四文目

 口の中にある水菓子の名残が、余計に惨めにさせる。
 雨の滴が肌と服に張り付く感触がやけにべったりと感じられる。浮き足立って粧し込んだ気持ちはとうに萎み、水を吸った布がずしりとするものだから足取りまでも重くなる。川の真ん中にある巨石になった気分だ。水を吸えば吸うほど頑固にめり込んで、そのくせ表面は削れていく。それでも、流れというのは待ってくれない。
 ……否応なく、押し流されて行く。あの人と会った時に降る雨は、特にそう感じさせる。
 私の中に燃え爛れる様な激情がある訳では無い。切っ掛けは不純であった。ただ、美しい人が私の横を通ったので目で追ってしまっただけだ。それだけにしておけば良かったのだ。信仰心を焚き付けて、奉納式でのお姿を目蓋に焼き付けて、私はそれを神として崇めていれば良かった。
 妙な欲を出して、何も考えずにいたら、それこそ本当に巨石になってしまう。通り過ぎる様に流されてしまえばいい。そうすれば、自らが濁流を生むこともない。その濁流に溺れることもない……。

 私は頭(かぶり)を振って、短い息を吐いた。天を見上げれば私を目掛けて放射状に注ぐ様な雨の線が降って来る。その一本一本を眺めていると、家族と過ごした日々やこれまでの歩みが湧いて像を結んだ。その中でも最も明瞭な輪郭を持つのは、弟であった。
 俊春は着々と力を付けて、上京に向けて駆けている。元より性根は真面目なのだ。私よりも、ずっと出来の良い弟である。
 では、私は? と意識を向ける。襲いかかってくる焦燥感に、明確な恐れを抱く。
 俊春とは違い都会に興味が持てない。一夜では覚めぬ夢が、向こうにはあるかもしれない。然し私にとって──凡そ、商売という事柄に対して感じる過剰なまでの反応には違いないが──、自分が世話した真珠が見知らぬ人間に渡っていることは、想像するだけでも嫌悪に塗れるのだ。そんな私が、見知らぬ人から見知らぬ人へと物と金が行き来する場所に身を置くなど自滅行為である。
 見知らぬ人という者の手は、余計に垢が付きそうに思えてしまう。金と欲の臭いと言えば良いのか。最近では海外の業者から日本の真珠は目の敵にされていると聞く。特に仏蘭西辺りでの排斥は強いらしい。──私が見た訳では無く、馴染みの細工師と付き合いのある宝石商から聞きかじった程度の情報であるが、天然と養殖を別の物として扱いたいからだろうと理解した。養殖真珠でも、貝が丁寧にくるんだ命の産物である。構造としては天然物と変わらぬのだ。形状を整え易く、また大きな玉を短い期間で作れると思われているので、天然物よりも劣ると考えられてしまうのも無理はない。大きな核は貝に大きな負担を掛けるため失敗する割合が多い。確かに球体にし易いが、厚みが均一になるとも限らない。楽をして真珠を作り出していると言う者がいたのならば、その者は養殖真珠について詳しく知らぬとわざわざ声高に叫ぶのと同義である。
 私がこの土地で養殖真珠の職人としてやっていられるのは、町が丸ごと真珠についての理解がある地域であり、しかも見知った人と見知った海に囲まれているからだ。井の中の蛙と罵られたとて、海のひとかけらは知っている。私には十分過ぎるほどである。

 泣き濡れて帰る程女々しくもいられない。私なりの覚悟は、結果的に雨が齎した。私はこの町で生きて、仕事に身を捧げるのだ。仕事でしか私を保てないし、私で居られないのなら、血心注ぎ続けるのが正しいだろう。また、その線でしか八木沢さんと関わりを持てない。裏を返せば、仕事でさえあったのなら、私の神に会えるのだ。
 吹き付ける風は海からの潮を含んで、鼻を通り、喉に溜まり、肺へ流れて行く。
 町並みは行きと同じく忙(せわ)しい雰囲気を溢れさせていた。雨足はそれなりの強さであったが、その程度では活気が失われる事はない。季節の変わり目は旬の変わり目である。一息つく間も無く次の季節がやってくる。
「仕事を、しよう。」
 独り言であったが、それは私の心に中に錨を下ろした。
 そうとも、私は職人であり、複雑ではないにしろ細工も手掛けられるのだ。そういう仕事をする者なのだ。

 私が、私であるために。

 ◆  ◆  ◆

 工房へ帰宅してすぐ、俊春と顔を合わせた。細工の仕事を請け負ったことを話すと、声を上げて驚いていたが、それ以上に嬉しそうな顔をした。
「だって、俺がまた重兄から色々教えてもらえるじゃない。」
 無邪気にいうものだから、脱力してしまう。上京したら誰に教わるつもりでいるんだ、と小突いてやった。私は私で、頬が緩んでしまうものだから、随分と迫力のないお説教である。床土の質素な工房に、体格の良い男二人が戯れついていると狭いものだが、心地よさも同時にある(そして気恥ずかしさが後から襲ってくるので言葉にはしない)。
 秋が来て冬になったら、この大きな弟は居なくなる……。そう思うと物寂しい気持ちになるが、外に出たがっている身内を閉じ込めておくのは酷なことだ。
「真珠の穴開け、教えてやるからこっち来い。」
「本当に? やりたいと思ってたんだ。」
 都会にある真珠関連の仕事といえば、宝飾関連が多いだろう。上京したてでは丁稚の様な立場になると想像出来る。簡単に商品に触らせて貰えないかもしれない。今のうちに基礎技術を身につけておいて損はないのだ。
「今回は漂白する必要はない。予め同じ品質のもので揃えてある。だが、色のムラが無いかどうかを今一度確認すること。」
 工房の机上に置かれた石盤に白墨で手順を残す。俊春は私の肩越しにそれを覗き込んで、実物と見比べていた。真剣そのものと言った表情を見て、私は正勝さんを思い出し、ふと微笑む。
 正勝さんに拾われて、俊春と共に暮らし始めてから、私が持っている知識は常に俊春へ与えていた。教えるという行為は本当に勉強になる。理解したつもりになっていても、いざ俊春へ伝えようとすると、自分が曖昧にしていた部分がよく分かるのだ。
 正勝さんが教えてくれたのは、口伝によるやり方であったが、私が読み書き算盤が出来ると知ってすぐ、石盤と白墨、それから筆記本を与えてくれた。今使っている石盤もその一つだ。兄として俊春に教えてやりなさい、と言われ舞い上がったのを覚えている。良く褒めてもらえたし、認めてもらえた。その上、役割も貰えた。子供だった私にとって必要だったのは、安定した居場所だった。
 もうすぐ、兄として教育をするという役割が薄くなると思うと、物寂しさに似た感慨深い心情になる。
「重兄なら、エクボのない形と輝き、どっちを優先する?」
「何に加工するかによるな。巻き厚によって強くなるのはテリだ。厚ければ厚いほどエクボが出来易いが、光沢を優先したい時は多少の凹凸を気にしないこともある。形によっては、穴を開ける時に多少なら調整出来る。」
「そっか。それなら卸す時に、そうやって説明できれば良さそうだね。」
 正勝さんが亡くなる前の晩も、俊春に何かを教えていた。俊春が質問して、私が答える。それを見て正勝さんは「明日は早いから留守を頼むな」と笑みを向けて床に就く。私達は「はぁい」と返事をして、何となく夜更かしする楽しさに顔を見合わせて笑った。
 それが最後のやりとりになった。
 優しい人だった。白髪混じりの短い髪が生えていたのを除けば、若々しさに溢れていて子供が二人もいるとは思えないくらいに活力に溢れていた。眉が太く、鼻筋が通っていて、子供ながらに目立つ人だと思った。引き締まった肉体を覆う焼けた肌、細かな傷が入っていて「重春とお揃いだな」と言ってもらったのが懐かしい。姉さん方からも色男だと評判されていて、酒も強かった。路地上で生きていた私と、海に捨てられて命拾いした俊春とを迷いなく保護したことから、心に正義が溢れていたのは明白である。
 海を良く知る正勝さんが、潮に流されたと聞かされても信じられなかった。海で亡くなったのは正勝にとって幸せだっただろう、と克則さんは暫く口にしていた。
「神妙な顔してるけど、どうした?」
「嗚呼、何。正勝さんから貰った石盤、今でも良く保っているなと思ってな。」
 そう言うと、俊春も頬を綻ばせた。だが、直ぐに表情が曇っていく。陰りとは良く言ったもので、俊春の太陽みたいな性質に雲がかかった様だった。
「何て言うかな。」
 雨音に消されてしまいそうな言葉。
 私は今まで自分の事ばかり考えて過ごしていた、と恥じた。声音枯らして今の今まで心に押し留めていたのは明らかである。弟の変化に気付けずに、何が兄なのだろうか。今まで奴が忙しくしていたのも、言いようの無い──というか、確かめる術がない──不安を抱えていて、半ば逃避していたのでは無いだろうか。
「賛成するに決まっている。」
「そうかな。」
「そうとも。」
 即答に即答を重ねたが、太陽はまだ出ない。それどころか陽も差さない。俊春のうなじ辺りの出っ張りに触れて、ほんの少し撫でてやる。
「海で死にぞこなって、その後、折角海で生きられる様になったのに、海から離れて、俺、本当にいいのかな。」
 俊春は、私よりも一年ほど先に正勝さんに拾われている。彼は実の親と無理心中を図った過去を持っているのだ。溺れてもがいてしている間、どういうわけかこの辺りの海辺に打ち上げられて奇跡的に助かったと聞いている。暫くは、溺れていたときの恐怖から海は愚か水に触れるのも苦手であったが、辛抱強く克服した。海を見る力が長けているのは、克服するために長い時間、海を眺めていた賜物である。
「都会に行きたい理由は。何かを感じたからからだろう。」
 年若ければ都会に憧れるのは普通だ。田舎で刺激か足りないと感じるのは、活力に溢れている証拠とも言える。どんな答えが帰って来たとしても、私は受け入れるつもりでいた。
「……海みたいだと、思ったから。」
 躊躇いの末に出て来た答えは、意外な内容だった。
「流れが速くて、時間も早くて。油断したら溺れ死んでしまいそうなほど恐ろしいのに、人がひらひらした魚みたいに踊っていて、ずっと潜ってられる海みたいに思えたからなんだ。」
 幻想だ、などと野暮なことが言えようか。夢や浪漫を肌で感じたいと思うのも、煌めきを目で追うだけではなく掴んでみたいと思うのも、私が非難する様なことではない。更に言うのであれば、正勝さんであっても。
「海で恐ろしい思いをしたお前なら、きっと上手く泳げるとも。」
「そうかな。」
「そうだ。」
 俊春は何度か、自分に言い聞かせる様に呟いて、頷いて、漸く顔を上げた。瞳には、外の雨上がりの夕日が差していて、僅かに滲んだ涙は見て見ぬふりをしてやった。
「サ、穴開けの器具を用意して、続きだ。」
 そう言って軽く背中を叩いてやると、「おう」と明るい声音で返事をする。
 私からしてみれば、小さな頃からあまり印象が変わらない。死にかけたからこそ真面に生きると、必死な私たちだから、大きな喧嘩もなく今まで支え合ってこれたのだ。
 弟への敬意と同時に、浮かび上がるのは白肌の顎から首にかけての輪郭……。
 私も、俊春に打ち明けるべきなのだろうか。男色趣味ではないと思っているが、あの人に特別惚れ込んでしまっているのは事実である。然し、打ち明けたからと言って何になる? 私は俊春とは違い、この町で骨を埋める気で居るのだ。町中に噂される様な色惚けを抜かすべきではないし、それを旅立つ弟に言う意味とは、一体何だ?
 何度考えても無意味であると結論が出るので、私はあの人について考えるのを止めにした。今私ができることは、俊春に少しでも知識を与え、また私も新しい知識をつけ続けることだ。
「お前が開けた真珠を使って、上多万神社への婚礼飾りを作るからな。」
「ゲェ! 失敗できないじゃないか!」
「当たり前だ。此の世には自分と真珠しかいないつもりで向き合え。」
 夕飯の準備だとか、明日のことだとか、本当はもっと考えなければならぬと言うのに、明日より先のために明日を考えない行動をするのは我ら兄弟の悪癖である。

 ◆  ◆  ◆

 コツを掴むまでは失敗し続けるしかないのだが、持ち前の能力でいち早く技術を自分の物にしたのは、我が弟ながら舌を巻く。目から血の涙が出そうなほどの集中ぶりで、口笛でも吹いて邪魔しようかという細やかな悪戯心もしぼむくらいの真剣さだった。
 私が手掛けたものも合わせ、二十余個の真珠が小皿の上で瞬いていた。片穴が六つ、貫通したものが残り。美しい飾りになるのは間違いない。後は、私が如何に思い描いているものを仕上げられるかにかかっている。
 細工職人の方に、手を空けさせたことに対しお詫びをしに行ったのだが、細工を請け負うことになったことを正直に話したところ、簪と純銀の針金を格安で譲って頂いた。細工に対して十分な準備が出来ていなかったのも見抜かれていたのだろう。何でも経験したら良いという言葉に甘えることにした。弟子でもない、若輩の真珠採りに対して十分すぎるほどの施しである。尚のこと失敗は許されない。
 銀線細工の真似事に過ぎないかも知れない。それでも、作ろうとするものは決まっていた。銅線で手を慣らし、美しいと思える曲線を探す。白い手袋と針金を滑らせて、花嫁にとって美しい思い出の一つになる様にと願う。派手ではなくとも華美なものを。流れゆく季節や風の中に、宝石の如き煌きを持つ雨粒は、きっと人生における思い出そのものになるだろう。
 真珠に合うのは、射干玉の髪……。
 不意に手が狂いそうになる。寸前のところで手を止めて、息を深く吐いた。
 思いを持つのは、悪ではない。然し不埒である。悪事に染まった訳ではないが、そんな思いに染まった手で此の髪飾りを組み上げている。否、あの人へ献上するのでは無い。だが花嫁の髪飾ならば、……あの人の妻となるだろう婚約者の髪に差すかも知れない。結論も無く、正解も無い。そんな堂々巡りに嵌る私を、あの人はどう思うだろう。渦潮に巻き込まれた哀れな鳥と重ねるだろうか。視点の定まらぬ魚の様だと笑うだろうか。
 何度か呼吸を整えているうち、また違う考えが顔をだす。
 仮に、思いを断ち切ったとして、染まった事実は変わらないのだ。だから、結局は。
「作るのは、私なのだから。」
 熟練の職人には劣るにしても、私自身で最も出来の良いものをお渡しすることだけは、変わらぬのだ。

 五日ほどかけて、漸く形になった。日々の業務があったので丸々かけた訳では無いが、それでもかなり注力したのは間違いない。一つの飾りを作るのに、これだけ時間をかける様では矢張り量産は難しいと痛感する。細工職人に対する尊敬の念は一段と高まるばかりだ。
 然し、納得のいくものにはなった。水が流れるごとく、風が流れるごとく曲線。あるいは蓬莱の玉の枝にも見えて縁起が良さそうな一品に仕上がった。
 真珠そのものを育てるのに神経も体力も使うが、それとはまた違った力を使った。どちらにも言えるのは出来上がったものを見ると、それまで苦労した工程など吹き飛んでしまうということだ。育て上げた我が子を眺める様な気持ちとは、こういうものなのかも知れない。
 次の約束の日まで時間がある。すぐにでもお見せしたいと思うが、こういったものは少し寝かせると粗が見え始めるのが常だ。そうだ、年長者の意見も聞いてみようか。そう思い至り、絹布で包んで懐に忍ばせた。
 夕飯ついでにどうだと俊春にも声を掛けたが、先日からの穴開けや真珠の漂白に執心しているらしい。熱心なのは良いことだが少々今詰めている様で心配にもなる。だが仮に私が俊春の立場だとしたらと考えれば理解できる行動であり、止めることなど出来はしない。
 引き戸を少し蹴飛ばしてあけると、星を散らした帳が水平線に降りていた。

 漁師が多い町なので、夜になってしまうと海沿いの店は殆ど開いていない。大抵が水揚げのための工場だったり、市場だったりするので最も活気があるのは早朝から昼過ぎまでである。従って人が集まる店というのは限られ、かつ先輩方や姉さん方がいるところとなれば酒を飲むところになる。家に一番近い飲み屋であれば克則さんがいるかもと思い、早速向かってみることにした。
 潮で煤けそうになる夜は、却って心が軽い。出来上がったことの開放感や高揚感が背中を押す。道中には灯り一つないが、月が足元を照らして導かれている心地がする。
 海や夜空を眺めていると、正勝さんと克則さんが言っていたことを思い出す。尤も、その言葉は俊春の方が骨身に染みているかもしれない。上京したい思いを強化し、同時に苛む事となっただろう。
「行き先は海が決めてくれる。」
 海が私たちを生かし、包み、看取ってくれる。だから迷う必要は無いと鼓舞する言葉でもあり、困難を静かに受け入れるべきだという姿勢でもある。月と星が水面に映って、波が攫っては消えて、再び浮かび上がる。毎夜繰り返される、数億に及ぶ現象だろう。そのうち一回くらいは本当に星を飲み込んでいるかもしれない。白く煌く粒が真珠になって私の手元に届くかもしれない。奇跡と表して仕舞えば軽薄だが何かしらの思し召しを感じる時は多かれ少なかれあるものだ。
 海風に吹かれているうちに散策したい気分になったので、いつも潜っている辺りが見える砂浜を過ぎ、参道に続く大通りからは外れた道を行く。草履の裏から感じ取れる感触が石畳から湿気た木板になり、やがて柔らかな砂になる。
 砂浜も岩場も等しく月光を浴びて青みを帯びていた。いつしか私は、人目を避けてもぐった一帯にたどり着く。上多万神社の舞台が見えるあの場所である。
 結局はあの人に連なる所へ来てしまうのだからどうしようもない。夜の帳はすっかり降りて、元より人の気配がない場所だったのが、黒い薄布を被せ、世間から隠してしまった様だ。海中の静けさにも似ていて、私はほっと息を吐いた。
 懐の髪飾りをやおら取り出し、月明かりに翳してみる。ざざん、ざざん、繰り返される数億のうちのほんの何回か。音の波間にも降る明かりは、真珠の青さをより一層強めていた。
 眺めれば眺めるほど、違う面の美しさを発見してしまう。月明かりの反射もまた、新たな真珠を生み出す要素の一つになるやもしれぬ。
 暫し自画自賛にも似たロマンチシズムに浸っていると、そう離れていない距離から、足音がする。水を含んだ砂浜を踏んでいるとは到底思えぬほどの軽い音から女性かと思い視線を向けた。
 そこには、想い人の姿があった。あまりの驚愕に目を見開くくらいしか出来なかったと思う。
「奇遇ですね、重春さん。」
 ええ、本当に。と言おうとしたが、上手いこと返せず、会釈のみになってしまった。
 お隣いいですか、と側に寄る八木沢さんからは、湯上りの香りがした。濡れ髪が月光を反射して、黒真珠を思い出させる。手を伸ばして触れたくなる衝動を刈り取ることに気を取られて、手に持っていた髪飾りを仕舞うのを忘れていた。
「もしや、それが。」
 は、と息を吸い、吐き方を思い出すかの如く「そうです」と短い返事が溢れた。
「自分なりに仕上がったつもりで居ますが、まだ粗があります故、冷静な目で観察しようと思い、……気が付いたら、此処へ。」
 それからは、辿々しいながらも支え(つかえ)が外れ、ぽつぽつと会話をする。
 不出来なものには思えないが、もし八木沢さんにそう思われたら……と思うと「ご覧になりますか」の一言が紡げない。それでも、髪飾りを眺める八木沢さんの瞳には星が瞬くように明るかった為に、「よろしければ」と差し出すことは出来た。
 失望されることの不安や人の顔を窺わなければ行動が取れぬ有様である自身に対し、最も失望してしまう。
 然し、自身のことなど吹き飛ぶ位に、私は八木沢さんに釘付けであった。
 私のような無骨な手の上にいる時よりも、神に捧げられた手指の上で、真珠らは強い輝きを放った。白露が踊るように、流星が束ねられるように、丸で彼の手に収まるために生まれたかの様な光景であった。
「僕の髪に、挿してもいいですか。髪にどう映えるか、見てほしいのです。」
 黒髪には少し自信がありますから。冗談めかして笑う彼の、弓形にしなる目元に心を囚われて、断る事など出来なかった。
 これを、八木沢さんの髪に……。射干玉の髪に星が降り注ぐのを想像して、手が震える。沈黙したままそっと触れてみると、絹糸に似た肌触りの髪であった。仕上げた髪飾りと共に、脆くも崩れるのではと思えてしまう。右耳上あたりに固定すると、普段は隠れがちな耳があらわになった。
「綺麗ですか?」
 繊細で危うさを覚える情景で、言葉にならない。壊れてしまうならいっそ自分の手で……と思えてくるのが恐ろしい。髪飾りに引き立てられた美しい顔(かんばせ)をもっと側で眺めたいという欲求は、何から来るものなのだろう。息苦しい程の衝動を抑えられず、彼を掻き抱いた。
 色香とはどういうものなのかが、今目の前にある。目にも鼻にも毒である。触れれば触れる分だけ、息も儘ならないほどに理性が削り取られていく様だ。輪郭がぼやける程の近距離でも、彼の美しさははっきりとしていた。
「何故、……。」
 抵抗しないのですか。言葉にしたら野暮だろう。欲は心臓が脈打つたび、渇きとなり、飢えとなり、その言葉を飲み込んだとしても、何の足しにもなりはしない。
「僕は……、貴方の姿を見て此処へ降りて来たのです。」
 背中に回される腕。背中を這う指の感触……。つい先程に、目に焼き付いた白魚の指と真珠の煌き。その指が私に触れているという事実が、胸の鐘を速く打つ。
「八木沢さんを、穢すことは……。」
 意気地が無いと見られても構わない。相手は神に仕える職で、私にとっては神同然の存在である。その様な人をこうして抱き寄せている時点で、何らか超越的な、別の神仏に罰せられても可笑しくない。
「神は、重春さんです。少なくとも、私にとって。」
 思いがけない台詞であった。仮にも神職である彼が言う神は、私とは比較にならない重みを感じられる。
「太陽に照らされ、海に磨かれた姿……。初めてお見かけした時、海の神がやって来たと僕は思いました。」
 身体を少し離して、私の胸元や腹をなぞっていく。身体が大袈裟に反応してしまうのを堪えたが、最後の一つが焼き切れたのを感じた。
 八木沢さんの頬を両手で掬うようにして覗き込むと、彼の瞳にも熱が漂っていた。星は無く、私の目の光が映る。
「松風、さん。」
 自然と彼の名を呼びたくなる。微笑む様に唇がやや開いた。水面を見つめ続けると……或いは炎を見続けると、理由なくその中に飛び込んでしまいたくなる事がある。それと似た感覚のまま、彼に口付けた。
 触れるだけにも関わらず、心臓が口から飛び出てしまいそうになる。何度か啄む様にしているうち、溺れてしまいそうになる。唇を離して初めて、呼吸を止めていたと理解した。
 重春さん、と呼びかけられると、堪らない気持ちに胸を掻き毟りたくなる。鼓動が大袈裟なくらい跳ね回って、それ以上何も言えなくなった。
 次は、三日後の正午過ぎに。
 そう言われるまでの間に繰り返された抱擁と接吻と、真珠の髪飾りの感触を確かめながら、私は思う。

 この唇に紅が引いてあったなら、私は踏み止まれただろうか。