五文目

 帰宅して、簡単に仕事して、かなり遅めの晩飯を食べ、床に就く。布団に潜り込んでも寝付けない。目が冴えているというよりは、ずっと夢見心地であると言える。
 柔らかい砂浜の上を歩いて居るような地に足が付かぬ感覚。或いは空を飛ぶ凧の様な。あれは夢ではなかったのかと、自身に問い直せる頃には空が白みは始めていた。
 寝転がっても眠気は彼方に飛んで行ったままで、ぼんやりとしているうち、散歩でもしようという気になって海辺まで出た。朝焼けが夜闇を照らし始め、吸い込まそうな空を作り出す。肌寒さがあったが頭を冷やすにはちょうど良かった。海の煌きが徐々に強くなって、自分の手の平が見えるようになる。

 この手で、あの人を。あの人の髪を。顔を。唇を……。
 
 そう意識した途端、私は何て馬鹿なことをしでかしたのだろうかと顔から火が出る思いをした。光に誘われる虫と何も変わらぬ軽率な行動であった。後悔しているかと言われると、そうではないのが厄介で、あの人に触れられた喜びが私の内側を駆け巡って脈を打っている。判然(くっきり)とした感情に私は絶望する他ない。私は不出来なばかりか、不良同然である。あの人に婚約者がいる事実を確かめる前に……もし事実であるならば不貞を働く間夫と何が違うというのか。
 清々しい朝の海が光を増す度に、己の仕様も無さが晒されていく。干からびた魚みたいな顔で工房に戻ると、俊春とかち合った。
「お早う、重兄。」
「ウン、お早う。」
 てきぱきと仕事の準備を始めている健やかな弟が眩しい。今日は稚貝の手入れの後、沖に吊るした母貝の様子を見に行く日である。
 自分が如何に混乱の只中に居ようと日常が廻る。取り残されているような、置き去りにされているような心地がして、親しみある場所だというのにどうにも落ち着かない。妙な挙動をしている私に、俊春は訝しげな視線を寄越す。
「八木沢さんと何かあった?」
 足元に置いてあった木桶を蹴飛ばして盛大に転んだ。派手に動揺してしまったので隠せる筈もなく、俊春から無邪気な追及を喰らう羽目になる。
 昨日の夜に? もしかして逢引してたの? じゃあ髪飾りできたってこと? 盛り上がって抱擁なんてしちゃったり?
 飛び交う言葉はどれも外しておらず、否定できない。
「一睡も、していないんだ。」
 こう返すのがやっとであった。俊春は女子(おなご)みたいな甲高い声を上げて今日は赤飯だと騒ぎ出したので殴って止めた。
「今日は寝てなよ。どうせ根詰めて仕上げたんでしょ。」
「いや……頼む。少し話し相手になってくれ。」
 今にも爆散しそうになる胸の内を誰かに聞いてもらわねば、今日一日だけではなく暫く使い物にならないと理解していた。俊春は「そりゃもちろん、喜んで!」と笑ってくれた。家族とは良いものだと思うが、家族に色恋のあらましを細かに話すのも男としてどうなのか。
 ぐるぐると巡る思考はあれどどれも纏まらないので、とにかく如何に私が駄目になりそうかが口から溢れていくことになると予想出来ていた。
 だから、沖なら誰も居ないからと、兄弟二人して叫び倒しても良いだろう。羞恥と歓喜で綯交ぜになった叫びを。

 どうにか気持ちを立て直し、髪飾りを冷静な目で見ることが出来た。
 俊春とも意見を交わしたし、克則さんと職人らが集まる飲み屋に赴いて見てもらったりもした。形や表したいもの自体は悪くないと判を押されたが、手が慣れていないというのが、分かる人間には見えているとの事だった。
 矢張り、と私は呟く。初めてにしては上出来だ、という評価では駄目だ。この髪飾りは上多万神社で提供されるのだ。花嫁が使うものであり、一世一代の晴れ姿を彩るものだ。不出来な物を納めるべきではない。
「八木沢さんは、良いって言ってくれたんでしょう」
 それはそうなのだが。
 小骨が引っかかったような感じをどうにも無視出来ず、顔を渋らせた。己の技術が未熟なのは事実である。だが、未熟だからと出さずにいれば職人として成り立たない。それに、あの人は私のことを贔屓目に見ているかもしれないから……という思いが浮かんで来て、すぐさま消し去った。一体その自惚れは何処から来るのだと叱責したくなる。
「依頼主がそれで良いって言ってるなら、重坊が持っているものに期待してるんだろう。そこはどうだ。」
 私の持っているもの、と繰り返す。私の手には多くの可能性が見えると仰ってくれた。それから、夜の海での逢引、あの人の唇が柔らかに紡ぐ言葉を思い出した。私の事を神であるとあの人は仰っていたが、それはつまり……。
「初心(うぶ)さ、……でしょうか。」
 克則さんから間の抜けた声が出た。一拍置いて大笑いに変わったが、何か合点がいったようであった。
「嗚呼、そうかそうか! 花嫁衣装だものなぁ!」
 背中や肩を強めに叩かれて、克則さんだけでなく職人方も肩を震わせるものだから赤面に拍車がかかる。
「仕事で一皮剥けようってところなんだ。いい仕事を貰ったなぁ。」
「それは、ええ。本当にそう思います。」
「あとは男としてどうか、だな!」
 俊春は何に笑われているのか今ひとつ理解出来ていない様子であったが、軈て意味が繋がったらしく、気まずそうに顔を赤くした。
「そんな余裕は、とても。」
 この狭い町では、色恋の間柄については筒抜けなのだ。酒の赤さだと主張せんと酒を煽る。元より酔いにくい性質であるので、そんなことは無駄なのだが。八木沢さんとの噂が広がるのは避けたいので、余計なことを言わないのが吉だろう。
 そういえばお前は、という意味を込めて俊春に視線を向けたが、首を小刻みに左右に振る。話題を振ってくれるなという意味なのか、別の意味を指しているか定かではないが、余計な酒の肴になるのは避けたい。私と俊春とは視線で会話して静かに頷き合った。

 ◆  ◆  ◆

 急に秋めいた気候になった。海老漁が解禁され、市場が活気付いている。アワビと重なる時期でもあるので、観光にくる者も増えるだろう。空には鰯雲が広がっていて、無性に腹が減る気分になった。こういう時期の幸は、海も山も美味なのだ。
 髪飾りの納品の日であったので、私は一番綺麗な着物を纏うことにした。と言っても麻地から綿地になっただけで色は代わり映えしない。真珠を使った羽織紐は季節を通して使える。髪飾りで出た銀線の端材を使って、一つこさえたのでそれを身につけた。帽子でもあれば、もう少し格好もつくのだろうが、手元にあるのは生憎カンカン帽ではなく草臥れた麦藁帽である。
 土産に包んだ菓子に、そっと触れる。栗を使った焼菓子なるものがあったので、物珍しさも含めて選んだ。
 ──菓子ばかりで芸がないだろうか。一瞬、不安とも卑屈とも言えぬ考えが過ぎったが、今更取り繕うのは苦手であるし、八木沢さん相手であればあっさり見抜かれてしまうだろう。
 箱の中にある髪飾りを何度も確認して、紐で括った。問題になりそうな所など一つもないというのに、繰り返し見なければ納得できないのは性である。包みに皺一つない事を認めて、立ち上がった。

 自宅から出てすぐ、目を細める。明け方に降った雨が、地面を白っぽく反射させた為だ。
 ふっと独特の香りが鼻を掠めていく。浜枇杷(はまびわ)の固そうな葉が露に濡れていた。風の動きと共に水を弾いて、宝石の如く煌めいている。黄色い花が纏まって咲き、小さな提灯がついた街道の様であった。防風樹としての役割を果たす木々であったが、季節ならではの風情に溢れていた。
 都会的と言えるものがほとんど無い町だが、今この瞬間の海沿いの小道は、小説などで出てきそうな情緒に溢れている。
 今日に限って辺りがやたらと鮮やかに見えるのは、浮ついた心に因るものだと分かっている。思いを交わした人の元に向かうだけで、世界は光を纏うのだと知った。いつも見ている海や町並みの様子、人々の息づく気配でさえ愛おしく、心が弾む。
 会いたい。貴方に。
 唱える様な、捧げる様な、情動であった。秋の空を暫し目に焼き付けて、歩みを進める。

 上多万神社の鳥居に来て、真っ先に目を引くのは聳え立つ銀杏だ。きっと時期になれば巨木の枝という枝を美しい色の葉が埋め尽くすだろう。黄金に見える小さな扇を降らせるかも知れない。その中に佇む八木沢さんを想像して、一瞬ぼうっとしてしまう。
 振り返って微笑む姿が、きっと似合う。羽衣を纏えばより美しいだろう。引き立つ黒髪を靡かせ、柔らかな唇で私の名を……。
 そこまで考えて、私は頭を振った。蠱惑的な姿を想像するなど、助平のすることである。ありもしない姿を思い浮かべて、一人で浮かれるなど、酒に酔って幻覚を見るより厄介だ。
 気を取り直し、鳥居を潜って銀杏を通り過ぎてすぐ、男女で下って来る参拝者とすれ違った。観光ついでに御守りなどを買ったのだろう。もしかしたら二人で将来に関する何かを祈ったのかもしれない。喜び合う姿を微笑ましく思いながら、さて、と気を引き締める。
 参拝した後、授与所にも挨拶をし、社務所へ向かう。すっかり慣れてきたと思い浮かべながらも、然し正式な納品であるので緊張もする。扉を叩いて呼びかけると、見覚えのある老婆が現れた。
「谷江さん。いらっしゃい」
「覚えて頂いて、光栄です。」
「よして下さいよ。どうぞわたくしには堅苦しくならず。」
 八木沢さんの大叔母にあたる人であったはずだ。そう知ってから対面してみると、どことなく八木沢さんへ通ずる面影がある。
「松風さんね、今日を随分と楽しみにしていらした様です。」
 部屋へと通す最中の、なんて事のない世間話のつもりだったのだろう。私にとっては興味深い話題である。多少引き締めた気が再び緩ませるのに十分な威力を持った内容であった。
「そうなのですか。」
 関心があり過ぎる様子を出すのは格好がつかぬ上に不自然である。無愛想にならない程度に上手く返答しようとする。座布団の上で正座して、茶の礼をしながらも、会話は続く。
「松風さんたらね、今日はもう一段と。ええ、そうなのです。御髪を何度も整えていましたから。」
 気を保て、と腿をつねったが駄目だった。口元が緩んでしまって、全く誤魔化せない。心臓が胸の中で跳ね回る。大変嬉しく思います、と返すのが精一杯で咳払い一つ出来やしない。茶の用意をしてもらったところで、八木沢さんが現れた。
「お待たせ致しました。……重春さん?」
「いえ、どうも、……。」
 歯切れ悪く、にやけた面で何が「どうも」なのか。八木沢さんの大叔母様は「では、ごゆっくり」などと言いながら下がって行った。
 彼女には私達の関係は何もかもお見通しなのではないだろうか。然し、そもそも婚約者が居るという話が噂でないのならば、歓迎されるのも妙だ。皮肉を素直に受け取ってしまったのだろうか。だが彼女からそういった目の色はなかった……。
「ハツさんに、何か言われましたか。」
 ハツ、というのが彼女を差すのだと察する。その様に破顔するのが珍しくて、と付け加えられたので、ちょっとした冗談を聞きました、と言って顔を覆った。ハツさんの言う事が真であれ偽であれ、八木沢さんの耳に入れるのは憚られる。
 切り替えねば。
 頬を軽く叩いて、短い息を吐く。そういえば私は扉を潜るまでは緊張していたのだった。すっかり忘れていたが、余計な力が抜けていた。仕切り直す為の挨拶をして、仕事の話を切り出す。
「お約束の物です。どうぞ、お納めください。」
 既に手に取ってもらっていたが、これよりは上多万神社の持ち物となる。桐箱の紐を解いて、そっと蓋を取り払う。奉納物を改めてもらうような手つきになった。私にとっての神に捧げる奉納物でもあったからだ。
 髪飾りの形状についての説明を行う。合計二十四の真珠を使用したこと。追加で何かを、という場合は以前確保した真珠の中から使うことが可能であること。身に付けてきた羽織紐を例に、男性用も可能だということを伝えた。
「ええ、確かに。素晴らしい出来です。」
 花が綻ぶような微笑みであった。私の可能性というものを示す事は出来たのだろうか。私が作る物を目の当たりして、八木沢さんにとって満足のいく出来だっただろうか。頭の中に渦巻いていた不安や不明瞭だったものは、彼の笑みで散り散りになった。
「あなたには、驚かされてばかりです。美しい物を生み出す手だと思っていましたが、やはり間違いありませんでしたね。」
「恐縮です。一層の励みになります。」
 照れ臭い思いが満ち溢れ、一瞬否定しそうになるが、納めた物が不十分であると作り手が口に出すのは誤りである。
「……本当に、美しい。」
 机の上に置いていた手に、八木沢さんの手が重ねられる。男性にしては細くて白い指が、私の指に絡んだ。どうしていいか分からず固まってしまいそうになるが、ほんの少し、親指の腹で彼の肌を摩る。さらりとした質感は私のとはまるで違う。造りからして違うのだと感じ取ってしまうと、途端に沈黙が苦しくなる。
「今後とも、ご贔屓に……。」
「もちろんです。今後のお話もしたかったんです。」
 八木沢さんはニコニコとしていて、余裕を無くしているのは私ばかりであった。肌に触れた部分が溶けてしまうくらいに熱い。しばし──時間にしたら十数秒程度だったが随分と長く感じた──、触れていた指がすいっと離れる。
 如何ですか、という言葉と共に急須を掲げられたので、遠慮なく頂くことにした。彼もまた二杯目に口をつけ、唇を濡らしてから話し出す。
「早速、婚礼が再来週にあるのです。上多万の関係者として、お越しになりませんか。」
 その花嫁に此度の髪飾りを試験的に貸し出すとのことで、私にもそれを見る機会を与えてくれるのだという。《上多万神社から、婚礼を挙げる婦人へ》という構図が明確な為か、見知らぬ人へ渡るという様な拒否感はない。細工職人から聞き及ぶ宝石商の話に比べれば興味が湧くし、職人という立場からしてみれば光栄な話である。
 しかし。
「その、私は身形が……。上多万様やお越しになる方への失礼に当たりませんか。」
 顔面の傷。無愛想な顔。焼けた肌に這う細かな傷。八木沢さんや務める巫女と並んだとしたら、煤けた印象が拭えない。そんな私が割って入っていくのは躊躇いがあった。
「ちっとも。装束はお貸しします。」
 彼の言葉だとしても一掃されない。だがそれを上回る想いに、私は静かに頷いた。舌の上でまごついていた「お引き受けします」という言葉は、一呼吸置いてから発した。八木沢さんの、パッと花開く様な顔に眩しさを覚える。
「それでは、装束の合わせを近いうちに行いましょう。」
 明らかに嬉しそうな声音になるものだから、私の心臓が妙な音を立てて縮まるのを感じた。加えて、口元を押さえて砕けた様子でクスクス笑う。
「ふふ、嬉しいな。重春さんなら、きっと似合うと思って。」
 笑う弾みで、八木沢さんの黒髪が流れる。さらさらと音がしそうで、……ハツさんの台詞が蘇る。
「自分では、その、想像も付きませんので……。楽しみです。」
 あまりに眩しくて、胸が苦しくて、菓子を渡しながら間を繋ぐ。少し触れたりするだけでこの有様だというのに、私はあの浜辺でなんと大胆な事をしたのだろうか。
 悶絶しそうになる気持ちを抑えながら、歓談を楽しむうち、時間はあっという間に過ぎ去っていった。
 そろそろお暇を、と立ち上がろうとしたが、八木沢さんから「座ったままで、しばし」と静止をかけられた。
 はて、と考える間もなく、彼が私の隣へと立って顔を覗き込んでくる。美麗な顔がごく近くにあり、そこには何やら愉しげに企む表情があった。
「やぎさ、」
 呼びかけが続くことはなく、両手で私の頬を挟み、そのまま掬われる様にして口付けられる。
「どうぞ、松風と。」
 何が起きたのかを理解するのに間が空いたが、私の耳元でしか聞こえない声で熱っぽく囁かれて、その熱が呼び水になって忽ちに集まる。この様な場所で劣情を露わにするなど不良や助平どころではない。
「困ります……ッ。」
 生娘の如く絞り出した声とは反比例する様に、私の身体は明確に反応を示す。額から滲む汗が焦りから来るのか、背徳的な空気に充てられているのか定かではなくとも。
 確かめさせて。
 彼はそんな意味を差すことを言ったかと思う。何をですかと問うほど、野暮でもない。勝手が分からずとも己の衝動的に何を求めようとしているかは分かる。なるべく乱れぬ様にと、理性が訳のわからぬ所で働いた。
 何度も口付けて、溺れそうになって、指を絡める。互いの短い息だけが聞こえて、夢中になっているうち、横たわる八木沢さんの肌を暴く寸前であった。
 松風さん、と呼べば、蕩けるような顔で笑う。なけなしの理性が捻じ切れる音を、目の奥で聞いた。
 性急ではないだろうか、余裕が無い男だと思われるだろうか、松風さんの婚約者についてはどうだ、不貞に当たるのではないか……。様々に思い留まるだけの考えが脳裏を過ぎったが、誘われるように伸ばされた手に抗う気持ちは一切湧かなかった。
 いつもは見えぬ耳の裏、首筋の影、額に浮かぶ玉の汗。密着して初めて知る黒子の存在。全てが目の毒であり、渇きを与えるものでもあった。
 互いの切羽詰まった声で、互いの名を呼び合う。
 晴れやかだった秋空は曇天となり、拡散された柔らかな光が降り注いでいた。
 また雨になるだろうか。そう考えながら、彼と私の唇は溶け合っていく。

 ◆ ◆ ◆

 妙な活力が湧く。だが胃も痛む。
 たった三日のうちに沖に出て喚き散らすのが二度。察しの良い俊春に「イイコトでもあった?」と聞かれて自爆したのはつい昨日の事である。無論、詳細は割愛した。
 然し噂について真偽が定かでは無い以上、手放しに浮かれる訳にもいかず、日に日に胃痛が増すばかりだ。
「赤飯でも炊く?」
「やめてくれ。生娘でもあるまいし。」
 沖の貝を見て回り、小船の上で死んでしまっているかも知れない貝を選り分ける。話しながらの作業は割と好きだが、今回の話題についてはさっさと忘れて欲しい。揶揄いたくてしょうがないといった風に笑う俊春であったが、祝いたい気持ちも覗かせているので、額を弾くだけで済ませた。
 克則さんに知られたら間違いなく酒の肴になる上に、相手について根掘り葉掘り聞かれるに決まっているので、これ以上広めてくれるならと念押しした。
「けど、いち職人なのに婚礼にまで呼ばれると思わなかった。そのまま上多万専属の細工師にでもなるの?」
「私はあくまで真珠採りだ。だが、まぁ、幅を持つためにも細工の技術を磨くのは良いかも知れないな。」
 浮かれやがって、と肘で小突かれた。恐らく、人生で一番の舞い上がり具合だろう。少し、何かしら仕返ししてやりたくて言葉を探す。
「可愛い弟のために漂白の点検でもしようか。」
「アッ、そうだ。一つ失敗しているかも知れないんだ。取り返せるかな?」
「それを早く言え。帰るぞ。」
 秋の空と海はいつもより広がりを見せている。然し遠くからの大風を肌で感じていた。
 次に会えるのは翌週。婚礼は更にその翌週だ。静かに季節が流れればいいと、祈りたくなる。
 
 ◆ ◆ ◆

 馬子にも衣装であった、と衣装合わせの時にも思ったはずだが、姿見で目の当たりにして柄にもなく一回りして姿を確かめた。衣装合わせ当日は、感情が忙しなく変化し疲弊していた為に、記憶が薄いのだ。
 しがない職人の、ただの衣装合わせに宮司である八木沢さんが出て来るとは思わず、大汗をかいた。
 僕がお誘いした事ですからと柔和に笑う姿が眩しかった。八木沢さんからは私が致した不貞の匂いはせず、穢れなき空気を相変わらず漂わせていた。
 そんな彼に見惚れる暇もなく、手伝いに来た巫女や八木沢さんにアレヨアレヨと言う間に採算され、着せられた。
 何が何だか把握できぬまま、皆から歓声が上がったのは覚えている。途端、とてつもなく照れ臭くなり、自分でどうなっているのか禄に確認せずにいた。最後に、こちら皆さんでどうぞと焼菓子を差し出して、逃げるように上多万を後にしたのだ。
 薄っすらと覚えていたのは、巫女の方々とは袴の色の違う常装だったことだ。水色よりも更に鮮やかな色。再びその色を目の前にして、真珠の裏干渉色を濃くしたら、こういった色合いになるかも知れぬと思った。
 段取りとしては簡単なもので、婚礼当日に準備に取り掛かる新郎新婦に対し、装束の確認をしてもらう時に、説明差し上げるというものだ。
 早朝からの準備であったが、着替えが済んで桐箱に入れた髪飾りと花嫁衣装の用意ができてしまえば何もなく、手持ち無沙汰になってしまった。簡単な雑用であれば手伝えることを近くに居た巫女に伝えると、力仕事を中心に任せてもらえた。
 何もかもが新鮮であり飽きない。参進に並ぶだろう雅楽奏者達の楽器。三三九度に使用される盃。巫女らもいつになく華やかな様子である。

 秋晴れの良い日である。気付けばぽつぽつと銀杏が黄色に色付いており、果実が熟れるような甘やかな香りがする。息を大きく吸って肺に溜めると、何か霊験あらかたな気の様なものを取り込める気がした。

 身体を動かしているうち、新郎新婦とその親族らしき方々がいらした。遠目から見ても仲睦まじい様子であったため、見ず知らずでもピンと来るものがあった。私は衣装のある部屋へと戻ることにした。社務所の奥と繋がっていることを教えてもらったので、知らされた通りに向かう。
「重春さん。」
 途中、斎服姿の松風さんと入れ違いになった。今日の主役を出迎えるためだろう。真っ白な装束であるが、光沢ある糸で鶴の刺繍が施されていた。烏帽子も身に付けており、正装であるとはっきり分かる。
「八木沢、さん。」
 松風さんと呼びかけそうになるのを堪えた。「似合うよ」と声をかけられたので、「貴方も」と返す。刹那の出来事ではあったが、たったこれだけで私の胸の内は嬉しさで満ち溢れた。
 思い人が居て、言葉を交わすだけでこうも嬉しく思うのだ。愛し合っての結婚となれば、どの様な思いになるのだろう。新郎新婦は様子からして、彼らもまた愛し合っているだろう。好きあったもの同士が番になるのは、とても幸福なことである。歓喜は心の底から祝福したい気持ちを湧き上がらせる。
 同時に思う。私と八木沢さんでは、逆立ちしたって結婚は出来ぬ。……だから余計に想像してしまうのかもしれない。美しい白いべエルから顔を覗かせて微笑む姿など、私にとって都合の良い幻想に過ぎないのだから。深く落ち込む訳ではないが、一眼見てみたいと思ってしまう。

 部屋に戻り待機に着いた。十六畳ほどの部屋は左右で区切れるようになっており、確認が済んでから直ぐに着付けへと移れる様になっていた。花婿は貸衣装とのことだが、花嫁衣装は予め新婦から預かっているものらしく、純白の無垢でありながら絢爛な花々の刺繍が見事であった。滅多にお目にかかれぬ美しい物である。男ばかりの職であり、普段は海に洗われ、真珠と共に生活するので、女物の晴れ着とは縁が薄いのだ。目に焼き付けておけば、今後何かの役に立つかもしれない。
 俄かに人の気配が増した。次いで話し声が聞こえ、複数の足音がやってくる。別の部屋に繋がるところから巫女が二人、滑るようにして隣に正座した。私もそれに倣い背筋を伸ばす。間を開けず、親族を含めた新郎新婦がやってきた。
「本日は、誠におめでとうございます。」
 深々と頭を下げ、巫女らが簡単に挨拶をする。式の進行についての確認を行い、着付けと貸衣装についての注意事項が述べられた。
「そちらの方は。」
 巫女やその他神職の方とは雰囲気が違う……というか、明らかに異質な私へ視線を向けられた。装束が上多万神社のもので関係者であると示していても、不審に思われなくとも不思議に思われても仕方のないことだ。一つ呼吸を置いて、頭を下げる。
「縁あって、本日お召しになる貸衣装の一つである髪飾りを手掛けさせて頂きました。」
 先程は彼らを遠目から見ただけだったのであったが、この距離になって初めて顔が分かる。素朴な雰囲気であるが両人とも肌艶が良く輝いて見える。
 桐箱の紐を解き、髪飾りを両人の前にそっと置いた。髪飾りを前にして、感嘆の息を漏らしていた。大きく目を瞬かせ、両目に光の粒が弾けた。
「銀線が描く曲線は、これから続くお二人の時を表しております。夫婦として過ごす間、満ち溢れるような光が降り注ぐことも、悲しみによる雨が降り注ぐような日もありましょう。しかし苦楽こそが、真珠の如き宝となることでしょう。真珠というものは、異物を核にして、真珠貝が丁寧に包んで出来た美しい奇跡です。人間も苦難を乗り越え、克服し、成長していく力を持っています。共に過ごすお二人にとって、宝珠が多く齎される様にと願いを込めました。」
 どうぞ、お手にとってご覧ください。そう付け加えると、新婦は瞳をより一層見開いた。清廉な泉から羽根を掬うかの如く、静かな手つきであった。白くて柔そうな手である。矢張り、真珠というのは白い肌によく似合う。
「全てこの地で採取された真珠を用いております。干渉色は青。テリが強くよく輝く物を選りすぐりました。縁起の良い数である二十四個揃えております。本日限りの装飾ではありますが、特に新婦様の厄払いの意味も込めております。」
 縁起物であると同時に特産品でもあるので、素材である真珠について軽く触れた。どこに出しても恥ずかしくない物で仕上げたのだ。堂々と落ち着きを持って話しているうち、新婦の手の上にいる髪飾りが、本当の意味で手から離れていく感覚を得た。
「まだまだ未熟者ではありますが、採取から加工、細工に至るまでを行わせて頂きました。ご説明ばかりで恐縮でありますが、私からのお祝いに変えさせて頂きます。ご両家の繁栄とお二人の幸せを、心よりお祈り申し上げます。」
 精一杯の所作を心がけ、頭を再び下げる。新郎新婦の表情は、心を新たにした風でもあったし、目を潤ませながら微笑んでいた。
「素晴らしいお話を、有難う御座います。大切にお借りいたします。」
 新婦の言葉に肩の荷が降りたと同時に、胸の中に何かが灯った様に感じた。
 上多万から新婦へ。構図としていて頭に入れていた関係が、目の前で、声を交わして、血の通ったやりとりが現実に起こって、初めて実現されたのだという実感が出た。
 親族達にも髪飾りを見せて喜ぶ両人は、花が咲いたと思えるほど、明るく、眩しい。後は、彼等の晴れ姿を遠くから見られれば良い。これからは、もっと多くの新婦たちが、この方と同じく幸福に包まれた顔をするのだろう。

 私の出番は終わったのだ。

 着付けが始まるので、改めて挨拶をした後、退出した。巫女達は忙しなく働いている。気の抜けた私が居ても邪魔だろうと考え、社務室から本殿のさらに奥へ抜ける方へ向かった。
 海が臨める踊り場に辿り着く。松風さんの姿をお見かけした、あの海辺だ。あの時、見上げていた所に、私が立っている。しかも上多万の関係者として、今は振る舞っている。未来とは分からぬものだ。
 私の胸の内は、達成感と一抹の寂しさで埋まっていた。
 真珠達は、海のものだった。採取してから暫くの間は、私のものだった。細工として完成してからは上多万と私のものだった。そうして今、上多万と多くの新婦のものになっていった。
 私は通過点に過ぎないのだ。手塩にかけて世話した真珠達も、確かに作った髪飾りも、人の手に渡って初めて意味を成したのだ。人に向けて作られたのだから、当然だ。その橋渡しが、充分にやれた。不出来な私にしては、大健闘である。例え、私に何も残らなかったとしても、そこから先は海が行き先を教えてくれるだろう。

 潮風が肌を撫でていく感触に、安堵を覚えていると、
「もし。」
 柔らかな女性の声に、呼び掛けられた。