第二話

 話せば話すほど真角くんだった。
 記憶にある彼は塞ぎ込んでしまった表情と、無邪気に笑う顔だったが、重なる面影は色濃くなるばかりだ。
「オレ、サッカーまだ続けてるんですよ! 今日は定期検診だったんです」
 夕食というには微妙な時間帯にも関わらずパスタをペロリと平らげて、ドリンクバーのメロンソーダから気が抜けて、どれくらいたったか。話が尽きないのはいいことだと思う。俺はほとんど話を聞いて頷いているだけだとしても。
「退院した後もクラブ続けて、中学でも部活して、高校は推薦で入ったんですよ」
「そっか……。背、伸びたね」
「何とか180センチに届きました」
 俺は愚かにも、久しぶりに会った真角くんに安堵を覚え始めていた。屈託のない笑顔や卑屈さのない言葉。パリピっぽいと思えた空気感は闊達な雰囲気にすげ変わっていた。単なる抱いた印象の違いであり、真角くん自体は変わっていないのに。
「もえぎさんは昔とあまり変わらないですね」
 ちょっとぐさっと来てしまった。背が伸びなかったのはコンプレックスだ。
「まぁ、うん……165センチしか無いから……」
「あ、身長ではなくて! 全体の雰囲気ですよ」
 それは真角くんもだよ、と何とか笑って返事をした。
 初めて会ったのは彼が十歳だった。七年経って、高校二年生になったというが、自分が高校生だった時と比較してどことなく幼い。
「初めて会った時も大人っぽいお兄さんだな〜って思ってました」
「その時は中学生だったかな。そんなんじゃ無いよ、全然」
 本当にそんなんじゃ無い。大人っぽいお兄さんは自分の作品に押しつぶされたりしない。だというのに、俺は先輩風みたいなものを精一杯吹かせようとしていた。話せば話すほど、俺は<もえぎさん>から遠いのだと、ほんのちょっとの時間で明らかになってしまった。
「もえぎさんは今、何してるんですか?」
「ええと、美大に入ってて、二年になったところ」
「美大!」
 めっちゃすげえ! とあまりにも大声で称賛するので、そんなんじゃ無いから、と何回も繰り返す。周囲に居る人たちの、視線が集まって恥ずかしかったが、同時にくすぐられる様な心地もして死にたくなる。
「そっかぁ、美大生なんすね! 器用でしたもんね!」
 やっぱり、もえぎさんはすげえや! 真角くんの言葉が胸に沁みる。本当に、そんなんじゃ無いんだ。心の奥底で泣きそうになりながら、話を逸らしたくて昔話をしようと試みた。
「と、ところで、定期検診って言ってたけど……まだ事故の後遺症とかあったりするの?」
「ああ、いや。古傷っぽくなっちゃったのか固まりやすいみたいで。定期的に電気流してるだけなんです。後遺症っていうほどのものじゃないですよ」
 真角くんが入院していた時のことを思い返す。俺は、足首を折った弟の見舞いに来ていた。弟の入院期間は二週間くらいだったと思う。その弟と同じ部屋になったのが、交通事故にあって入院していた真角くんだった。
 結構な大怪我だったらしく、足は複雑骨折していると聞いた。打撲痕や擦り傷もあった。身動きできなくて、見るからに沈んだ表情をしていた。柄にもなく俺から話しかけたくらい、悲愴で悲痛な空気を纏っていたのを覚えている。
「そっか。良かった」
 そんな彼が、心身ともに元気そうにしていたので、心からそう思えた。一緒に過ごしたのは短い間だったが、徐々に明るさを取り戻し、クリクリとした大きな目を瞬かせて懐いてくれたのが懐かしい。弟と一緒にゲームで遊んだ日もあったし、勉強を見た日もあった。
 もえぎさんのおかげです。そう言って、真角くんはずっと忘れ去ってたメロンソーダを一気に吸い上げた。氷も溶けきっていたので、あっさりとそれは無くなって、薄い膜みたいな飲み残しがグラス越しに見える。
「あの時、本当に死にたいくらい落ち込んでたんです。サッカーどころか走ることもできない。その間に他のライバルが上手くなって置いていかれるんじゃ無いかって不安だったし。何より……、花火が見たかったから」
「懐かしい。夏祭りだったよね」
 二人ので一番印象的だった出来事は、お互い一緒みたいだ。
 ある日、病院の近くで夏祭りが行われたのだ。打ち上げ花火もあると病院内で話題になっていたのだが、真角くんは身動きが取れなかったので病室に居ることになってしまった。
「打ち上げ花火見るんだって言って、病室から誰もいなくなっちゃって……。看護師さんも気を使って声かけてくれたけど、変にいじけちゃったんですよね」
 恥ずかしそうに頬を掻く真角くんに、頬が緩む。その時のいじけっぷりは覚えている。あまりにも気の毒だったので、俺は室内でも楽しめる花火は無いかと考えて、病院の売店にあった折り紙を買い占めた。
 その頃の俺は紙にハマっていたのもあり、折り紙の花火を作って真角くんにプレゼントした。複数枚組み合わせて作るもので、チューガクセーらしくちょっとすごいものを作ってやろうと思ったのだ。
「折り紙なんて子供っぽいかなと思ったんだけど、気に入ってくれて良かった」
「気に入ったなんて、そんなもんじゃ無いですよ!」
 食い気味な返事にちょっと身を引く。真角くんの瞳に、折り紙をプレゼントした当時と同じキラキラしたものが輝いているのが見えた。
「一個ずつ組み合わせて、大きい形を作るっていうのがその時すごい衝撃で。しかもあの花火、形が変わるじゃないですか。くす玉とかは女子が作ってたのを見たことがあったけど、それ以上に……ああもう、上手く言えないんですけど、一個ずつ頑張って、全部つなぎ合わせて、前に進もうって心底思ったんですよ!」
 ものすごい熱量を浴びてしまった。俺が思っていた以上に、あの紙花火は彼のお気に入りだということは伝わった。なんなら、原初体験に近しい何かであると言い換えられるかもしれない。
「そう思えたのは、真角くんの感受性が豊かだったからだよ。でも、力になれたなら良かった」
 本心ではあったけど、格好つけたセリフ。どこまで行っても薄ら寒い自分が、真角くんという太陽光で浮き彫りになる。もっとも、彼は彼で、俺ではなく<もえぎさん>を見ているので、そんなことを俺が考えているだなんて知りもしないだろう。
「連絡先、聞いてもいいですか。もっと、もえぎさんと話したいです!」
「う、ん。いいよ」
 躊躇った。<もえぎさん>と乖離した俺が、彼に一体なんの話ができるのだろう。それでも真角くんの側は……ほんの少し居心地がいいと感じてしまったのだった。
 陽キャ怖い、と思いながらも人と話せる安心感みたいなものにほだされてしまったとも言える。

 ◆

 俺の病院に行く日に合わせて、病院のそばで合流して、ファミレスやカフェで話す仲になった。
 部活のこと、学校のこと、流行のこと、昔のこと……。真角くんは裏表無い性格に育ったみたいだった。人を悪くいうことがなく、嘘もあんまり上手くない。俺は俺で、美大に入るまでの経緯だとか、作っているものだとか、最近ハマってる飯だとか、毒にも薬にもならない話をするのが精一杯だ。
「病院の近くにあった洋食屋、覚えてえます?」
「ええっと……ナプリ・ナポリだっけ。店名にナポリとか入れておきながらナポリタンないじゃんとか、言ってた」
「しばらく通院してたんでちょいちょい行ってたんですけど、結局ナポリタン出すようになったんです」
「ンフッ……! 色んな人に言われたんだろうなぁ」
 こうして会うのは二回目だ。ボロは出てないだろうか、と思うことはあるが、初めと比べえてあまり緊張したり身構えたりせずに会話できている。彼が色々と気を遣ってくれていることは間違いない。俺は会話が面白い人間では無いので、面白くなるように拾ってくれているのだ。
「そういえば、もえぎさんってこの辺に住んでるんでしたっけ」
「ああ、うん。ここから十五分くらい歩いたところ。一人暮らし」
「いいなー、ひとり暮らし! 大学生っぽい!」
 あまりに羨ましがるので、遊びに来る? なんて言ってしまった。
 要らない色気を出すものではない。何やかんやの流れとは恐ろしいもので、その足で連れてきてしまった。夕飯がわりに何かスーパーで……なんて言って、ちゃっかり買い物まで済ませている。
「マジで散らかってるし、あんまり面白いもの無いかも」
「いやいや、楽しみです!」
 歩いて十五分の自宅兼アトリエ。コンクリート打ちっぱなしの外観で、螺旋状の外階段とそれ沿う赤い手すりがアクセントになっている。内壁もコンクリかと思いきや真っ白に塗ってあり、制作する時に視界の邪魔にならず落ち着くので結構気に入っている。2LDKで一人で住むには広いが、アトリエを兼ねるともう少し広さが欲しくなる。大学生に入ったら人を呼ぶことがあるかも、と思って入居したが、真角くんが初めてのお客さんとなった。
「しゃ、シャレオツ……!」
「真角くんって、テンション上がるとちょっと面白くなるよな」
 二人掛けのダイニングテーブルに買い物袋を置いて、目を輝かせたままの真角くんにペットボトルのお茶を渡す。大したもてなし出来なくてごめんね、と言いながら、家の中で一番フカフカなクッションを渡した。
 制作バカなので、モニターはあるけどテレビは無いし、ベッドも無い。寝るところはリビングとアトリエにしている部屋のソファのどっちか。普通の生活じゃないと思いつつも、娯楽や寝食をあまり優先していない部屋。資材や道具がアトリエに入りきらなくて、生活スペースにまではみ出してしまっているので、いい加減整理しなければと思っているが、それがなければかなり殺風景な部屋だ。
「芸術家の部屋って感じがします」
「ないない、ヤベー奴は本当にヤベーから」
「何だろう、絵具? の匂いですかね」
「あ……臭い? 多分接着剤とか、塗料だと思う」
 もえぎさんの匂いがする、とか言い出したので、ちょっと複雑な気分になったが、悪気がないのは分かっているので、曖昧に笑っておいた。
 両手の怪我は良くなり始めていて包帯は取れたが、サポーターは必須だ。ペットボトルの蓋が開けづらくてちょっと格闘してると、彼はヒョイとそれを取り上げていとも簡単に開けてくれた。
「まだ不便そうですね」
「ん……。まぁ、大丈夫だよ」
 困ってはいないが、不便といえば不便だ。けどそれ以上に、制作から離れられて、少し安堵してしまっている自分が恐ろしくて認めたくない。そんな自分が、感性の豊かさみたいなものを自慢したいために、真角くんを連れてきたのでは……と思えて今すぐ頭を壁に打ち付けたくなる衝動に襲われる。
「もし良ければ、オレ、ちょこちょこ来ましょうか?」
「え、なんで……」
「その感じだと、家事も大変なのかなって」
 それはそうなんだけども。元々している家事なんて最低限だ。自炊もロクにしていないし、真角くんにさせることではないのは明白で、俺は勢いよく首を振った。
「真角くんだって忙しいでしょ。俺にそんな構わなくていいよ。元々雑な生活してたし」
 断られると思ってなかったのか、目を見開いて吃驚しているのを隠さない表情を浮かべた。
「……もえぎさん、体重どれくらいです?」
「えっ? さぁ、今年の健康診断はまだだけど、五十キロを行ったり来たり……?」
 何で今、そんなことを? と思いながら答えると、五十キロ!? と今日一番の大声を浴びた。
「じょ、女子じゃないですかそんなん! ダメですよ食べないと!」
 その台詞と共に両肩を掴まれて揺さぶられたのと、「うわ薄っ!」と言われたダブルパンチで凹む。そりゃ、スポーツしているニンゲンからしたらもやし野郎だろうが、そんなはっきり断言せずともいいのではないか。
「い、いいんだって別に! 燃費がいいだけだし!」
「いやいや、いつか病気しますよ!」
 病気。ああ、いいかもしれない。戦線離脱するのにちょうどいい言い訳かもしれない……。意識が一瞬外れたのを察知したのか、真角くんの手が止まった。
「もしかして、迷惑ですかね……? 彼女とか居て、よく来るとか……」
「か、彼女は居ない、けど……」
 真角くんよ。女の気配もクソもない部屋を見て、何でそう傷をえぐるようなことを言うんだ。怪我以前に体格差もあって抵抗せずに居たが、掴まれた肩が痛くなってきたので、離して欲しいと伝える。力、強いね。と言うと、勢いに任せた行動が恥ずかしくなったのか赤面してしまった。
 一呼吸置く。シュンとしてしまった彼を見ていれば、心配してくれているのは伝わる。無碍に断るのも心が痛んだ。ああ、傷む心がまだあったのか、と今感じる必要のない自虐めいた気分がひと匙。
「迷惑でもない。けどお互い、したいことがあるんだから、さ。気持ちだけ受け取っておくよ」
「で、でも……」
 真角くん、こんな犬ころっぽい子だったっけ。綺麗な顔立ちをしていた子だったので、どちらかと言うと儚い系男子のような印象だった。病院という特殊な環境だったから、本来の彼ではなかったのだろうか。
 俺は俺の中にある<真角くん>を、彼に投影してしまっているのだろうか。
 そう思うと、急に今の対応が誤っていたように思えてくる。
「そんなに、俺のこと心配?」
「はい」
「めっちゃ前のめりに言うね……」
 真剣に言う彼がちょっと面白く見えてしまって、気が抜けてしまう。
「じゃあ、真角くんの部活がない日、おいでよ。怪我が治るまでは、すること限られてて暇だし」
「い、いいんですか!」
 普通、世話を焼きたくて喜ぶ奴なんて居ないのに。あまりに全力で嬉しさを出すから、また面白くなって俺は笑った。

 ◆ ◆ ◆

 今年最初の、真夏日になった。
 あっという間に猛暑になって、秋が来るのだろうなと夏空を見上げる。
 俺の怪我は長引いていた。一度は治ったのだが、ふとした瞬間に痛めて、また治ってを繰り返している。日常生活でどうしても使ってしまうから仕方ない、と医師は言ってくれたし、診断書も出してくれている。何も出来ないのはもどかしくて耐えらえず、制作の課題もある程度こなしていた。そしてまた悪化して……の悪循環である。
 怪我とは裏腹に俺のQOLが爆上がりしている。整理整頓は進んだし、飯の質も上がってしまった。長らく使ってなかった炊飯器が仕事をしているし、冷凍庫に作り置きがあるだけでこんなにも変わるものなのか……と実感している。

 今日は水曜日なので課題を早めに切り上げて、電気治療とマッサージを受けに行く日だ。教授に呼び止められ、怪我の治癒に専念するようにと念押しされた。
 押しつぶされた例の制作物は、結構な評価を得たため、一号館の教務課の前に設置されている。そこの設置物は定期的に置き換わるのだが、多くの学生やオープンキャンパスに来る高校生らの目に留まる。悪い気はしないが、居心地が悪い。
 一目置かれるようになるかもしれない状態だ。だからこそ、怪我は早く治さなければならない……のだが。
 サポーターをはめた手首が恥ずかしくて、俺はまだ長袖で粘っていた。日に焼けたくないし、大概室内にいるので問題はない。だが病弱感が前よりも滲み出てしまい、それはそれで恥ずかしかったが、怪我が太陽の下に晒されるよりはマシに思えた。

 真角くんは木曜日と日曜日に来ることが多い。治療を受けながら、毎回律儀に連絡してくれる彼を思い出す。もういっそ合鍵でも渡してしまおうかと考えたが、自分のプライベート空間に他人を定期的に上げていること自体が例外的なことだ。例外の度合いを深めるのはよそう、と考え直して、病院の天井を見る。
 空想癖があるので、天井を見つめて一日過ごすのは苦にならない。だが、真角くんみたいなタイプは、きっとそうではないだろう。もしかしたら大袈裟ではなく、入院期間中に眺めていた白い天井というのは、彼にとって死にたくなるくらい落ち込む象徴だったかもしれない。
 明日会ったら聞いてみようか。その上で改めて頑張ったなと褒めてみようか。もうすぐ夏になったら祭りが催されて、今度こそ一緒に花火でも観ようか……。
 取り止めのない思考はタイムリープするにはもってこいで、あっという間に治療が終わった。夕陽が差していて、気持ちの良い風が吹く。この時期にしては湿気が少ないみたいで、伸びやかな気分になった。
 怪我、治そう。ちゃんと治そう。クセになる前に。
 心の中で何度か唱えていると、道を阻む影がこちらに伸びた。
「お疲れ〜、居た居た」
「酒依くん、ヤッホー」
「ワリーね、押しかけて。ちょっと良い?」
 思いがけないニンゲンが目の前に居ると、言葉も出てこない。別学科の三人組だった。俺らの学年ではちょっとした有名人で、派手なパフォーマンスや制作物で人目を引く陽キャたち。動画配信なんかも積極的にしていると聞いている。
「何か、用事?」
 家路に続く人通りがあまりないところで偶然出会(でくわ)したと思えない。
 本当に病院じゃん、とヒソヒソとした言葉に、背中から汗が流れ落ちる。
「あのさぁ、怪我してるって、マジ?」
「今、病院の帰りだけど」
 精一杯の虚勢。言葉を簡潔に。端的に。でもそれだけだ。こいつらには何の脅威にもならないだろう。
「教授から聞いたぜ? 怪我長引いて大変ってさ」
「教務課のところの作品、酒依くんのでしょ? あそこに置かれた人って、後々イベントで声かけられやすくなるんだけどさ。続けられんの?」
「続けるって、何を」
 悪意しかない声音。怯む素振りを見せてはならないと拳を握る。ズキリとした痛みが手首に走った。
 三人から、見下した笑みが消える。
「躊躇い傷だらけのリスカみたいな作品で、制作が続けられるのかって聞いてんだよ」
 全身の肌が粟立った。全くの図星。見抜かれている──!
「その怪我、本当だとしてさー。自分で悪化させてるんじゃねーの」
「そうそう。教授言ってたからね。怪我が治るまでは多少は、って」
「エコヒーキしてもらえて助かってるだろ、実際」
 チャラついた奴らだと、俺はこいつらを軽視していた。軽視されるべくは、本当は、本当は……!
「馬鹿なの? 俺の作品の、どこが」
 喉が引きつって、反論らしい反論もできない。
「あのレベルなんてゴマンと見てンだよ。ライブドローイングで青空描いちゃうみたいな」
「あれ、もしかして何か、認められたとおもっちゃった?」
「さっさと撤去するよう、教授に申し出したほうが身のためだぜ? 恥ずかしくね?」
 返す言葉がないと、足元の地面が抜けるのだと知った。立ってはいるし、目も逸らしていない。けれどそれ以上の行動がとれず、三人組の言葉を真正面から受けてしまう。
 唐突に、ぐん、と腕を引っ張られて足がふらついた。腰を支えられてそのまま景色が流れていく。後ろから、さっきの三人が何か叫んでいる。突然の変化に混乱するが、横を走っている人は見間違い様がない。
「ま、すみ、くん」
「すみません。困っていたように見えたので」
 夕陽に照らされた横顔は、俺の知っている真角くんではなかった。鋭い目元で先を見据えて、俺の自宅までの道を急いでいる。
 小走りで家に到着する頃には、互いに汗が滲んでいた。鍵を、と言われてポケットの中を探って渡す。錠を落とす音がして、素早く入ると、俺の腕を引いて慌ただしくドアを閉めた。
「真角、」
「大丈夫です、もえぎさん」
 玄関入ってすぐ、正面から抱きしめられる。背後はドアなので逃げることが出来ないが、そもそも今の俺にそんな力がなかった。真角くんに包まれているうち、自分の体が震えていると気付いた。
「ぁ、……俺、……」
 声を出そうとしたが、言葉にならなくて、キャパを超えたのか堰を切ったように涙が溢れた。薄暗い部屋の中に、俺の吐息と嗚咽が漏れる。
「う、うぅ……!」
 真角くんは、無言だった。その代わり抱きしめる力を変えたり、後頭部を撫でたり、背中をさすったりしてくれた。肩口が濡れるのも気にせず、人肌と鼓動を伝えてくる。
「俺は、恥ずかしい……!」
 少しずつ落ち着きを取り戻すと同時に感じた事は羞恥だった。
 年下の真角くんに抱き竦められるのも、助けられたのも、あの三人組に見抜かれていたのも、教授に憐みを向けられていたのも、教務課に置かれたあの作品も……!

 涙が止まり息が整った頃には、とっくに夕陽は沈んでいて部屋に照明が必要だった。
 泣くというのは疲れる。リビングのソファに腰掛けて、真角くんにお茶を開けてもらった。
「そういえば、来るのは明日じゃ?」
「オレも今日、電気治療の日だったんです。サプライズにしようと思って連絡してなかったんです」
 真角くんが助けてくれなかったら、どうなっていただろうか。
 なじられて、何も言い返せなくて、麻痺したまま帰ってきて……。おそらくアトリエの中にあるものをぶっ壊し回って、学校を辞めていたかもしれない。
「ありがとう、真角くん」
 何も問題は解決していなくても、側で涙を受け止めてくれただけで、心持ちが全く違う。それだけは確かだ。ヒーローみたいな真角くんが、少し羨ましくなる。
「オレ、謝らないといけなくて」
 もし俺がこんな良い行いした後なら、もっと誇らしい顔をするというのに、彼の表情は苦痛に歪んでいた。
「オレ、もえぎさんに会えて嬉しくて。こうやって家に来て、ご飯食べたりするのもすごい楽しくて……。なのに、オレ、もえぎさんの怪我、治らなければ良いのにって……!」
 そしたら、ずっと側にいられる。ずっと会っていられるって思ってしまったのだと、胸を掻き毟った。
「……真角くん」
 おいで、と言いながらしゃがむように誘導する。すがり付くような体勢になってしまうが、ソファーに座った俺の腰に腕を回して腹に顔を埋めさせる。
 今度は俺が、彼を包む番だった。
「俺も、似たようなこと思ったんだ。制作に戻るのが怖くて、手を止めるのが楽で……。真角くんは何も、悪くないから」
 ぎゅう、と腰を抱く力が強くなる。温かい水の感触が、肌に触れる服の部分から感じ取れた。
「好きです、もえぎさん。好きなんです」
 頭を撫でようとした手が止まった。苦しそうに溢した感情が、腹に振動してダイレクトに伝わる。
 好き? 俺を?
 真角くんが?
 嫌悪感だとか拒否感だとか、そういうネガティブな気持ちは湧かなかった。だが、恋愛対象として真角くんを見るのは……。
「その、気持ちは嬉しい。たくさん助けてもらって、すごく頼りにしてる。けど、付き合うとかそういうのは、ごめん」
 人からそう言った告白を受けるのは初めてだったし、断るのも初めてだ。
「分かってます。だから、先輩として慕い続けたいです」
 少し落ち着いたみたいで、引っ付いたままではあったが、顔がこちらに向いた。目を真っ赤にして、見上げる真角くんもまた、今まで見たことのない彼だった。決意が固いというか、悪い言い方をすれば頑固というか、とにかく心に何か決めた者が見せる目の輝きだった。
「ダメですか?」
 何も言えずにいると、眉を八の字にする。その表情は知っているものだった。俺の家に定期的に来たいと言った時と同じ、子犬みたいな表情。
「こんな、格好悪い先輩で良ければ」
 苦笑い半分で返答すると、前と同じ様に嬉しさを隠さずに笑うものだから、やっぱり面白くなってしまった。

 涙痕を残したままだったけど、二人で食べた夕飯は、いつもより美味しく感じた。