七文目

 振り返れば、美しく嫋やかな女性が居た。歳は私よりも下だろう。きめ細かな肌には幼さが残るものの、着ている振袖以上に華やかさがある。薄紅を載せた唇が、ゆったりと弧を描いた。
「貴方が、谷江さんでしょうか。」
「ええ、はい。仰る通り、谷江重春と申します。」
 そうですか、貴方が。
 淑やかな女性だというのに、圧のある笑みを浮かべる方であった。後退りしそうになるのを堪え、失礼ですが貴女様は、と返答する。
「三崎涼子と申します。」
 淑やかそうな目元に小さな口。初対面である筈だが、彼女は私を存じているらしい。何処のご令嬢だろうかと考えを巡らせながら、ご丁寧に……と頭を下げようとした。
「貴方を、ひと目だけでもお見かけしたいと思っておりましたわ。」
 明確な敵意。肌で感じるには充分過ぎる程であり、身体が石の如く固まる。同時に、彼女が何者なのか当たりがついてしまった。
 一歩、三崎さんが此方に近づく。
「大花珠の奉納の事をお聞きして以来、気になっておりましたの。どんな殿方なのかしら、と。」
 後退しようにも、背後は踊り場の向こうであり、ほとんど崖と海だ。じわりと汗が浮かぶ。
「見れば、随分と背が高くていらっしゃる。逞しい海の男という言葉がぴったり。常装のお姿も、とてもお似合いです。」
 こういう時、どの様に返答するのが正解なのだろうか。言葉に真意を一つも感じられない。黒目がちな双眸は鋭い光を宿していて、全く友好的な雰囲気は無い。
「花嫁衣装として、髪飾りを手掛けられたのですってね。私も拝見しました。ええ、ええ。素晴らしいの一点につきます。東京へ行っても、きっとあの様な品質のものは手に入らないでしょう。」
 口を挟めぬまま、小柄な女性に詰め寄られている。下から吹き抜けていく風が、鳥肌の立つ背中や腕を撫でていく。
「松風さんったら、私とお話しする時も楽しそうにしていらしたの。どんな方なのか気にならないというのが、無理な話ですわ。」
 とうとう、三崎さんは私にぴたりと密着するくらいの距離まで近づいた。両手で踊り場の手摺りを掴み、私を閉じ込める。
 女性の力なので、突き飛ばして振り切ることは簡単だ。然し女性を怪我させるわけにも行かぬし、何より彼女の視線が刺さって身動きが取れない。
「それで、ここだけの話なのですけれど。初対面の谷江さんに聞くことでは無いのですが……。婚約者である私を差し置いて、お近づきになろうとしている者が居るのではないかしら。谷江さん、何かご存知でありませんこと?」
 心臓がバクバクと鳴る。彼女は、気付いている。矢張り私は間男に過ぎなかったのだ。
 言葉の上で名指しされたわけではない。汗を拭う為に腕も動かせない状態であるし、若い女性といつまでも至近距離で話すべきではない。こうした状況では、男である私が不良だと言われてしまう。鼻から息を吸って、気を落ち着けた。
「まず、お褒めの言葉を、ありがとうございます。八木沢さんには、大変お世話になっており、若輩者には勿体ないくらいの機会を与えていただいております。」
 ゆったりとした声で、言葉を慎重に選ぶ。一つでも踏み誤れば、私は此処から突き落とされるだろう。それくらいの気迫が、今の三崎さんから放たれている。
 海の匂いが私を味方してくれると信じて、彼女から目は逸らさぬままだ。
「八木沢さんとは仕事でのお付き合いでして、その他の事については分かりかねます。お力になれず、申し訳ありません。」
 暫く、私の目の奥まで注視する。吸い込まれそうな、大きな瞳である。本来、こうした瞳の持ち主に見つめられたらドギマギとした事だろう。今は冷や汗しか感じられず、酷く居心地が悪い。
「では、この先何処かで、そういった方お見かけしたらこうお伝えくださいませ。」
 松風さんにのぼせ上がるの、止めて頂けませんこと?
 ハイもイイエも言えぬ言葉であった。何を言っても火に油である。人の声が遠くから聞こえ始め、今の状況を脱する事を優先すべきであると考えた。
「この体勢では外聞が悪くございます。仕事に響きますので、どうか。」
 とは言え、私から彼女に触れることは出来ぬので、こうして懇願する他ない。彼女は暫く、クスクスと笑ってからこう言った。
「貴方のこと、気に入りましたわ。」
 危うい台詞である。他の誰かが聞いていれば、私は八木沢さんの婚約者にちょっかいを掛けていると噂されてしまう。狭い世間と界隈なのだ。思わず眉間が寄ってしまう。
 私の表情に何か満足がいったのか、三崎さんは微笑み絶やさぬまま、私から離れていった。
「ご機嫌よう。」

 大風来たりて。茫然とした私を撫ぜるのは、時化を予想させる、恐怖を孕む潮風であった。

 ◆

 その日の夜。私は沖の篝火を、岩場で眺めていた。満月の美しい夜でもあり、一年を通じて最も明るい夜の日と言えよう。

 収穫と衝撃を得た日であった。
 婚礼自体、私は参加することはなかったが、花嫁衣装を全て身に付けた新婦の姿を見ることは出来た。素朴そうな婦人であったが、神聖さで光り輝く姿となったのには心底驚いた。彼女にとって人生の中で佳い日となったのならば、私にとっても幸福である。僅かながらでも、その一端を担えたのだから。
 静かに息を吐く。傍らには、珍しく酒携えた酒がある。まだ熱燗は早いだろうかと思っていたが、思っていた以上に冷え込んだので丁度良かった。時化るのは明後日というところだろうか。雲の流れが速いので、颱風(たいふう)かも知れぬ。
 格好付けのゴールデンバットを、久しぶりに咥えた。
 今日の衝撃に目を向ける。あの双眸を思い出すだけで、何もかも投げ出して寝転びたくなる。
 三崎さんという、非の打ち所がない婚約者が矢張り居て、……松風さんは何故、私に好意を示したのか。全く分からない。
 好意であると受け取り、私も示したが、そういう間柄だと思ったのは私だけなのだろうか。そう考えたが、私一人を上多万の関係者に加えるのに掛かる手間や調整を考えたら、……。だがそれも仕事の一環であるのなら、その限りではないかも知れない……。
 そうなると、納品の日に誘(いざな)われたことだけが、確かな所であろうか。

 揺蕩う煙草の煙が、海の潮風に揉まれて消えていく。

 確かめさせて、と言われた筈だ。
 何が確かめられただろう。私の身体や互いの熱。愛は確かに実感があった。では他には? 松風さんや私の事、上多万神社と真珠採りである私との事、その他これからの全て……。理性の蒸発した頭と状況では、そういったものは吹き飛んでしまっていた。話さなければならない。本当に確かめるのであれば……。
「重兄。」
 俊春に声を掛けられる。声の方を見れば、綿を詰めた作務衣に身を包んでいた。
「冷えるだろうから、引っ張り出してきた。」
「丈は足りたか。」
「いや、全然。まぁ取り敢えずは良いや。」
 去年合わせたはずの丈が脹脛(ふくらはぎ)辺りまでしかなく、また背が伸びたのだと分かる。
「今日はどうだった?」
 私があまりにも考え込んでいるものだから、様子を見に来てくれたのだろう。俊春もちゃっかりと熱燗をこさえていた。
「素晴らしい日だった。驚嘆もあった。」
 花嫁姿の美しかったこと、髪飾りを大層気に入ってもらえたこと。女物の晴れ着には技術の粋が詰まっていると感じたこと。雅楽の楽器や巫女らの装飾について気付いたこと……。
「八木沢さんは?」
「神々しい程、立派であった。」
 色恋抜きにして、本心からの称賛である。奉納式の時もそうだったが、凛として張り詰めた空気も、厳かで雄大な雰囲気も醸し出すのだから、あの方は凄い。歳若い様子であるのに、威厳が備わっているのだ。
 全て口に出したわけではないが、そういった旨を俊春相手に言語化する。新郎新婦だけではなく、私にとっても良い日だったのだ。
「何で浮かない顔してるのさ。」
 心を見透かされてるのでは、否、私が思っていることは、周辺に筒抜けなのではと感じてしまうくらい、俊春は鋭かった。
「お見通しなのか。」
「顔に出過ぎ。」
 驚きのまま呟いてしまったが、軽い調子で返される。
 揶揄われるのが、却って救いになる。脱力ついでに、苦笑まじりに、喉奥で引っかかっていた台詞を口に出そうと思えた。
「婚約者の方とお会いした。」
 たったこれだけの、短い言葉に含まれる事実。詰め込まれた出来事を、俊春は隅から隅まで感じ取ったらしかった。呼吸を忘れて青褪め、大きく瞬きをする。
「じゃあ、……。」
 俊春はそれきり、押し黙ってしまった。
 月明かりが真上に来ている。明日も早くから沖に出る用事がある。そろそろ帰らねばなるまい。
 黒色にも見える海の水面を見遣ると、月明かりを反射して星に見紛う輝きを放つが、拒絶している様にも見える。そこに視線を固定して、新たな煙草に火をつける。
「良き仕事相手だ。尊敬出来て、贔屓にして頂ける。それだけで得難い関係だ。」
 立ち上がって、暫く海を眺めた。煙を深く吸い込むと、じりじりと燃える音がして、肺に煙が溜まる心地がする。側に俊春が居るだけで支えを感じるが、弟はもうすぐ旅立つのだ。兄である私が、甘え続けるわけにもいかない。仕事の中で自身の得たいものを得る。十分過ぎるでは無いか。
 そうとも。十分だ。私があの人に対して抱く神に近しい畏怖や憧憬というのは、全て尊敬という言葉で纏めることが出来るのだ。婚約者という存在が居るのならば、如何に松風さんやハツさんが友好的で許していたとしても、不義理には違いない。
 煙を吐き切った後には、雑念が抜けていく。波の音と、風の気配。俊春の酒を飲む僅かな嚥下音。それらを感知しながらも、自分自身の奥底へと集中する。

 あんな事があったというのに。
 婚礼が済んだ後に、松風さんや巫女達へ礼と挨拶をした時、私は意外にも動揺することなくやり取り出来た。
 三崎さんとの出来事が、あまりに現実感の無い出来事だったからかも知れぬ。然しちそれを差し引いても、仕事を収めるに至った清潔な感謝の気持ちのみで対面出来たのだ。
 斎服姿の厳かさ。柔和な中にも確かに感ぜられた芯の強さ。黒々と輝く御髪(みぐし)や陶器の如き肌に強く惹き付けられたのは事実で疑いようも無い。芽吹いた思いを否定するつもりもない。
 共に仕事をしたいと感じたのは、一重に松風さんの求心力によるものである。私でなくとも彼と仕事をしたいと思うであろう。私が偶々、彼の目に止まり、私もまた彼に引き寄せられたに過ぎない。彼を好ましく思う事自体と、不貞を深めるのとは別の話に分けるべきなのだ。
 運良く出来た縁や、仕事振りを認めてもらえた誇らしさを濁らせるくらいなら、二人の間に肉体的な触れ合いは無くとも成り立つ関係でありたい。

 似合うよ、貴方も、と言葉を交わしたあの一瞬が無くなるだけなのだ。
 

 ◆

 私のことばかり考えている場合でもない。俊春の上京まで、あと三月数える程になっている。ツテのツテまで辿って、下宿先と勤め先が決まった。夕食時に克則さんから勤め先を聞いてのけ反った。
 なんと、真珠専門店でもあり、屈指の装飾店での下働きだという。流行に疎い私でも知っているような一流店の名前に、喫驚の声が出た。
「運が良いなァ。これも大花珠の加護だろうな!」
 カラカラと笑う克則さんは、いつになく嬉しそうであった。その真珠専門店は養殖真珠の先駆けでもあり、他の追随を許さぬ程に高品質な物を扱っていると聞く。宝石商嫌いの克則さんであったが、その専門店だけは例外らしかった。
「いや、本当に何で?」
 俊春は同じ言葉を何度も何度も繰り返していた。気持ちは分かる。ちょっとやそっとの事では、その様な所へ食い込む事は不可能に近い。運にしては出来過ぎなので、もしや誰かが──或いは、誰もが──相当骨を折ったのではと考えられた。
「俺、やっていけるかな……。」
 私の不貞が確定した時とは別の意味で顔を青くした。俊春はどんな劣悪な所でもまず身になるまでは耐えると考えていたらしいが、良過ぎる場合のことを想定していなかった様だ。
 自信が持てなくなるのは分かる。自分から言い出した事であっても、思い掛けない事態になれば尻込みしそうになるものだ。
「ヒヨッコ風情が難しく考えるな。何でも聞いて何でもやってみたら良いンだ。周りの大人からしてみりゃ田舎から出てきた若者なんて、赤ん坊と一緒なンだから。」
 克則さんの助言は尤もであった。下働きを受け入れる側は、相手が未熟者なのを分かった上で承諾している。まずは己が未熟であると認めない事には、先々乗り越えていく事は難しい。
「行き先は海が決めてくれる。そうだろう?」
 何かを成そうとする以前に、海が行き先を示す事もある。俊春にとっての本当の行き先が、その専門店であるかはまだ分からないにしても。
 
 俊春は数巡して、働き先と下宿先に行く事を決心した。そうと決まれば皆に報告だ、祝いだ、何だと夕食にしながら話が咲く。
 皆、口には出さなかったが、きっと正勝さんの事を思い浮かべていた。

 ◆

 上京について具体的に決まったので、俊春を連れて上多万神社へ挨拶に行くことにした。俊春が松風さんとお会いしたのは、初めの顔合わせだけだったとはいえ、雑談の中ではあるが気にかけて頂いていた。
 訪問するのはあの婚礼以来となり、気付けばひと月近く間が空いていた。秋が深まり、神社前の銀杏が色付いている。紅葉や銀杏は錦織に喩えられるだろう。多彩な金色で丁寧に織られた天幕を思い起こさせる。
 二人で訪れた時と変わらない手順で参拝し、社務所の戸を叩く。ハツさんではなく、歳の若い巫女が出迎えてくれた。部屋に通されると、既に松風さんがいらっしゃった。
「お世話になっております。重春さん、俊春さん。」
「いえ、こちらこそ。」
「ご無沙汰しております。」
 すんなりと声が出て、いつも以上にいつも通りの滑りだしで始まった。近況の上多万神社の話をお聞きする。年末年始に向けての準備が本格化しているのだという。
「お忙しい時に、お時間を頂戴してしまい申し訳ありません。」
「いえ、良いんです。新しい試みを考えておりまして。煮詰まってしまっていたので、僕としても良い切り替えになります。」
 詳しく聞けば、初詣でより多くの人に参拝してもらうにはどうしたら良いか……ということであった。此処らで一番大きな神社とはいえ、有名な神社へお参りしてしまう人も多い。上多万らしさがあり、かつ参拝したくなるようなことは何か無いかと思案しているのだという。
 この手の話が好きなのは、どちらかというと俊春だ。どうやら考えがあるらしく、うずうずとした様子でいた。それとなく俊春へ話を振ってやると、案の定、意気揚々と語り出す。
「御守りの中に、小さな真珠を入れるのはどうですか? 新年になれば御守りを皆、買いますよね。上多万神社には大花珠もあるし、真珠は厄除にも使われるし……。他所の神社では中々無いかと思うのですが。」
 大花珠に因んでいるあたり、流石の売り込みである。花嫁衣装の髪飾りも、厄除の意味を持たせていたので、真珠の役割としてもぴったりである。
「嗚呼、成る程。御守りに入れるほど小さな物だったら、米真珠でも良いわけだ。多少形や色が悪くても、あくまで厄払いとしての真珠であるから、職人側にとって捨ててしまうものが役立つ、と。」
「そうそう。ジュエリーとしては使い物にならなくても、真珠層さえ綺麗だったら良いんじゃ無いかな。それなら格安でお譲り出来るし、うちも上多万神社さんのお力になれるでしょう?」
「それだ! 素晴らしい考えです!」
 松風さんにしては珍しく、手を叩いて興奮した声を上げた。悩みが吹き飛んだのがひと目で分かるくらいに明るい表情になっており、顔に快晴が広がったようだ。
 どちらにも利がある話になりそうだが、詳しい話は後日伺って聞くことにした。今日の目的は俊春の挨拶なのだ。
「お聞きしています。上京するそうですね。」
 俊春は「はい」と通る声で返事をして背筋を伸ばした。お調子者という印象は消え失せて、一介の、一端の、職人や商売人らしい顔付きとなった。
「兄の重春を通し、上多万神社の皆様から、多くを学ばせて頂きましたこと、感謝申し上げます。」
「私からも、お礼を。兄弟共々、成長する機会を頂けましたこと、八木沢さんの尽力あってのことです。」
 弟の成長を目の当たりにした私は素直に関心していた。考えてみれば、他の職人に可愛がられる姿ばかりで、弟がこうしてしっかりと受け応えする場面はあまり目にしたことが無かった。
「素晴らしい発想が出来る俊春さんであれば、新天地でもご活躍なさることでしょう。……そうだ。」
 妙案を思い付いた、と松風さんの瞳が雄弁に語る。
「厄祓い致しましょう。僕からの餞別として、どうぞお受けりください。」
 言うが早く、社務所の奥から通ずる上多万神社の内部へ案内される。言われるままに着いていき、すれ違う巫女に会釈しつつ、本殿へと辿り着いた。
 略式になりますが、と前置きされ、神前の座布団に座る様に促された。祭壇の中央には、輝かしい光の粒が鎮座していた。俊春が、小さく短い歓声を上げる。
「それでは此れより、谷江俊春様の幸先を祈りまして、祝詞を上げさせて頂きます。」
 朗々とした声で唱えられる祝詞に、私も俊春も圧倒された。そういえば、松風さんが室内で祝詞を上げているのを初めて耳にした。奉納祭の時は屋外であったし、婚礼そのものは私が参加していなかったから。壁に反響し、胸の中にまで響く声は、神聖と神性に溢れている。祭壇にある花珠の輝きが増したように感じられる。私は、実感してしまう。松風さんに心酔しきっているのだと。
 私の手で掬い上げられ、大花珠と呼ばれ、今は此処で祀られた海の結晶。像をくっきりと結ぶのは変わらず、ただただ在るだけで圧倒する。
 私の手から離れても、こうして別のものを与えられる機会を作り出す。大花珠はそういうものなのだ。神に近しい人の側でこそ、その真価を発揮する。

 嗚呼、これが。きっと行き先を決める一つになる。

 頭を垂れた姿勢で、微かに触れる紙垂の先が、邪で不出来な私を消し去ってくれやしないかと願う。私が不幸になるのはまだ良い。それが俊春や松風さんの不幸に繋がる事の無いよう……。

 ◆

 後日。錆色の山々が冬を匂わせる。
 私の案では無いにしろ、再び上多万神社と仕事が出来る。そこに私は幸福を感じていた。俊春に、此方での最後の仕事をと思っていたが、「俺からの餞別」と気障たらしく見栄を切られた。感謝はするが瞬間的に湧いた苛立ちが勝ったので、頬を横に伸ばして間抜け面にしてやった。
 悪巫山戯の様に気を張らぬままにしておいたが、恐らく携わったとしても最後まで見届けられないだろうことを見越して、私に預けたのだ。俊春は年明けを待たず、十二月の初めに上京することになっていた。
 俊春の準備が進むと共に、私はより沖を見る様になった。俊春が今まで良くしていた事を覚え、漸く勘所を得るに至ったのだ。

 恐らく雨が降ると踏んで、傘を携える。次に訪れる時に持っていく菓子を選ぶ為、街に出かける事にした。
 菓子については季節の物を使ったものだったり、真珠めいた雰囲気を纏うものだったりする。いちいち俊春に意見を求めていたりもしたが、選ぶ物に対してハズレが無いと言われたことから、少しは弟離れしなければと決めている。
 決まった道を行く。街を抜けて、顔見知りに声をかけられ、私もそれに応じる。安心感を覚える生活だ。松風さんにも会えることも、生活の一つに組み込まれればどんなに幸福か。此度の真珠入りの御守りが評判であれば、年明けだけの取り組みではなく一年を通じて、定期的な卸売りとなる。そうなる為にも生産量を上げていかねばならぬし、出来ることは何でもしていかなければと、気持ちが引き締まる思いだ。
 冷える風が足元をすり抜けていく。海からの風は私を導かんと擦り寄って来る様な心地であった。
「重春さん!」
 想い人の声がして、浮き立つ自分に少し呆れもする。だが、その声が余りにもくっきりとしていたので、幻聴では無いかも知れぬと振り返った。
「奇遇だね。お買い物?」
 ええ、そうです。とすんなり言えたなら良かった。私はただ、本当に生身の松風さんが目の前にいる事実に驚き、一瞬言葉を無くす。何処か砕けた様子で笑い、何故だかいつもより幼く見える。松風さんも燥ぐことがあるのだと分かって、ふと頬の力が抜けていった。
「正直に申し上げますと、次にお邪魔する際の菓子を探しに参りました。松風さんは?」
「ちょっとぶらりと。お菓子選び、同行しても良いかな。」
 二人で食べる物を二人で選ぶのが楽しそうだと付け加えられ、断る理由がなくなってしまった。
 街で一番大きな通りに出て、彼是と見て回る。意外にも、鮮やかな飴玉をジッと見つめていた。飴玉は硝子瓶に詰められていて、濃淡の歪んだ色が透けている。
「子供っぽいと思った?」
 私の視線に気付いたのか、振り返るや否や眉を八の字にするものだから、少しだけ可笑しくなってしまう。松風さんから覗く、宮司らしさのない素の部分に愛らしさを感じた。同時に、過去の私が騒めく気配も。
「昔、……。私にとって、飴玉はとても贅沢なものでした。」
 私を強く睨みつける、実の父。死に際の顔ばかりが焼き付いているが、不幸だけではなかった。
「よく出来た時の褒美が真っ赤な飴でした。一度か二度の出来事でしたが。」
 どんな事で褒められたのか、覚えていやしない。膨大な《不出来な事》に上書きされてしまって、私が褒められたなど自分の都合の良い妄想だったのではと思ってしまう。それでも味覚や嗅覚というのは記憶に残りやすく、あの飴の味だけは覚えていた。飴の味を知っているから、褒められたのは幻では無い。逆算的に思い出せる事だ。
「僕も同じです。ご褒美といえば飴玉で。いつもは悪さばかりして、平たい竹で叩かれました。」
「松風さんがですか。」
「ええ、それはもう。大泣きしたよ。」
 面白そうに笑うので、折檻を受けていた訳ではないのだと分かって安堵した。傷跡のない肌を知っていても、肌には刻まれない傷もある。どうやら私の知らない部分が松風さんにはまだまだあるようで、興味ばかりが膨らんでいく。
 折角だから、と飴を二つ買った。直ぐに二人して口に放り込んで、小さく笑い合う。歩きながら、通りにいながら、口に何かを入れているなんて、何と行儀の悪いことか。
 冗談めかした悪いことの隙間に、松風さんが耳元で囁く。
「名前、呼んでくれたね。」
「……気を付けます。」
「良いよ、そのままで。」
 並んで散策する日が来るとは思わなかった。だから、気を抜いたら不味い。先程のように名前で呼び合う間柄なのを、姉さん方辺りは容易く見抜いてしまう。杞憂だとしても、気を回しておいて損はないのだ。
 そんな憂いを他所に、姉さん方は松風さんに夢中だった。アラマー、上多万の宮司さん! と黄色い声が上がる。釣られて他の方がやって来て、やんやと盛り上がるのは、松風さんが慕われているからだろう。物珍しいだけで此処までの騒ぎにはなるまい。
 行く先々で声を掛けられるのは良いが、何やら後についてくる人が増えて、宛ら花魁道中の如き行列だ。松風さんは苦笑いするばかりで、私が適当に追い払いながら店を回る。
 軈て、ぽつぽつと雨が降り始めた。目論見通りだったなと傘を広げる。野次馬らもその雨をきっかけにして散っていった。松風さんと私に、今度遊びに来いだとか、店で待ってるだとか、皆口々に言う。松風さんは穏やかな顔をして手を振っていた。
「何処か、二人で話しませんか。」
 快諾してくれたので、一つ傘の下、無言で歩く。松風さんが濡れぬよう、なるべく密着して傘を傾ける。松風さんの横顔を見下ろすのは新鮮であった。朝露を受けて弾ける白百合か、水仙か。背筋の伸びた所や静かな足運びに、育ちの良さを感じる。
 静かな所といえば、私は海しか知らない。辿り着いたのは、地元の人間もあまり近寄らぬ切り立った岸壁の下に広がる海が見えるところであった。申し訳程度の柵があるが、崖は少々高さがあり、波が高くなりやすい。柵を超えてくる事もあり得る。
 近くに屋根の付いた休憩所があった。長椅子が設置されていたので、そこに腰を下ろす。傘を閉じて直ぐ、私は意を決して聞き出すことにした。
「三崎さんという方に、以前お会い致しまして。」
 そこから先の言葉が繋がらなかった。飴はとっくに無くなったというのに、口に残る甘い匂いが余計に苦々しさを際立てる。
「彼女が例の……。社家の娘さんの、ご友人にあたる方です。」
 松風さんは、彼女の名前だけで私の言いたい事を察したらしかった。
「宮司になる様に手を尽くして頂いた恩もございます。……ただ、正式な婚約はまだでして。」
 平たく言えば、宮司に就かせたのだからその見返りに、ということであろうか。
 社家の娘さんとそのご友人は一体何者なのであろう。松風さんの様な見目麗しい人の為ならば、その人の人生に関わりたいと思うところまでは理解出来る。然し、好意のみで実際責任ある立場まで、押し上げられるのだろうか。
「僕とは歳の差もあるし、それにしては僕は頼りないから、他所にも目を向けてご覧と言っているのだけれどね。」
 苦笑の中に本音が見えた気がした。 遠回しにではあるが断りを入れている。だが、押し切られるまでの時間稼ぎにしかならない様な気配もする。
 雰囲気から察するに、松風さんと彼女の関係は、険悪そうではなかった。寧ろ、聞き分けのない年の離れた妹を可愛がる様な空気感である。
「事情は、承知致しました。」
 私が彼女から受けた言葉や行いは、伝える必要が無いと判断する。私が余計なものとして挟まったから、三崎さんもあの様に威嚇したのだろうと仮定すれば、矢張り、私が……。
「僕と、付き合いを続けてくれるかな。」
「若輩の職人からしてみれば、勿体ないお言葉です。どうぞ、末長くよろしくお願い致します。」
 どこで見聞きされているか分からない。私がまた出入りしていると彼女の耳に入れば、人を使って監視されるかもしれない。資格を有していたとは言え、若い男性を宮司にしてしまう様な方なのだ。身なりが華やかで美しさを兼ね備えた人ならば、権力を有していたところで可笑しくは無い。
「……若輩同士、よろしくね。」
 茶目っ気を覗かせる様にして笑っていらしたが、くっきりとした落胆を松風さんに見た。
 これで良いのだと、前以上に繰り返し頭の中で唱える。
 私自身、彼が好きだとは思う気持ち自体は固まっている。奇しくもそれは、三崎さんの存在に因ってより強固なものとなった。ナイフの切先程度では傷付かぬ真珠層と同じく、彼への思いを核にして、丁寧に包み上げていくと決めていた。

 だからこそ。私が松風さんを好ましく思う事と、一線超えた関係を持ち続ける事は区別せねばなるまい。
 瞳の奥底から湧き上がる熱いものが、海の中と同じ景色を作り出していった。