彩落さいらくノ段

 夏休みの間、やつがれは《民主倶楽部》を発足し、取り憑かれた様に執筆していた。活動場所は専ら青泉の部屋であった。
 各々が論文を出し、議論する。先ずは否定せず聞く。後から矛盾するになりそうな部分を指摘し、思考と論文の精度を高める。辯論部に居た時よりも活発な活動であると云えよう。
 言葉を口にして思考する事に集中する。没頭している間は、余計な事を忘れられた。
 やつがれは、死して尚、思考できるだけの塊である。いつしかそう思う様になって居た。
 由芽子さんが死んだのに、未だ自分自身が生きている事実は矢張り受け入れ難く、かといって自害出来ず、そして無為な日々を送る事も耐えられぬ。
 死して屍にもなれぬのであれば、人より多く何かを吐き出さねば成らぬ。何の理屈も無いが、内なる炎はやつがれ自身を焼き払い、《立科永》であり続ける以外の道を塞いでしまったのだ。
 やつがれ自身は、《立科永》が踊るための舞台であり足場である。
 此れは、出来の悪い戯曲なのだ。
「永。飯はどうする。」
「適当に済ませる。」
「なら、何か食っていけ。」
 青泉は活発になったやつがれへ安堵したらしい。やつがれ自身が死んだ事にも気が付かずに! 間抜けな犬である。否、犬ならもう一匹居る。
「庵野先輩。夕食なら僕もお邪魔しても良いですか。」
「お前は帰れ。」
「帰れと言われて、帰ると思います?」
 嵯峨崎は、可愛げのない後輩へと変貌していた。コロコロと笑い、悪気の無い素振りをしているが、やつがれにはいがみ合う野犬同士の睨み合いに見える。
「洋食が良い。適当に頼む。」
 そう告げて、革張りのソフアに沈んで本を広げた。
 辯論部の部室に置かれていたソフアを想起してしまった。次いで安賀多に襲われた夜を引き連れる。
 手の震えを誤魔化す事しか出来ず、本の内容が鈍く滑ってしまう。
 いい加減、あの呪いについては忘れるべきだ。《立科永》が伸びやかに活動する為の差し障りになる。
 では、由芽子さんについても忘れるべきだろう。表向きには、《立科永》と柳夫人に特筆すべき接点は無いのだから。
「……。」
 確かに《立科永》にとって忘却すべき事柄だ。然し、やつがれにとっては大いに関係のある出来事であった。
 やつがれは死して尚、生きていた頃の輝きに縋っている。
「……青泉。嵯峨崎。具合が優れぬので、帰る。」
「尚の事、帰すわけないだろう。医者は要るか?」
「そうですよ、先輩。また寝食を疎かにしているでしょう。」
 余計なお世話だ、と零す。身支度を始めたが扉が不意に開かれた。
「今日の活動は、もう終いか?」
 氷の男が遅れてやって来た。やつがれは鞄を担いでおり、明らかに引き留めている雰囲気が伝わったのだろう。灰藤先輩はキョトンとした顔を見せた。
「具合が優れぬのです。やつがれが居なくても問題は無いかと思いますが……。」
「インタヴューの依頼が来たので、相談したいのだが。」
 ピタリ、と全員の動きが止まった。
「《寒蘭かんらん》を発刊している朝霞出版社、分かるか? 其処の人と先日、お会いしてな。《民主倶楽部》について聞きたいと。」
 目を輝かせているのは、やつがれだけではなかった。嵯峨崎も青泉も、こうも早く、出版社の目に留まるとは考えていなかったのだろう。
「灰藤先輩も、夕飯はウチでいかがでしょう。話し乍ら決めませんか。」
「迷惑かけるが、そうしよう。私も見て欲しい論文がある。」
 やつがれは元いたソフアに再び沈んだ。《寒蘭》は、大陸思想寄りではあるが注目を集めている機関紙の一つだ。今後益々、活発となるだろう。活動家がこぞって手に取り、唾を飛ばし乍ら論戦を繰り広げる。
 インタヴューと言ったので、敵にも味方にもならぬ姿勢を見せねばならぬ。其の為には信念が必要だ。
 《民主倶楽部》が掲げる、共通の信念が。
 
 ◆
 
 洋食は、よりにもよってアイリッシュスチューであった。由芽子さんと行った洋食屋を否が応でも思い出してしまう。
「先輩。少しでも、何か腹に入れた方が良いです。」
「……そうだな。」
 ジッと見つめたままのやつがれは、溜息を吐いて、一口、なるべく味を感知する前に飲み込んだ。
「無理もない。宗介には少々、失望したくらいだ。何の根拠も無くあの様な……。」
 苦々しい表情でワインを飲む灰藤先輩に、やつがれは叫び出したくなる。
 部長はある種、真実に気が付いて居たのだ! 
 失望されるべくは、やつがれである! 
 声が出せぬ様にすべく、牛肉を口の中にねじ込んだ。蕩ける様にしてほどける。味がじっくりと染みた肉は、腐敗を続けるやつがれの胃袋へ落ちて行った。
 灰藤先輩は咳払いを一つして、我等に鋭い視線を向けた。
「《寒蘭》のインタヴューを受けるに辺り、私は時期尚早とも考える。其処で私は、諸君らに意見を聞きたい。」
 では俺から、と青泉が一言断り、挙手をした。
「確かに、発足して二週間そこそこの倶楽部です。然し、此の機会を逃すのも惜しい。だが飛び付く素振りを見せても足許を見られるかもしれない。
 差し当たり、せめて機関紙は必要になると思います。其れを発刊してからでも良いのでは?」
 青泉の発言を受けて挙手をしたのは嵯峨崎であった。シルバアを置いて雑に口許を拭ってから発言をした。
「機関紙の中身、どうするんです? 辯論部で執筆した物を持って来ることは出来ないでしょう。載せるものがない機関紙を発刊しても、意味が無いと僕は考えます。」
 機関紙は思考と信念が滲み出るものである。寄せ集めではならぬのだ。倶楽部とはいえ集合体であるのならば、てんでバラバラな物を出すわけにはいかぬ。
「やつがれは当然に、自由の為。総ての人権の為。民主の為に書くまでだ。主軸となる部分は変わらない。」
 シルバアが反射する洋燈の光を、漠然と眺める。目的が明瞭であるにも関わらず、具体的な事を述べるに詰まるというのは良くある事だ。つまり、明瞭な筈の目的が、概要にしかなっていないという証拠でもある。
 脱却するには、《今すべき事》まで行動出来るまで分割せねばならぬ。
「自由の為に、という巨大な旗を掲げているのだ。そして一朝一夕で達成出来るものでもない。やつがれの存在意義は、此の日本の民主制を成す民への影響を、何かしら残す事だ。」
 
 其れが例え、遠い未来だとしても。
 
「諸君らに聞きたい。……何故、やつがれについて来た。」
 灰藤先輩は、城島先輩に失望したのが理由であるが、其れだけならば部を立ち去るだけで良かったはずだ。態々、やつがれに着いたからにはきっと理由がある。
 青泉や嵯峨崎でも、やつがれに対して好意を抱いているとはいえ、後先考えぬ程愚かでは無い。
 多少の期待を持って問いかけた。
「俺はお前の右腕として。」
「僕は貴方という人間に惚れ込んで。」
「強いて言えば、綺麗事だけでは無い辯論に惹かれて。」
 肩透かしを食らう羽目になった。思わず眉間に入る力が強くなる。何だ其れは、と思わず呻いたが、三人は軽く笑うだけであった。
「信念は無いのか。諸君らから、発信したい事は無いのか。」
「そんな物は、とうの昔に踏破している。」
 灰藤先輩が丁寧に口許をナプキンで拭う。所作の美しさから、一瞬、由芽子さんの姿を探しそうになる。顳顬を強く押して、意識を三人へ集中させた。
「発信したい事は幾らでもある。発表するだけなら、我等は場所を問わない。だが、其れでもお前について来たのだ。」
 言葉を咀嚼できず、首を傾げた。やつがれは家柄も無ければ金もない。あるのは精々、学と論舌だ。何方も自負はあるが、唯一の物ではない。其れだけならば、他を探せば良い。
「庵野家、嵯峨崎家、灰藤家。其々の立場もあるが、利潤追求だけをする様な野良上がりの家柄では無い。世を律する目となり、耳となり、手足となるのが家禄持ちが今後背負う役目だ。」
 黴の生えそうな考え方に思えるが、三人の家系には積み上げられた歴史があるのだろう。其の歴史は余所者が土足で踏み込んではならない領域である。
 平民のやつがれにも、其れは分かる部分ではあった。
 嵯峨崎は腕を組み、苦虫を噛み潰したような表情を見せていた。
「まぁ、否定はしません。横行して困るものが、最近は多過ぎます。」
 聞けば嵯峨崎家は、砂糖や樟脳などの貿易商であり、力のある財閥の一つらしい。本人はあまり家を好んでいない様子だが、其れでも自身に、義務や責任があると考えている様だ。
「立科先輩。僕は此処が理想郷にも思えるんです。」
 理想郷。そんな物が此れだと? 由芽子さんを死に追いやり、辯論部から外れた此の場が? 
 頭の片隅に沸いた怒りとも呆れともつかぬ。彼等がそんな物に気が付く訳もないが、勝手に話を進めていく。
「身分も派閥も関係無い。単純に、立科先輩が良い。掘り下げてしまえば、たった其れだけなんです。」
 目眩がする。身分や派閥が関係ない事は良い。だが裏を返せば、平民をリーダーに立てるという民主的構造が得られているだけである。
「仮にやつがれが、平民でなかったらどうするのだ。」
 呼吸が浅くなる。視界が滲み、明滅する。夕焼け色した洋燈に照らされるテーブルを目の端に入れるのも耐えられぬ。
「関係無い。俺達がついて行きたいのは、立科永だ。」
 青泉が発した言葉に、一同は深く頷いた。其れが此の場では正解だと言わんばかりの雰囲気に、頭を掻き毟る。そんな物は──追随するだけの愚集は求めていない! 
「やつがれは!」
 勢い良く立ち上がる。食器が派手な音を立て、僅かに内容物を零したが、気を払う余裕は皆無であった。
「お前らのいう、やつがれとは何だ! やつがれは最早死んだ! 貴様らが見ているのは、やつがれ自身では無い! やつがれは、優柔不断で、無価値で、やつがれは──!」
 肺がひっくり返る。息が上手く吸えず、吐くことも儘ならぬ。笛に似た音を立てる喉を押さえるが何の解決にもならず、のたうち回りそうになりながら椅子の背凭れへ縋った。
 気が付けば三人とも、やつがれの側に駆け寄っていた。青泉は背中を摩り、嵯峨崎は手を握り、灰藤先輩は側に立ち、見守っていた。
 呼吸が落ち着き始め、冷静さを取り戻す。
「……やつがれは、最早、活動の中でしか生きられぬ。そうでなければ、凡人にも劣るのだ。」
 息も絶え絶えになりながら、弱音とも言える台詞を吐いた。涙と洟水に塗れた顔面は、孤高で理知的な《立科永》に期待を抱く者なら幻滅することだろう。
「其れでも、諸君らは付いてくるのか。」
 眼に光を灯して三人を射抜く。
「無論。」
 そう言ったのは誰であったか。其の言葉を聞き、やつがれは脂汗を拭うこともせず立ち上がり、退出しようとした。青泉が部屋を用意するから休めと言ったが、断った。
「自室でないと、……。アオバが無いと……。」
 譫言うわごとを繰り返しながら食堂の扉を閉めたが、直ぐに青泉が後を追って来た。
「永、……。休養したらどうだ。」
「死人に、休養など。」
 自虐とも皮肉とも言えぬ。言葉の棘は他者ではなく、自身へ向いている事には気が付いていた。長い廊下が、青泉の所為で余計に遠く感じる。
 不意に両肩を掴まれた。青泉と正対する形となり、悔しさを隠さぬ顔が直ぐ其処にあった。
「お前は、生きている。死んでないんだ!」
 正面から受ける青泉の視線は、何故だか久し振りな気がした。子供の様な、泣かんばかりの表情は、やつがれを抱いていた時にも見せていた。
 刹那、極め付けの自傷を思い付いた。余りにも悪辣であり、相手をも不幸に引き摺り込みそうなものだ。
「なら、そう実感できる事を教えてくれ。愛しの親友よ。」
 力無く笑うと、青泉は眼を見開いた。人差し指の先で、青泉の頬から首筋、胸板、背中、脇腹を撫で伝う。臀部に指先が差し掛かった所で、奴は後退った。
「永……ッ!」
 青泉の顔から火が出ていた。双眸には困惑がありありと見え、ほんの少し愉快になる。
「別に、お前が嫌ならば拒否して良い。」
 女でも男でも。外で買えば良い。何なら売っても良い。呟いた言葉は全て裏返しだ。
 青泉でなくては駄目なのだ。
 そしてやつがれは、青泉が首を縦に振らざるを得ない言葉を知っていた。
「嗚呼、そうだ。嵯峨崎でも──。」
「巫山戯るな!」
 声を荒げたのが可笑しく感じ、やつがれは小さく笑いを漏らす。壊れた絡繰を見つめる様な眼は、憐憫の情を抱かずには居られなかった。
「……永が、望むなら。」
 荷物と靴を持って三階の角部屋に居ろ。そう告げると、青泉は踵を返した。
 青泉は失望しただろうか。其れなら好都合だ。やつがれは孤独に喘ぐべきだ。望んでもいない快楽と共に辛苦に浸かるのが相応しい。青泉がやつがれへ抱く好意を割り切れぬのを知りながら、友人であろうとする奴の努力を踏み躙り、遂には突き放されるのがお似合いだ。
「アオバ……。帰り、遅くなるからな。」
 玄関の扉に向かって、愛を説く声音で呟く。外履きは鉛の様に重く感ぜられたが、言われたとおりの部屋へと向かった。
 
 ◆
 
 設置されていたベッドは、広々としたものであった。恐らく客人用の部屋なのだろう。清潔なシーツと柔らかな弾力で維持されており、着の身着の儘、転がった。
 手足を伸ばして仰向けに倒れると、絢爛な天井が視界に広がる。眠気は無く、ぼんやりと其れを眺めた。
 草木を象った模様は、何という名称だったか。根を這うものではない。蔦によって範囲を広げるものだ。
 
 やつがれが行おうとしている事は、毒を撒く行為か。其れとも、蔦で縛るものか。
 
 扉が開かれた。眼だけで其方を向くと、風呂を済ませた青泉が現れた。羽織った洋シャツから覗く首や胸元は男らしさに溢れた色気がある。無意識の内に、こくりと唾を飲んでいた。
 ベッドに二人で腰掛け、暫くは真面な話をした。
 食事はあの後、直ぐにお開きになったらしい。機関紙は其々に展開している物を仕上げ、インタヴューは其れ以後という事で話は纏まったという。
 やつがれは自室に引き篭もっている事になっているらしい。部屋には鍵を掛けて出てきたので、例え嵯峨崎が様子を見に行っていたとしても問題は無いだろう。
「……永。」
 意を決した様子に、やつがれは笑んだ。
「感じさせてくれ、青泉。」
 やつがれは死んだ方が矢張りマシだ、と。
 襤褸ぼろ雑巾の方が使い道があると思わせる位、手酷くして欲しい。
「……良いんだな。」
 お前を利用していると、いつ告げようか。青泉が思わず張り倒したくなる様なタイミングで、うっかり殺されても良いくらいの衝撃を与えねば。
「ン、……。」
「嫌になったら、直ぐ言え。」
 青泉との口付けは、宙に浮きそうな心地がする。由芽子さんと交わした接吻が花の香りがしたものだとすれば、青泉のは砂糖水を含んでいそうだ。
「ん、……んぅっ……!」
 穏やかな始まりであったが、直ぐに呼吸ごと奪われる程、深く烈しいものとなる。舌を突き出せば、丸ごと吸われ、唾液が溢れて首まで汚していった。
「ッは、ぁ……!」
 何方の物ともつかぬ吐息が漏れる。青泉は飢えを露わにした顔をしていたが、焼き切れそうな理性で辛うじて繋ぎ止めているらしい。
 さっさと解き放って、喰らい尽くして欲しい。矛盾や不整合など存在しない、此の行為に耽って欲しい。
「あ、おい……。」
 唇を舐めながら青泉の名を呼ぶ。もっと寄越せと言外に含めば、目から余裕が消えていく。
「役立つとはな。」
 呻いて吐かれた言葉を理解したのは直ぐだった。
 香油の様な物が入った小瓶をトラウサーズのポケットから取り出したのだ。
「来る筈もない未来を夢見て、無意味に用意していた。……お前は、こんな俺を嗤うか。」
 苦悶の表情を浮かべる青泉は、迷子になった幼子にも見えた。
「お前を大事にしてやりたいと想っている筈なのに、っ……!」
 自身の唇で奴の口を塞ぐ。感じなくとも良い自責の念で、やつがれを殺すより先に自害しそうな雰囲気だ。
 辿々しく青泉の歯列に舌で触れれば、再び貪り合う口付けとなった。
 互いの服を脱がせながら、思う。青泉程の肉体や財力、権力があれば、由芽子さんを連れ出すことが出来ただろうか。青泉の首や肩から雄の色気が香り立つ。頼り甲斐のありそうな、頑丈そうな肉体だ。
「少し、慣らすからな。」
 やつがれの下半身が露わとなる。洋シャツを中途半端に着崩したもののみを身に付けた状態になり、却って羞恥心が増す。奴の身体と比べ、貧相なのも相俟って、男としての劣っているとさえ思えた。
「う、っ……!」
 ぬるりとした感触を纏う指が胎内に侵入する。節くれ立った青泉の指がやつがれの中で蠢き、ある一点を集中的に押される。やつがれの身体は、青泉に秘匿出来る部分など無い。軈て、受ける刺激から甘い声が漏れ出した。
 
 由芽子さんは、愛のない生活で心を殺していたと言っていた。愛を以って肌を重ねた事も無かったかもしれぬ。
 由芽子さんが享受出来なかった悦楽を、やつがれが受けている。
「あっ、あぁ、青泉……ッ!」
 由芽子さんは、どの様な声を上げて抱かれるのだろう。どの様な姿で乱れるのだろう。
 やつがれみたく、身体をくねらせ、あの美しい肌を汗で湿らせたのだろうか。
 浄らかな彼女からは到底、想像も出来なかった。
「こっちも、好きだろう。」
 やつがれの芯に青泉の舌が這う。吸われ、舐られ、卑猥な水音が部屋中に充満していく。
「あ、ぁあ、駄目だ、そんな、そんなのっ……!」
 奉仕させる優越感に、身体の輪郭が蕩ける様だった。
 何もかもがどうでも良くなる位、終夜よもすがら、淫楽に興じる姿は、間違いなく失望に値するだろう。
 由芽子さん。嵯峨崎。灰藤先輩。城島先輩。信奉者や演舌を聞いた聴取。
 彼らがやつがれの今の姿を見たら、毛虫の如く扱いをするだろうか。
「余計な事を、考えているだろう。」
 一気に貫かれ、目の前に星が散った。甲高い嬌声は、自らの物とは思えなかった。指とは比べ物にならぬ質量に呼吸が止まる。思わず悲鳴に近しい声を上げたが、其れで停まる青泉ではない。
 程無くして、激しい律動が身体を揺さぶっていく。抉られる度、涙が押し上げられた。生理的に発生する涙は、目玉を溶かすくらい熱い。
「なあ、感じるだろ。俺も、お前も! 生きてるんだ……!」
 目を開けられぬ程の快楽で、やつがれは意味を成さぬ声を発する以外、何も出来なくなる。考える事も、嘆く事もなく、目の前に散る星と快楽を追い求めるだけだった。
 結合部から、潤滑油と体液が混ざったものが互いの股に落ちていく。
「ぁ、あひッ、ああぁ、青泉ッ、ぁ、あぁっ……!」
 絢爛な天上。夕暮れに似た灯り。似つかわしくない行為と、獣と化した親友。
 肩口に歯を立てられ、反射で身が竦んだ。同時に自身の肚の中が蠢いているのを自覚する。
 死したやつがれに、活力を注げと、精力溢れる青泉を誑かしている。
「永、出る、出るっ……!」
 胎内で爆ぜた青泉は、息を切らしてやつがれを見下ろす。狼などの捕食動物と同じ瞳が光り耀き、やつがれだけを見詰めて居る。
「あお、い。」
 手を伸ばし、次を催促する。理性ある親友はもう何処にも居なかった。
 喉笛に噛みつき、大きな手で首周りをぐるりと囲う。初めて青泉に抱かれた時の、圧迫と窒息を思い出し、背筋が震えた。
「お前の首は、細長くて、絞めやすいな。」
 異様な笑みを浮かべる青泉は、普段の姿から程遠い。抜かずに再び律動をし始め、直ぐに硬度を取り戻す。仄かに力を込められ、恐怖とも期待とも付かぬ感覚に自身の唇を舐めた。
 痛みや柔い恐怖を伴う物こそ、やつがれに相応しい。
「ぁ、ああぁ……! 其れ、良い、……!」
 其れは生きているという前向きな自覚ではない。まだ死んでいないという確認から来る、裏返しの認識だ。
 《立科永》以外のやつがれは、死に損ない、果ては親友を棒にして快楽に溺れ、死に追いやった恋人の身体と自身を重ねる、愚図でどうしようもない男である、と。
「あぁっ、青泉、青泉ッ!」
 奴の名を呼んで腰を揺する。唇を噛んで、息を小刻みに吐く青泉に同情が募った。
 愛も無ければ憎しみもない。感覚だけを追い求める行為に意味は無い。
 其れを強いる人間へ、恋慕など……。
 
 獣同士としか思えぬ交叉わりに果ては遠く、敷布しーつの海を乱していった。
 
 ◆
 
 自室のアオバは月明かりの下で、やつがれの帰りを待っていた。
 虚ろな意識と身体を引き摺り、アオバに縋る。油絵独特の匂いに心が休まる心地がする。
「アオバ……。」
 由芽子さんの名を呼ぶよりも、青泉の名を叫ぶよりも、焦がれた声音だ。
 青白い男は、相変わらず判切しない顔だった。目や鼻はぼやけているにも関わらず、口だけは生々しい。牙にも見える歪で崩れた歯並び、唾が飛んできそうな舌、痛々しい傷と一続きになっている唇……。
 そろりと触れてみたが、見た目の水っぽさとは反して乾燥した絵の具の感触しかなかった。
「お前は、変わらないな。」
 当然の事であるが、アオバが表情を変えることはない。激変していく周囲や状況の中で不変のものが身近にあるのは、心の支えとなる事を実感する。此の空間には捻じ曲げられた物は一つもない。思入れのある蔵書、使い道がある優秀な本、備え付けの古びた椅子と机──。
 不意に、青泉に吐き出された残滓が股を伝っていく感触に見舞われる。堪らずズボンを脱ぎ捨てたが、内股は汚れていなかった。繰り返し犯されたが故の錯覚らしい。
 身体を虐める事で生きていると実感するなど、何と非生産的なのだろうか。其れよりは壇上で大勢の視線が集まる中、演舌を振るい、熱狂を巻き起こしていたい。
 そうか、やつがれは矢張り、活動の中でしか最早生きられぬのだ。然し、活動の中で生きるのは《立科永》だ。其れ以外のやつがれは、恥辱と汚泥に塗れた屍であるのが相応しい。
 改めて実感した後は楽なものであった。
 
 朧なはずのアオバの瞳が、やつがれの瞳のくらさと重なり、輪郭を得たように見えた。