氷徳ひょうとくノ段

 夏季休暇が終わった。とは言え残暑は厳しく、夏空が続く日々だ。炎昼を避けて庵野家に集合するのが定番に成りつつある。
「立科先輩。スーツはお持ちですか。」
 《寒蘭》のインタヴューに臨む前に、嵯峨崎が尋ねた。青泉の家で調整が終わり、そろそろ解散かという頃合いであった。
「制服と上着くらいしか無いが、何故だ。」
「折角なので、着てみませんか。」
 聞けば、弟の分があるので身体に合うものがあるはずだ、という事であった。成る程、一張羅の制服でも差支えはないはずだが、此のメンバアの中で一人違う服というもの浮くかもしれぬ。
「嗚呼、そういう事なら私から貸そう。」
 挙手した灰藤先輩に聞けば、灰藤家では衣装屋を召抱えているという。後輩から借りるというのも憚られる上に、嵯峨崎家に行くのは気が進まなかった。
「では、本日は此れにて解散。」
 そろそろ集中すべく、触れ合いを断ちたい時期であった為、渡りに船であった。
「また明日、此の時間で良いか。」
「応。一部屋開けておく。」
 青泉に声を掛ければ、上機嫌そうな笑みを向ける。嵯峨崎は、青泉の背後からひょっこり顔を出して、人懐っこく手を振る。
「明日、飴菓子を持って来ます。」
 そうしていれば、本当に可愛らしい奴だというのに。やつがれは力の抜けた笑みを向けた。自虐とも諦念ともつかぬ物だったが、嵯峨崎は満足気であった。
 足早に庵野家を後にする。灰藤先輩の家へ向かう道中、我等は殆ど無言であったが、沈黙が却って心地良かった。
「立科でも、インタヴューとなれば緊張するのか。」
「そんな性格に見えますか?」
「また消耗している顔をしているのでな。」
 灰藤先輩は、僅かに表情を崩した。夕焼けの茜色もあってか、冷徹そうな雰囲気は和らいでいる。
 青泉も嵯峨崎も、整った顔をしているが、灰藤先輩は群を抜いて色男であった。麗人の隣に立つのは、何故か誇らしい。
 突然に訪問して問題ないのかと尋ねれば、今は別宅に住み、最低限の従者しか居ないという。案外庶民的に暮らしているさ、と苦笑いされた。
 色々と文化や家庭の違いがありそうではあるが、其れを聴き、灰藤家の本宅へ邪魔するよりは心が楽になる。
 だが、何人も従者を抱えている時点で、察するべきであった。
 確かに、庵野家や嵯峨崎家の様な豪邸では無い。然し、十分過ぎるほどの広さを備えている。何よりヨーロピアン風のハイカラな外観は、断然目を引いた。一体何が庶民的なのか、と指摘するのは憚られる。
 趣味が悪いだろう、と頭を抱える灰藤先輩は新鮮であり、何だか可笑しく感じてしまった。
「灰藤先輩の様な人が暮らしていると考えれば、何の違和感もありませんよ。」
「其れは褒めているのか。」
「勿論。女性が騒ぐのも納得です。」
「お前にまでそう言われると複雑だ。」
 庭には様々な花が植えられている。生活の豊かさが見て取れた。不躾にも眺めていると、母上の趣味でな、と半ば言い訳に聞こえる声音でつぶやかれた。つい、笑みが殺しきれなくなる。灰藤先輩は感情を余り表に出さぬが、彼にも人並み──言い換えれば他所から見たら取るに足らぬ──男としての矜持があり、故の恥らいがあったのだ。

 灰藤宅に立ち入ると、豪奢な内装に圧倒された。何処ぞの来賓館かと思う程度には、煌びやかであった。草木模様の壁紙と壁灯の硝子彫刻は繊細かつモダンであり、作り出される照明は洒脱なだけではなく居心地が良い色をしていた。外観に相応しい内装である。
 初老の執事が出迎える。恭しく頭を下げたので、やつがれも姿勢を正した。
「後輩の立科だ。彼のスーツを幾つか見繕いたい。衣装室の準備をしてくれ。」
「畏まりました。」
 庵野家や嵯峨崎家も当然使用人は居たが、灰藤家の気品は別格に思えた。詳しい事情を知らぬやつがれでも、財界などでも頭一つ抜けた立場であるのだろう。納得である。
「立科様の御夕食も御用意出来ますが、如何でしょうか。」
「いえ、流石に其処までお世話になるのは……。」
「折角の機会だ。」
 柔らかく微笑む灰藤先輩が相手では、断り文句など言えなくなってしまう。小声になってしまったが、お言葉に甘えて、と言うと先輩は満足そうな表情で室内を案内し始めた。
 玄関入って直ぐの踊り場、其の先にある広間、書斎……。書物は洋書が殆どを締めており、思わず食い入ってしまう。
「興味が湧く物があれば貸すが。」
 無造作に取り出した本は、必ずしも政治や思想に関わるものではなさそうであった。表題たいとるを見るに、戯曲と思しき本もあった。
 戯曲。
 一瞬、安賀多の顔が散ら付く。不揃いな口許はアオバと違い気色悪さしか無かった。癖毛の前髪から覗く昏い目が、今でも此方を注視しているかもしれぬ。
 暗闇に浮かぶ眼光に追い付かれぬ様、意識の外へと追いやった。
「選ぶのも一日掛かってしまうので、又の機会に。」
 曖昧に笑って誤魔化した所で、準備が整った旨を先程の執事が知らせてくれた。灰藤先輩はやつがれを連れて、二階の角部屋へと向かう。扉の先には、やつがれの想像を超える光景が広がっていた。
「此れは……圧巻ですね。」
 十六畳はありそうな部屋であった。クロゼットが壁沿いに設置され、全て開け放たれていた。其れだけではなく、帽子掛けが品良く立てられており、装飾品は硝子棚に仕舞われている。
 やつがれの自室の本を全て取り払い、二倍の広さにしても収まりそうだ。
「メーカーによってサイズが微妙に違う。幾つか着て確かめよう。好きな色はあるか。」
「先輩に一任致します。」
 こういった分野の感性は皆無だ。やつがれには妙な物とハイカラな物の区別が付かぬ。先輩は一つ頷くと、テキパキと服を選出し始めた。何を取り出すか、初めから決まっていたかの様な動きだ。
 濃紺、墨黒、青漆……。落ち着いた色合いの物がやつがれの手元に積み上げられていく。
「仕切りの向こうで着替えられる。」
 部屋の隅を見ると、カーテンで区切られた一角があった。
 肌には嵯峨崎の歯型や青泉の吸痣があった為、心底安心した。手渡された物を丁寧に広げていく。
 洋シャツの上からジャケットを羽織り、スラックスに履き替えては灰藤先輩へ見てもらうといった流れを繰り返した。
 着せ替え人形の気分にもなったが、普段とは違う格好に浮き足立つ。
 不意に、由芽子さんにも見てもらえたら、と脳裏を掠めたが直ぐに打ち消した。後からいずる悔い等、やつがれが持って良い物では無い。
「うん。良いじゃないか。」
 最終的に、至極色しごくいろと呼ばれる物に落ち着いた。漆黒に限りなく近い、深い赤紫色だ。派手では無いが、光の加減で色合いが変わって見える逸品であった。
「貧弱に見えませんか。」
 やや細身に作られた紳士服は、草臥くたびれたやつがれの身体を都会的な雰囲気にしていた。然し、貧相な体型が浮き彫りになった様にも見える。唯一の心配事は其処であった。
「問題無い。私のお墨付きだ。何処へ行っても恥ずかしくないさ。」
 丸で侯爵の如き自信溢れる笑みに、やつがれは顔を伏せる。
「其れは、照れますね。」
 社交界と呼ばれる所へ出入りする、洗練された男からの賛美は、やつがれの身を擽った。馬子にも衣装だと分かっていても、尊敬に値する人に認められるのは心地良い。《立科永》としては、外見に難癖を付けられるよりは断然良いのだ。
 首帯ねくたいの結び方を教わり、一人で着られる様にする迄に、幾らかを要した。
 活動を続けるのならば、人付き合いも増える。覚えておいて損は無い。そう勧められた。
「お前は、これから飛翔する身なのだから。」
 顔を綻ばせる灰藤先輩の言う真意は掴めなかったが、期待されている事は分かる。
「大臣にでもなりましょうか。」
「大いに楽しみにしている。」
 冗談めかした未来の話は、重苦しい現状を幾らか軽快にしてくれる。
 例え其れが、《立科永》としての未来だとしても。
 
 ◆
 
 夕飯は和洋折衷、様々な品であった。作法について精通している訳で無かった為、畏った料理が出されたらと不安に思えたが、箸で食せる物に統一されていた。
 もしかしたら、田舎者のやつがれに対する気遣いがあったかもしれぬ。
「何れも美味でした。御馳走様です。」
「口に合ったなら幸いだ。」
 食後の珈琲を頂き乍ら、灰藤先輩の自室で歓談を楽しんでいた。灰藤先輩の知識は、青泉が持っているものとは違い、時代の流行り廃りにも詳しかった。
 此の流れなら、言えるだろうか。やつがれは彼と二人きりになったら話さねば成らぬと考えていた事がある。雨に濡れた、あの日の事を。
「……此の前、城島先輩と話しました。」
 穏やかな雰囲気であったが、其の一言で空気が変わってしまった。緊張が走るが、あくまで世間話の体裁を保つ。
「あの場で起きた事を詫びて頂きました。やつがれは彼を許しました。」
 珈琲は美味である。にも拘らず、舌に砂が載せられたかの如くザラリとした。
「否、元より、許すも許さぬも無いのです。城島先輩の頭が冷えたのが大事な事だと思います。」
 穏やかな笑みを作ったが、上手くいっただろうか。灰藤先輩は、何かを思案している。切れ長の目が、やつがれを捉えて離さない。
「何故だ?」
 矢鱈と長く感じた沈黙の後、彼は一言だけ、やつがれへ向けた。解せない、と言いたげである。
「何故、其の様に考える。理由がある筈だ。」
 彼は、やつがれの話の中で感じた些細な違和感を、一つも見逃す事は無いのだろう。完璧に塗装された道に、小石一つ許さぬ様に。
「……城島先輩が。」
 口許を引き結ぶ。此の人には、何もかも白状する事になるかもしれぬ。深呼吸をし、珈琲を机の上に置いた。
 背筋を伸ばせば、真っ直ぐな瞳を此方に向ける彼が居た。
「辯論部部長が、正しいからです。やつがれは……由芽子と、人目を忍んで会う仲でした。」
 隠しては成らぬ。今の灰藤先輩には、言い訳も秘め事も通じない。其れだけの眼力と迫力があった。
「知って居たよ。」
 思い掛けない台詞であった。罵倒や軽蔑もなく、淡々とした口調である。吃驚で目を見開いたが、灰藤先輩は落ち着き払った声音で続けた。
「そもそも、初めの手紙を預かったのは私だ。彼女がお前に気があると思うのは当然であるし、お前もまた、彼女に惹かれても妙では無い。」
 褒められた事ではないが、男女なら其れ位あるだろう。平常に、珈琲を啜る姿に、やつがれは目眩がした。
「違う、違うのです、灰藤先輩。」
 やつがれは、断罪されたいのだ。許されたいのでは無い。青泉も嵯峨崎も、不貞のやつがれを受け入れてしまったのだ。
「やつがれが彼女を……、由芽子さんを殺したも同然なのです。」
「彼女の事故に居合わせなかったからか。」
「違う!」
 叫ぶに近い声量であった。思わず机を叩いた所為で珈琲カップとソーサーがぶつかり合い、陶器ならではの鋭い音が響く。
 息が途切れ、視界が虫喰いとなっていく。  安賀多に絶望へと突き落とされた時。青泉との交わいで気を飛ばした時。嵯峨崎に苛め抜かれた時。其れ等と同様に、黒や白の明滅が明瞭さを奪っていく。
「やつがれは、死ねなかった! 死ぬ覚悟がなかった! 彼女となら何処へでも行くと誓ったというのに、やつがれは、や、つがれ、は……!」
 肺がひっくり返る。真面に息を吸うことが出来なくなる。あの庭園の池の中で味わった苦しみが、再びやつがれを襲う。目の前が歪み、受け入れがたい現実に溺れていく。
「か、ぁ……! ひ、っ!」
 絡繰人形が、破損しかける時と似た動きだ。反射神経が暴走し、痙攣を引き連れる。机の上にみっともなく崩れるやつがれであったが、灰藤先輩が引き上げてくれた。
「落ち着け。立科。」
 やつがれの側に寄り添い、背中を一定間隔で摩る。口に指を突っ込まれたのには驚いたが、呼吸が幾分楽になる。
 涎と涙で情けない状態となったが、灰藤先輩の瞳は穏やかであった。時間は掛かったが何とか平静を取り戻せた。
「……城島先輩が、正しいのです。何もかも、……。」
 呼吸は未だ不規則だが、言葉を発することは出来た。伝えねば成らぬ。答えねば成らぬ。願わねば成らぬ。やつがれ自身が出来る事は、最早たった其れだけなのだから。
「灰藤先輩、お願いです。辯論部へ、戻って下さい。あの愚かしい程の正直者には、貴方が側に居なければ……。」
 呼吸の乱れの所為ではない、別の涙が溢れる。毀れたと思った感情が急激に修復されたのか、今度は悔悟の情に駆られる。久しく感じて居なかった物だ。
 嗚呼、此れは、懺悔なのだ。
「《民主倶楽部》には、時々顔を出してもらえれば充分です。やつがれの様な逸れ者に、今以上に支援頂くのは心苦しいのです。」
 灰藤先輩に縋る形で真情を吐露する。  虚栄も、虚像もなく、本心からの言葉であった。其れは《立科永》からか、やつがれ自身からか、区別が付かなかったが……。
「宗介と話してみよう。そして、《民主倶楽部》からも抜けない。」
 灰藤先輩は、腰掛けた儘のやつがれを抱擁する。其れは辛苦を分け持つ物であり、無欲だからこその触れ合いだった。
「お前の活動を、間近で観たいのだ。」
「悪趣味な……。」
「こんな家に住んでいる位だからな。」
 やつがれの涙を拭い乍ら、肩を竦めて笑う。先輩は慈愛に満ちた顔をしていた。表に立つ《立科永》だけではなく、藻掻くやつがれ自身を見た上での台詞である。悪趣味と言わずして何と言おうか。
 先輩は息を深く、長く吐いた。閉じた瞼を縁取る長い睫毛に見惚れてたが、再び覗いた瞳は、先程の温もりが嘘の様な冷たさを湛えていた。
「其れよりも、だ。」
 途端、瞳だけではなく、氷の如く冷たい声音となる。其の豹変ぶりに、やつがれの背筋がそくりと冷える。
「お前、彼奴らに何をされている。」
「彼奴ら、とは。」
「庵野と嵯峨崎だ。」
 低く這う声に、氷漬けにされたかと思う程であった。
 此れは質問ではない。問いただされている。
 先輩は確証を既に得ているのだろう。我等の爛れた関係を。やつがれが巻き起こした不徳を、不健全な物と見做しているに違いない! 
 やつがれのシャツに手を掛け釦を外す。プツ、という音に全身に鳥肌が立った。
「肌を見せろ。」
「嫌です! 其れだけは、……!」
 容赦なく、そして手早く釦を外されていく。やつがれは灰藤先輩の顔が見られず、目を瞑って逃避した。露わになった胸や腹には、生々しく残る歯型や、鬱血による花弁が散らされているのだから。
「……ッ見ないで、下さい。」
 一つ一つを指先でなぞり確かめていく。其の手つきは確認作業を淡々とこなす物であった。何の感情も込められていない動作だからこそ、余計に居心地の悪い気分がした。
「矢張りか。」
 深い溜息と共に、ポツリと呟いた。落胆にも幻滅とも付かぬ声であった。然し、其れはやつがれに向けられた物で無さそうだ。
「庵野と嵯峨崎の確執が、余りにも露骨かつ悪化していたので、気になってな。」
「確執……?」
 外した釦を丁寧に留めていく。強引に脱がせた事を詫びる様な手付きであったが、其れよりも灰藤先輩の言葉が気になる。
「子供染みている。然し、看過出来ぬ程度にな。」
 堪らず、お聞きしても良い物ですか、と尋ねた。灰藤先輩は何か、深く思案する顔となった。
 何処から話したものか、と零す。洋燈の炎がジリリと燃える音を立てた。何やら根が深そうな気配を察知した。
「実は、庵野家と嵯峨崎家には、以前から軋轢がある。」
 思いがけぬ事実に、やつがれは一驚を隠し切れなかった。どうやら財界界隈では有名な話の様だ。
 明治初期の頃に遡る。そう前置きした先輩は再び席に着き、腕を組んだ。
「嵯峨崎家が砂糖や樟脳を中心にした商家であるのは知っているな。」
 知ったのは割と最近であったが、腑に落ちる部分であった。焼き菓子やら珈琲やらを取り寄せてはやつがれに与えていたが、卸問屋を通じて入手出来るものだったのだろう。
「そして庵野家は、昔から此処らの地主だ。土地も多く持つ。土地貸しも当然、行っている。」
 やつがれは頷く。分家もあると聞いている。離れた地域にも小作人に貸し付けている為に、野菜を稀に受け取る事もあると、何時ぞや酒の序でに聞いた。
「庵野家の承諾も無しに又貸ししている者が何人か居たらしくてな。土地権利の所在が曖昧になった所を、嵯峨崎家が狙ったのだ。」
 ふと、嵯峨崎の顔が過ぎる。表向きは天真爛漫で正義感に溢れている彼の家が、悪事を働くのが想像つかない。
「嵯峨崎家が、近辺の土地を買い取って回ったのだ。かなり上乗せしてな。新たな店舗を出すという名目だったが、飛び地だろうとお構いなしだ。客足など見込めない所も購入していた。」
 余りにも、姑息な手段に思わず眉が寄る。あの嵯峨崎からは矢張り、其の様な事をするのは信じ難かった。やつがれが考えている事を見抜いたのか、先輩は話を続ける。
「嵯峨崎自身、家の事を嫌っていただろう。以前気になって聞き出したのだが、『不義理を働いているのが許せなかったから』と言っていた。然し、……。」
 言葉を選んでいる。直感的に分かる素振りだ。思索に耽る姿に、やつがれは固唾を飲んで待った。
「嵯峨崎自身、家の仕事を継ぐ事はないはずだが、最近は熱心に手伝いをしている。だから妙に思ったのだ。」
 継ぐ事は無い? 兄が居るからだろうか。並み立つ疑問を其の儘ぶつける。
「家業を助けるのは、極めて一般的な事ではないのですか。」
「……嵯峨崎深志は、妾腹だ。」
 寝耳に水の連続だ。考えもしなかった事である。嵯峨崎の出生の秘密をこんな形で知ってしまい、一抹の罪悪感が芽生えた。
「庵野も嵯峨崎も、初めは家の事は持ち込まずに活動していた。少なくとも私の目にはそう映っていた。だが此処の所、二人が口論するようになった。」
 二人が? 確かに啀み合う様なやり取りはしているが、其処まで深刻なものだっただろうか。やつがれは首を捻る。
「……立科が思うよりずっと、惨たらしい口論だ。」
 小さく首を横に振る。あの二人から、殺意や悪意を剥き出しにする口争は結び付かぬ。議論に対しては冷静さと理性を常に念頭に置く奴等なのだ。
「お前の所有権を巡って、あの二人が争っているのだ。財力や権力を持ち出してな。」
「莫迦な!」
 我にもなく声を上げた。やつがれを手に入れる、という其の発想自体がおぞましい。
 然し、此れだけ状況が揃えば不自然さは確かに無い。推測出来る。出来てしまう。
「お前が、解決する事は出来ない。奴等がお前に執着し、背景には家のしがらみがある。だから、何かしようとしなくて良い。」
 頭がぐらぐらと揺れる。其れなら、本来、奴等は不倶戴天の仲であるのだ。否、初めは険悪さは無かった。共に家の事は表に出さず、個人主義的に、そして先輩と後輩という立ち位置を明確にして、部員として関係を保っていたのだ。
 初めから、彼等同士が不仲だった訳ではないのだ。
「以前、嵯峨崎家に、青泉とお邪魔した事があります。」
 青泉が、苦い顔をしていたのには、因縁とも言える理由があったからなのか。単に嵯峨崎を警戒して居ただけでは無かったのだ。
「青泉と嵯峨崎の兄様が顔見知りだと聞きました。別室で話をしていた様でしたが、其れは……。」
「十中八九、庵野にとっては針の筵だったろうな。」
 青泉からすれば、警戒すべき相手の本拠地に乗り込む様な物だ。庵野家で、殆ど青泉の身内に会わぬのも、青泉が嵯峨崎家との諍いを避けるためだったのかもしれぬ。
「お前が気に病む事は無い。家と家の問題に、余所者が首を突っ込んでも、何も得られないし、何よりあの二人が望まない。」
 穏やかに灰藤先輩は仰ってくれたが、変わらぬ事実が鮮明になる。
 やつがれの存在が、分別のあった庵野青泉と嵯峨崎深志の関係を、悪化させたのだ! 
「……やつがれは。」
 口を開いたが、言葉は続かなかった。沈黙が耳を刺していく。無力で空虚な掌に、汗がじっとりと滲んだ。
「気に病むなと言いたい所だが、忍耐の限界が来たら、私を頼れ。力になる。」
「……どういった、意味で。」
 財力や権力の勝負となれば、灰藤先輩に勝てるものなどそう居ない。そうなれば泥仕合も良いところだ。青泉や嵯峨崎に何様どうしようも無さは感じているが、破滅して欲しい訳ではない。
「さて、な。」
 意味深に黙する灰藤先輩から、威圧感のある雰囲気が漂う。灰藤先輩が味方に付くと言うのだ。此れ以上頼りになる存在は居ない。
 だからこそ、此の人の力を借りてはならない。
 やつがれは其れきり黙り、珈琲の水面のみを見つめる。黒い液体が、歪んだ灯火を映していた。
 
 其れを飲み干す気には、ならなかった。