二文目

 昼間飲んで、夜も飲む。祭りとは現地の者にとってはそういう日だ。否、そうでなくとも飲んだくれている者は居るのだが、今日は誰もがそういう風になる。
 奉納式を終えた後、町内ほとんどの職人が集合して神社そばの簡易な寄合場で酒盛りする。そこはこの町に古くからある食堂が切り盛りしてくれていて、祭りの後はその寄合場に集まるのが毎年の流れであった。子供の頃から私達も、克則さんにくっついて参加しており、毎年通りであれば夕飯半分、挨拶半分程度だったが、今年は立役者扱いである。
 何度目か分からぬ乾杯をし、三角形のお猪口を持たされ、私や俊春にまつわる昔話に始まって、今の話から、話す側の昔話になり……を繰り返している。
 俊春は案の定、早々に酔い潰れていた。まだ俊坊は子供だなんだと言われながら、寄合場から繋がっている畳部屋に転がされた。他の者は地面で大いびきをかいているので、それと比べれば大事にされている……とは思う。私は口数が少ないかわりに、酒に付き合う事はできるので、滝の如く流れ出る相手の言葉に、相槌を打った。
 祭りも過ぎて夜中になっても、宴は続く。祭りの出番を終えた順に寄合場に人が来るので、その都度盛り上がる。椅子が足りなくなったとしても、そんな事は大した問題ではないとばかりに、皆は飲む。
「どうも、皆様お揃いで。」
 風鈴の様に通りが良い声音だった。耳慣れない声だが、間違いなく聞いたことのある声だ。既に立ち飲みになっていた私は、視線を向けて背を伸ばす。こういう時、無駄に縦に伸びた背は遠くまで見渡せるので便利だ。暗闇の中で灯る吊るし行燈は、導きを与える光をもたらしていた。ハッと息を吸い込んだが声にはならず、白く浮かび上がる麗人に只々釘付けになる。
 宮司だ、と思う半分、浜辺から見上げた美人だ、という思いが心を占めた。彼の為に空席が作られて、周辺が活気付く。何を話せば良いのか分からなかったが、先に足が動いていた。私が近づくと、おお重坊、座れ座れ、と席がまた一つ空く。
 目が合うだけで身体が固まりそうになる。宮司はにこりとした表情を浮かべ、酌を掲げた。
「本日は、どうもありがとうございました。」
「いえ、こちらこそ。」
 着席してすぐに一杯空けて、また一杯。夢見心地になるのに時間はかからなかった。宮司の装束ではなく、書生の様な出で立ちであるが、手首から覗く白い肌と、美しい顔(かんばせ)は奉納式で見たものと同じであった。
「谷江(たにえ)重春さん、でしたね。」
「ええ。……何故、私の名前を?」
「参列者の方のお名前は、きちんと覚えております。」
 ふわりとした柔らかな笑みに、照れ恥ずかしくなる。飛び入り参加だったはずだが、そんな私の名まで知られているとなると、むず痒く感じてしまう。
「失礼ですが、宮司さんのお名前は。」
 夏の虫が吊るし行燈の周辺を飛び廻り、微かな羽音を奏でた。彼の息づかいと混ざり、何か預言めいたものを聞く時の様に、瞬きを忘れる。
「八木沢(やぎさわ)と申します。下の名は松風(まつかぜ)。お好きな方でお呼びください。」
 まつかぜ、という音をたどり、名馬か太夫の様だと思ってしまった。神職の方に向かってどちらも失礼だろうと考え直し、決して口には出すまいと舌の根を結ぶ。
「今後とも、どうぞ。」
「ええ、こちらこそ。」
 互いに口数は多くないのだと、しばらくして分かった。私も八木沢さんも、他の職人らの聞き役になるばかりである。今日の祭りが如何に良かったか、毎年の安全が一番でそれが如何に大切なことか、なら仕事もしなければ、……という話題になったところで、八木沢さんが口は開いた。
「ところで、真珠職人の方にご相談したいことがあるのですが。」
  真珠、という単語に少なからず前のめりになる。自分で答えられる話題であれば、言葉を交わすことが出来る。下心と呼ぶにはあまりに幼稚であったが、気取りたい訳でもない。分かる話題に参加しないのも妙であると刹那に考えを巡らせた。
「品質の良い養殖真珠を幾つか見繕いたく思っているのです。どちらから仕入れるのが良いでしょうか。」
 聞けば、上多万神社での神前式を行う夫婦に向けて、真珠細工の髪飾りを貸出、ないしは買取で提供したいのだという。
「一生に一度の晴れ舞台でしょう。それを飾るものに相応しく、また美しい思い出の品として、まずは一つやってみようか、という話になりまして。」
 大きな神社ならではである。そう言った冠婚葬祭に於いて、近県の人間も訪れるのだろうから、正しくは信仰を集める神社らしいことであるといえる。
 ならば克則さんのところが、と言おうとしたが、それより先に他が上がった。
「そら目出度いお役目だ。なら、春兄弟で決まりだなぁ! ここんところ、随分と調子も良いみたいだ。」
「重春はなんて言ったって今年一番、いや一生一番の運を持ってるんだ。縁起も良いだろう!」
 春兄弟、勿論それは私と俊春の事だ。出そうとした克則さんの名前は、喉に引っ掛かった音になって止まった。その後、酔いの回った爺ども……いや大先輩のお節介気味な推薦により、これまたアレヨアレヨと流れるように決まっていってしまった。ありがたい話ではあるのだが、花珠の金銭を巡って一悶着あったばかりなのだ。問題ないのだろうかと考えるも、盛り上がった空気の中で言い出すことは出来なかった。
「では詳しいお話をしますので、……そうですね、翌週のお昼頃に神社をお訪ねください。」
 夢でも見てるのだろうか、と頭の片隅で思うが、虫の羽音と酒精の匂いが現実であると私を縫い付ける。月光と行燈に照らされる八木沢さんの姿が、現との糸を引き剥がすほど美しかったとして、これは仕事の話なのだ。
「承知しました。謹んでお受けします。」
「いえ、そう堅くならず。」
 柔らかく笑む彼に、奉納式の際に発していた厳格で荘厳な雰囲気ではない。それでも射干玉に輝く髪の美しさは変わらず、切れ長の瞳は長い睫毛に縁取られている。白い絹肌は、私の焼けた肌とは全く違う作りをしているとさえ思う。大事に大事に、箱の中に仕舞って宝物の様に育てられたのかもしれない。
 神に仕え、神の側に居るに相応しそうな人だと考え、私も随分と酔っているのだろうとひっそり溜息を吐いた。

 ◆

 あくまで私個人で受けたわけでは無いので、俊春とともに上多万神社へと訪れた。養殖物が認められたからこそであり、つまりは俊春の沖を見る目があってこそだ。真珠の核入れの後、穏やかな海の中で休ませるためには、母貝にとって優しい波でなければならない。その辺りの勘は、私よりも俊春のが数倍優れている。宴の場で、ほとんど眠りこけていた俊春は遠慮を見せたが、二人で得た仕事なのだからと彼の額を弾いておいた。
 神社は幾らか町よりも小高いところにあるため、鳥居をくぐる頃には町と港が見え、私が普段潜る辺りを臨む。八木沢さんを見かけた場所は、おそらく神社の裏側になるので、参道側とは逆にあるのだろう。奉納祭が終わった今でも、参拝客がぽつぽつとおり、穏やかな雰囲気に包まれた拝殿が見えた。夏の日差しが降り注いで、太陽の匂いが鼻をかすめる。
「えっと、何処に挨拶すればいいんだろう。」
 俊春は緊張の色を滲ませて、辺りを見回した。参拝以外の目的で神社に来たため、勝手が分からない。聞いてみるか、いや折角来たのだから先ずは参拝しておくべきか、と一言二言話してから、神の居る場なら人よりも先に挨拶すべきだろうという結論に落ち着いた。
 手水舎で清めた後、拝殿へ。正面に置かれた賽銭箱、その先の神が居そうな堂の中、見つめてから手を合わせる。挨拶だけではなく、手を合わせたら祈りたくなるのは人間故だろうか。仕事が上手くいくようにと祈り、自らも一人前となり、品としても美しく文化的に仕上がり、手に渡る人が笑顔になるように……と願う間、八木沢さんの姿が浮かぶ。

 ──彼に気に入ってもらえたら、言うことは無い。

 そんな言葉が脳裏を過ぎってしまい、目蓋をバネで弾いて開く。私は今、一体何を願ったのだろう。気に入ってもらえたら……何を? もちろん真珠だ。そうでなければ一体……。
「重兄?」
「ああ、行こうか。」
 咄嗟に返事をして、絡まってしまいそうな思考を振り切った。俊春が隣にいて良かった。あの心持ちのまま、仕事の話など上の空になってしまうに決まっている。
 お守りなどを売っているところへ行けば誰かに取り次いでもらえるかもしれないと考えて、手水舎の裏あたりにある授与所に向かおうとした。
「谷江さん。」
 はい、と返事をして振り返った。同様に、俊春も。視線の先には、先日の奉納式よりも簡素な装束に身を包んだ八木沢さんが居た。
「ご足労を頂きありがとうございます。サ、どうぞこちらへ。」
 授与所の左手側に伸びる石畳の先に、こじんまりとした事務所のような所があった。此方に来て正解だったようだ。
 正直な話、規模が大きな神社であるので、宮司である八木沢さんは何かと忙しいだろうし、別の方から話を聞くことになるだろうと思っていた。八木沢さんから話を持ちかけてもらったとはいえ、商材の話に過ぎないのだ。なので何処かツイているという様な気持ちになる。
「重春さんに、俊春さんでしたね。」
「ええ、そうです。」
「谷江さんだと紛らわしい思いをさせてしまうかもしれませんので、お名前でお呼びしても?」
「構いません。」
 重坊、俊坊なんて呼ばれる事もあるし、春兄弟なんてまとめられる時もある。呼称について何の拘りも執着もないつもりであった。そうにも関わらず八木沢さんに名を呼ばれただけで、心が騒ぐ。気を取り直すため軽く咳払いをし、では、と頭を下げて商談を行った。

 上多万神社での挙式を執り行う際に、花嫁衣装となる真珠飾りを作ってくれるところと、その仕入先を探している、という話で間違いなかった。なので、私達とやり取りがある細工職人が居ればその方にお願いしたいというのも含まれていた。
 量産は出来ないが、一つ二つであれば私の手でも作れるので、試作品として何か作るところまでなら請け負える事を伝えた。細工職人については候補が何名か居るので追って考える事にし、まずは真珠の質を見定めて貰うため、大きさや品質の見本を広げる。
 先日奉納した花珠に因んで同じ色で揃えるのが望ましいだろう、貸与前提で作成したとして買取になる場合はどの程度の金額になるのか、髪の長さに左右されることなく誰にでも使えるような工夫はどんなものか、まずは一つ仕上げるのに五十から百あれば足りるだろうこと、その辺りに含まれる話を詰めておくべきだろうという話をしているうち、細かな話は別の日に決める事にした。大きさと質のアタリを付け、工房にあるものから数を見繕って次回に持ってくる事とする。
 一刻ほどの打合せは風矢の如く過ぎ、社務所を出て直ぐにオヤ、と思って空を見上げる。脳天にぽつりと何かが当たったためである。一雨くるだろうかという独り言にもならないことを口にしたが、それは大当たりだった。雨脚はアッという間に強くなり、白くけぶる。
「白雨ですね。」
 弱くなるまで待っていても大丈夫ですよ、とは言われたが、この後の仕事を考える。早く戻るに越したことはないが、濡れ鼠になるほどだろうか。然し、居残っても八木沢さんの手を煩わせるだけだ。そうこうしているうち、頭を悩ませる時間も無駄に思え──、ヨシ、走って帰るかと俊春と頷き合う。
 そんな素振りを見てか(或いは見かねてか)、八木沢さんは私達を呼び止めた。
「では、これを。お一つしか無くて申し訳ないのですが……。」
 差し出されたのは大判傘であった。丁寧に使われていると手入れの具合から窺える。柿渋の色合いでどの部分が新しく、どの部分が古い歴史を持つのかが明らかであり、その新古により浮かび上がる不規則な模様もまた品のある様子だった。
「次にいらっしゃる時にお返し頂ければ結構です。」
 次。そうか。次があるのか、と改めて実感し頬がむずむずとする。
 五日後にという話で落ち着いたのでお暇し、参道の隅を抜け、鳥居をくぐり、商店街あたりに差し掛かる頃になって、俊春は口を開いた。
「八木沢さん、良い人だね。」
「そうだな。」
「次に行く時には、お礼持ってこなきゃダメだよ。」
「ああ、そうだな。」
「……顔、何か赤くない?」
「そうか?」
 その時の俊春の顔を、何と表現すれば良いのか。悪戯を思いついた童のようで、悪事を働こうとする猫のようで、──と考えている間に、
「重兄、ああいう人好きでしょ。」
 という言葉がポンと出た。
 好き、という単語に顔から火が出る思いをする。美しいとは思う。美しいと思うものを好ましく思うのは、まあ世間的にも良くある事だ。不思議はないが、自分がそこに嵌ると途端に恥ずかしくなる。
「妙なことを言うな。」
「耳まで真っ赤にして、そりゃないよ。」
 俊春は散々に私を揶揄い、可笑しそうに、しかし嬉しそうにする。滅多に感じることがない不愉快さが腹に溜まる思いをしたが、無神経な弟相手に本気になっても仕方ない。
「何故、お前がそんな燥(はしゃ)ぐ。」
「重兄だから。」
 真っ直ぐに見つめてきた瞳には偽りなく晴れ渡る空が広がっているようだった。傘の下で見える空に、自分が映っている。
「重兄に春が来たから、正しく春兄だね。」
「おい。」
 あーあ、心残りが無くなっちゃったよ、などと言うので、私は憎たらしい弟の脇腹を肘でついた。この雨ならば虹がかかるかもしれない、と思いながら。

 ◆ ◆ ◆

 干渉色が青いもので、極小から小粒程度の真珠を集めた。歪みが大きいものは除外した為か、一揃いしただけで中々圧巻の輝きであった。自画自賛にも思えるが、真珠層の輝きは貝の神秘から生まれるものである。自然の美しさを前にすれば人間の小細工などは些細なきっかけ程度にしか過ぎないのだと、改めて知る。
 美しい輝きであるが、真珠層の厚みにばらつきがあるのが見て取れた。覗き込む私の姿が逆さまになって映っていて、その像の輪郭の明瞭さはまちまちである。不明瞭であればあるほど、真珠層が厚く劣化も少ない。長く使うものであれば、質が良い物で組み上げるべきだろう。
 この状態を説明した上で、推薦するものを更に寄り分けてお見せしようと考え、小さな木箱に詰める。ふと、麦飯を掻っ込んでいた俊春の姿を思い出した。升に詰められていた小女子らは、命に溢れた色をしていた。この手元で真珠たちもまた、生命から練られた輝きなのだ。
 俊春は、あの打合せ以降、何か思うところがあってか、私が普段担当していた仕事も率先してやるようになった。上多万神社からの名誉ある仕事になるだろうから、私にはそちらへ集中して欲しいのだという。とは言っても、こうして真珠を見繕い、細工職人を紹介し、見積もった金子を貰うだけなので、この話そのものは息の長い話ではない。そこから客としての付き合いを増やしたいとは思うが、今はまだ……上多万神社がどういったところなのか、八木沢さんがどういう方なのか、どれだけの人を抱えて居るのかを知らない。
 これから知るべきだと思う反面、それは下心から来るものなのではないのかと己の声が耳に響く。
 美しい物に弱い性質であるのだろう。ただその真珠のように白い肌へ、明かりに引き寄せられる虫の如く、惹かれているだけではないのか。叱責するその声は、今でも鮮明に焼き付いてしまった実父の顔をしていた。
 私は不出来だから、あの人の美しさに触れるなど痴がましい。仕事の付き合いが出来るだけ、地に付し額を擦り付けるほどに頭を下げて、名誉に対し感謝を捧げるべきなのだろう。しかし、それは正勝さんや克則さんの教えに反する。今の親は、あの二人なのだ。仕事は対等に、簡潔に、面子を持ち、誇りを持ち、感謝を心に抱えて胸を張らねばならない。
 深く呼吸をして、姿見に目をやる。工房の中でも異質なそれは、見た目を気にし始めた俊春が持ち込んできたものである。仕事をするからこそ見映えに気を遣わねばと、一時期口癖になっていた。子猫のような髪をぴょこつかせていたが、今ではすっかり色男に育ったのを目の当たりにしているので、良い意味で私とは違う。
 私は──……愛想のない顔の皮、浅黒く焼けた肌に白く浮く細かな傷。特に目蓋から頬骨まで伸びた切り傷が、堅気の者に見えぬ風貌を印象付けていた。背中の傷も含め、自身の美醜に対し思う所が無いわけではない。俊春のように人懐こい性格であれば、わんぱく小僧がそのまま育った雰囲気になっていたかもしれない。

 然し、そうはならなかった。
 だから私は、私なのだ。

 ◆ ◆ ◆
 
 傘の礼を兼ねて、とある菓子を持って向かうことにした。真珠と菓子を風呂敷に詰め、借りた傘を持って、からりと晴れた夏空の下を歩く。逃げ水が見え、海から入道雲が立ち上っており、嗚呼、今日も降られるかもしれないと思って、帰りに使うために自分用の傘も携えた。二本の傘を持って歩くのは、道行く人に妙に思われるかもしれない。
 神社に到着したので以前のように参拝して、授与所に居る巫女に挨拶し、社務室で待たせてもらう。巫女から茶を出され「直ぐに宮司を呼びますので」と言われて、正座で待つ。嗚呼、あの人は矢張り宮司なのだな、若いのに感心だ。恐らく八木沢さんにとっては何回も言われたことだろう、極めて平凡なことを思いながら風呂敷を解く。菓子箱が顔を覗かせたので、つい「喜んでもらえるといいのだが」と女々しく呟いてしまった。
「お待たせ致しました。」
 凛涼を含んだ艶がある。無論、男性の声であるが、発するだけで辺りの邪気を払い、その場を聖域にしてしまうような清らかさだ。挨拶の場で菓子を渡す。八木沢さんは丁寧にそれを受け取ってくれたので、私は胸を撫で下ろした。
「では、早速こちらを。」
 どこに出しても恥ずかしくないと胸を張れる真珠達の御披露目である。八木沢さんの顔が、その真珠の照り返しによってぱっと明るくなった。また、その表情は良い驚きを露わにしていて、切れ長な瞳が大きく見開かれた。感嘆の息が吐かれ、私は胸の奥がふわふわとする心地がする。
 気を引き締めつつ、真珠らは選りすぐりであることと、その中でも品質の差があることを説明し、価格について触れ、一つ当たりの真珠と価格で交渉を行う。まとめて作る場合は多少値引きも出来る旨を伝えて、概ね話がまとまったところで、きっかり一刻経った。次にもう一度来て、品を納めれば……この仕事はやり遂げてしまう。
 何か、せめて話を聞ければ、と考えていると、八木沢さんが口を開いた。
「重春さん。これ、開けてもよろしいですか。」
 これ、というのは私が持ってきた菓子の事であった。確かにお八つ時である。仕事の話以外のことも話しましょう、という気遣いにも感じられて、私は無論快諾した。二杯目の茶を淹れて頂いて、菓子箱がそっと解かれていく。
「わ、華やか……。」
 半ば独り言のように溢れていった彼の言葉に、私は嬉しさを感じていた。
「この辺りでの、最近の流行といいますか、有名なのだそうです。」
 観光地であるが故に、名産品は固定になってしまうが、新しい菓子もどんどん試されている。最近の流行には疎いのだが、そんな私でもハイカラなものだと思えた。貝の焼き菓子に牛酪(バター)が塗ってあり、白玉と白餡を挟んでいる。私は一度も他所の街や都会には行ったことが無いが、銀座や横浜に並んでいても可笑しくないほど、洒脱なものだと俊春が言っていた(そして俊春も行ったことはないのだが、耳聡いので信用している)。
「では、お一つ。」
 白魚のような指先が箱詰めされた菓子をそっと取る。八木沢さんは様々な角度で眺め、目で楽しむ。その様子を不躾にも見詰めて居たものだから、音が鳴るかと思うくらいに視線がぶつかった。
「花珠、ですね。」
 恥ずかしさから目を逸らす前に、彼はそう言って微笑んだ。彼の声と共に宝石の如く煌めいて、私の胸に落ち、輝きが私の中を満たしていく。言い様もないほどの高揚に、熱が上がっているのを感じた。
 サクリ、と控えめな音を立てて口に含まれていく花珠は、咀嚼され、喉を通り、腹に落ちて、……軈ては美しい彼の一部となる。花珠を食すことで、この人の骨が真珠と同じ美しさを纏うことになったら……。そこまで考えて私は頭痛がする思いをした。あまりにも危険な思想であり、あまりにも酷い夢想である。
 誤魔化す様にして、私も菓子を摘んだ。こぼすといけないので、一口でぱくりといく。牛酪の香りと白餡の舌触り、白玉の焼き菓子の食感の違いが面白く、喧嘩しない味に私は目を見開いた。素直に美味いと思えた。
「口、大きいですね。」
 少し揶揄うような笑みだったが、それさえ目の毒だった。「お恥ずかしい」と咄嗟に言うと「いいえ、男らしい感じがします」などと言われ、私は益々赤面する。焼けた肌では恐らく分かりづらい筈なので、何事もない様に振る舞うが、八木沢さんの破顔は一層深まるばかりであった。
「ああ、……。じっとして。」
 不意にそう言うので、疑問の声を口にする前に、八木沢さんの指が私の唇に触れる。何事かと固まるしか出来ず、為すがままなる。
 何度か唇を指先が往復して、口角あたりをそっと拭った。
「取れました。」
 呆然とする私は、ややあってから、口元に付いた食べ滓(かす)を取ってもらったのだと理解した。
「すみません、まるで童の様な……。」
「僕の方がお兄さんですから。」
 柔らかいその表情で、何を思っているのかが見えなくなる。少なくとも仕事相手にする行為ではないはずだが、所謂今は八つ時の休憩であり、……しかし子供扱いかと言われると分からない。
 私が妙な気を起こす前に退散すべきだ。そう判断して茶を飲み干して立ち上がる。
「そろそろ、お暇を……。」
 その瞬間に、外から雨音が突如として聞こえ始める。やはり夕立になったようだ。磨り硝子の窓を叩く音からして、かなり大粒の雨が降り注いでいると分かる。図ったような間であるが、
「今日は、傘があるので。」
 引き留められる様な気がして、言葉を紡ぐ。前に来たときは俊春も居たし、仕事なのだからと浮かれぬ様にすることが出来た。
 しかし今は。私が何かしでかすのではないかという恐れが大きい。唇に残る指先の感触は、私の様な海に近い男とは違い、滑らかで冷たい光が灯る様だった。
「そこまでお見送り致します。」
 そう言われて、断れる者が居るだろうか。打ち付ける雨の中なので遠慮したい思いと、拒絶してしまいたくなるほどの戸惑い。それらを遥かに凌駕する、離れ難き心……。
 土砂降りの雨の中、周辺に人は居ない。傘に遮られて、八木沢さんの表情は見えぬが……私は知らず知らず、彼のゆったりとした歩調に合わせていた。
 眼前の鳥居を潜れば、上多万神社の外になる。見送りもここまでだろうと知りながら、惜しい気持ちが胸を満たす。
「また翌週の、同じ時刻に。」
 瑞々しい声音が、雨音の中でやけにはっきりと聞こえた。傘を傾けて見せる柔和な表情は、白く灯る花雪洞(はなぼんぼり)の如く……。私は傘の持ち手を握り直して、触れたくなる一心を押さえ込むばかりであった。
 このやり取りに疚しいものなどない。仕事の約束を取り付けているだけである。「では、また」と短く返事をして、会釈と共に八木沢さんの横から離れた。
 耳のそばで、彼の声が私を擽ぐる。目の前からいなくなった後も、私の関心が真っ直ぐにあの方へと向かっている。丸で己が不貞を働く間男に思え、道中の雨風程度では少しも頭が冷えなかった。
 恋だの愛だのに疎い私ですら、何となく分かる。これは、執着だ。執着の元が私の中に芽生えている。
 雨ばかりの帰り道。少しでも心を禊ぎなさい、と天から叱られているような気がして私は背筋を伸ばした。視線の先は荒れた海であった。