第一話

 春が怖い。
 ピンクに見せかけた白っぽい花びらが舞うたび、ひどい焦りを覚える。新たな脅威が入学してくるに違いない。想像しただけで震え上がるし、俺は惨めにも隅に縮こまって塞ぎ込む以外に、出来ることがない。アトリエもどきの四畳半、お気に入りのインディーズバンドも、芽が出ない。
 M美大学に入学して早ニ年。完全に中だるみした俺は、入学した頃の熱量を失っていた。デッサンも空間把握も、得意分野だ。一番は造形。その次に電子工作。その次に油絵だ。
 だが、得意なだけだ。そんな奴は周りにゴマンと居るし、なんなら俺は才能とかセンスなんていう感性が無い凡人である打ちひしがれている。
 それでも課題はやってくるし、展示会を開くのを止めない。ドMなんじゃないだろうか。M美のMはドMのMってか、と考えて、それは俺だけに配られた手札でもなければラベルでもないことに瞬時に気がついて、体育座りのまま、自分の膝にめり込んだ。
 
 悩みは尽きない。新入生歓迎の展示会がある。過去の自分が、その展示会を観て思うところがあったがために、出展側に回った今、ものすごく重荷になっていた。
 当時、俺はものすごい期待を込めて観に行った。しかし得たものといえば……「は?」という感想だけだった。簡単に言えば肩透かしを喰らったのだ。
「思ったよりスゴくない? というか、大したことない。なんだ、苦労して入学したのに、先輩方々はたったこんなもんなのか?」
 という失望とも落胆とも言えないモヤモヤが溜まった。
 そして今、俺の作品を観た新入生が、そのモヤモヤを抱えるかもしれないと思うと、……クソほど嫌だった。
 作るものがある。作りたいと思うものも、テーマもある。テーマを掲げて、理屈を通す。理屈で埋まらないところを、なけなしの感性で補完する……。少なくとも、俺の勝ちパターンはこれだった。今までのやり方では行き詰まっている。それだけは確かだ。違うパターンを探さなくてはと考えて、今までやった事のない手法を凝らして、完全に迷走している。
 そんなものを表にドヤ顔で出して何になる? 未完の大作よりも完結した駄作が勝るって?  馬鹿をいえ。そんなものは、石女作家のケツ叩きに使われる言葉だ。俺は違う。コンスタントに出し続けてきたし、凡人ながらそこそこ上手くやってきた。
 
 やって来たはずなんだ!
 
 心で叫べどものは出ず、俺はただ「ううぅ……」と唸るだけで何にもならない。何にもなれない。
 アトリエにぎっちり詰まった作品は、俺の承認欲求の証明と、作品である自負と、無価値なガラクタの境目を行ったり来たりする。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 ツイテネェ!  と叫べば心情が軽くなるかと思ったが、より一層自分の貧しさを引き立てるだけになった。どれもこれも中途半端に練度を上げた技術しかなく、組み合わせて戦う事でしか最早勝ち目はないのかもしれない。浮かれた学校の空気は消化に悪く、胃がひどくもたれる思いをした。
 サークル勧誘の波が蠢いている。通りかかる人影全てにチラシを配る馬鹿どもなので、俺の手元にゴミの山が築かれていく。
 《未経験者歓迎!》
 《飲み会強制なし!》
 《身体も動かそう!》
 《他校との連携あり!》
 ──無知で、無垢で、愚鈍で、世間が狭くたって、先輩様ならお前らに、生きられる場所を与えてやる。
 そう読めてしまう活字の無駄遣い。無性に腹が立ってゴミ箱へまとめて捨てた。同じ事を考えずとも、構内にあるゴミ箱は白、ピンク、薄緑、薄黄色、藁半紙の紙屑でいっぱいになっていた。千切ってばら撒けば紙吹雪になるだろうに、ペラ一であるが故にゴミとなる。紙吹雪だって床に着地すりゃゴミではあるが、その空虚に舞う間は人々の目を奪い、ゴミ以外の価値をまとってひらひらしていられるのだ。チラシからしてみても、もしかしたら、完全なるペラ一に無駄極まる文字を刷られるよりも、無地のままで乱雑に千切られたほうがマシかもしれない。
 そこまで考えて、バカらしいと思いながら、紙吹雪を浴びる自分の姿を想像してみる。どうしたって滑稽だが、それによって得られる立場は誰よりも勝ったものになるだろうか。
 褒められたいわけではない。褒められるに越したことはないが。ズルしてでも勝ちたい。本当にズルをするわけではないが。しかしそれを実行するだけの、人間的な広さと深さがない……。
 人脈ある同輩どもは、俺に構う事なく先に行く。人脈はないがとにかく目立とうとする後輩は、ライブペイントや展示会をこなしている。俺はどちらも向かなくて、一人で何か作っている。礼讃されれば満更でもないだろうが、それが目的ではない。誰かの意識に鮮烈に、刻み付け、染み付いて、どうしたって忘れられないようなものを作り上げたいだけなのだ。
 
 ああ、自己嫌悪。いつからお前は、そんな壮大な生き物になったんだ。
 
 自身の呆れはすぐに引っ込んで、自身の返答を聞く。
 ちっぽけだからこそだ。だから春風が怖いし、新たな人間が怖い。いつだって脅かされるから、誰か侵略したいに過ぎないのだ!
 
 衆愚の自分と、軍人の自分が脳味噌の中で討論を繰り広げるのを放置して、俺の身体はグループ室へと向かっていく。気が進まない。あの集団の中にいても、何かが作れる気がしない。それでも、やらなければならない。
 惰性で教室のドアノブに手をかけて音を殺して引く。室内では雑談混じりに作業に勤しんでいて、俺が入ってきたことなんて気にも止めてない。俺の物が広がってるスペースへ気配を消しながら近づいて、一息つく。木製の床でなるべく平らなところを選んで、俺の作品を見上げた。
 廃材を使って表現しようとしているのは、捻れた木と、実る針金の林檎だ。産業革命以降の利便性と代償。それからなるべく大きいものを作ろうとして、組み上げたもの。虚栄心からくるものだと指摘されればすぐにでも壊すというのに、そうできない。崩してイチから構築し直す時間はない。何より、勿体なさが邪魔をして破壊できない。しかしここまで来ると何を足せば良いのかも分からず、手が止まりそうになる。
 それでも、どうにかしなければ。手を伸ばして林檎を吊るして、……そうだ、ワイヤーの蛇でも絡ませてみようか。思いつきではあったが没頭して作業するうち、頭にかかる影が動いたような気がした。不思議に思って見上げたが、変わった様子はない。視線を戻して再び蛇を作っていると、
「危ない!」
 あまり会話もなかったメンバーの一人が叫ぶ。何が、と思うまもなく影が蠢いて襲いかかって来る。派手な音を立てて、廃材の木が倒れ、俺は呆気なく潰されたのだった。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 ツイテネェ、とは思わなかった。不幸中の幸いか、制作物は倒れ込んできただけで破損しなかった。途中経過だったが、ほぼ完成していると言って提出することもできた。
 蛇を這わせることができなかった事に対して、さして悔しさは無かった。むしろ自分の手から離れてホッとしている。──……嗚呼、俺の手に余るものだったから、噛み付かれたのだ。
 大袈裟に巻かれた両手首の包帯は、固定する意味もあるのだという。診察室での会計待ちの時間は手持ち無沙汰になって、診察番号が印刷された紙を無意味に撫でる。怪我もそうだが、二週間ほどの安静のため制作をストップする様に言われたショックもあって、ひたすらに茫然としていた。安堵半分、落胆半分。その次に伸し掛かるのは不安だ。
 バイトどうしよう。バイト休みの間の食い扶持。怪我していてもできるような日雇い労働なんてあるだろうか。本来であればスマホを取り出してすぐさま教授に連絡しなければならないのに、今は紙より重い物に触れる気力すら無くなっていた。
「五十八番の方……いませんか? 酒依(さかより)さん、酒依もえぎさん」
 自分が呼ばれていることに気付いて、ハッと顔を上げる。番号を呼ばれていても反応できなかった事に申し訳なさを感じつつ、不自由を感じる手で会計を済ませた。
 ええと、病院を出たら隣の薬局で処方箋の貼り薬を貰って、それから、それから……。思考が止まってるのか、飛び散っているのか、どうにも上手く動かない頭を半分置き去りにして薬局へ向かおうとする。もう夕方に差し掛かっていて、赤い夕陽が物哀しさを掻き立てた。
 俺は何しているんだろう。ネガティブな深みにハマりそうになったその時、
「あの、お兄さん!」
 若い男の声が背後から飛んできて、咄嗟に振り返る。
 背が高く、黒髪短髪の爽やかそうなニンゲンが立っていた。見覚えなのない男に呼び止められるなど、そういうパリピじみた人間関係を築いていないため、他のニンゲンを呼びたかったのかと辺りを見回す。
「もえぎさん、ですよね」
 名指しされたので、間違いではないようだ。一方的に知られていると思うと気色悪くて、半歩後ろに下がる。
「どちら様?」
 喉がカサカサだった。そういえば怪我してから今に至るまで、ほとんど水を取ってなかった。それでも警戒心から汗が出るのだから、人体のホメオスタシスは理解しがたい。
「あの、覚えてませんか。昔、病院で、折り紙の花火を作ってもらった……」
 病院、折り紙、花火。三つのキーワードで引き摺り出された記憶は、過去一度も思い出したことのない出来事だった。俺にとっては些細なことだったが、しかし今は光が灯るように思い出せる。
「……ま、真角くん……?」
「そうです! 覚えててくださったんですね!」
 言われてみれば確かに面影が、と思うまもなく駆け寄ってきて抱きしめられる。俺のような中途半端な身長より頭ひとつ大きいニンゲンに抱きしめられた屈辱と、スキンシップの馴れ馴れしさに引いた。なんなら鳥肌が立った。
 いや、覚えているが。俺の記憶の中に居た真角くんは、ちんちくりんで、目の大きい美少年だった! こんなにデカいニンゲンじゃない!
「ちょ、離して」
「す、すみません! 怪我してるのに」
 申し訳なさそうにする表情に、懐かしさを覚える。眉毛をハの字に下げるところや、睫毛の長さ、鼻筋の辺りには、記憶にある真角くんと一致する。
「あの、時間ありませんか。オレずっと、もえぎさんにお礼が言いたかったんです!」
「お礼……?」
 なんのだろう、とは思うが彼に作ってあげた紙花火くらいしか心当たりはない。目をキラキラさせる真澄くんを断る罪悪感、それからちっぽけな好奇心に引きずられて──正直言うと学校に連絡するのが億劫だったのもある。単なる現実逃避──、俺は近くのファミレスに流れていくのだった。