彼女の草履を持って、やつがれは最寄りの派出所へ赴いた。大通りから程近い其処へ行くには、どうしたって人目についた。泥塗れのやつがれを見る視線は明らかに不躾なものであるが、何も感じない。
目的地に着いて直ぐ、警官らも異様な出で立ちをしたやつがれに仰天していた。近くの庭園で入水自殺が、と告げるや否や、一人は現場へと慌たゞしく駆けて行った。
煉瓦造りの狭い建物の中、茫然自失とした儘であった。視界は狭く、周りは妙に静まっていた。単純に、周囲の環境音さえ耳に入っていないだけであったが。
やつがれはもう、終いである。矢張り死ぬべきであった。由芽子さんは死んでしまったと云うのに。
彼女の死と直結して、やつがれと由芽子さんとの関係も明らかになる。不良と指差されれば演説に耳を傾ける者も居なくなる。
学校を追われるだけでなく、凡ゆる活動団体団体から白い目を向けられる。そうすれば、やつがれの存在意義は失われたも同然だ。
由芽子さんが居ない。その上やつがれ自身の立場も無い。そんな現実に留まる理由など、皆無である。
やつがれは表情を動かさぬまま泪を落としていたらしい。不遜な態度を取るのが常の警察官に、茶を出される。若そうな此の警察官はどうやら下っ端の様だ。おろおろと此方の様子を伺っている。
学校と名前を告げ、死んだのは柳由芽子さんだ、と呟いた。
警察官は顔を真っ青にした。大事件じゃないか、と溢すと、紙と筆を持ち出してきた。
此処で全てを白状すれば、断罪されるだろうか。何もかも手放してしまいたい。命を捨てる事が出来ぬ腑抜けに一体何の価値があると言うのだろう。否、命が捨てられなかったのなら逸そ、自らの価値や立場を投げ出すくらいはせねばなるまい。
「その草履は?」
汚れ一つなかった草履は、やつがれが触れたせいで泥に塗れていた。羽織と同じく薄藤色をしており、鼻緒には紫色の糸で、繊細な藤の刺繍が施されていた。
水面に揺れる最期の情景が脳裏に焼き付いて離れぬ。瞬間的に蘇った藤浪に唇が強張り、やつがれは机の上に崩れた。
やつがれはわっと泣き喚く。幾ら後悔しようとも何の解決にもならない。
今更何をしたとて由芽子さんは生き返らぬし、やつがれが死に損なった事実に変わりはないのだ。
「永!」
「立科先輩!」
聞き慣れた音と声が聞こえる。やつがれは反射的にその方を見れば、汗だくの青泉と嵯峨崎が駆け寄ってくるところであった。
「馬鹿野郎が!」
到着するや否や、青泉から強かに頬を打たれ、椅子から転げ落ちた。突然の衝撃に真面に受身も取れなかった。
「何故助けられんかった!」
「止めてください、庵野先輩! 僕達も同罪でしよう!」
胸倉を掴まれ揺さぶられる。目を白黒させていると、厚みのある唇がパクパクと動く。
『話を合わせろ。』
辛うじて言葉の判別はできたが、其れだけだ。何も反応出来ぬ状態で、青泉に乱雑に立たされる。ジンと痛む頬が熱を持った。訳も分からぬ展開に脳味噌は更に役立たずとなった。
「俺達は帝都大学、辯論部の者です。……慌てず聞いて頂きたい。今回の件、実は密やかに情報が入ってきていたのです。」
青泉は何を言っている? 何の話をしている? 情報? 一体何の事だ。
「支援者である柳由芽子さんが、自殺を仄めかしていると。」
その一言で、青泉が何かでっち上げようとしている事は明らかだと判った。
「お、おい!」
腕を掴み揺するがビクともしない。青泉は簡単に振り払った。反動で再び転倒しそうになるのを嵯峨崎が受け止める。交互に二人の顔を見たが、何方もやつがれと目を合わせない。
「其処で僕達は、彼女が居そうな所をここ最近見回って居ました。柳さんには世話になっておりますし、柳夫人も有能な方ですから。」
嵯峨崎はやつがれを支えたまま、そう補足した。
嘘だ! 出鱈目だ! 二人に由芽子さんについて話した事など、一度たりとも無い!
「つまり、柳夫人の自殺を食い止める為、辯論部は見回りをして居たと?」
「いえ、辯論部でも情報を得たのは三人だけです。多くの人間が知れば、それだけ秘密裏にすることは難しかったので……。」
違う! 違う! 彼女は人前に弱気な姿勢を一切見せず、耐えていたのだ!
真実が闇へと転がり落ち、替わりに全く別の話がすくすくと育っていく。
「つまり、立科さんが柳夫人の自殺を目の当たりにし、助けに入ったが叶わなかったと。成る程、それで憔悴していたのですか。」
「違う、やつがれの所為だ! やつがれが彼女を殺したも同然なのだ!」
やっとの事でそう叫んだが、正気を失した様に見えるやつがれに説得力などは微塵も無い。こみ上げる自責の念と、為果せられなかった事実、話の乖離を埋めるのに必要な言語が見つからない。支離滅裂になればなるほど、警官は赤子を宥める時に見せる顔付きとなっていく。
「落ち着いて。そういう事であれば誰もキミを責めません。」
やつがれは膝から崩れ落ちたが、嵯峨崎は其れを許さず、身体を背後から抱えた。ダラリと下がった腕から草履が落ちる。
「それから……。柳夫人が自殺など、その……。」
青泉は声を潜め、苦虫を噛み潰した様な顔をして呻く。警官は何かを察したのか一つ頷いた。
「此の件は慎重に調査するようにします。事故という可能性もありますから。」
耳を疑った。
絶句とは此の事か。彼女への尊重は何もなく、彼女の苦悩について誰も知る事はなく、彼女自身が無かったことにされていく!
「違うんだ、やつがれが……!」
「立科先輩、大丈夫です。落ち着きましょう。」
羽交い締めとまではいかないが、嵯峨崎はやつがれを引き留める。茫然と見あげれば、正しい行いをしていると信じて疑わぬ真っ直ぐな瞳をしていた。
「俺達は大抵は学校に居ます。庵野と嵯峨崎、立科と言えば分かります。何か聞きたい事があれば其処へ。もう直、休みとなりますが連絡して下さい。」
紙切れに走り書きを認め、其れを手渡す。此の儘では、此の儘ではいけない。真実から程遠い事実が根付いてしまう!
「立科君。あまり自分を責めすぎない様に。事故であろうと自殺であろうと、助けに行ったキミが気に病む必要は無いからね。」
新米警官は見当違いな柔らかな笑顔を寄越す。やつがれは現実が真実から剥落していくのを実感し乍ら、何も言葉に出来なかった。
癇癪を引き起こし、歔欷の声を上げたが、引き摺られる様に庵野家へ連れられた。
由芽子さんは、由芽子さんは!
美しく閉ざしたのだ、邪魔をするな!
如何に目を見開き、叫ぼうとも、最早手は届かなかった。
◆
人払いされた青泉の部屋で、大いにやつがれは荒れた。
「巫山戯るな、巫山戯るな! お前ら、何をしてくれたのだ!」
奴等に摑みかかったが、二人は何も言わなかった。胸を叩いても、頬を打っても、黙っていた。
「彼女の最期を汚す真似までして、貴様ら何をしたのか、分かっているのか!」
手当たり次第物を投げる。頭を掻き毟り、床を叩いて爪を立てた。爪が更に割れ、指先から再び出血した。
長らくそうしているうち、軈て激しい疲労か襲いかかる。虚脱と喪失は凄まじく、やつがれはみっともなく泣き伏した。
「……知っていた。お前と柳さんが、特別な間柄になっていた事を。」
泥塗れの儘であるやつがれに、視線を合わせる様に二人は膝を折った。
何故、と呟けば、嵯峨崎は深い溜息と共にやつがれの髪を指で梳く。
「僕の部屋にいた頃から、手紙のやり取りをしていたではありませんか。それに、手紙の一つを庵野先輩に預けっぱなしにしていたでしょう。」
読んでいたのか。やつがれと、由芽子さんとの手紙の内容を! カッと頭に血が上り、嵯峨崎の手を勢いよく払う。二人を強く睨みつけたが、青泉は構わず続けた。
「手紙から自殺を匂わす物はなかった。だが、……調べを付けていたんだ。今の二人から可能性としては十分にあり得る事だった。」
苦々しい顔色で青泉は目を逸らす。自らがした事を恥じているらしかった。
「だから、貴方の部屋に手紙があったのを見て、焦りました。真っ先に庭園に向かっていた所、通りがかりの派出所で貴方を見付けた。」
余計なお世話だ。要らぬ詮索だ!
青泉の名を叫んで責めたが、首を静かに振り、再び目を合わせた。
「庭園と病院くらいしか思いつかなかったから……、その。運が良かった。間に合って、良かった。」
「何が、良いものか!」
その台詞にやつがれは愈々我慢ならず、立ち上がって青泉の頬を蹴り飛ばした。
「由芽子さんは……、あの人は! 気高く死んだのだ! 其れを貴様等は踏み躙り、挙句の果てに事実を捻じ曲げた! 赦されない事だ!」
転げた状態の青泉を見下し、怒り心頭に叫ぶ。暫く、二人は無言となった。
「お前はどうするつもりだったんだ。」
低く這う声が青泉の物だと理解するのに、半拍遅れた。ゆっくりと立ち上がり、やつがれとの距離を一歩ずつ詰めて来る。
「どうせお前の事だ。馬鹿正直に白状して、大学を辞め、辯論部を後にし、田舎にも戻らず死ぬつもりだったんだろう!」
徐々に強くなる語尾に気圧される。そして青泉の読み通りであったのもあり、やつがれは呼吸も忘れる。異様な威圧感を放つ奴から、目を逸らせなかった。
「お前が、お前が死ぬくらいなら! どんな手を使っても生かすに決まってるだろうが!」
胸倉を掴まれ揺すられる。双眸から涙が流れ、瞳からは葛藤が見て取れた。
「僕も同意見です、先輩。貴方は、僕等の星なのです。……死ななくて良かったというのが本音です。」
嵯峨崎は自身の胸を掴み、安堵の声音でそう漏らした。
嗚呼、仕損じた。
許容量を超えた脳内が静かに囁いた。
やつがれは何を誤ったのか。由芽子さんと心中しようとした事か。不貞の道を進んだことか。二人を惑わした事か。それとも安賀多に陵辱された事か。
否、逸そ。やつがれが此処に居る事そのものが——。
「何を、莫迦な。詭辯を振るうな! やつがれは実際、……!」
彼女を愛していたのだ!
そう叫びたかったが、青泉の手で口を塞がれる。
「……あの人への行き過ぎた想いは、過ちだったんだ。そう思え。」
喉奥に岩石を捻じ込まれた気分であった。
「だから彼女は死んだ。寧ろ彼女がお前へ好意を示したのが切っ掛けだ。柳さんには悪いが、お前もある種、被害者だ。」
聞き覚えのある言い分と台詞だった。其れはやつがれが青泉に向けて言った事があるものだ。安賀多の呪いと称し、我等は被害者であるとした、カフエでの一幕を鮮やかな記憶として反芻する。
死人に口なしとしたのは、自分自身だ。死者に原因を擦りつけ、碌に己を振り返りもしなかった。他人が抱く想いを一方的に否定したのも、自身の非を認めず正当化したのも、……!
何という事はない。単純に、自らが放った言葉が返ってきただけだ。
「は、はは……! お前が、其れを言うか。意表返しのつもりか、青泉、……!」
呼吸が引き攣れる。吸って吐くだけの単純な動作が上手くいかぬ。全身に酷い寒気が走っていく所為だろう、身体がガクガクと震え、振動がけたゝましい笑い声となって発散された。
「ははっ、は……! 嵯峨崎、貴様もか。度し難い!
我等は地の底に落ちた! 嗚呼、我等は! 最早、碌な死に様では無いだろうな!」
嵯峨崎は、唇を噛み締めていたが、目は赤く光っていた。燃えている様だった。然しやつがれに何かを言うでもなく、只、笑い転げるやつがれを見ていた。
一度、腐った泥水に沈んだやつがれは、身綺麗に生きられぬ。其れどころか真面に死ねぬ。
吊り髑髏に足を取られ、天に咲く藤を仰ぎ見ながら、事が起きるのを待つだけだろう。そんな存在、生きるに値せず、同時に死ぬ価値もない。
心の拠り所などは潰えた。一思いに死ぬべきであったと思う事さえ烏滸がましい。逃避である。自らが楽になりたいだけだ。
由芽子さんは死の先に安らぎを求めてはいなかった。只、美しく閉ざしたかっただけだ!
やつがれは自身の身勝手さと肝も据えぬ愚かさで、彼女に寄り掛かって居ただけに過ぎぬ。その結果が此れだ。死に触れ、己の外殻は剥がれ落ち、剥き身となったやつがれに、安らぎなどは永劫得られぬと悟る。
せめて、やつがれが信ずる物で周りを固めたい。本は事実を捻じ曲げぬ。活字は勝手に意味を変えぬ。絵画は描かいた物を歪めたりもしない。何れも此れも不変の存在である。
嗚呼、アオバ。そうだ、彼奴。彼奴がやつがれの、帰る場所だ。
アオバの耳まで裂けた唇を思い出す。感覚を喪くした指先で自身の頬に触れたが、泥のぬめりが肌を滑っただけであった。
アオバ。アオバを抱いて眠りたい。
血と、泥と、涙で汚れた儘、やつがれの意識はプツリと途切れた。
◆
碌に眠らず、食事も取らぬ日を一週間程過ごした所で、辯論部の招集が掛った。やつがれには関係ない事だと判じて居たが、嵯峨崎に説得された。
どうやら、城島先輩がやつがれを疑いの目で見ているとの情報を掴んだらしい。姿を見せねば、より猜疑を強めてしまう。其れがやつがれを引っ張り出した理由であった。全く気が進まなかったが、腕力ではどうしたって敵わぬ。
何時もの講堂で集会は行われた。夏休みに入ったというのに、出席率はほぼ十割である。話題は決まっている。やつがれが引き起こした事だと分かりきっていた。
「皆、知っての通り、柳さんが亡くなった。」
壇上に立つ部長に覇気は無かった。部長だけではない。彼女の死を悼んでいるのは他の部員もである。所々、涙する者まで居た。彼女は慕われていたのだと改めて理解する。
だからといって、其れが彼女にとって全く善いかどうかは、また別の話であるが。
「葬儀は身内だけで行われるそうだ。我等辯論部は、献花に留める。」
顔を上げた部長は涙を溜めた赤い目を拳で擦る。呼吸を整えた後、力の入った顔付きとなった。やつがれはその様を頬杖をついてぼんやりと見ていた。
「柳さんは、女性の地位向上に努めていらっしゃった。自由を勝ち取ろうとした同志である。彼女の分まで、我等は一層、デモクラシーに邁進して行く。」
月並みな言葉だ。我等では由芽子さんの代わりなど果たせぬ。真似事すら出来ぬ。乾いた笑いが漏れそうになったが、それも次の一言で引っ込んだ。
「だが、俺は本当に事故だったのか、疑わしく思っている。」
此れは俺個人の考えだ。そう前置きして部長は辯を振るう。
「可笑しくないか。
由芽子さんの死は、新聞では事故として扱われた。不審死であるため引き続き調査をしていると書かれてあったが、そんな物は建前である。
実際には心中だった。事実としては自殺だった。そして世間では事故となった。
体裁を気にした有権者らが此の儘ひた隠しにするだろう。
「当然、警察へ任せる事だと理解している。然し、我等が明かせる真実がある筈だ。其れを少しでも多く増やし、事件解決へ協力したいと考えている。」
論調と共に、部長の目が釣り上がる。其の
「立科永。」
トオンを落とした声と共に、部員らの視線が集まる。部長の眼には強い念が込められていたが、其れでも、焦りや恐れは無かった。
否、最早、真面な感覚は死に絶えたのかもしれぬ。
「柳さんと、どういった関係だったか、正直に話せ。」
両隣に陣取っていた青泉と嵯峨崎が何か言おうとしたのを、やつがれは制した。
真っ向から聞いてくるとは。考えていなかった訳ではないが、猛進せんとする部長を受け流すのは容易いだろう。
敢えて心中を図った仲である、と言えば、やつがれはどうなるのだろうか。
「城島先輩に何の関係がありましょうか。」
「貴様、真逆とは思うが、柳さんへ不貞を働いたのではあるまいな。」
騒ぎ立てる事しか出来ぬ部員どもに呆れさえ感じていた。雰囲気や空気の流れに簡単に影響されるのだ。風に吹かれる旗と何が違うのか。心底面倒そうな表情を隠さず、溜息交じりに返事をする。
「一体何を聞きたいのです。」
「俺の身内に警察官が居るのだ!」
半ば叫ぶ様に吐かれた台詞だったので、顔を部長へ向ける。
「お前が柳さんを発見したそうだな。」
沈黙したまま見下すと、部長は壇の端を握り締め、噛み付いて来そうな程、怒りを露わにしていた。
「安賀多の時もそうだった!」
拳が壇に叩きつけられる。沈黙の講堂に反響し、余韻は長く続いた。其の間、誰一人として身動ぎする事なく、やつがれと部長を注視する。
先に口を開いたのは、部長であった。
「二人だ。二人だぞ。短い間に、身近な存在が二人も死んだ! お負けに貴様が、真っ先に見つけている!」
指差しして強い口調を向ける。
「本当はお前が、何か仕出かしたのでは無いのか!」
心底疑っている。否、確証を持っている。だが感情と感覚でしか物を言っていない。
此れが辯論部の、部長であると?
湯がゆっくりと沸騰するように、笑いが込み上げて来る。
頬の肉を噛み、暫く耐えていたが笑みを殺しきれず、結局やつがれは高らかに笑った。場違いな反応に部員一同が固まったのが肌で感ぜられた。
「莫迦だとは存じておりましたが、此処迄とは!」
理論など存在しない疑いの目だ。然し、城島先輩は勘は良いらしい。だが直感のみで筋が通らねば、最も酷い悪手である。
「何か? 何かとは一体何です。何の証拠もなく、言い掛かりを付けるなど、全く以って賢くない。」
有りっ丈の侮蔑を向ける。其れでも辯論を、論述を、話術を使う人間のつもりなのか!
「大体、何故部長が首を突っ込むのです。」
「当然、辯論部の部長として、情報を……。」
鼻で笑ってやった。大義名分を振りかざすのであれば尚の事、筋道が必要だ。此の男には一切其れが見受けられぬ。
「貴方は単に、柳さんが死んだのを何かの所為にしたいだけでしょう。事実を受け入れがたいだけだ。」
言葉を先輩へ向けて突き刺していくうち、全て自らに返ってくると気付く。
そうとも。やつがれ自身、由芽子さんが事故死と扱われているのが納得いかぬ。
「嗚呼、そういえば。部長は柳夫人相手に鼻の下を伸ばしていましたね。」
やつがれも、彼女のガルベラ姿を見る度にドギマギとしたものだ。照れ隠し一つ上手くいかず、彼女には下心が筒抜けだったに決まっている。
「不良は其方では?」
やつがれは彼女を抱き寄せた。接吻もした。共に水底へ沈んだ。此の腕の中で彼女は事切れた。やつがれはある種、彼女を手に入れ、今も手放して居ない不良者だ。
此れは自傷である。誰もやつがれを責めぬ。問い詰めぬ。今すぐにでも自首して絞首刑にでもなってしまいたいのが本音である。然し其れは、矜持の残滓があるからこそ出来ぬ事である。
なれば、自らで言葉の刃を隠れて突き立てる他、手立てが無いのだ。
城島先輩は、怒りから顔を真っ赤に染めた。奴の沸点は低いと知っている。これだけ図星を突けば、次に出てくる言葉は決まった様なものだ。どうせやつがれを貶める物だろう。
「疫病神が! 追放だ!」
放たれた言葉を理解するのに一瞬の時を要した。
追放。追放と言ったか、此の男は。想像していたよりもやや斜め上を行く言葉に、瞬きをした。
「立科永。お前を辯論部から、追放する!」
騒めくメンバア達の声は聞こえなかった。青泉や嵯峨崎が何かを叫び、暫く喧々諤々とする。
壇上で宣言までしてきたという事は、そうか、部長命令とやらか。
此の男は、果たして何処まで愚かしいのだろう!
「く、ふふ……!」
笑いを堪えるなど、土台無理な話である。短絡的な怒りに任せて、損益も考えず、人一人を排除しようとすれば何が起きるか。元より此処は、正義に燃える人間らが集まる場であるというのに!
「はははっ! 反論出来ぬからと言って、よりにもよって! 此のやつがれを、部から追放ですか!」
下腹に根を張り芽吹いていく、此の感情をどう呼べば良いのだろう。余りに痛々しく踊る城島先輩の愚かさや可笑しさか。其れともやつがれが爪弾きにされた転落ぶりに対する滑稽さか。
「良いだろう、やつがれが居ない辯論部がどの様になるのか
席を立ち、講堂の前まで背筋を伸ばして歩く。段を一つ降りる度、足元の感覚が蘇る心地がした。やつがれは矢張り、個体として動くのが良いと強く思えてくる。
「やつがれは一人でも全く問題無い。着いて来る者は?」
部員に向かい手を広げる。当然の様に、青泉と嵯峨崎が真っ先に席を立つ。次いで灰藤先輩と目が合う。彼は一つ頷いて、静かに起立した。辺りは響めきに包まれた。
「香月、何故……!」
「言うまでも無いだろう。」
冷え切った声音であった。城島先輩は、今度は顔を真っ青にして、唇を震わせていた。
「お前は言葉を扱う者として……否、人として言ってはならぬ事を言ったのだ。少し私から離れ、頭を冷やせ。」
灰藤先輩は、言うなれば経済的支援の象徴であった。此の一件で支援が停めるかどうかを判断するのは灰藤先輩では無いが、辯論部から彼が抜けたとなれば、部のイメエジダウンは避けられぬだろう。
顔面蒼白な城島先輩に、トドメを刺すべく、じっとりとした目を向ける。
「最後に聞きます。部長は、柳さんの美貌を除く、どの様な部分に惹かれたのですか。」
青色になった先輩はアオバにも思える。アオバを通してやつがれを見る。
やつがれは、自問自答しているのか、将又城島先輩を詰めて居るのか、曖昧な境界に立った。
「身分や立場、実力に、彼女自身が如何に苦しんでいたか、想像した事は?」
やつがれは彼女のガルベラを。芯のある言葉と、弱った姿の両面を。流れる様に美しい文字や、気高く閉ざしたその心を——。
もしかしたら、やつがれが理解を示した事そのものが、由芽子さんを死に追いやったのかもしれぬ。
気付けば一筋、涙が落ちた。城島先輩は驚いたのか身を引いて距離を取る。意味不明な物から離れるのは防衛本能だろう。
莫迦には分からぬ話でしたね。そう言い捨て、視界から部長を消した。
他には、と問うたが、部員は騒つくだけで動きもしない。決断の鈍い連中ばかりである。
「ハッ、腰抜け共が。部長の座に坐る人物の底が知れても尚、変化が無いなど、自己批判が足りぬのではないか。」
降りてきた三人はやつがれの背後に立った。辯論部内での精鋭が揃ったと言って良い。
「然らば諸君。
命を捨て損なったやつがれは、最早別の物を犠牲にした程度では前に進めぬ。
やつがれは、此れから先何処へ流れ着くのだろうか。此の三人を道連れにしてまで、行く先なのだろうか。
其れでも、やつがれの中で燃え滾る物があるのは確かであった。
後悔か、憎悪か、忿怒か。将又、死に損ない故の自棄によるものか。
何れにせよ、何らかの形で、自らの手で幕引きは行わねばならぬ。其れだけは確かであった。
夏の日差しが講堂を熱していく。
膨張した大気は、決裂した部内の空気をより浮き彫りにしていくのであった。