一文目

 潜る海の泡が素肌を撫で、柔らかな布で包まれる様だ。──嗚呼、今日はきっと。そう思いながら顔を空へと向ける。顔を拭って目を見開いた。こもった音が耳から抜けて、開放感ある心地と共に、このまま時が止まれば良いのに、とふと思う。
 
 春の海は比較的穏やかで、遠くにある海女小屋からは笑い声が聞こえる。昼飯時なので焼牡蠣小屋からも威勢のいい声が上がり、観光で来たのであろう男女が、仲睦まじい様子で牡蠣に舌鼓を打っていた。私はその様子を、何となく照れくさい気持ちで眺める。眩い太陽光線は肌を焼いて、待ち切れぬとばかりにまだ見ぬ夏の気配をちらつかせた。
 今日の収穫は、二つの真珠貝である。ヒレのついた立派な物で、少しは期待できそうだった。これは私の食糧になるが、本命はその中に蓄えているかもしれない天然真珠である。乱獲などもせず、然し、少しの浪漫を楽しむのがささやかな趣味であった。天然真珠は希少であり、また経過年数を重ねたとて、劣化の少ない美しい宝珠だ。世辞なく周囲から認められたいと考え、趣味半分仕事半分で始めたことではあるが、お陰で私は、こうして海に潜る事にも楽しみを覚えた。
「おおい、重春(しげはる)。調子はどうだ!」
 よく通る声が遠くから伸びて、耳に届く。最も近い波止場で大きく手を振っているのは、克則(かつのり)さんだった。齢七十近くにして、恐ろしく活力に満ちた大先輩である。今し方、潜っていた所は克則さんの自宅から臨める辺りなので、もしかしたら私の様子を見にきたのかもしれない。
「丁度、昼飯を確保したところです!」
 負けず劣らずの声を張る。手を振り返すと、腕につられて引き上げられた海水がぽたぽたと落ち、陽に反射して輝いた。
 穏やかな日々。
 幸福の音が波に混ざって、私の心の、柔らかい部分を包んでいく。
 
 海から上がり、先程の男女らに見られない岩陰に隠れて、着替えの作務衣に腕を通す。褌姿を見られるのが憚られるだけではない。幼い頃に折檻された傷痕が、人の目に触れない為である。全て傷は塞がっており、痛みもない。だがどれも《お前は不出来である》として躾けられた証である。
 特に目立つのは、背中であった。己の不出来さを物語る傷痕を、他ならぬ私が恥じている。背が伸び、焼けた肌になってからは、傷痕は海で出来たものだと思われるようになった。それが余計に、誰でもない誰かを欺いている様な居心地悪い気分がして、私は未だ、目を逸らし続けている。
 
 手早く着替え、貸してもらっている工房へと戻るべく、帰路を辿る。
 海に面した通りから、細い道に入ってすぐ左に折れると自宅であり、右に折れれば工房だ。日陰と潮風のために、一層磯臭い道ではあるが、慣れてしまえば気にならないし、寧ろ安らぐ思いさえする。
 一日のほとんどを工房で過ごしているせいで、ちょっとした事を自宅で済ませるのが億劫になってしまっている。飯の準備だけではなく、仮眠くらいなら工房でとる。
 工房に備え付けられている台所もどきから物音がするが、さして驚きもせず勝手口を開けた。
「来た来た。収穫はどうだった。」
「今日は二つだ。……私の分しか採ってないが。」
「お構いなく。俺も持参してるんだ。」
 人懐こい笑顔を浮かべて、俊春(としはる)は小女子を升に詰めたものを掲げた。そんなものでは腹は膨れないだろうに、と苦笑いしてしまう。麦飯を碗に盛り付け、茶をかけて渡すと、待ってましたと言わんばかりのニンマリとした笑みを浮かべた。二つ年下なだけで、十八にもなる男の素振りであっても可愛らしく思えてしまうのだから、俊春の愛嬌を前にしたら勝ち目はないと思えてしまう。
 俊春は私の弟にあたる。だが血の繋がりは無い。私達は捨て子であり、育ての親である正勝(まさかつ)さんに名前を付け直してもらっている。正勝さんからは、家族の愛と生きる為の術を教えてもらった。克則さんは、正勝さんを実の子供の様に可愛がっていたため、私達の事も、孫の様に面倒を見てもらっている。正勝さんが亡くなった後は、克則さんのツテで組合とも関わりを持ち、何とか私と俊春で暮らしていけるようになった。
「後で克則さんも来ると思う。」
「もしかして、さっき会った?」
 私自身、口数は少ないほうではあるが、俊春相手であれば世間話くらいはする。飯の支度としては単純なもので、貝を炭火で焼くだけだ。
 貝の口に、専用のナイフを用いて丁寧に開いていく。ぴたりと張り付いている貝の口は引き結ばれた頑固な一文字(いちもんじ)の如くであるが、一寸足らず刃先が入れば、後は力加減に気を払って押し切ることが出来る。まずは一つ。弾力に富んだぷるんとした身があらわになる。色も良く形も良い。噛めばさぞかし味の染みた旨味が口の中に広がることだろう。醤油と酒を垂らして焼こう。今日の味付けが決まった。
「克則さんは、飯食ったのかな。」
「さて、何かしら持って来るのではないかな。」
 世間話を続けながら、とろ火のまま付けていた七輪に藁と木材を放り込む。海から上がると冷えるのだ。たとえ真夏でも火に当たりたくなる。暖を取るのと、こうして簡単に料理するのもあって、七輪は常に火を入れている。金網を置いて温めるのを待つ間に、もう一つの貝を手に持つ。
「麦飯、まだある?」
「夕飯用に炊き直すから、寧ろ食ってもらえると助かる。」
 本当は炊き直す予定などなかったのだが、空の器を切なそうに見つめながらそう言われてしまえば、甘やかしたくなるのが兄の常である。克則さんと私の分は残しておいてくれ、と言いながら、一個目と同じように貝の口をすとんと開いた。
 目を引く神秘の塊が、そこにあった。
 現(うつつ)離れした、白い丸玉。息を呑んで、何度も瞬きをする。決して幻ではなく、何度瞬いても変わらずに、それはあった。
「なぁ、重兄(しげにい)の分もよそうか?」
 絶句してしまい言葉が出ない。本物だろうか。真珠層の煌き。覆われた膜の艶やかな光。大玉の、完璧ともいえる球体……。
「オーイ、重兄?」
 あの辺りは養殖貝はいないはずだ。とりこぼして野生化したものか?  否、その可能性はない。海流から考えてもあの辺りに流れ出ることはない。貝は成熟した後は、移動範囲がかなり狭くなる。ならば、この真珠は……エエト、麦飯、あとで自分でやるから、……いや違う。そんなことは後で良い。これは、この輝きは。
「俊春……。」
 血の気の引いたような顔色になったかもしれない。驚きで心臓が高鳴り、激しい動悸のせいで口から飛び出そうな気さえする。そんな私の様子に対し、俊春は怪訝そうな表情を浮かべた。
「何さ、……。」
 ひょいと私の手元を覗き込み、甲高い悲鳴のような声を上げる。節くれだってガサついた手が、大きく開かれた口許を覆って、女みたいな仕草との落差に少し可笑しく感じるところだがそれどころではない。私は彼の声で、夢を見てるわけではないと確信し、震える手で貝をそっと置く。途切れ途切れにしか吸えない息は、上手く言葉を紡ぐことなく、只々目を見開くだけになってしまう。
 俊春と両手を取って、互いの顔と貝を交互に見ている間に、克則さんがやって来た。
「何だァ、二人して手取り合って。阿呆踊りか。」
 カラカラと笑う克則さんを見、弾かれた様に駆け寄って貝を指差した。克則さんは私達二人の形相から唯ならぬものを感じ取ったのか、しじみに似た小さな目を瞬きさせる。どうにかこの事態を伝えようとするが、私は陸に上がった魚のごとく口を開閉させるだけになったし、俊春は全く説明にならない言葉ばかりが口から溢れていく。
「これ、重兄が開けたら、本物、いや天然で、あれ、丸くて、あの、……。」
 貝の方へと視線が向いて、克則さんの目も感嘆と共に見開かれる。頭に乗っていた眼鏡をかけ直すと、母貝に埋まったままの真珠をじっくりと眺め始めた。
「ハハァ、こんな立派な花、久しぶりに見たなぁ! やったじゃねえか! 高値が付くぞ、これは。」
 花。
 克則さんは迷うことなくそう口にした。花は真珠の中でも最も良いものを指す言葉だ。きらりと光り、ぱっと輝くことから白い花の様に見えて、漁師同士で「今日、花はあったか」という会話が交わされる。そこから花珠という呼び名が生まれたのだ。
 私は漸く、驚愕以外の感情が身体に満ち充ちていく心地がした。掴み取ったという実感が、手の平だけではなく心臓の鼓動にまで流れていく。
 
 祝いだ、酒だ、こりゃ皆の衆に伝えねぇと!
 取った、重兄が取ったぞ!
 
 二人は集落の隅から隅まで聞こえるほどの声で、駆け出していった。
 
 私はその花珠を、丁寧に救い上げ、日の光に翳す。薄羽衣が幾重にも重なっている。長い年月をかけて生み出された宝珠は、一眼見て誰もを虜に光を纏っていた。
 嗚呼、花だ。そして海だ。神の存在さえ感じるほどの美しさだ。
 複数の慌たゞし足音がこちらへ向かってくる。きっと、今日は宴会だろう。
 
 ◆
 
 大層に浮かれ、正に御祭り騒ぎとなった。だが夜半も過ぎた今、酒の席は少々揉めた空気が流れている。
「あの辺りの海ならウチんところの貝が逃げ出したかもしれん。」
「馬鹿いうな。貝に足でも生えにゃあり得んだろう。」
 言うだけはロハであるし、もしもの話をするだけならば、私も楽しめたかもしれない。組合に参加している方々で祝ってもらえるのはありがたい限りだったのだが。
 次第に、それぞれが発する声に熱や怒りが混ざっていった。
「それを言い出したら、あの設備はもともとは正勝にやったモンだ。ウチだって話に加わるぞ。」
 設備はすべて、正勝さんと克則さんの物を譲り受けている。正確にいうと、克則さんは組合に参加しているが、私は克則さんの弟子という体で働いているため、私自身は組合に所属していない。言ってしまえば、本来であれば言われる筋合いがないのだ。そうでなくとも過去の細かい話など、死んでしまった正勝さんでしか分からない。
 次第に周囲の人々が人間の皮が削れて欲そのものが見え隠れしてくる。否、人間などここにはいなくて、元々人間の振りをしていただけにすぎないのだろうか。俊春が酔い潰れた後で良かった。冗談を、と言いながら御猪口を舐め、繰り返しているうちに、次第に私の心が冷えて行く。
 
 私が不出来だから。
 
 こうして後から何か因縁を付けられて、少しでも奪おうとする小魚の団体に食い尽くされてしまう隙があるのだ。こんな事で、私はやっていけるのか。俊春も十八を越したし都会に出たがっている。兄として稼いで、送り出すのが良いのではないか。その為にも、この場をどうにかして離れた方がいいのではないか。否、好きに言わせておけば付け上がる。ならば、──。
 
「こんの、弩阿呆どもがァ!」
 私が口を開く前に、雷が落ちた。あまりの声量に、一堂口を継ぐんで、しんとなる。顔を真っ赤にして怒号を飛ばしたのは、克則さんだった。
「取ったのは重春だ! なら手柄は重春のモンで、金も重春のだ! たったそれだけのこと、何故分からんのか!」
 金剛力士像の如き顔に誰もが気圧されていた。克則さんは怒ると怖い。拳骨を落とされたことは数える程度しかないが、しかし理不尽な理由で手を上げたり声を荒げたりしない人である。
「重春。お前、あの花珠は幾らで売る。」
 唐突に話を振られたが、頭の中では算盤を弾いていた。大玉で、完全なる球体に近い。痣もなく干渉色も青みがかって鮮やか、反射する像が鈍いのは真珠層が厚い証拠であるため、逸品に間違いないだろう。恐らく、千円はくだらない。
「三千円。」
 相手が相手なら、もっと高値を出してもいい。百貨店の宝石商であれば巧妙な細工を施すだろう。どこに出しても恥ずかしくない品になるだろうし、私が胸を張らねば折角の花に傷をつけるというものだ。きっぱりと言い放った私に対し、周囲はどよめいた。
 格好つけで吸い始めたゴールデンバット、手元に酌まれた麦酒、どれもこれも千倍にしたってあの花珠には全く足らぬ。真珠の品定めについての知識を叩き込んだのは、何を隠そう克典さんである。見誤ってはない。
 だが、私が金を持つと要らぬ干渉を受けるだろう。今この場ですら、隙あらば金を掠め取ろうとする欲を露出させている。不快感を露わにしては、幼稚だと見下されるに違いない。克則さんだけではなく、この一帯の方々には日頃お世話になっているが、それはそれである。
「提案があります。」
 私は姿勢を正して視線一つ一つを拾い上げていく。まるでこれから何かの特別な神託を下し、顛末を見守る役割を担う者のように振る舞った。
「その花珠を、二千円で組合に売ります。」
 高値ではあっても、あの輝きを見れば誰もが納得する価格である。否、寧ろ手頃であるとすか感じるはずだ。所属せずとも組合の懐具合は知っている。出せない額では無いはずだ。
「あれはきっと、海の神から託されたのでしょう。売って人の手に渡るよりも、奉納という形で神にお返しする形を取るのはいかがでしょうか。」
 私にしては饒舌になったと思う。そして誰よりも早く、そりゃいい!  と克則さんは膝を叩いた。そうして素早く、私の案が如何に合理的で誰にとっても得であるかを並べ立てる。
「成る程なァ。重坊には金が入る、組合にゃ奉納した事実が手に入る。奉納すりゃ自ずと、此処らで花珠が出たことは埋もれることはねェ。特に百貨店お抱えの奴らはすぐ産地に嘘書きやがる。あの花を売り付けたとして、やれ英吉利産だの吹きやがる。ウチだって名産地だっていうのに、客のウケが良いことしか考えてねェし、そのくせ客を騙くらかすンだから。」
 克則さんは何度も「それが良い」と頷いて、手を叩いて、「異論ねぇな」と周囲を見渡した。克則さんの言うことはもっともなことであり誰も反論出来ず、皆、仕切り直しに飲み始めたのだった。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 決まったしまえば早いもので、周辺で最も海に近い神社へ奉納することになった。上多万(かみたま)神社である。廃仏毀釈と神仏習合の影響もあって多くの神を祀っているが、正祀は海神(わたつみ)であり、地元からも、観光客からも信仰を集めている。
 個別で奉納式を行うのかと思いきや、奉納祭の一つに組み込まれることとなった。奉納祭では鈴の音が涼やかな神楽が舞われ、夜には花火が上がる。この町の大きな催事であり、夏空の下、上多万神社への参道沿いに内外から人が集うのだ。
 急ではあるが、神社側も町長側も、あの花珠を見て歓迎してくれたのだという。奉納祭に組み込んだのは、私の出した条件の中、上手くやろうとした結果なのだろうと考えた。組合が金銭ではない利を得られるとするなら、この地は良質な天然真珠が採れるところであり、養殖真珠が盛んであると宣伝出来ることだ。活気ある奉納祭で人の目に触れるのが最も良い手段である。真珠の町であると人に知ってもらえれば、外から来た人にとっては土産話になり、それが評判となっていくだろう。
 既に真珠は組合に譲っており、言い値であった二千円が手に入った。だが案の定、それとなく金銭を集ろうとする素振りを見せる人々が増えた。奉納は組合の名義でなされる。よって世間では、あの花珠は組合のものだったと認識するだろう。手柄と共に花珠を売り渡したことになるが、私はそれで良かった。個人と組合とで、売買が成立したのだから。(克則さんの助けを借りていたとしても。)
 金が手に入ったとて生活は変えなかった。元より、俊春に全て譲ろうと考えていたのだ。俊春は突然の話に仰天し、都会へいきなり渡る事を壁に感じて思い悩んでいた。悩むのも必要だと思った私は、俊春の出す答えを待っている。
 
 元々は仕事人として認めてもらいたいがために潜り始めたので、金そのものに執着はない。しかし金は評価として手渡されることもあれば、時に権力にもなり得る。その事を私は、肌で感じることとなった。
 私は、海に潜るのをやめなかった。人間の発する酒臭い声よりも、海の音を聞いていたかった。柔らかな布のような水の泡、辛みのある潮風、肌を焼く太陽の光──……。どこでで潜ったとしても、海から感じるものは同じであり、私に安堵を与えてくれる。母に抱かれるような心地さえして、私の母とは、どんな人だったのだろうと思いを馳せた。
 
 人目を避けながら着替える前に砂浜を歩く。普段と違う場所で潜ったので人気は無い。ふと視線を感じて顔を上げる。辺りからではなく、もっと遠く、上の方から……。視線を彷徨わせる。
 急斜面の岩肌にぽつぽつと緑が生えるのが見え、更にその上から照らすような朱色が覗く。太陽の光を反射しているのもあり、目に焼き付きそうな色である。少し目を細めて、建築物を確かめると、それは上多万神社の一部であった。清水の舞台の如く、切り立った崖から身を乗り出すようにして作られた一画の様である。
 誰かが海を臨んでいる姿が見えた。艶やかな黒髪と、日に一度も照らされたことが無いくらいの白い肌が、遠目からでもよく見えた。神社の朱色と相まって、まるで画に描かれた美人像がその舞台に吹き付けられた様だ。あの絵が新聞に載ろうものなら、都会でもたちまち、羽が生えたように売れるだろう。
 美人であると思い浮かべたが、かの人物が男性であるのは明らかであった。男性にしては長い髪ではあるが、女性にしては短すぎる。否、モガというものであれば、もしかしたら不思議はないかも知れぬ。然し彼は、神社で働くものであろう。幾分の隙間ない姿勢は、地上からでも窺えた。
 不躾に眺め過ぎたので、視線を逸らす。刹那、舞台上の彼もまた、私の姿を認めた様に感じた。その気配を感じた時には既に私は背を向けており、日焼けで隠した傷を晒すことになってしまった。その上、褌姿である。何となく高貴な雰囲気を纏う彼に、その姿を見られることは気恥ずかしく感じられ、私はそくささとその場を立ち去った。
 
 その日は、午後から土砂降りとなった。梅雨でもあるので海が荒れる。そしてこの時だからこそできる仕事で、養殖真珠として最も重要な作業である。
 育てて三年経った母貝に、核入れを施すのだ。海が穏やかなうちに行い、貝を養生させた後、養分が豊富な沖へ吊す運びとなっている。
 慎重に貝に楔を嵌める。僅かに隙間が空いて開いたままになり、柔らかい中身が見て取れた。生殖巣を確認し、それをへらで避けてから、ごく小さな刃で切れ目を入れて核を挿入する。大きさは大体一分ほど、大きなもので二分五厘ほどであるが、いずれにしても貝にとっては大変な負担になる。
 白い核を慎重に貝の中に埋める事だけ考え、ひたすら無心になる。この作業は熟達した技術が必要であると言われ、全てが成功するわけではない。だからこそ邪念を取り払わねばならぬのだが、その核の色から、ふと上多万神社で見た彼を思い浮かべてしまった。幸いにも手許は狂わなかったが、私は一度立ち上がって頭を冷やす。鼻から息を吸って深く吐くと、俊春が外作業から戻ってきた。
「あれ、何かあった?」
 全くの他人からすれば分かりづらいかもしれないが、私は苦虫を潰したような表情でもしていたのだろう。俊春は人の機微に聡いので、私のような性根が暗い人間相手でも、表情の変化に気づく。
「集中が切れた。」
 正直にそう答えると、「珍しいな」と言いって、私が作業していた隣に座った。浜の砂が俊春の髪や服に付いていたので、何となく浜遊びして来た犬ころを思い浮かべてしまう。真面目に仕事している者に向かって言うことではないなと思い直し、私は俊春の隣に──作業の続きをするために──着席した。
「サァ。集中、集中。」
 パンパンと手を叩いて、面白げに無邪気な笑みを向けてくる。力が抜けて笑えてしまった。悪戯心を滲ませる眉間を突く。神社にいた謎の麗人の姿は霧となって頭の中から消えた。
「お前もやれ。」
「重兄の方が上手いもの。」
「上京するにしたって、やっておいて損はないだろう。」
 上京の話を持ち出すと、俊春は深く思い耽る顔になる。幾らかの沈黙があって、ぽつぽつと言葉が溢れていく。
「この仕事、好きなんだよな。真珠の染み抜きだって、漂白だって得意だと思うし。この海だって好きだ。……克則さんや、重兄も。」
 都会に出る姿を想像したからこそ、今目の前にある事に目が向けられたのかも知れぬ。
 何処で何をしていても、私は俊春の味方だ。克則さんも、正勝さんも、きっと。
「もう少し考えたら良い。」
 闇雲に上京しても仕方ない。それは俊春も充分に分かっているのだろう。曖昧に頷いて、二人で核入れを行う。しくじってしまった貝は、私達の腹に収まる事になるのだが、この時は二つだけで済んだのだった。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 すっきりと晴れた梅雨明け。核入れした貝は沖に出され、凪いだ海となっている。奉納祭当日の朝は、汗ばむ気候であった。
 普段は波の音が良く聞こえるが、今日は朝から活気ある声が通りから聞こえて来る。神輿洗いが行われているのだ。清め禊がれた後、海から出発して氏子地域を回った後、上多万神社へと担ぎ込まれる。私や俊春、組合の何人かも担ぎ手の一人として数えられており、担ぐに相応しい格好をする。足袋、股引、晒しを身に付け、法被を羽織る。巻帯もするが、恐らく途中ではだけるだろう。
 
 汗を滴らせ、神輿を奉納祭までの間に起きたことを考えた。これといって目立った事は起きなかったが、感慨深い気持ちが胸の中を満たしている。
 あの後すぐに出立するかと思えた俊春は、今年いっぱいはこちらで仕事すると決めた。力をつけてから上京したいが、尻を決めておかねばだらつくと踏んで、自らにその期限を課したのだ。元より軌道に乗っていたので不思議はないが、その甲斐あってか、私と俊春は花珠の一件から養殖真珠でも評価を得始めている。仕事人として認めてもらいたいという思いと、実績が噛み合ったとも言えるかもしれない。仕事人として二段か三段ほどは登った手応えがあった。
 だからこうして、神輿を担ぎ、普段では出さない大声も迷いなく出せるというものだ。
「俊坊(としぼう)もなかなかイイ男になったなぁ。」
「そうだろ? 酒屋のじいちゃん、若い頃は俺にそっくりだったなんて言うんだ。」
「そら酒屋さんの自惚れだ!」
 俊春は人懐こい性格であるため、他の職人からも可愛がられている。私も気に掛けてもらう事はあるが、「可愛がる」とは不思議なもので、どうにも放っておけない様な、その人の性質に因る部分が大きいと思える。
 私は俊春が他の人と交流する姿を見、暖かい心地がするのを感じる。彼奴なら、きっと何処でもやっていけると思える。
 
 御天道様が脳天を過ぎ、昼下がりには神社に到着した。昼飯を食べる為に、法被姿のままで屋台を回る。さて俊春と串でも食うか、という時になって、組合の人が私を呼びに来た。てっきり、奉納そのものは組合の人間ってだけが出るのだと思っていたが、私も列に加わる様にとの事だった。並んで頭を下げるだけだからと言われたものの、当日その場で言われ、何の準備もなければ、戸惑いもする。
「重兄、頑張れ!」
「待て。この格好でか。」
「大丈夫、似合ってるよ!」
 アレヨアレヨと引き摺られる様にして連れられて克則さん達に合流すると、一番前の真ん中へと誘導された。唐突に私を参加させたのは、皆、少しばかりの酒が入っている所為なのか。それとも、何か別の理由があるのか。詳しくは分からなかったが、間もなく始まるのだろうということだけは確かだった。巻帯を締め直す。
 本堂の正面にある幅広い参道。縄の様なもので四角く囲われ、中心部分が一つの区画になっていた。その中は赤い布が敷かれてあり、私達はその上で正座している。正面には簡素でありながら祭壇があり、その手前には神への供物として果物や海産物が平皿に盛られていた。奉納に使うらしい神具が用意されてあり、正式で公的な儀式が始まるのだと改めて実感させられる。
「皆様、真珠奉納式が行われます。大きな天然真珠の、奉納式になります。」
 巫女が周辺は通常の参拝客の足を止める。皆、何が始まるのかと興味津々といった風に眺めていた。
 多くの人が見守る中、宮司が縄の中に入ってくる。一同はすぐさま頭を深く下げた。気配で、私の前に二人分ほどの間を取って立っていると分かった。
「おもてを上げて下さい。これより、真珠奉納式を執り行います。」
 発せられた声から、水気を含み、ぴんと張られた薄い布を連想する。瑞々しく、光りが透けていて、しかし触れてはならない様な印象だ。
 顔をそろりと上げる。そこには、浜辺から見上げた黒髪美人が居た。遠目から眺めた時以上に、光溢れる美しさを感じる。微笑に見える口角。白絹(しらきぬ)の如き肌。アッと声を上げそうになって、口を引き結ぶ。
 中性的な美しさを持つ肉体を、狩衣や差袴(さしこ)といった装束が包んでいた。奉納式は宮司が執り仕切ると聞いていたので、この人がそうなのだ。ずいぶんと若く見える驚きもあって目の前の美人をじっと見つめた。
 朗々と詠みあげられる祝詞、一部の隙も無い姿勢から、厳かな空気が作り出されていく。自然と参列した衆も背筋が伸びた。
 神前には、花珠が豪奢な台の上に鎮座しており、幣(ぬさ)のついた棒で左、右、左と花珠に振る。ややあってから、私達参列者にも祓棒を振る。
 私は真剣な面持ちの宮司を見つめ、また宮司も前列真中にいる私を見つめていた。張り詰めたような空気であるが、居心地は良い。嗚呼、神聖さというものが肌に触れると、こうなるのだなと感じ入る。
 宮司が祭壇に向かって一礼し、儀式は滞りなく終わった。あっという間であったし、そうだ、周囲には見物客もいたのだった、と初めて気が付いた。式の終わりと共に四角の縄が解かれ、見物客との境目がなくなる。密にあった神聖な空気が霧散していく。
 もう一度、宮司と目があったので、私はドギマギしながら一礼した。宮司は引き締まった表情を崩すことなく会釈をし、次の式の為か颯爽と立ち去っていった。烏帽子の頸にある、柔らかそうな産毛がそよそよと揺れていた。花珠は彼の両手に預けられ、別の場所へと運ばれていく──……。
 
 緊張が解けてか、腹の虫が鳴る。あの方に聞かれなくて良かった、と考え、ひとり羞恥に見舞われた。
 
 夏空はありとあらゆる物を吸い込んで、涼やかな夜を引き連れてきた。