安飲み屋街で飲み食いし、ハシゴして行きつけのバアへ。
メンバアは青泉、嵯峨崎、安賀多、灰藤先輩、城島先輩であった。城島先輩は既に半分潰れており、灰藤先輩と青泉とで肩を貸している。
「たてしなぁ、お前、もっとお前は、できるやつだろぉ。べんろんぶ、お前にまかせてやれんだろぉ。」
先程から垂れ流されるのは専らやつがれへの文句である。任せられないも何も、任せてほしいだなどと言ったことはただの一度も無い。
「……連れ帰ろうか。」
「灰藤先輩が飲み足りぬのに、其の様にする必要はありませんよ。幸い部長は文句垂れなだけで、無害ですから。」
六人掛けの席が空いていたので、一番奥の席に部長を詰め込んだ。水を置いておけば勝手に飲むだろう。その隣に灰藤先輩、またその隣に安賀多が座る。やつがれは灰藤先輩の向かいに腰掛け、左に嵯峨崎、右に青泉が座った。
一様に電気ブランを注文した。此処ではいつもそれを頼んでいる。ゆっくりと含み、なるべく安く、長く飲むに限るのだ。
酒気を帯びた体温を逃すべく、洋シャツの釦を外した。天井を仰げば、煌びやかな照明が目を焼く。瞬きを何度かし、カウンター席横の壁に視線をやると少々不気味な絵が目に入る。ハテ、あんな絵があっただろうか。
見覚えのないものだが、迫るものがあった。何かの複製画だろうか。何にしても立派であった。
「青泉、あの絵は何という?」
「さぁ……。美術学生の作品じゃないか?」
青泉も知らぬとくればそうなのかもしれない。薄墨桜を背景に青白い男が大口を開けている絵だった。異様に伸びた口からは不揃いの歯が覗き、どれもこれも抜け落ちそうだ。やつがれは知らず知らず、舌で歯の有無を確認していた。ぐらつきが大きくなった心地がする。店の雰囲気と全く合わぬが、然し他の客は誰もその絵について気に留めていなかった。
「立科。次の
灰藤先輩が運ばれてきた酒をグイと煽り、そう尋ねてきた。次の、と言うのは恐らく合同演説会のために書く物を指しているのだろう。
「最も民主制度に興味があるのは、力ある商人でしょう。其方に目を向けようかと。」
今の制度では軍人しか国政運営に携われぬ。躍進を狙う輩に民主化を願う者は多い。灰藤先輩の眼つきが厳しくなる。
「
「
彼は資産家の息子だからこそ財力ある者の参入を拒む傾向にある。碌な家訓も持たずカネだけを持つ権力者を嫌うためだ。
「成金が持つ力を無視できぬというだけです。彼等は政治家の後ろ盾になりたがる。であれば、其れを選ぶ基準について呼び掛けぬことには益々、利潤追求に走るでしょう。」
マドラアで混ぜる。氷がぶつかりカラカラと鳴るのを楽しみながら、微かな渦を作る。
「端的な利潤追求に走ればどうなるか。薬物が間違いなく登場するでしょうね。日本が阿片窟になるのは勘弁願いたいことですし。恐らく医療目的外の薬品使用を取り締まる法が、この先出来ることでしょう。然し其れだけでは抑制にならない。モラルと彼等の尊厳を同時に満たす為の指針が必要なのです。」
酔いもあってか口が良く回る。
「何に手を出せば損をするのか。何が得を生むのか。何が恥となり、何を正義とするか。彼等は更なる名声とカネを求めます。その為の情報と先見は喉から手が出るほど欲するでしょう。ならば、我等の機関誌に其れ等が見出せると印象付けてやれば良い。」
「金儲けの臭いを振りまくと言うのか。」
「其処までは言いません。ですが、民主化を狙うのであれば影響力ある頭数を先ずは集めねばなりますまい。第一、國民であれば自由を願う権利があるのです。我等にも老若男女、職業貴賎なき國民の幅が無ければなりません。其れを欠いて、果たして民主的と呼べましょうか。」
緊張感ある空気であった。暫しの沈黙が横たわる。バアは盛況であり騒がしい筈だが、我等の空間から遠ざかっていた。
「……綺麗事だけ、考えている訳ではないと言うことか。」
灰藤先輩は静かに笑い、酒を再び煽った。一先ずは納得して貰えたらしい。やつがれも口角を上げ、一口飲んだ。
「たてしなぁ、お前、はいどうはぁ、あぁ、
潰れた城島先輩から発せられる間抜けな寝言に一同噴き出す。呂律の回らぬ酔っ払いでありながら、先輩然とあろうとする台詞であった。
「お前がそんなだから、私がしっかりせねばならんというのに、全く気楽な奴め。」
少し寝ておけ、と灰藤先輩が部長の頭を撫でると、日本語にならぬ声をぶつぶつと発し、本格的に寝入り出した。
「城島先輩と灰藤先輩は、仲が良いのですね。」
嵯峨崎は朗らかに笑う。というよりは灰藤先輩が世話役に回っているだけだと思ったが、口には出さずにおいた。
「放っておけないのさ。
愉快そうに笑う灰藤先輩から、普段感じ取る氷の様な冷たさは無かった。懐いている大型犬を眺めている風にも見え、嗚呼やつがれも酔って来ているな、と頭の隅で思う。
「分かります。永も放っておいたら其処ら中、敵だらけにして危なっかしいったら。」
ポヤンとした気分を味わおうと思った矢先、聞き捨てならない台詞が耳に入る。
「待て。丸でやつがれがお前に世話になっている様な言い種だな?」
「全く、俺がどんだけ火消ししている事か。少しは感謝もして欲しいモンですって。」
「おい待て。何時、何処の、何の話だ。」
肘で小突くが青泉はどこ吹く風であった。奴とは一年生の時からの付き合いであり、奴が言う様な揉め事などない筈だ。精々、やつがれの議論に付いて来れず癇癪を起こした小物が喚いていた程度である。
「分かるとも、
「灰藤先輩……!」
「庵野先輩と立科先輩は、竹馬の友に見えます。」
「嵯峨崎ィ! 今すぐその認識を改めろ!」
味方が居らぬ。残ったメンバアである安賀多とバチリ、と目が合った。
「安賀多。お前は違うよな。」
「えっ、あっ。」
ズイ、と身を乗り出せば、安賀多はヒイ、と情けない声を上げて仰け反った。
「何だ。お前まで、やつがれとこの粗野な輩とが友人に見えると?」
「そ、それはっ、なんっ、何と、いっ言えば良いか……。」
突っ伏す様な姿勢で下から安賀多を無言で睨む。ゴクリ、と奴の喉が上下に動いた。生唾飲む程、気を遣うと言うことか。無言は肯定とも捉えられるし、やつがれは一層、奴をじっとりと見遣る。
「あっ、た、立科君と庵野君、みたいな間柄に、なっ、なりたいと思ってる人、多いよ、うん。多いとも。」
「はっ?」
部長の寝言より間抜けな声になった。若干裏返ってしまったが気に止める暇も無い。安賀多はモジモジとしたかと思うと、ガタついた歯を覗かせて笑う。
「気心知れた、というか、その、ボクは羨ましいなっ、て。」
羨ましい? 青泉とやつがれの間柄が? 何かと大声でやつがれを呼び立て、デカい図体しているのを良い事に半ば力付くで彼方此方に連れ回されるというのに?
「そうそう! そうです。お二人見てると、信頼し合ってるなァと思います!」
割って入る嵯峨崎は満面の笑みであった。嗚呼、此奴も酔っている。電気ブランは本当に酔いが早い。
「勘弁してくれ。全く。」
毒気が抜けた。チビチビ飲もうと決めていたが、素面であるのが急激に莫迦らしく思え、喉の渇きを潤す為に一気に煽る。
「そういえば、何故、立科先輩は、庵野先輩を下の名前で呼ぶのですか。」
「此奴が気安くやつがれの名を勝手に呼ぶからだ。不愉快な事に。此奴が名で呼ばぬならやつがれも庵野と呼ぶさ。」
「良いだろうが。名前くらい。」
「許可した覚えはない!」
笑って誤魔化す青泉の背を思い切り叩いたが何の衝撃も与えられなかった。寧ろ此方の手の平が痛い。厚い胸板や逞しい肩が憎らしい。背丈も
「なら、永先輩とお呼びして良いですか。」
「はっ?」
二度目の裏返った声であった。紅潮した頬は愛らしさに溢れていたが、目付きが気に入らぬ。どろりと熱に溶けた形をしていた。
「僕の事は
「却下だ。」
「そんな、永先輩、良いではありませんか!」
「奢らんぞ貴様ァ!」
ゲラゲラと笑う青泉の声が耳を突く。奴どころか、灰藤先輩も安賀多も下を向いて拳や肩を震わせていた。
正気を失くしつつある我等の夜は更けていった。
◆
翌日。
青褪めた嵯峨崎から調子に乗ってしまった事の詫びとして土下座をされるわ、城島先輩は記憶を飛ばしてているわで、全く調子の狂う一日であった。
そうでなくとも今日の辯論部は、何処かソワソワとした雰囲気であった。執筆に向け構想を練ろうと考えていたが、どうにも部室が落ち着かない。名を覚えておらぬ連中であったが、無言でモゾモゾ動き回られると気になる。我慢ならず尋ねた。
「おい、君達。何をそんなに、無意味に歩き回る。気が散って敵わん。」
「あっ、す、すみません!」
見れば雑巾や箒を手にしている事が分かった。
「何だ、掃除だったのか。寧ろ此方が邪魔であったな。」
邪険な台詞を吐いてしまった事を撤回する。立ち上がり、図書館へ場所を移そうと考え、身支度をしようとしたが止められた。
「い、いえ、急ぎでは無いのです。今日、
「柳さんが?」
やつがれはその名に眉を顰めた。辯論部中の、憧れの的である人物の名だ。
「彼女とは喫茶店で限られた人間での打ち合わせだったかと思うが。」
「いえその、万が一、です。男所帯の、こんな所へ来るとは思えませんが……。」
何とも歯切れの悪い言葉であった。首を傾げたが、集中出来ぬのは事実だ。外套を引っ掴み、雑に羽織った。
「よく分からぬが、掃除するのは良い心掛けだ。任せたぞ。」
笑って労いの言葉を掛け、廊下に出れば何故かはなやぐ様な騒ぎが起きた。彼女の影響力は侮れぬ。ずぼらな連中が掃除をしだすくらいなのだから。生活に減り張りを付ける者達はまだ良いが、さて緩みっぱなしの面子の顔を浮かべ、溜息を吐いた。
◆
柳
公爵家の次女であり、正真正銘の貴族である。歌人として活躍しており、利発な女だ。機関誌を新たに打ち立てる話を彼女から持ちかけられ、辯論部は其れを快諾した事から付き合いが始まった。
「今日和。」
涼やかな声音で耳心地が良い。着物は淡い桃色と薄青のグラデーションで、甘くも賢い彼女を一層輝かせている。才女であり、美人とくれば、帝国大学を誇る男衆だとしても色蜜に飢えているのには変わらぬ。誰しもが彼女に惹かれている。やつがれも悪いようには思っていない。
然し、彼女から名を呼ばれるだけで浮き足立つ雰囲気をどうにかせねば成らぬと頭を抱える。
「柳さん。此方へ。」
城島先輩が真ん中の席を譲る。鼻の下を伸ばした辯論部部長に正拳突きを喰らわせたいが、生憎やつがれは武闘派ではない。咳払いを一つして気を引き締めた。
「今月の機関誌です。意見を述べて欲しい。」
「もう目は通してありますわ。嗚呼、女給さん、烏龍茶を一つ。」
慣れた風な仕草は高貴であった。間違ってはならぬ。彼女は既婚者である。石炭事業で財を成した一族へ嫁入りしているのだ。
だと言うのに、この、我が部長はでれでれと!
「流石、柳さん。いかがでしょう、再来月の辯論合同会は此れと来月号を軸にする予定なのですが。」
美しい物に夢中になる気持ちは理解出来る。美しい物と関わると、何故か誇らしい心地がするのも、まぁ解る。だが彼女は理性でコントロールすべき対象であり、何せ辯論部全体が其の様な不良であると十把一からげされては困るのだ。
「今回の対象読者が、良く見えませんね。常に新たな読者を掴んでいく意識が必要に思えます。」
鋭い切り口からの意見は有難いものだ。女子が生意気に、と思わなくもないが、実際に優れている人間の意見には耳を傾けるべきである。
「前号や前々号、または次号に跨るものは連載という形を明確に。それから、知識が無くとも理解出来るものが一つあれば、より良くなると思いますわ。」
赤鉛筆で書かれる達筆な文字に一同目を奪われる。流れる様な言葉、明瞭な説明と共に書き加えられる
一刻ほどの打合せはあっという間であった。皆、彼女と出来る事なら酒でも一杯、と考えているだろう。やつがれはその様な助平心が透けた事には興味を持てず、そっとその場を抜け用とする。
「立科さん。この後、お時間ありまして?」
だがそれは渦中の麗人に阻まれた。一同の視線が此方に集まる。恨みがましく睨まれたとて、やつがれにその気は無い。面倒げな表情を隠さず彼女に応じる。
「図書館へ赴くくらいですが、何故?」
「少々、案内して欲しい所が。」
「生憎、この辺りの土地は詳しくないのです。上京組ですから。」
「いえ、立科さんがご存知の処へ行きたいのです。」
頭の中がクエスチョンで埋まる。この女は一体何をやつがれに求めているのか。単に話のやり取りをしたいのならこの場でも良いが、場所を変えたいと暗に言っているのだろうか。
「二人きりでは体裁も悪いでしょう。青泉、付き合ってくれるか。」
「嗚呼……。構わんが。」
まだ夕方であるが、いつものバアは空いているだろう。特にエスコオトもせず歩みを進めた。
喫茶店の
◆
あの絵をぼんやりと眺め、時間を遣り過す。
青泉と柳さんは議論に夢中であった。主に女性の立場やその教育、潜在的な差別についてである。何方も話し方は穏やかではあるが、決定的に相容れない部分があった。
「では、庵野さんは女性は選挙権を持つに至らないとおっしゃるのですか?」
「一概にそうではない。只、時期尚早であると申しています。選挙の為には教育性差、職業性差を無くさねばなりません。」
先程から堂々巡りである。殊に女性は女性自身の立場もあってか、この問題に対してやや過敏になる気がある。当事者であるのだから仕方ないとは言え、幾分飽きてきた。
「立科さんは、どうお考えでして?」
此方に議論のボールを投げられた。正直面倒である。
「……職業性差、教育性差がある程度在るのは、仕方ない部分ではないかと考える。然し、その差は性別ではなく父性や母性の調和によるものであれば、理想的だろう。」
柳さんを連れての来店であるため、電気ブランは飲めない。昨日ほどの調子は出ず、今日は厄日であると決め付けた。焼酎の水割りは悪酔いしそうな臭いがする。
「女性が選挙に参加する事で何が得られるか。國民を大別した際の、もう半分の意見が反映される事になる。そう考えれば女性の参政も無視すべきではない。」
グラスの縁、彼女の襟元、青泉の耳、テーブルの水滴。視線が彼方此方に散る。集中出来ていない。例の絵が再び目に入り、意識的に視線を其処へ固定した。
「青泉の言う通り、時期尚早ではある。然し呼び掛けぬ事には始まらない。選択する自由を設け、個人で思考できる訓練を教育に取り込む他無いと、やつがれは考える。」
何とか思想を言葉として着地させる事が出来た。何時もより鈍さはあるが、矛盾は無い。
「今は呼び掛けを続け、女性全てに気付かせる段階だろう。現状についておかしな所があると知らせるべきだ。方法は何でも良い。女性が好んで読む雑誌や小説などを通しても良いだろう。」
月並みな……というより、玉虫色の答えである。然し尽くす手が現時点で無いのも事実だ。自らの答えに少々苛立ちもするが、其れよりも青白い男の絵を眺めるほうが、気分が乗る。
やつがれの答えの後、二人は更に二、三言交わし、納得したように頷いた。
「区切りも良いし、お暇いたしますわ。今日は有意義なお話が出来て、大変感謝しております。」
「いえ、こちらこそ。女性からの視点は新鮮でした。おい、永も。」
二人に倣い、やつがれも彼女の握手に応じる。不意に彼女が顔を近づけた。
「立科さんは、洋食はお好きかしら?」
「ええ、まぁ。」
「行きつけの洋食屋へ、今度ご案内致します。」
こっそりと耳元で囁かれる。女子特有の柔らかな
「……青泉、送って差し上げろ。やつがれはもう少し飲んで行く。」
まずいだろう、此れは。此の人は一体何を考えているのか。
絵に目をやる。先ほどより近づいたので細かい部分の色の変化が
大口を開けた男の目は霞み、鼻も明瞭ではない。衣服は洋シャツ、背景は黒と青が混ざった闇しかない。生々しく描かれた口内が余計に引き立つ構図だ。よくよく見れば口端は耳当たりまで裂けていた。苦悩か、痛苦か、激しい悩乱の内にある瞬間を切り取ったかの様な絵にますます惹かれていく。
耐えきれず、店員に絵について尋ねてみれば、最近画家志望の若い男が持ち込んできたものだという。情けも込めて何枚かを購入した内の一枚であるという。
「あの絵を譲ってもらえないだろうか。」
殆ど無意識に言った。元々、欲しい人間が現れたら譲るつもりであったらしかったので、すんなり話が付いた。礼も兼ねて、電気ブランを注文した。
今日は調子が狂う一日であったが、最後に良いことがあったと思えた。芸術の類には疎いが、心惹かれるものが手に入るのは満たされる。
ピリリとする酒が何時もより美味かった。