室内でも汗が滴り落ちる。何度か風を入れようと窓を開けたが、今日に限って殆ど無風だ。青い空と白い雲の対比は爽やかさに満ちていたが、こうも暑いと鬱陶しささえ募る。
結局、盆も田舎に戻る事はなかった。手紙を篤志家宛に送ったので、表向きの理由なら納得してもらうに足るだろう。
新たな活動として倶楽部を発足させた事。機関紙の執筆に邁進している事。《寒蘭》から声を掛けられている事、……。
世間から見れば親不孝者だろう。だが、やつがれに孝行すべき親は居ない。放蕩の末に父は死んだ。母はやつがれに当たり散らしながら病で死んだ。頭の出来がマシだったが故に、篤志家に目を掛けられ、師範学校ではなく高等小学校へと進学。学校だけではなく生活の面でも大いに世話になった。親の様に敬うべきは親ではなく篤志家であり、彼等への恩返しは活動や学問などで成果を上げる事だ。
今は《寒蘭》からのインタヴューの日程に合わせて、機関紙を完成させようとしている。元より熱心な志を持つ者ばかりなので、後は推敲と議論を重ね、決定稿を認めるだけだ。
アオバを背後に置いて論文を書き、アオバの方を向いて物思いを深める。此のサイクルは中々に良く、《立科永》の為に頭と身体を稼働させる心地良さにやつがれは病みつきになって居た。死人と等しいやつがれに、出来る事は限られているからこそ、成せるとさえ思えた。
時折、嵯峨崎と青泉がやつがれを連れ出しにやって来るが、其れも生活の一つとなりつつある。庵野家で議論を交わし、遅れて灰藤先輩がやって来て、食事をしてお開きになる。《民主倶楽部》の活動としては。
青泉との交わりを通して、由芽子さんが抱かれている様子を妄想し、やつがれ自身の程度を再認識する。青泉の狙いからは外れているが、快楽を貪る塵芥に成り下がるのは心地が良い。自らの中に華々しい部分は一切無く、期待を寄せられる《立科永》から遠く掛け離れた存在であると確認できる瞬間だ。
アオバの前に置いた椅子に跨り、貫かれた時の快感を思い返す。眠たくなる様な、甘い息が漏れた。
「其方から、やつがれは見えるか?」
返答が無いのは、当然分かっている。だが彼は剥き身の状態で語り合える貴重な存在でもある。どんなに無様な姿を晒そうとも、アオバが表情を変える事は無い。絵が人間を見限る事など、有り得ぬのだ。
「ふ、……。」
不意に、身体に青泉との触れ合いが蘇る。太い腕、厚い胸板に抱き潰され、加虐に染まる青泉の瞳が、やつがれを射抜く。輪郭を
ズボンを寛げれば、淡く濡れたやつがれの花芯が震えていた。そっと触れれば、爪先の神経まで愉悦に浸る。
「ぁ、……。」
部屋の中に居るのはやつがれだけだが、声を殺して自らを追い詰めていく。外からは何処からか子供が遊び回る声が聞こえる。騒がしい蝉の鳴き声が、卑猥な水音を搔き消しているだろう。
花芯を柔く握り、手筒で刺激を与えれば、一度覚えてしまった絶頂を目指して昂ぶっていく。
「ッ、はぁ、……、ぁ、アオバ……。」
アオバは黙って、やつがれと正対する。大口を開けた表情は、やつがれの媚態を煽る笑みにも見える。不揃いの歯は涎に濡れ、朧げな眼がやつがれを急かす。
嗚呼、絵に失望されぬというは、心地良くもむず痒い。
襲い来る大波に抵抗する事なく呑まれる。吐き出された白濁は、やつがれの掌を汚していった。
奇妙な絵の前で自慰をするなど、以前のやつがれからは考えられぬ。然し、羞恥や罪悪を感ずる心はなく、背徳に溺れていくばかりだ。
蝉と外の声。白く弾ける太陽の光。雲間を割る夏の空。やつがれのちっぽけな存在など、燃やし尽くしてしまえるだろう。
僅かに残った尊厳を焼き切っていったのは、此の夏の日だったと、後に思うだろうか。
掌に残る精液が、正しく其の《矜持》であったかもしれぬ。
◆
今日は、灰藤先輩を除くメンバアで、カフエにて論文の質を確認していた。方向性と思想について、互いに大きな相違が無いと認識を合わせ、一段落する頃にはメンバアの腹の虫が音を上げた。
正午を過ぎ、腹拵えをカフエにて済ませたところで、嵯峨崎が「我が家に招待したい」と言い始めた。
何でも、常に庵野家の場所を借りるのも心苦しいから、らしい。
青泉は眉を顰め、不信感を露わにした。青泉からすれば、やつがれを狙う羽虫の巣に態々赴く様に思えたのだろう。個人的には、青泉が居るなら問題は無い。
青泉の負担になると考えるのも心苦しい旨を伝えれば、渋々といった様子で、今回だけならばという条件で一先ず落ち着いた。
嵯峨崎家に来たのは初めてだった。洋風な造りをした庵野家とは違い、正に屋敷と言える広さを持つ日本家屋であった。中庭の鹿威しが涼しげな音を奏で、水打ちされた地面から冷やりとした空気が漂って居た。
青泉は嵯峨崎家を訪ねるや否や、嵯峨崎の兄に捕まっていた。何でも顔見知りであるらしい。恐らく、財界同士の繋がりなのだろう。そして財界と政界は切っても切れぬ縁だ。
横の繋がりは強めておいて損はない。
青泉はやつがれと嵯峨崎が二人きりになるのを気にしていたが、さっさと行ってこいと手で払う仕草をすると、苦い顔をして背を向けた。
広々とした部屋は、嵯峨崎の部屋として割り当てられたものだという。大人が大の字で寝転がり、三回も四回も転がれそうな広さだ。此の部屋で生活していて、よく寮部屋の狭さに耐えられるなと、奇妙な部分で感心してしまった。
真新しい座布団の感触にそわそわとしながら、辺りを見回す。賞状や、嵯峨崎が描いたと思しき絵を眺め、奴は矢張り優秀なのだなと、ぼんやり思った。
「立科先輩。アイスクリンは好きですか。」
アイスクリン。好物ではある。暑さに茹だった身体が、冷たい甘味を想像して舌が濡れた。短く肯定すると、嵯峨崎は待ってましたとばかりに表情を輝かせる。
盆の上には白いクリイムの様な物が硝子の器に入れられており、涼しげな見た目であった。丸で氷の皿に盛られている様にも見える。
銀の匙で掬うと、接地した部分から柔らかく溶け出した。口に含むと、濃密な甘さに頬がきゅうっとする。
「美味い。」
「気に入って頂けて良かった。」
じっくり味わっていると、嵯峨崎が此方を注視している事に気がつく。首を傾げたが、奴は笑顔の儘、目を逸らさない。
何処からか風鈴の音がする。チリチリと鳴る音は警鐘にも聞こえる。
「僕、此の家に生まれて良かったと、改めて思います。」
「ほう。其れは何よりだ。」
一体何を考え、どういった意図での発言なのか、深く考えても意味は無い。
半分程食べた辺りで、頭痛に襲われた。冷たい物を一気に食べた所為だろう。額を掌で何度か叩く姿を見、嵯峨崎はクスクスと笑う。
「永先輩は、可愛らしいですよね。」
ぞわり、と悪寒が走る。アイスクリンが原因では無い。
「撤回しろ。可愛らしいという単語は気味が悪いし、お前に名前呼びされる道理は無い。」
「良いではないですか。今は二人だけなのですから。」
何が良いのか、
「庵野先輩に、身体を許しましたか。」
発せられた声には何の感情も隠っていなさそうな程、色が無い。然し、冷静そうに見せかけた何かである。其れが分からぬほど、やつがれは鈍感ではない。
至近距離に迫る奴の顔を、反対の手で咄嗟に押し返そうとしたが、其の手も絡め取られる。
両腕が不自由な状態になり、やつがれの全身から冷や汗が噴き出た。
「大体、庵野先輩と僕が、貴方の隣に立つという決定打は、お互いが邪魔する為だったのに。」
淡々とした口調が、却って憂虞(ゆうぐ)を掻き立てる。何かを仕出かすと、肌で感知していた。
「張本人があっさり片方に傾くなど酷い話ではありませんか。」
やつがれの手首を舐り、柔く歯を立てた。硬い
「お前では、駄目だ。」
「何故ですか。」
死の裏返しを連想するだけの立場が、嵯峨崎には無い。如何にやつがれを慕おうとも、傾倒しようとも。
否、嵯峨崎がやつがれを肯定し切っているからこそ、無意味なのだ。
「お前は、やつがれと対等ではないだろう。」
其の台詞に嵯峨崎が一体何を思ったか、読み取れなかった。全く、らしくない冷たい表情で此方を見下ろす。夏の日差しが嘘幻の如く、背筋の寒くなる空気が漂う。間近で射抜かれると、心臓が五月蝿く感じる位だった。
ふ、と嵯峨崎は眉の力を抜いた。同時に、溶かした蜜が瞳に踊る。やつがれは、其の眼を覚えていた。
幾度と無く、やつがれへ情欲を持って向けた、数々の瞬間が駆け巡っていく。
嵯峨崎はアイスクリンを指で掬い、やつがれの唇に塗りたくった。行動の意味が分からず、一瞬思考が止まる。嵯峨崎は愉快で堪らないといった面持ちで、企みを持った笑みを浮かべた。
「なら、僕が勝手に頂きます。永先輩。」
恍惚に溶けきった瞳が、弓形に歪む。やつがれの後頭部に嵯峨崎の掌が添えられ、殆ど抱え込む形で、唇を奪われた。唐突に、遠慮なしに侵入してくる舌を塞き止める術は、持ち合わせていなかった。
「ンッ……!? ぅ、ん、んんっ……!?」
上顎のざらつき、頬の裏側、舌と歯の隙間……隅々まで嵯峨崎の舌が蹂躙していく。奴の舌は長く、深く押入られれば、其の質量から口を大きく開けて受け入れざるを得なかった。
「ん……、んぅ、は、んっ、ん……!」
舌を出し入れされると、自身の舌が擦りあげられ、感じたことのない痺れが身体を駆け巡っていく。飲み切れぬ唾液が顎を伝い溢れ落ちた。
アイスクリンと二人の唾液が混ざり、ある種の媚薬にも感ぜられる。
「どうです? 僕、舌技には自信あります。」
息を切らして、感覚が治まるのを待つが、脱力した身体は呆気なく押し倒された。
被さる嵯峨崎は、既に後輩ではなく、情欲に突き動かされる男の顔をしていた。隆起した嵯峨崎の象徴が、其れを物語っている。嵯峨崎はやつがれの洋シャツのボタンを寛げ、口元から胸元まで零れた唾液を舐め取った。
「お前は、安賀多と同じだな。」
其の一言に、奴の動きが止まる。そういえば、嵯峨崎には安賀多に犯された事は直接話していない。だが察してはいる筈だ。
嵯峨崎は無言で微笑し、やつがれの首筋に歯を立てた。
◆
青泉は未だ来ないのだろうか、と考え、意識を分散させる。そうでなければ、耐え切る事など不可能に思えた。
「ねぇ、永先輩。」
荒い息に構わず、無理矢理に角度を変えられる。やつがれ自身も知らなかった弱点を攻められ、やつがれは混乱の只中にいた。強弱を変えて蠢きまわる舌先は、丸で別の生き物だ。相手が嵯峨崎なのも忘れてしまいそうな位であった。
「貴方、快楽に弱いでしょう。相手が誰であれ、こうして身体が素直になるんだから。」
与えられる刺激は依存性があるものだ。もっと口の中だけでなく滅茶苦茶にして欲しいと願わずにいられない。然し、嵯峨崎は決定打になるものは寄越さなかった。
熱を手放したい。楽になりたい。沸き上がる、短絡的な欲求に身を任せれば、忽ち取り返しのつかぬ事態になってしまうだろう。
もどかしさに脚を擦るが、楽になるわけではない。
「触って欲しいですか?」
「誰が……!」
力で抵抗するのは諦めた。舌や指に何度も噛み付こうとしたが、軽く避けられる。それどころか、此方が仕掛けるとより苛烈な愛撫となり、仕打ちの天井が恐ろしくなり止めざるを得なかった。首や耳を何度齧られたか分からない。
諦めに似た許容から、精神がぐらぐらとする。抜け掛けの歯が神経を手放す様に、やつがれも今の瞬間だけ理性を蒸発させたくなる。嵯峨崎はやつがれが悶える様を見て、厭らしい笑みを深めた。
刹那、襖が勢い良く開けられる。長い影だけで、誰であるかは明確であった。
「あお、ぃ……。」
逆様になった視界に青泉が立っている。嗚呼、やっと終わる! 救いにも思えて青泉に手を伸ばしたが、嵯峨崎がやつがれの腰ごと、引き寄せてしまった。
「お前……!」
「イイトコロなんです。」
舌打ちと共に、吐き捨てた台詞には憎悪が満ちていた。牙を剥き出しにして殺意を露わにする獣其のものであった。
「其処で見ていて下さい、庵野先輩。」
信じられぬ事を言い出した。元々
青泉が吃驚からか固まっていたが、すぐに我に返った。
「永に、何をしている!」
やつがれと嵯峨崎を引き剥がそうとするも、其の接触だけでやつがれの身体は快楽を拾おうとする。漏れた甘声に、青泉は一瞬固まった。
其の隙を、嵯峨崎は見逃さなかった。
「さ、嵯峨崎ッ、……!」
「庵野先輩には散々抱かれているんでしょう。何を今更、恥ずかしがる事があるんです?」
背後から抱える様な体制で、両膝を大きく広げられた。青泉は、やつがれと向き合う形となり、視線が絡んだ。
「ほら、庵野先輩に見せてあげて下さい。」
「い、嫌だ! 何を……!」
外耳を舐られ、息が詰まる。嵯峨崎の舌と唾液の水音と、青泉が生唾を飲む音が、生々しく聞こえた。
「ひ、あぁっ! さが、さきぃ……!」
露わになった花芯から、先走りの露が滴る。嵯峨崎の長い指が纏わりつき、直接的な快感に電撃が走った。
「あ、ああっ! 嵯峨崎、ぁ、や、……ッ!」
太腿が痙攣を引き起こす。青泉の両手は、いつの間にかやつがれの両膝に置かれ、更に開脚させた。
「青泉、見るな……! ぁ、はあ、ぁっ!」
嵯峨崎の手で乱されているのを、青泉に見られるのは強い抵抗があった。首を左右に振っても、身を捩っても、嵯峨崎から──否、身悶えする程の悦楽から──逃れられなかった。
「僕、二人のを目撃しているんですよ。此れでおあいこです。」
「ま、待て、いや、嫌だぁ! ひ、っ……!」
乱雑に抱えられ、嵯峨崎の物で串刺しにされる。根本まで収めた嵯峨崎は、短い息を繰り返し、
「〜〜〜ッぁ、……!」
耐え切れず、やつがれの果実が爆ぜた。断続的に漏れる白蜜が畳へと落ちていく。鼓動と合わせて吐き出される其れは、自らの孔の方へ流れていった。
他所様の部屋で、あられもない姿を晒し、其の上青泉に見られた儘で達するなど、羞恥が極まる。
「やだ、嵯峨崎、やだぁ……!」
「嫌、じゃないでしょう。イイって言わなきゃ。」
右耳の軟骨に牙を立てられ、痛みによる反射で仰け反る。弾みで窄みがより窮屈になっていった。
「ああ、締まる……! 永先輩、永先輩……!」
熱に浮かされた嵯峨崎の声が鼓膜に響く。下から突き上げられ、振動と刺激に意味を成さない声しか漏れなくなる。
「ずっと、夢見てました! 嗚呼、貴方の中は! すごい、すごいですっ……!」
青泉が見ている。見ているのに。果てたばかりの身体は、続行する行為に揺すられる儘、何度も限界を行き来する。視界は生理的な涙で滲み、明瞭さを欠いた。
「庵野先輩。永先輩に、触りたいんですか?」
嵯峨崎の呼び掛けに釣られて、青泉を見る。
ぼやけた中でも、青泉の瞳は鋭く光っている。荒い息を繰り返し、鎖を咬みちぎらんばかりの表情だ。
やつがれの肚が、熱を帯びていくのを感じた。
「お前と言う奴は……!」
「ふふっ……。それ、僕と永先輩の、何方に言ってるんです?」
挑発する様に笑う嵯峨崎に構わず、革帯を寛げる。弾む様に勢い良く出てきたのは、青泉の凶悪的な雄の象徴であった。
「ぁ、あおぃ……。」
四つん這いにされ、腰を落とし尻を突き出す様な体勢にされる。頬に青泉の熱棒を擦り付けられ、頭の芯が痺れる感覚がした。
「咥えなくていい。舐められるか。」
余裕の無い声だが、嵯峨崎とは違い、気遣いが見えた。恐る恐る、舌をそろりと這わせていく。噎せ返る様な濃厚な匂いが鼻と舌に広がっていった。
「は、んぅ、……!」
妙に興奮を覚える味と匂いだ。アイスクリンなど口の中からとっくに無くなっていると言うのに、何処か甘さを感じる。
「永先輩、美味しそうに食べますね……!」
「ぅ、……!」
再び、激しい律動が始まる。嵯峨崎の抜き差しに身体が揺れ、青泉のを奥深くまで含んでしまった。
「ん、ぐ、ふぅ、んん、んんん……!」
「永ッ……、無理なら、離せ!」
嵯峨崎の揺さぶりに翻弄され、連動して青泉の熱棒も吸い上げる形となった。歯を立てぬ様に唇に力を入れて滑らせれば、喉奥が詰まるのを緩和できると気が付いたが、青泉には強い刺激となったらしい。
「永、駄目だ、……! うっ、ううっ……!」
「あはっ、可笑しい! 僕の動きで、先輩達が、感じてるなんて!」
調子に乗るな、と青泉は嵯峨崎を睨みつけたが、嵯峨崎にとっては其れも昂奮の材料となったらしい。
「そんなの、無理です! 嗚呼、楽しい、気持ち良い! 永先輩、出しますよ……!」
小刻みに最奥地を鋭く突かれ、やつがれも限界へと押し上げられていく。
「んっ、んんっ……! ふ、……!」
青泉の熱源と、嵯峨崎の暴虐を注がれる。真っ白に染まっていく感覚に、墜落する心地がする。
安賀多に首を絞められ、深淵に突き落とされた時と、同じ景色が見えた。
◆
夕立の中、やつがれは立ち尽くしていた。
雨が何もかも洗い流してくれるかもしれぬ、という浅慮から浴びてみたものの、体温が下がるくらいしか実感できない。
嵯峨崎と青泉とで何度か夜を越した。誰が言い出したことでもないが、特定の決まりが出来つつあった。
活動拠点、または活動時間中に、やつがれには触れない。裏を返せば、やつがれが奴等に対し、意味有りげな接触を施せば、『よし』の合図である。
活動が疎かになっては、この集団の意味は無い。其れは口に出さずとも、奴等は理解していた。
二人に身体を明け渡すのは活動とは無関係だ。活動以外の営みは《立科永》のものではなく、やつがれ自身のものだ。やつがれは愚図で、淫乱で、優柔不断であり、塵芥と等しく無価値なのだ。従ってあの行為に意味はなく、また奴等も愛を説くが、其の先が無い事に気が付いている。
塵であるやつがれ自身に、優秀な人材が三人も付いているのだ。其の内二人への褒美がやつがれ自身というならば、安いものかもしれぬ。
嵯峨崎の提案した体制では無いものの、やつがれの予感通り、歪な形で安定してしまったのだ。
夕立の雨は粒が大きく、肌に当たると痛みさえ覚える。其れでも、其の場から動く気力が無かった。
やつがれ自身は死人も同然であり、犬の褒美となる血肉である。抵抗も羞恥も踏み抜いたのだ。踏み抜いたのは、やつがれの意思であった。舌を噛み切って死んだ訳でもないのだ。
だというのに。
決壊した涙腺は有無を言わさず、只管に涙を溢れさせる。止める事も出来ず、喚く事も出来ず、其の涙を隠す為に外に出たが、何の解決にも至らなかった。
機関紙は刷り上がり、活動も順調である。順調であると言える。夏季休暇が明けてすぐ、インタヴューの予定となっているのだ。
全く以って、順調なのだ。
「立科。」
雨音が立てる幻聴であると、初めは思った。然し、確かに存在する人の気配に視線だけを向けると、憮然とした城島先輩が居た。
「……部長。」
「フン、お前の部長では無いぞ。」
苛ついた様子を隠す事なく、吐き捨てられた台詞にズキリと胸が痛む。道を分けた人間が、一体何の用事なのか。
「中に入ったらどうだ。」
「お気遣い無く。雨に濡れるのが、趣味なもので。」
嘘を吐け、と頭を軽く叩かれる。番傘が雨を遮った。
「生憎、濡れ鼠の後輩を見て放っておける程、人が出来て無ェんだ。」
問答無用で腕を引かれ、寮の中に押し込まれた。其の儘、城島先輩の部屋に入る様、催促される。
「……失礼しま、ぶ。」
乱雑に投げ渡された手拭いが、顔面に命中した所為で間抜けな声が漏れた。可笑しそうに、静かに笑う先輩を不思議に思いながらも顔を拭う。涙は一先ず収まっていた。
城島先輩は溜息混じりに椅子に座り脚を組む。傍らの机には灰皿が置かれていた。
「やつがれに、何か聞きたいのですか。」
「そんな物は無ェよ。」
城島先輩の部屋は意外にもキチンと片付いて居た。やつがれの部屋よりほんの少し広い。同室の者は休暇中の為か不在らしかった。本が少ないが、本棚に無理矢理詰め込んである。
「吸うか?」
「……煙草はやりませんので。」
部長の座に居ないからか、口振りや態度が砕けている。やつがれが知る部長とは少し違う。今になって、彼の違う面を垣間見、少々戸惑いもした。
もう一脚の椅子に座る様、促される。所在に困っていたので、言われるが儘に腰掛ければ、白い煙が顔を撫でた。
雨音が響く。木や窓を叩く水の音は二人の沈黙をより深めていく。向かいの先輩は何口か煙を吐いた後、項垂れてしまった。
「済まなかった。」
幾らか躊躇った後、何の詫びですか、と問えば頭を掻いて苦々しい表情を浮かべた。
「部長として立って居たにも関わらず、感情のみで辯を振るった事だ。」
お前が怒りを感じたのは、特に其処だろう。再び煙草を含み、赤い火を灯して新たな灰を作り出していった。
「……さぁ。あの時は確かに、そう感じましたが。案外、図星だったからかも分かりませんよ。」
弱った声音になってしまった。城島先輩は驚愕からか、目を見開いて此方を見つめる。
──此処で全てを白状したら、どうなるのだろう。
そんな考えが脳裏を過ったが、後の祭りである。頭を振れば、髪から水滴が幾つか落ちた。
「城島先輩。きっと、貴方は正しい。愚かしい程に。眩しい程に。」
やつがれには無い部分だ。
素直に羨ましく、また好ましいと思える。裁かれるとしたら、此の人の様に真っ直ぐに瞳を輝かせる人間が良い。
否、青泉や嵯峨崎も、元々はこういう目をしていた筈だ。其れが今や、情欲や支配といった灯が色濃く成りつつある。
間違いなく、──やつがれがどんな風に関わろうとも──やつがれが狂わせたのだ。
「世話になりました。手拭い、洗ってお返しします。」
「待て、立科。お前は……!」
声を聞かず、扉を閉ざした。部長だけは、あの儘でいて欲しい。灰藤先輩が、彼に何かと世話を焼くのも納得出来る。
やつがれが出来ることはせめて、灰藤先輩へ口添えして辯論部に戻ってもらうこと位だ。灰藤先輩は《民主倶楽部》のみに籍を置く必要など無い。気紛れに参加してもらえれば、其れで充分だ。
ひたひたと歩く音が廊下に反響する。丸で、正体不明の何者かが、やつがれを追う様に。
やつがれの幕引きは近いのだろう。直感が囁く予感に、後ろを振り返る。何も無い。そう、何も。
進む方角へ再び視線を向けて足を止めた。
薄暗く、仄暗く、先が見えぬ廊下の果て。
やつがれの部屋は、──やつがれが帰る場所は──此の先にあるのだ。
「……アオバ。」
再び涙が滲む。何の所為でそうなるのかは全く分からぬ。
無闇に喚きたくなるのも、金切り声で叫びたくなるのも、《立科永》ではなく、やつがれ自身なのだ。
逸そ、やつがれがアオバになれたら、此の衝動を表に出せるのだろうか。
「焼きが回る、と云うのだろうな。」
自嘲を含んで誰に向けるでも無く一人笑むが、雷鳴に掻き消されていった。