三文目

 夏の嵐が町を通過していった。後の空は洗われた様な青さで輝くが、地上は良いことが無い。強風の所為で工房の建て付けが若干悪くなったので、朝から修繕作業に勤しんでいた。何処の工房も似た様なものらしく、やれ雨漏りだ、やれ風穴だと賑やかな様子である。強い日差しは夏そのものであるが、秋めいた赤みを感じた。
 昼過ぎになって一段落したので、俊春と共に飯を食うかという話になったが、女衆が握り飯を振る舞っていると言うので、沿岸に出てみる。人だかりが出来ていて、それも見知った顔だったので近づいてみた。
「アラマー、春坊達じゃない! お腹空いてるでしょう。」
 近所に住む女手が集まっていて、姉さん方(二十も三十も歳が上であっても、姉さんと呼ぶ決まりである)がその場を切り盛りしていた。握り飯に伸びる手の夫々(それぞれ)を瞬時に判断して、叱ったり許したりしている。額に汗を滲ませているのは、男衆だけではない。
「コラあんた! 欲張って取ってくんじゃないよ! ホラ、春坊。あんた達は育ち盛りなんだから持っていきなさい。」
 姉さん方からすれば、私達はいつまで経っても十かそこらの子供と同じに見えるのだろう。それが気恥ずかしくも嬉しくあり、では有り難くと礼を言って三個ずつ頂いていくことにした。
「重坊は、上多万神社さんのお仕事してるって?」
 狭い町なので、何処の誰が何の仕事をしているかは直ぐに広まる。下手を打てば暫く言われるので気は抜けないが、こうして目を掛けて貰えることのが圧倒的に多い。姉さんの質問には、何故か得意満面な俊春が答えた。
「ウチの真珠が良いって、神主さんも分かってくれたみたいでさ!」
 お調子者らしい言葉である。諫めを含んで名を呼び、耳を摘んで首を曲げさせると、イテテ、と態とらしい声が出た。そういう素振りが抜けないので、童扱いされるというのに──、と説教くさい視線を向けてやる。
「冗談だよ、冗談。姉さん方のおっちゃん達が薦めてくれたお陰なんだ。」
 うちのが春坊達の役に立ったんなら、言うことないよ! という照れ隠し半分の少々乱暴な言葉が飛ぶ。事実であるし、克則さんも我が事の様に喜んでくれた。寧ろ、私が克則さんを推そうとした事を口に出したら、小僧に仕事回されるほど落ちぶれてないわ、と背中を強めに叩かれたものである。
「頑張りな!」
 そして、姉さん方からもバシンと叩かれ、背筋が物理的に伸びた。
 俊春は姉さん方にも可愛がられているので、世間話に更に花を咲かせていく。軽快なやり取りを眺めている暫くの間、私は知らず知らずあの人の指先を思い出していた。私の唇をなぞる滑らかな感触が、握り飯の食感の隙間を埋めていく。まるで、あの人に手づから飯を与えられている様だと思い、その姿を想像し、……我に返ると同時に硬直した。
「アレッ。どうした重坊。砂でも入ってた?」
「つい、仕事のことを。」
 私は、海水を被った猫の様な顔をしていたかもしれない。姉さん方から様々に声を掛けられて、私はその度、出任せの様な言い分けをする。
「真面目だねぇ。」
 咄嗟の嘘は跳ね返って、胸を刺した。ずきりとした痛みが然し寧ろ慰めになりそうで、私は恐れた。真面目なものか。私は最早、不良である。
 あの人に、……凡そ仕事相手に対して、馳せる様な思いではない。私はあの人に、一体何を求めていると言うのだろう。美しい人であるのは間違いない。美しきものに触れてみたくなるのは、童が星に手を伸ばし、乙女が花に手を伸ばそうとする行為と同様である。
 では、何故。私は星や花であるあの人に、触れて欲しいなどと思うのだろうか。
「そうそう、宮司さんといえば、婚約者が居るんですってねぇ。」
「婚約者?」
 思わず声に出してしまっていた。寝耳に水であるが、頭の中は存外動いた。あの髪飾りは、もしや……と考えが至るまでの時間はそう掛からなかった。発条(ぜんまい)が如く、きりきりと音を立てる。
「なんでも、しっかりした所のお嬢さんって噂でね。美人らしいのよ。」
「あんなに大きな神社の宮司さんを支えることになるんだものね。きっと、賢い人でもあるんだろうねぇ。」
「美丈夫のお相手さんだから、そりゃもう期待も大きくなるってものよねェ。」
 俊春もこの話は初耳だったらしい。狼狽を隠さず私の様子を窺うのを肌で感じていたが、目を合わせたくなかった。きっと、形容し難い間抜けな面をしていることだろう。

 私の知らぬ婚約者様がぼんやりとした像を結ぶ。

 真珠を選ぶくらいだ。
 きっと黒髪が美しい人だろう。黒髪が似合う人は肌も白い。きっと紅が似合うだろう……。

「これからも上多万神社と付き合いしたいなら、その嫁さんにしっかり取り入るんだよ、春坊。」
「ええっ、宮司さんの婚約者なのに?」
 真先に返事をしたのが俊春で助かった。私では到底、素直に聞き出せるものでは無い。立っている地面が、浸水した砂浜のように溶け去っていく程、不安定に感じる。
「女ってのは、イイ男だったら言い寄られて悪い気はしないよ!」
 姉さん方は冗談めかして笑うので、私も笑うしかなかった。残暑が脳天を焼いて、汗が額から流れ落ちていく。カッカと熱っぽくなる頭と違って、腕や背中には寒気が走っていた。
 竹の子の様に伸びた背や手足は、子供では無い証であるが。未熟な精神の我らでも、女性らを持て成すに値するというのは喜ばしいことなのだろうか。姉さん方のお巫山戯だとしても、言葉が滑(ぬめ)って身体に纏わり付く。
 俊春は面白そうに笑ってくれる。だから、私は無言で居られる……。私は、弟を笠にして隠れているだけだ。嫌悪感には遠く、然し無視出来ぬ違和感が私の吸うはずだった空気だけを抜き取っていく。
「そういうのも仕事のうちさね。サァサ。働いた、働いた!」

 何処か遠い所の音に感じられてしまうのは、私が……不出来だからなのだろうか。

 ◆ ◆ ◆

 下手を打つ真似はしたくない。それは何時だって考えていた事だ。不出来な私だからこそ、何度も何度も、見直して、確認して、その度に肯く。
 八木沢さんから依頼された数の真珠で、品質を整えたものを一揃い用意することが出来た。数自体は割と早く揃ったのだが、形が歪でないか、別の干渉色を持つ物が混ざっていないか、目の調子が悪いせいで見間違えてはいないか……完璧とは程遠いからこそ、近付く努力をしなければならない。
 それらを用意する間でも、今育てている真珠たちに気を払い続ける。嵐の後、流されてしまった貝がないかを潜って見て回る。表面に細やかな傷を入れており、苔や潮によって表面が覆われたとしても、段差が付くので見分けられるのだ。
 津波こそ体験したことはないが、高波が猛威を振るったことが一度だけある。その後の海は、普段よりも息吹を感じた。海水と海底とが混ぜっ返されて、栄養分が増えるのだと、克則さんに教えてもらった。確か引き取られて直ぐの事で、海に楽しみを覚え始めたのもその頃であった。
 海の音が、特に好きだ。波の音だけではない。水中へ向かう途中、途切れる音。それから水中にいる間だけ聞こえる無音。長く潜っていると、妙に落ち着く潮の音。海は母に喩えられるが、胎の中に居た頃を記憶しているからかも知れない。母の顔は覚えていないが、母を覚えている。何とも奇妙ではあるが、心地良さに満ちた大いなる腕(かいな)の広さを知っている。
 流れかけていた貝を回収して、沖へ吊るしている網に入れる。網の修繕も必要だろうかと思い立ち、胸を空気で満たすために、一度水面へ上がる。
 時折、感じることがある。陸である筈なのに上手く呼吸が出来ず、空気に触れていても息苦しさがある。柵(しがらみ)というほど嫌厭的ではないにしろ、酷く面倒にもなる。只の衝動であり、放り出したりする事はない。然し身体で分かることもある。水中で肺の空気を使い切った後、吸う空気の美味さは輪郭があるのではと思う位にはっきりとしている。海が好きなのはきっと、水上に揺蕩う間は気も胸も楽になるからだ。
 海に仰向けの状態になって浮かぶ。太陽は相変わらず照っていて、潮水の掛かった肌を早速焼いている。何も考えず海月の如く浮かんで、流れてしまいたい。私が、現実から目を逸らそうとしている態度は明らかであった。
 あの人に見つかってしまったら。あの人を見つけてしまったら。安らげる場所を完全に失うだろう。朱い社が見えるのだ。脳裏に焼き付いてしまった、何処となく雨の匂いがするあの人の笑みも、白魚の指先も、絹糸の如き黒髪も、何処か誘っていると勘違いしそうになる視線も──。あの神社の鮮やかな朱に惑わされたか、閉ざされた社務所に充満していた牛酪の香りに迷わされたか、何か理由をつけてしまえればどんなに楽だろうか。

 中途半端に学を身に付けてしまったものだから、愚かしく考えてしまうのだ。

 不出来だった私を厳しく躾けた実父の努力は、透明な鎖を作り出し、身動きを封ずる事に成功していた。私が《重春》になる前は、とある豪商の流れを持つ家系の、末息の血を引いていた。不出来だった父は家から相手にされず、貧しい生活に身を晒して居た。父は自らの地位と生活を欲しがったために──不出来な私を案じているからだ、と口では言っていたし、今でも少しはそう思いたい自分が居る──教育というものに熱心になったのである。六つになる前には算盤を理解し、読み書きを知り、漢詩を幾つも諳んじるまでになっていた。そうしなければ、私は死ぬしかないのだと、神経に摺り込まれた。ありとあらゆる学問をねじ込まれ、誤れば何度も背を打たれ、過てば平手が飛び、酷ければ先が折れた木片を投げつけられた。失敗した数だけ傷痕になり、今の私に残っている。
 父は軈て、病で死に絶えた。身内は居たが血筋の者たちは父が持っていた家ごと私を棄てた。途方に暮れ、寺を頼り、人を頼り、仕事を求めて流されていくうちに……今こうして、この海に私は浮かんでいる。
 間違ったら死ぬしかないと追い詰められ、必死だった私は、今は居ない。然し、私は不出来であるという認識は年々深まるばかりだ。幸か不幸か、実父が刷り込んだ学は役に立ったし、食うに困った時でも文字の読み書きと数字の計算、礼儀と礼節だけは手放してはならないと身に染みて感じることもあった。正勝さんに拾われなければ……一体どう生きていただろうか。

 深呼吸を繰り返し、身体全体に空気を取り込む。思い切り肺に息を溜めて、再び私は潜水する。
 私の中の、邪な感情を削って、酸素に変わることを願いながら。
 

 期日来たりて。今日は私も俊春も、工房ではなく自宅に居た。一雨来そうな天気だった。
 以前と同じく風呂敷に真珠と菓子を包み、傘を持つ。工房を襲った嵐の日を境に、秋の匂いが日に日に濃くなっていく気がする。風の中に、ふと山の匂いが混ざってそう感じさせるのかもしれない。暑さが厳しいのも此処七日程までだろう。衣替えの事も考えなければ、と玄関先に用意した足袋と草履を見つめた。他所行きの服はあまり持って居ないが、毎度同じ格好をし続けるのも野暮だろうと考え、麻の羽織りと、うちで採れた真珠を使った羽織紐を身に付けた。
「行ってくる。」
 俊春にそう告げると、八木沢さんによろしくね、と台所から声が飛んできた。
 姉さん方から、八木沢さんの婚約者について知らされて以来、俊春は八木沢さんの事で揶揄わなくなった。彼なりに申し訳なさを感じているのかもしれない。気にする事ではないのだが、上多万神社の仕事は私が進めると一度決めた事である。俊春は俊春で覚える事が多く、上京までの期日まで追われる様な日々を送っていることだろう。私に出来ることは、この仕事を恙無く治めて次の仕事を取ってくるのみである。あくまで仕事として、八木沢さんや婚約者のことを知る必要があるだけで、それ以上でも以下でもなく、私の執着めいた何かを挟む余地は無い。強く念じて、玄関の戸を引いた。

 町中を通り抜けて、途中の顔見知りに挨拶をしながら神社へと向かう。秋の気配がするのは矢張り間違いではなかった。秋にある祭の準備についての話題が上っていた。きっと、日々の業務だけではなく、こうした時節の祭事は必ず八木沢さんが関わって居るのだろうから、多忙な中で時間を作ってもらって居る筈だ。相手の都合を予測しなければ仕事は生まれない。であれば、何か手伝える事を聞いて、手を貸す旨を伝えてみよう。
 身を清め、拝殿へと赴き、授与所の巫女にも挨拶をし、社務室の戸を叩く。程なくして社務所から家政婦らしき老婆が現れた。宮司とのお約束でお伺いした、と伝えると愛想良い仕草で部屋へと通される。以前と同じ所であった。
「呼びに行って参りますのでね、どうぞ寛いでいてください。」
 静かに閉ざされた障子の向こうから、老婆の遠ざかる足音に耳を澄ませ、聞き取れなくなった後で、息をフウと吐いた。今日は境内含め、神社全体が一段と静かな雰囲気であった。遠くの音を聞こうと集中すれば、同時に音の区別も付く。息を深く吸って身体から不要な力が抜けてきた頃、再び老婆のものと思しき足音が近づいてきて、カラリと障子を開けた。
「谷江さん、でしたか。松風さんね、前の催事が推してるようだから。」
 茶を私の前に置きながら、そう説明されたので、姿勢を正して会釈をする。老婆と称したが声の張りはしっかりしていて、長いこと勤めて居る方なのだろうと感じた。
「問題ございません。ゆっくりさせて頂きます。」
「ええ、ええ。申し訳ありませんね。」
 約束の時刻から多少後ろに倒れたとて、私に急ぎの用事はないので幾らでも都合は付けられる。出された茶をそっと啜った。
 暑い日の熱い茶ではあったが、何処からかひんやりとした空気が流れ込んでくるお陰もあって丁度良く思えた。安堵を覚える味である。冷たい空気の行方を、何となく探ろうとしてみた。社務所の全容は分からないが、何処かで打ち水がされているのかもしれない。授与所に掛けてあった風鈴の音が此処まで届く。鴎(かもめ)の声もだ。嗚呼、警戒しあっている声がする。天気はやはり下り坂なのだろう。
「重春さん、お待たせいたしました。」
 障子の向こうから、瑞々しくもピンと張った声がした。私は座布団から降りて頭を下げる。挨拶を済ませて顔を上げると、紫色の袴を履いた八木沢さんが居た。どうぞ上座へと勧められたので移動しながら、袴について思い出したことがあった。確か紫は宮司でなければ身に付けることが出来ない色だった筈だ。以前は軽装だったのか、別の色だったような気がする。
 菓子を渡しつつ袴の色に触れようかと考えたが、浅い知識で口に出すのは却って信頼を失うかもしれないと踏み止まる。
「本日も、貴重なお時間を頂き、ありがとうございます。」
 平凡ではあるが、私に出来ることをするしかない。精一杯、心を尽くしていくしかないのだ。
「此方こそ。遅くなってしまい申し訳ないです。」
「いえ、不都合なく過ごさせて頂きました。」
 彼を前にして、自分でも驚くほど冷静で居られた。焦がれていたと言うと大袈裟かもしれない。八木沢さんを待つ間が良い効果を齎らしてくれたのだと思う。彼から発せられる美しさは相変わらず冴えており、些細な仕草に心の臓を掴まれたかと思うくらいには、私は囚われている。それでも、動揺する素振りは面に出てないと自覚出来ていた。
「依頼された数に間違いがないか、どうぞご確認ください。」
 十ずつ、柔らかい布に包んで簡単な巾着にしておいた物を紐解く。八木沢さんは「確かに」と小さく呟いて微笑んだ。
「美しい物は、目にするだけで癒しを与えますね。」
「そう言って頂けて、恐縮です。」
 言われたことだけをこなすのであれば、次に細工職人を紹介したら私の仕事は終わってしまう。職人には何人か話を付けていて、宮司からの返事次第になると伝えてある。
「推薦できる細工職人は居りますが、得意とするモティーフがそれぞれ違うそうです。鶴であったり、花であったり、そういったご希望はございますか?」
「嗚呼、その件なのですが。」
 一呼吸置いた八木沢さんから発せられた言葉は普段と変わらぬ声音であったが、私にしてみれば晴天の霹靂であった。
「是非、重春さんに細工もお願いしたいのです。」
 仕事で想定外の返答があることは常に頭に入れておかねばならぬというのに、間を空けてしまった。失態である。
「その辺りは、……私よりも良く仕上げる職人にお任せした方が良いかと思いますが。」
 餅は餅屋である。私が手掛けられる物は至って簡単な物である。精々が、試作品手前の見本にするまでの範囲だ。
「仰る事は分かります。ですが、重春さんが作る物に興味があります。」
 興味。たったその言葉の為に、私の面は崩れたと思う。
「八木沢さんにそこまで言われましたら、お断り出来ませんね。お受けいたします。」
 深々と頭を下げ、八木沢さんへツムジを見せている間に如何にか顔を引き締め直した。口許が小刻みに震えそうになるのを茶を飲み干したが、「ふふ」と彼は笑みを漏らしたので、誤魔化し切れていないかも知れない。微かに風鈴の音が聞こえる。僅かに咳払いをして、条件を指を折って確認する。
 私の技量では五十も使うような細工を作る事は難しいと正直に伝え、二十から三十で作り上げることを約束した。背伸びしても出来ないことを出来ると言うのは、失敗した際の取り返しが付かない。金子については上乗せすると申し出があったので、少し値を下げて折り合いをつけた。
「急な依頼で申し訳ありませんが、どうぞお願い致します。」
「いえ、少し驚きましたが……。然し、何故?」
 言葉にして直ぐに後悔した。恋に浮かれた小娘が、如何してあたしを好きになったの、と聞く様なものである。率直な疑問というだけなのですが、と付け足したが、余計に無様になると思い、それきり私は下を向いた。
「重春さんの手は、多くの可能性が見えます。」
 窓を叩く雨の音に気が付いたのは、私も八木沢さんも、互いに沈黙したままだったからだ。暑さは和らぎ、その代わりに加わったのは水の香りであった。微笑みを浮かべる彼に、何と返事をしたら良いか分からずにいたが、神託を得た様な誇らしい気持ちが、胸の奥からじわじわと滲み出てくる。
「こちら、開けてもよろしいですか?」
 前回と同じく、菓子を共に食すのを提案してもらった。何度も気遣わせてしまって申し訳なさを感じながらも、心嬉しさは隠せなかった。勿論です、と答えて茶も頂く。今回の菓子も前回のと同じ店で買った。ビスキッツに似た土台に水菓子が載せられているもので、弾ける様な美味に違いないと思い、決めた。四つ買ったのは、話だけに聞く婚約者を無視できなかった為である。
「あの、八木沢さん。」
 貴方に婚約者が居るというのは、本当ですか。
 簡単に言葉にして発せられたら、どんなに楽だろうか。
「先程通していただいた時、前まではいらっしゃらなかった年配の方に丁寧に接していただきましたので、どうぞお礼をお伝えください。」
 少しでも取り入っておけ、という姉さん方の助言が脳裏を過ぎったが、本来の意味からは外れていたとしても一理あると思えた。実際に安心感を覚える方であったので、全くの嘘ではない。
「きっと、僕の大叔母ですね。そう言って頂けて身内としては嬉しい限りです。」
 老婆の思いがけない正体に、私は目を瞬かせた。そうだったのですか、と返事するのがやっとであった。
「そうですね……。最近、手伝いをしていただいているのですが。」
 八木沢さんは何かを一つ、二つ、考え込んだ後に少し頷いた。
「つまらないかも知れませんが、僕の……最近の上多万のお話を聞いて頂けますか。」
「それは勿論、喜んで。」
 二つ返事で食いついてしまったことに少し恥じたが、願ってもないことである。逸る気持ちはあったが、然し聞いてはならぬ様な──聞いてしまえば、分別を付けざるを得ない様な予感があった。
「上多万は、血筋での世襲ではないのです。宮司から次の宮司へ指名されて、かつ各職に認められて初めて就くことが出来ます。実は、今年の正月後に就いたばかりなのです。」
 寺であれば息子が継ぐのが一般的らしいが、私は成る程と思った。元々神社とは深く付き合い無かったとはいえ、八木沢さんの様な、一目見て美しいと思える様な人が居れば記憶に残る。今年の祭だけではなく、子供時分から担ぎ手として参加していたなら知っているはずだと思っていたのだ。最近になって宮司になったのであれば、身覚えが無くて当然である。
「僕は……何といえば良いかな。宮司になったのは、遡ればとある社家の娘さんとご友人に見初められたのが切掛なのです。」
 胸の中で、心臓が大きく跳ねる。
「見ての通り僕は若造でして……。無論、宮司を務めるのに必要な資格を持っているのですが、軟弱者なので中々思う様にいかない状況でして。それで、身内に助けてもらってるのです。」
 お恥ずかしい、と付け加えて困った様に笑う。私は、何から言えば良いのか分からなかったが、一つはっきりとしていた。正座した膝の上で握った拳に、力が入る。
「私は、……八木沢さんが宮司で、良かったと思っています。」
 口から脈動が漏れて聞こえるのではと、馬鹿げた事を頭の中、遠くの辺りで考えてしまった。目の前の美丈夫が、誰のものでも無いと都合良く考えていた訳ではない。分かっていた。会話をして貰うだけで、私が勝手に舞い上がってしまっただけなのだ。
「私の様な若輩者に、仕事を任せて頂けるのは、本当に有難いことです。出来ることなら、末長くお付き合い頂きたいと思っています。」
 だから、せめて。私はこの人にとって最も腕効きの職人であり続けたい。頭が下がったのは本心からであり、八木沢さんが抱えている苦労の隅だけでも共有できるのは、代え難い喜びである。
「うん。僕も、同じです。」
 花が綻ぶ。それが、穂転ぶことがない様に支えるには、……矢張り仕事を通してでしか、出来ないだろう。温かい茶が湯気で目元を温めたから、視界が少し歪んでしまっている。
「海に近く、この上なく勤労な貴方が、僕には眩しいです。」
 上多万神社は、海神を祀っている。海の恵みに携わる職に就いている私に合わせた、そういった激励なのだと分かっているのに。
 どうして、私は貴方を好いてしまったのだろう。

 この空間に居ると、雨が二人の季節を押し流していってしまうのかも知れない。
 立ち止まる事も出来ぬまま。想いを口にすることも無いまま。