせてやるとも。そう告げると、彼は僅かに首を傾げて、箸を口に運んだ。
 
 ◆◆◆
 
 八つ時の時間帯に、出版社の入口を潜る。此の時間帯は比較的穏やかだ。それでも行き来する者が皆無なわけではなく、今日も忙しなさそうである。
 中折れ帽子の鍔を弾いて、受付の女人に顔を見せる。言葉を発さずとも通されるのは常であるが、今日は普段とは違う。
「後で私の弟子が来る。二之部君という者だ。来たら二階の編集長室に通してやってくれ。」
 そう言うと、愛想の良い受け応えがあった。私は表情を動かさずに、ウンとだけ言って封筒を持ち直す。中身は原稿と、二之部君の短篇である。
 階段を登り、一番手前の大扉。中で喧々諤々の声がしたが、いつもの事である。遠慮していてはいつまで経っても部屋の中に入れない。
三木谷みきたに、入るぞ。」
 形だけの打診ノツクをして、返事を待たずに入室する。左側の扉を開けると、遮られていた音波が全身に降ってきた。
「だからァ! 穴空けるくらいなら担当外れろってンだ。分かっとンのか!」
「そうは言いましても、本当に蒸発してしまった様なのです! 今からでも探して来ますので三日下さい!」
「バカヤロー! それで間に合うと思ってンのか!」
 全く事情は判らぬが状況だけはよく解る。大方、若手が担当している作家が逃げ出して、原稿が手元に届かないのだろう。声も背も大きい奴相手に、若手は良くやっているとさえ思った。
 だが興味があるわけでは無い。良くある事であるし、私は半目で聞き流した。
「三木谷。」
 封筒ごと掲げて何度か振ると、青筋立てた悪友と目が合う。自室でなければ唾でも吐きそうな表情で、若手を雑に追い払った。私に会釈しつつ、大急ぎで退出した辺り、まだ〳〵諦めていない様だが、今回は期限を過ぎてしまう事だろう。
 私は横倒しになった椅子を起こして、勝手に着席した。三木谷に遠慮は無いし、奴もまた私に気を払う事もない。
「御誂え向きの物がある。読め。」
「何だァ。珍しいじゃねえか。普段は原稿だけ置いてさっさと帰る癖に。」
 白髪混じりの頭髪を撫で付け、後ろに流す。先ずは私の原稿を確認する辺り、担当者としては正しい。然し私は焦ったさを覚える。同封している物が早速陽の目を見る事になるのは、確実なのだ。
「オウ。原稿は、確かに。中身もまァ、お前なら問題無いだろう。」
「担当者らしく口を出しても良いのだが。」
「良いンだよ。《久慈四葩》なら、作家買いする層がそれなりに居るからな!」
 金勘定に慣れた人間特有の笑顔で、身も蓋も無い台詞を吐く。長い付き合いである為、悪意は無いのは知っているので聞き流した。そんな事よりも、目の前の物を見て欲しいのだ。
「で、此れは何だ。短篇か?」
「穴埋めには持ってこいだろう。読め。」
「何だ、えらく急かすなァ。」
 三木谷は面倒臭そうに、三つ折りにした原稿用紙を広げた。十枚余りの話であるが、頭一つ抜けていると確信している。証拠に、導入部分を読んだと思しき辺りで奴から億劫さが霧散した。
 暫く、無言で原稿用紙を捲る音だけが響く。怒号に満ちて居るのが常である此の部屋では、天変地異に近しい。
「誰だ。此れは。」
 駄目出しもせず、扱き下ろす事もなく、真っ先に尋ねた。作品を認めた何よりの証しである。
「私の弟子だ。」
「弟子ィ?」
 げら〳〵と笑い声を上げて、革張りの椅子の上で目一杯仰け反った。丸っこくなった指先で、手元の原稿をぱちんと弾き、次の瞬間にはとんでもなく真面目な顔をしたものだから、奴には思考の流れを変える衝立が備え付けられているのだろう。
「何で隠していた。」
 そういうや否や、三木谷は袖机の上から紐閉じされた紙束を床に落として、二之部君の短篇を並べる。四隅を整えて等間隔に置かれた三篇は、丁寧に区分けされ、清められた区域にも見えた。
「隠してなど無いさ。彼は三月にやって来たばかりの大学生だ。」
 奴の片眉が釣り上がる。何かを思案するというより、悪巧みにも近しい。
 図った様に扉が打診された。外から聞こえたのは、二之部君の声である。私が勝手に応答すると、遠慮がちにノブが下がった。恐る恐る開かれた隙間から、利発な眉と瞳が覗く。辺りを警戒する猫にも思え、彼の頭の上辺りに三角の耳が見えた気がした。無論、そんな事はおくびにも出さなかった。
「三木谷、此の書生だ。二之部君という。」
 二之部君は奴に丁寧に頭を下げる。不躾な三木谷の視線が彼に刺さるが、真っ直ぐに伸びた背筋でそれらを叩き折っていった。かと言って、その矢も敵に届く事なく落とされるだけでもない。三木谷は満足気に笑って何度も頷く。背広の皺をはたく様にして伸ばし、席から立った。
「久慈が弟子を取るとはなぁ。三木谷だ。よろしく。」
「お初にお目に掛かります。二之部瑞基と申します。」
 固い握手を交わすが、二之部君の警戒心は強まるばかりにみえた。私は三木谷が何者であるかを説明しようとして息を吸ったが、それを吐くより早く、彼は三木谷をじっくりと鑑定する様な眼差しで口を開いた。
「久慈先生の担当で、編集長で、先生とは昔馴染み……でしたね?」
「嗚呼、そうだ。何だ、君は久慈のフアンかね。」
 私の周辺事情はきっちり調べているらしかった。フアンとはある種、執着を持つ者と呼べる。二人の間に、白い火花が散ったのを見た。三木谷の金儲けから来る胡散臭さに対し、二之部君の警戒心が強まり、その上執着からくる嫉妬心の種が芽吹いた、と言った所だろう。
 私は愈々、態とらしく咳払いをする。目を逸らさずにいる二之部君に対し、年相応に負けん気が備わっていると知った。
「二之部君。君の短篇を全て三木谷に読んでもらった。」
 そう言うと、雨冷えした夜空の如き瞳が此方を向く。今にして思えばあの瞳は怒りを多少含んだものだったと分かる。澄んでいるからこそ、その怒りや期待外れに思ってしまった不愉快さを丁寧に隠せたのだろう。
「どうやら、次の号に穴が空きそうでね。私から君の作品を推薦した。」
 物は言いようだ。実際には、読めと急かしただけである。三木谷がにやりとした笑みを浮かべた事については無視を決め込んだ。
「……、その穴は他の文士希望者や若手に回すべきなのではないですか。」
 三木谷は彼の台詞に、大笑いした。回したところで、此の三木谷がウンと言わねば通らぬ話なのだ。
「久慈の名前と、君の名前が同じ雑誌に載るのを見たくないかね。」
 奴の言葉に、二之部君の心がぐらりと傾いたのは明らかだった。慌てて取り繕う表情を見せたが、編集長たる者がその変化を見逃すわけがなかった。
「申し上げにくいのですが、僕は文藝で食っていく路は考えておりません。」
 私は少々面食らう羽目になった。此れだけ書けているのに、と思いもしたが、他の路が幾つもあれば話を書く事は、お負け程度の認識なのかも知れぬ。大抵の文士希望者は、文字が書けて読めるという部分に於いてのみ自負を乗せ、それが高尚であると信じて疑っていない者も多い。出来る事や能力が備わっているのであれば、話を書くという事そのもの自体は、彼にとって普通の事であるのかも知れぬ。
「馬鹿モン、自惚れるなよ。程々に丁度良いだけだ。長すぎず、短すぎず、主になる話を喰う事も無い。」
 三木谷の言葉に嘘はないが裏腹だ。対岸にいる時の奴の声は裏返すか、身構えずに聞くのが最も分かりやすい。
「要はコレを買いたいンだ。一作につき一圓でどうだ。」
 無名の短篇にしては高値である。金の卵を見付けたり、といった目付きと対峙する彼の出方を、私は観察した。
 扉や窓の外から聞こえる音は殆ど無く、三人だけの世界で静かな火が灯る。より外へ、より内へと炎を拡げようとする、無言の遣り取りは側から見るとよく分かるものだった。
 たっぷり間を取って、二之部君は静かに三木谷を見据えた。
「元より、それは僕が先生に認めてもらう為に、先生にお渡ししたものです。金を貰う為でもない。ましてや雑誌に載る為でもない。此処で僕が三木谷さんから銭を受け取れば、出版社との繋がりが出来るのでしょう。だからこそ、金は要りません。」
 一息で連なった台詞に迷いは無い。私も三木谷も、想像の斜め上を行く答えに大きく瞬きをした。
「僕から貴方への貸しであれば、使って良いです。先生と同じ媒体で名を連ねるのは大変光栄な事ですが、同時に、烏滸がましく感じてしまうのが正直なところです。」
 生意気さを感じさせないのは、苦笑した表情によるものだろう。計算され尽くしているのだとしたら大層侮れぬ。三木谷と二之部君との間に緊迫感はあれど、殺伐とした雰囲気は和らいでいた。
「書生の分際で、面白い! 良いだろう、借りておいてやる。機会があれば掲載するし、好きにさせてもらう。何、つまらん事には使わン。」
 編集長という席に座って久しい奴ではあるが、進んで借りを作る真似は一切してこなかった。そんな奴が、豪快に笑いながら一書生と対話する姿は新鮮であった。大抵の場合は、三木谷が要求をふっかけて、相手がそれを用意するか、妥協案を持ち込むかのどちらかであった。三木谷相手に、要求を突きつける事ができるのは、悪友でもある私くらいのものだったのだ。
「良い拾い物したなぁ、久慈! 楽しみが増えたンじゃないのか。」
 三木谷が私の背中を手の平で叩く。悪い気はしなかった。二之部君を見やると、鼻からゆっくり息が抜けていく心地になる。二之部君は気恥ずかしそうに目を逸らしたので、もしかしたら、此の時の私は笑っていたのかも知れない。
「ともあれ、先程の若手編集者はどうする。走らせた儘か。」
「嗚呼、構わンよ。放っとけ。」
 心の底から忘れ去っていたらしく、奴は面倒くさそうに宙を手で払う。席に腰を下ろして早速仕事をし始めたので、私達は退出する事にした。三木谷に一礼した後も、二之部君は眉に力を入れて胸を張るので、私も幾分背筋が伸びた。
 出版社の建物から外の大通りへと足を踏み出すと、漸く、彼は力を抜いてほっと息を吐いていた。
「生意気を言って、大変申し訳ありませんでした。」
「ハハ、彼奴にはあれくらいで問題ない。」
 深々と頭を下げるので直ぐに辞めさせる。奴の反応に、私は痛快さを覚えたくらいだ。
「気を張っていたのか。」
「それは、もう。」
 陽だまりで寝転ぶ猫の如き顔になったのが印象深かった。彼は目先の利を追う事なく、機転を利かせるだけの瞬発力と聡明さに満ちている。それでも彼は、未だ学ぶ事の多い学生であるのだと、此の時は染み〴〵思ったものだ。
「本当は、喉から手が出る程、欲しくなりました。」
 直球な言葉が心の臓に突き刺さる。私自身が欲しいと言われている様にも錯覚し、頭の中に広がる靄を振り払った。
「名誉かね。それとも、承認かね。」
「何方も。」
 未だ人通りがある時間帯だというのに、雑踏が遠ざかっていく。澄んだ瞳は憧憬に溢れ、私にはあまりに眩しい眼差しであった。
「然し、安請け合いをしては、先生の価値を下げましょう。先生にとって不利益となる以上、僕が欲する物は二の次です。」
 心酔、という単語が水面から浮き上がる。私はそんな立派な人物ではない。かと言って卑屈になり、彼の思いを否定するのも無粋である。
「ああ見えて、三木谷も仕事は出来る奴だ。私にも君にも、良い様になるだろうさ。」
 彼にそう言って、私達は帰路に着いた。背丈は同等であっても、私の側をついてくる彼に、小動物に抱く様な庇護欲を掻き立てられる。
 
 彼をそういった意味で素直に可愛らしいと感ぜられた僅かな期間だった。これ以降、私は彼に対しまた別の感情を持つ事になる。