演舌ノ段

 名を呼ぶ声が頭にがんがんと響く。金属の板を頭の中に埋め、其れを打ちつけているかの様だ。
 歯のぐらつきを舌で感じ取りながら、窓の外を見遣った。真黒な雲がどろどろと流れている。空は低く、漏れる空気は生温い。間違い無くひと雨来るだろう。頭痛は恐らく雨の仕業だ。珈琲を啜り溜息を吐く。此処のカフエの珈琲は頭抜けて美味い。
えい!」
「やつがれの名を気安く呼ぶな!」
 愈々我慢ならず声を荒げた。弾みで目の前が暗む程の痛波は喰らう羽目になる。顳顬こめかみを押さえ憎たらしい同輩を睨むと、呆れた顔をされた。
「何だ、また頭痛か。軟弱め。」
「やつがれと貴様の様な体力馬鹿とを同列に並べるな。」
 女中に珈琲を頼むと、青泉あおいは粗野な素振りでやつがれの横へ腰かけた。つるりとした皮のソフアがきしみ、小机に叩き付けられた奴の掌がバン! と哭く。
「お前、なにゆえ辯論部べんろんぶを続けて休んでいる。」
「民主制の発展を謳っているのなら、やつがれの都合に一々口を挟むな。」
 鋭い音に第二波に襲われたのも相俟って、苛々と奥歯を噛む。ギリリとした音に余計に頭痛がした。目の奥が熱く、眩しさを感ずる程だ。尖った光が舞い、視界の隅で明滅する。
「腰が引けて、デモクラシーもせずに引き籠る積りか。」
「其れと此れとは別だ。第一、何故貴様らと群れなければならん。」
 いくら突き放す言葉で刺したとて、青泉は引いたことが無い。同じ帝国大の政治学科に籍を置くこの男は何かとやつがれに構い、外へ連れ出そうとする。心底鬱陶しいが、次の言葉でそれは吹き飛んだ。
「中央公論の編集主幹、合同演説会に登壇してくれるそうだ。」
 己の目の色が変わったのが判る。にやりと口角を上げるその顔は腹立たしかったが、実に魅力的な人物が釣れた。
「報酬のかわりに、論説を一本書けとのお達しだ。頼む!」
 両手を合わせ拝む体勢を取った。平服するポーズは丸で奴隷が主人に食事を希う姿にも見える。
「貴様らの崇高な頭脳と知恵を絞った結果が、お前を使いに出して、やつがれに願い乞い事とは哀れで憂うべき事柄だが、良いだろう。」
 編集主幹殿の話が聞けるとなれば人も集う。何より自身が興味を唆られる。存分に筆の力を発揮すべく、珈琲の追加を注文した。気付けば窓を叩く雨が降っており、稲光が天で閃いた。



 後に大正政変と呼ばれる倒閣運動によりデモクラシーが一層叫ばれる昨今、各所で民主化を求める時代となった。やつがれは機関紙を通し己の主張を記している。
 露西亞との大戦以降、自国のみならず彼国の内政に目を向ける事こそが先見を得るとした。武力開発が富に進む世の中である。近ぢか、全世界が国を挙げて戦争を引き起こすと踏んでいる。特需と価格高騰が生まれるのは必須であり、その懸念に対して論文を発表した。結果、大学内のみならず機関誌読者で賛否両論、甲論乙駁が巻き起こった。やつがれは其れに、大いに満足している。その点だけに関しては。
今は只管に苛々としている。苛み過ぎて本を二周した。何の実も結ばぬ議論は、只の騒音である。
立科たてしな、聴いているのか!」
「何も。」
 辯論部では喧々諤々の議論の最中であった。本から視線を逸らさずに、投げかけられた問いを切って捨てる。部長の城島きじま先輩は、びきりと青筋を立てた。余りにも直情的な反応だったため、少し煽ってやりたくなる。
「今のが辯論と申しますか。各々が言いたいことだけを吐き捨てるだけで、全く以て話にならぬ。」
 其の一言で辯論部全体が氷結き、刺殺されそうな視線が集まった。さりとて、たかが駑馬どば共の威嚇に過ぎない。何の脅威にもならず、意識せずとも鼻から息が漏れた。
「流石は銀時計候補。お前の考えを聞こうか。」
 少々否定された程度で、直ぐに怒りで顔を赤くするなど、哀れにさえ思えてくる。これが日本帝国の未来を担う人材だというのだから、先の未来を愁いたくもなる。
「では、そもそもの所から始めましょう。民主とは、一体何か。」
 思い切り教授ぶった身振りで椅子から立ち上がる。教室の一つを借りて行っている活動なのだ。少々実りを持たせなければ、態々場所を貸し出してくれている先生方にも示しがつかぬ。
「国家主権が国民にあること? 自由平等の権利に基づいていること? それは否だ。本来はその様な意味合いではない。」
 訝しげな顔をするメンバアが愉快だ。廿余名の部員は殆どが愚にもつかぬ輩などは歯牙にもかけぬ。その中でも秀でている者らに目配せをして話を展開していく。
「単語から考え給え。デモクラシーの語源は何だ。青泉。」
 窓側に立つ青泉を指名する。体育会系の体躯であるが――腹立たしい振る舞いには目を覆いたくもなるが――、その実、優秀である。暑苦しく直情的ではあるが智識量に舌を巻く。奴は眉をひとつ動かして何でもない様に答えた。
「ギリシア語のdemokratiディモクラティだ。」
 その通り、と拍手をする。彼には簡単すぎる問題であった。更に分割しよう、と黒板に綴りを書く。
demosディモスは大衆、Kratiaクラティアは政治制度を意味する。」
 良いか、諸君。良く通る声で呼び掛ければ、先程までの殺意の視線は殆ど和らいでいた。
「デモクラシーは思想ではない。機構なのだ。制度、仕組に過ぎない。」
 要は、その制度を敷いただけでは意味がない。その本懐を理解した上で運用せねば、折角民主化したとて忽ち形骸化してしまうのだ。
「制度が、潤滑に、円満に、申し分なく発動するには何が必要だろうか。安賀多あがた。」
 チョークを持つ手で痩せ細った骸骨の様な見てくれの男を指す。同輩であり、吃り癖があるがそこそこ頭の回転が良い奴だ。
「え、あ、そ、その制度が良しとされる世論と、指導者……かな。」
 ワカメの様にうねる前髪を弄る。奴の癖だ。自信なさげな声音であったが、不正解ではない答えが出た。やつがれは、ニヤリと笑って頷く。
「それも不可欠だ。だが決定的なものでは無い。」
 チョークを置いて手を払う。少しの間を置けば、其々に思案している素振りが見て取れた。其処へ更に石を投げ込む。
「世間は何から出来る? 指導者はどこから出る? もっと単純な事だ。何だと思われますか、灰藤はいどう先輩。」
 脚と腕を組んでジッとやつがれを見る灰藤先輩を指す。彼はこの辯論部の副部長であり、実質のオーナーであった。辯論部は彼の家から金銭的な部分を含む支援を受けており、活動報告を彼を通して上げている。
 切れ長の目は知性に輝き、薄い唇が確信を持って開いた。
「……思考する民衆、か。」
「その通り、流石は灰藤先輩!」
 如何に灰藤先輩が資金の大本であろうと、部員には変わりない。彼にゴマをする必要もなければ顔色を窺うことも不要だ。だからこそ、自身の考えをぶつけ、こちらに引き込むことが大事なのである。彼は少し表情を崩した。
「国民一人ひとりが、我が事の様に国を思い、政治が自らの生活と同義であると感ずる必要があるのだ。我々の様にな。」
 真の民主化を願うのであれば、民衆がおしなべて思考せずして始まらぬ。無暗に自由を求め、それが手放しに享受出来る権利であると勘違いしようものならば忽ち衆愚政治に陥り、国家は瓦解するだろう。
「衆愚では話にならぬ。然し国家にとって、衆愚ほど扱いやすいものはない。ならば、国民の衆愚化をさせるには? 城島先輩。」
「洗脳教育か。とどのつまりは。」
 低く唸る声であった。我々が施されている教育がもしやすると、という疑念が芽生えたのかもしれぬ。
「確かに効果的でありましょう。では洗脳教育が齎す物は? 嵯峨崎さがさき。」
 後輩である嵯峨崎は姿勢を正して立ち上がった。利発そうなキリとした瞳と眉に力が込められている。
「善悪の価値観や道徳的事象の正誤を一定化するものであると考えます!」
「もう一歩……いや、大枠で捉えて欲しい。その価値観を植えた後の国民は、一体何を与えられる? 続けて。」
 砂時計の内容物が静かに落ちていく様だった。嵯峨崎は瞳を静かに閉じ、三秒ほどで口を開く。
「均一な……いうなれば、【役割】 であると思われます。」
「素晴らしい! 後で酒を奢ってやろう。」
 満点の答えであった。彼は満足気に頬を赤くし、一礼して着席する。素直な表情に、可愛い奴だと思った。
 身振りを大きくして教壇の前へ歩み出る。
「均一な役割により、人はその範囲だけを意識する様になる。自らの行動や思考の範囲を限定する。
 そうすると、どうなるか。日々の生活だけを考える様になる。食う事を考え、食う為に働く事を考え、働く為に尊厳をもつ。その尊厳を適度に満たしてやれば、人は国に興味を持たなくなる。
 立派に生きる愚民の出来上がりだ。」
 シンとした空気が心地良い。やつがれの辯論に聞き入っている証拠だ。一つ呼吸を置いて声のトオンを下げる。
「……衆愚から脱却させるには思考が必要だ。ではその思考の基は、何処からやってくる?」
 特に指名せず、答えを待った。次々に手が挙がる。
「勉学や知識が必要だと思われます!」
「不正解ではない。無学よりも、学があるほうが思考に優れる。火を見るより明らかだ。だが、それその物では無い。」
「主義、主張を持つ事であります!」
「否だ。それはもう一つ先の話に過ぎん。他にないか。」
 活発となる答弁に、やつがれは笑む。満面に。軈てああでは無い、こうではないと騒ぎ出す。
「此れ迄の話の流れを考え給え。小難しくも、ややこしくも無い話だ。」
 我々がせねばならぬ事は議論を立て、それについて各人が思考するに至る切欠を見出す事である。
「疑問を持つことであると考えます!」
 一人が漸く正解を言い当てた。その通り! やつがれは惜しみなく拍手を送る。周りもつられて手を叩くが、拍子抜けした面々が目に入る。
「思考する切欠となるのは、いつだって疑問を持つことだ。古代哲学の時代から人間の質は変わらぬ。」
たったそんな事を見落とす事が、どれ程の過ちを産むか、想像するといい。そう付け加え、教壇に両手を付いた。旗でもあれば、演説会にも見えよう。
「我々は、心に抱えておかねばならない。」
文節を区切り、石を一つずつ落とすが如く発音する。
「我々は、本当に間違っていないか、を問い続けねばならない。正しいか、ではない。間違っていないか、だ。」
再び静けさを取り戻した講堂は、やつがれの呼吸音さえ響く。
「やつがれの思う民主は、思考する民衆にある。
 自らの暮らしの中の利益や損得ではなく、この暮らしが間違いの上に成り立っているものではないかと、思案する国民にある物である。
 自らの仕事の数や成果ではなく、その仕事の大元が、不義なる輩が糸を引いているのではないかと、疑う国民の中にある物である。
 自らの主義や主張が、心根の感情や快楽によるものではなく、模範を示す灯台の明かりであると、認識しなおす国民の中にある物である。」
 以上だ。そう締め括ると、喝采が沸き起こる。それと同時に校内の鐘が、滞在時間の期限が迫っていることを報せた。
「此れで、宜しいでしょうか。城島先輩。」
「……お前はもっと、この部に参加するように。」
「努力はします。」
 おおい、嵯峨崎。酒を飲みに行こう。そう声をかければ、何人かが連れたので、やつがれ等は呑み屋街へと繰り出した。