七文目

 正式に注文を賜り、目の回る様な忙しさになった。飾り袋は姉さん方への仕事になった。刺繍の施された巾着袋の様な形になっており、海神を描いた紙で真珠を包むのだという。
 ザラザラとした音が波間に居るかの様な錯覚を引き起こす。御守り用に納品する真珠を検品している最中(さなか)、珍しいものがあった。核が割れて二つになったものがそのまま真珠層に包まれて、ダルマに似た形になっているものだ。双子真珠とは縁起がいいと思い、俊春を呼ぶ。
「ワァ、初めて見た! どうするの、それ。」
「お前にやる。」
 明日には出立するのだ。大花珠で得た金をそっくりそのまま渡したが、何となくそれだけでは味気無いと思っていたのだ。
 試験的に作られた小さな御守り袋のうち、没になった色のものを頂いていたので、それに詰める。
「兄弟共に、というやつさ。」
 年の割に、互いに関心を持った関係であると思う。大抵は反抗したり自立心から無茶をしたりするのだろう。一度死にかけた我等としては、その無意味さを知っている。目の前にいる相手がいつ消えて無くなるか分からない無常さも。
「馬鹿だなァ、盆には帰ってくるつもりなのに。」
 軽く返答する俊春も、理解している。何があるか分からないのだ。今生の別れになるかもしれないのを、湿っぽくならぬ様に明るく振る舞っている。当然、そうならぬ様に努力するが、それでも及ばぬところがあるから、命運を海に委ねるといった言い回しが定着するのだ。
「溺れそうになったら帰って来い。」
「分かってるって。俺が居ないからって泣くなよ。」
「こいつ。」
 首に腕を回して締める振りをして戯れるのも、これで最後になるかも知れぬ。
 心の中に、別れによる寂寞だけではなく、傷が急激に埋まり溢れそうになる部分を感じ取っていた。

 叱りつけられて、敷居を跨ぐなと言われ、深く傷付いた過去の私へ。私は家を守るひとりの男になった。親から引き継ぎ、祖父に守られ、弟の巣立ちを見守る兄となった。
 帰って来いと言える、兄となったのだ。

 不意に溢れる涙などは無かった。笑い過ぎたことによる涙である。日が沈む頃に感傷に浸るなど、そんな暇はないのだ。酒と馳走を抱えた姉さん方が、私達を呼ぶ。
 俊春を見送る酒の席が設けられた。寒さを吹き飛ばすには良い夜になるだろう。

 ◆ ◆ ◆

 俊春を見送り、無事到着したとの電報を受け取った。先ずは安堵した。東京の生活で大変なことは山程あるだろう。手紙を書いて、返事は落ち着いたらで良いと添えた。
 俊春がいなくなった分の仕事が、丸々私の手元にある訳だが、却って忙しさが丁度良かった。俊春が居ないことの寂しさは勿論ある。家に帰っても一人分の空間しか使わないというのはどういう気分になるのか、後になってから実感するものだと知った。だからと言って泣いたり浸ったりする時間はない。
 真珠入りの御守りは上多万神社の巫女らにも評判で、新年を前にして予約を受け付ける様にしたところ、既に追いつかぬ程の注文になっていた。
 近隣からかき集めたとしても数に限りがある。然し新年となれば人が集まる。ならば、……。
「予約分は明日限りで締め切りましょう。新年明けてからは、単体でのお渡しではなく、他の物に付属させる、というのはどうでしょう。」
 縁があって、と一言で纏めれば良い事ではあるのだが、私は何故か上多万神社での全体会議に呼ばれ、意見を求められていた。
「例えば、御守りやお札を受ければ受けるほど多くするのではなく、一度のお納めで、真珠御守りも一体お納めするのです。ただ、授与品と一緒にした場合は、不正を働いて何度も入手しようと、割って入る人も出るかも知れません。であれば、御朱印を授ける際にお納めするのが良いかも知れません。混雑の為の列を整理する為に、予約分とは列を分けるのが良いでしょう。」
 正直、思いつくのは狭い範囲の話だ。俊春であればもっと派手な事を思いついたかも知れぬが、それぞれの利点を説明するのは得意である。
 ずらりと並んだ、二十余名の顔は松風さん以外知らぬ顔だ。頷いて、耳を傾ける何名かに向けるつもりで続けていく。
「言うまでもありませんが、授与品などに付随させれば、真珠御守り以外の物も売上が見込めます。但し、混乱と混雑を生むことになります。御朱印と付随させることによる利点は、多くの人の御朱印帳に残ることです。信仰を高め、県外の方にも広く伝わる可能性もありますが、前者ほどの売上にはならないでしょう。」
 御朱印を何度も頼む者はそうは居ないだろう。複数回来たら、御朱印帳を見れば明らかである。そうなれば、混雑を理由に断れば良い。一日に一度とせて頂いております、と言えば角が立たないはずだ。
「素人の考えでございますから、聞き流して頂いても構いません。何か一つでも、役立てれば幸甚にございます。」
 多くの人間の前で何かを述べるのは苦にならぬ。失敗る(しくじる)訳にはいかぬが、私という若輩者が何かを誤ったとて、失望されるに至らないと理解しているからだ。今はもう、間違いをしたとしても背中を打つ者は居ない。
「確かに、一人に買い占められてしまう危険は無くせるなぁ。」
「あまり派手にやると、守銭奴と噂されてしまう。真珠をばら撒いて客寄せした、などと言われては……。」
「混乱によって参拝者が怪我をしたとしたら、此方としても風体が悪くなる。ただでさえ人手が足りないのだから、整理しやすいのが良いかも知れん。」
「御朱印と共に授けるのが良いですね。僕としては、その案に賛成です。目の前の売上だけではなく、長い目で見た時に大きな益になるでしょう。」
 口々に語られる言葉に、少しずつ安堵を覚える。私の案を元に調整し、進めることが決まった。
 意見が通ると言うのは、面白みを感じる。それによって自分の次の仕事に繋がる糸が徐々に太くなっていくのを実感した。お開きになり騒つく空気の中、小さく拳を握る。
「良い案をありがとうございます。重春さん。」
「お役に立てて光栄です。」
 部屋から退出し、やや賑やかになった部屋を背にして、密やかにやり取りをする。あの日以来、松風さんと仕事として会う事は増えたし、何かと売り込むのを手伝って頂いている。こうして、上多万神社の多くの方に顔見せする機会まで作って頂いたのだ。何かしらで返さなければと、気合も入る。
「では、また明日に。」
「ウン、また明日。」
 仕事であると分かっていても。否、仕事でなければ松風さんに会わぬと決めたから。どんなに忙しくても、彼との仕事を優先している。結果的にそれが、今の私に多くの利益を齎している。
 遠くから視線を感じたので出処を探すと、美しい令嬢の姿があった。睨まれている訳では無い。薄っすらと微笑んで、此方を見ている。
 私は姿勢を正し、深く頭を下げた。冬の風が通り抜けて行く。黄金に広がっていた銀杏の葉は褪色して、風と共に足元から去っていった。ややあってから頭を上げると、そこにはもう三崎さんの姿は無かった。
 彼女の邪魔をするつもりは無い。松風さんが彼女を選ぶなら(または選ばざるを得ないのならば)、横恋慕にあたる行動は取らぬと決めている。そもそも、私は選べる立場では無いのだ。
 底冷えする日だからこそ、海に潜りたくなる。寒中であっても、大花珠を見つけていたとしても、頭を空にしたい時はいつもそうして来たのだ。

 もし、松風さんが、私を選んだら。

 馬鹿げた妄想をちぎり捨てたくて、工房へ走り戻る。重苦しい曇天は雪を引き連れそうであった。


 ◆ ◆ ◆

 怒涛の師走が過ぎ、除夜の鐘を聴きながら新年を迎える事が出来た。俊春は居ないが、今年も昨年と変わらず克則さんや組合の先輩方と過ごした。初日の出と共に初詣には赴くつもりで居るが、先輩方は寝転ぶばかりである。
 新年明けてバタバタと動くのは良くない。正月くらいゆっくりすべきだ。という言い分も理解出来るが、姉さん方が余計にピリピリとするので居心地は微妙である。
 誰かと態々行かなくとも良いか、と結論付けて、ひっそりと抜け出す。日の出まで少し時間がある。一張羅と呼べるほど立派なものではないが、せめて真新しい自分で在るようにしよう。
 上多万神社は、恐らく大変な賑わいだろう。挨拶するにしても落ち着いてからになるだろうが、海神への祈願だけはしておきたい。大花珠への感謝、私の生業、弟の安否、克則さんの健康、松風さんとの縁……。手を合わせて思いたい事は山程ある。安息と安寧も、発展と成長も欲しいと思うのだから、私という人間は大変欲張りである。
 家に着くなり火を焚き、着替え半分、酔い覚まし半分に準備を進めた。黒い着物に縞袴、鉄紺の紬羽織でそれなりに格好は付いた。羽織紐は以前作ったものである。季節を問わず使えるのが真珠の良いところだ。
 下駄箱に見慣れぬブーツがあった。ハテ、と考えたがすぐに思い出す。俊春が上京の準備に用意していたが、幅が合わず断念したものだった。結局別の靴を揃え、それを履いて旅立っていったのだ。
 使わずにいるのも勿体ない。試着してみるかと思い、真新しい莫大小(メリヤス)を履いてから、爪先からそっと足を入れた。思っていたよりも柔らかい革で作られていた。トントンと踵を鳴らすと、何やら訳もなく機嫌が良くなってしまう。対して窮屈さを感じなかったので、俊春は私よりも足が大きいのだと今更知ることになった。
 賽銭と甘酒を飲むための金を持ち、家を出る。
 眼前に広がるのは、普段からよく見る水平線であるが、今日は一段と澄み渡っていた。既に暁に染まっている。良く見える所を探す必要が無いくらい、視界に映る全てが海と空だ。
 心新たになる輝きであり、冷えた空気が太陽によって温められていくのを肌で感じる。
 自然と手を合わせたくなるのは何故なのだろう。毎日海は、変わらぬ広くて大きな懐で迎えるのに、毎日違う発見がある。
 日の出を拝み、道中で新年の挨拶をしながら初詣へ。混雑になると予想していたので驚きはしなかった。牛歩で鳥居を潜り、時間をかけて境内へと進むと、何度か顔を合わせたことのある巫女に捕まった。私が頭ひとつ抜ける背丈であったために、見つけやすかったのだろう。
 兎に角、力を貸して欲しいと言われ、アレヨアレヨと連れ去られる。此処の巫女達は押しの強さは中々であると意味のない事を考えつつ、連れられたのは御朱印所であった。
 人手が足りぬのだなと察する。と同時に、巫女相手に新年から怒りを露わにしている中年の男に気付いた。
「予約したって言ってンだろ! 文字読めるのか!」
「ですから、台帳にお名前が無い方はお渡し出来ないのです。御朱印とご一緒でしたらお渡し出来ますので、彼方の列へ……。」
 何度も押し問答をしていることから、ずっと平行線のまま言い張っているに違いない。男は酒にも酔っているようだ。見覚えのない方であるので県外から来た参拝客だろう。巫女では手に負えなかったのだ。
「もし。」
 肩をポン、と叩く。勢い良く振り返り、男が喚き散らすので黙って聞き流す。ある程度同じ話の繰り返しになったのを境に、口を挟んだ。
「それは本当ですか。」
「そうだとも!」
「であれば、割符もその時にお渡ししているのです。それは如何いたしました。」
「それは、家に忘れて……。」
「可笑しいですね。割符なぞ配って居ないのに、本当に家に忘れたのですか。」
 意地悪な事をした。男性はキョトンとした顔をして、自分が今何を言ったのか、言わされたのかも分かっていない様だった。
「新年のめでたい時です。きっと、お酒を飲みすぎて、別の神社と間違えたのかもしれません。そうでしょう。お手数取らせて申し訳ありませんが、向こうで餅と甘酒を配っているようです。少し休憩なさっては如何でしょうか。」
 流れる様にそう言って、肩と背中を支えて促してやると、フラフラとした足取りで離れていった。
 巫女だけでなくすぐ後ろの参拝客もホッとした顔を見せたので、参拝客には「お時間掛かりまして申し訳ありません」と添え、応対していた巫女らと話をする。
「助かりました。急にお連れして大変ご迷惑を……。」
「いえ、構いません。何か私で出来ることがあればお手伝いさせてください。」
 申し伝えると、巫女らは一瞬顔を見合わせ、一人は列の整理の為かその場を離れた。もう一人は御朱印帳と御守りを渡す係なのだろう。予約分についての説明を受けた。
「予約分のお渡しで良いのです。台帳のお名前と突き合わせて、お渡しをお願いします。」
 私からお渡ししては有り難みが半減しませんか、と言おうとしたが、そうも言ってられぬ混雑だ。授与品に付随させていたら……とこの混雑を上回る混乱を想像して、背中が冷える。
「承知しました。此処はお任せを。」
 犇めき合う盛況ぶりを、良くぞ二人だけで捌いていたものだと感心してしまう。催事の行われている所と比べても、長蛇の列が出来上がっていた。予約分の参拝客の列が解消すれば少しはマシになりそうであったので早速取り掛かる。
 作業としては簡単なものであったが、矢張り何人かは予約したと言い張る。大抵は少し沈黙した後に「偽りはございませんか」と言えば引いていった。初めて、この高背と強面を便利に思った。
 次の方、と声を掛けると、そこには見覚えのある夫婦が居た。
「あっ……、貴方は!」
 二人も私の顔を覚えてくださっていた様で、私は目を見開く。初めて、私の作った髪飾りを貸与した婚礼で、式を挙げたお二人であった。新年の挨拶をし、早々に喜ばしい知らせを聞いた。
「式を挙げてすぐ、子宝に恵まれて。」
「それはそれは、お目出度うございます。」
「此処で式を挙げてからね、光り輝く沢山の真珠が道を作って、大きな真珠がお腹の中に入る夢を見ましたの。それで、もしかしたらって。
 だからね、この子が女の子なら珠子、男の子なら真太郎と付けようと。ね、アナタ。」
 眩いほどの幸福に満ちた夫婦であった。この間の子であれば、愛されて育つ事が出来るだろう。祝福する言葉と共に、心の底から幸あれと願いたくなる。
「貴方にもお礼が言いたかったのです。あの髪飾り、何度も夢に見るくらい素敵でした。」
「勿体ないお言葉です。」
 ごく自然と出て来た感謝の言葉。目出度い話はキンと冷える空気の中であっても、胸の内を温かくさせる。
 台帳の名前を確認し、二つ分の真珠御守りを手渡した。
「この度は、誠におめでとうございます。山崎優一さん。時子さん。」
「ありがとうございます。あの、貴方のお名前は?」
「谷江重春と申します。」
 漸く知った名前。そして知ってもらった名前。婚礼の時に感じた血の通ったやり取りに、更なる温もりが加えられていく。
 次は子供が生まれたら、と約束をする。朝日を受けて輝く笑顔であった。
 私は唐突に気付く。
 此処には名前のない人など居らず、山崎夫妻と同様に幸福を思って、この真珠御守りを手にしようと考えているのだ。それぞれに、息づく生活があり、困難に立ち向かう為の支えを得ようとしている。
 それから私は、御守りをお渡しする時に、その人の名前をきちんと呼ぶことを心がけた。一様に皆、名を呼ばれるとパッと笑顔を咲かせる。老若男女問わず、「こちらがあなた様の御守りです」と添えるだけで、そこには人の温もりが宿る。
 見知らぬ人から見知らぬ人へのやり取りなど、この世の何処にも無いのだ。私が、知ろうとしなかっただけで……。
 神社で犇く人は、様々に泳ぐ魚の群れにも見える。俊春が言っていたのは、こういう事だったのだろうか。東京は見たことは無いが、きっとこれの何倍もの人々が行き交うのだろう。
 
 新たなる、拓かれた心境であった。

 ◆ ◆ ◆

 落ち着いた頃には、日が沈みかけており、疲労を感じながらも初詣を済ませた。礼として上多万での宴会に誘われたが、丁重にお断りした。宴会の始まりが深夜であったので都合がつかぬと言ったが、単に神社での宴会に部外者が混ざるのは気が引けた為である。
 帰路では新たな獲得があった。革靴というのは足に馴染むまで疲弊するという事だ。慣れぬ靴だった所為で足が痛みで限界であった。長時間履くものではないと実感する。足の芯まで草臥れてしまったので、堪らず海に潜りたい気分であった。せめて、冷えた水に足を付けてしまいたい。上多万神社の踊場が見える海辺が最も近い海だ。あの辺りなら人気も無いので、足を引き摺る思いで向かう。
 浜辺を目にして直ぐ、裸足になった。冷えた風と足裏から感じる砂の感触の解放感に、深くて長い息が出る。半ば勢いで岩場の陰で着物を脱いだ。雑に畳んで、靴は水が付かぬ様に少し高い位置にある岩の窪みに置いた。
 身体を解しながら冷気に肌を慣らし、冬の海の中に身体を浸していく。胸の辺りまで浸かると、手足から縮んでいく様な心地がして、背中が引き絞られる。身体の中にあった息が冷やされ、ゆっくりと吐き出すと喉が冷えた。
 海を背中に浮かび上がる。疲労で浮腫んだ脚から、早くも痛みが消えた。元日からこうして海に濯がれていると、一層清められるに違いないと思えた。潜れば海、見渡せば空。そういう景色であれば、大抵の疲れや悩みは消えせてしまう。
 海月になったつもりで漂い、今日見た地上の海を思い返す。数々の参拝客の顔が思い浮かんでは消えていく。
 私の嫌う商売など、この世に存在しないものだった。その事実は私の一番深いところまで揺らすほどの影響力を持って、胸の奥に楔を打った。
 私の厭世的な生き方や、多額のやり取りを行う商売に対する嫌悪感は、出自に大きく関わっているのは理解していた。実の父が私に対して厳しかったのは、本家の生業が商売であり、認められようとした為である。父が死んだ後、私が居ようと居まいと、本家から切り離して捨てられたのは、本家の商売に障りが出るからである。
 つまり、子供だった頃の私にとって、正体不明の忌々しい存在が《商売》と呼ばれるものであった。だが、どうだ。私が意識せずとも憎んでいた相手は在りもしない。憎む相手が居なくなった。それどころか、好奇心と期待が胸中を満たす。今までは考えられなかった道が、私の目の前に敷かれたのだ。
 何によるものなのか、涙が溢れて止まらない。悲しい訳でも嬉しい訳でも無い。ただ、過去の私が泣いているのは間違いない。私があの頃に身につけた数々は無駄ではなかった。然し、父が正しかったとも思いたくない。同時に、既に亡くなった相手から謝罪めいた言葉を欲する事自体、無意味であると理解している。
 正しくはなかった。だが私の身になっている事だ。それを、未来の私が如何に使っていくかだけである。
 未来の私が仕事や商売をするにあたって、真っ先に思い浮かぶのは松風さんである。上多万神社が無ければ、私はここまで多くの事を考えるにいたらなかっただろう。一つずつ遡っていけば、俊春のお陰である。さらに遡れば克則さん、正勝さん、そして大花珠、……つまりは、この海のお陰となる。
 海中へと沈み、息を全て消費して再び水面から顔を出した。涙は止まっていた。陸に上がれば、上多万の舞台が見える。
 此処は、初めて松風さんの姿をお見かけした所であり、口付けを交わした所だ。私にとって、思い入れのある場所となった。今は、生まれ変わった様な感覚を肌で感じている。
 松風さんを愛してしまったのだから、彼の側に居られるよう、仕事も商売もしよう。商売を通して、松風さんを支えよう。上多万神社を頼るより多くの人や願いに寄り添って行ける様な、私で在ろう。だが彼の為ではない。そう私が願っているから、全ては私の為だ。
 ずっと遠くの未来はどうなるか分からないが、私という主体は、愛する人を支えられるだけの者に──。
 
 刺す様な寒気と共に、私は大きなくしゃみをした。

 ◆ ◆ ◆

 俊春からの手紙が届いた。
 年賀状ぶりの連絡であり、四苦八苦している様子がありつつも、闊達さを感じる筆である。馬子にも衣装で紳士服を揃えたこと、初めて美容室へ行ったこと、美しい女性が多いこと、……。仕事でも早速担当となった役割を日々こなし、毎日の様に新しいことを任されていると記されていた。
 多少、心配かけまいと強がっている部分があるかも知れぬが、順調そうな内容に安心した。早速返事を書こうと褞袍を着込んで工房から自宅へ戻る。大雪に埋もれる天候であり、波風が荒れているので沖には出られない日だったので時間に余裕があったので丁度良かった。
 俊春が残したブーツを履いて初詣へ行った事、商売について思うことが変化した事、俊春の案であった真珠御守りは正月だけではなく通年で行うと決まった事、その一端としては婚礼の髪飾りを一番最初に身に付けた花嫁が子宝に恵まれたのが含まれていた事、今では大花珠には子宝に恵まれる御利益があるという話が付いている事、そういえば克則さんが新たな弟子を取るかも知れぬ事、それから沖を見る勘所を得た事、稚貝が無事育って来月には全て母貝に出来る事……。書けばキリがない程であった。私は無口な方だと思っていたが、俊春とはこんなにも多くの事を話していたのだと知る。
 便箋が足らなくなったので、一先ず切り上げてそのまま出す事にした。元日におろしたブーツは少しずつ私の足に馴染み、街に出かけたり、着物を着ている時は必ずと言っていいほど履いている。作務衣の上から着物を身につけて綿入りの羽織を肩にかけた。何となく、人に会っても恥ずかしくない格好にしようと思った為だった。
 顔見知りや知り合いに挨拶しながら郵便局に向かえば、それだけで「俊春から手紙が来たのか」「筆忠実(ふでまめ)だな」と話しかけてくる。素直に頷いて「お陰様で元気にしている様です」と言って、郵便局でも同じ事を繰り返す。
 返事を出せばより清々しい気分になる。直ぐに家に戻るのは何となく勿体無い様な気がして、帰りに茶葉と餅を買って帰った。平たく硬くなった氷の道に雪が積もって行く。足元から伝わる感触が面白い。帰ったら少しゆっくりして、その後雪かきに勤しむと決めた。

 大雪でも海の音が聞こえる。数億と繰り返される内の、数十回。私は暫く波の音に耳を澄ませ、火鉢の上の餅を突いた。無言のままだとしても私の中に沈黙は無く、思案が駆け巡っていた。
 生産量を上げる為に設備を整えようかと考えたが、手が回らなくなるのが目に見えている。それよりは真珠の質を上げる事に投資しよう、工房の間取りに手を入れるのはどうか。管理するものを減らしつつ、導線に気を払い、使い勝手が良い仕事場にするにはどうしたら良いかを考える。

 パチンと弾ける炭の赤さを見つめる。不意に、松風さんの唇に吸い込まれた時の事を思い返す。あの時、踏み止まれなかったのは何故なのだろうと自問自答を繰り返し、得た結論としては、愛してしまったから、である。
 ……ならば、この火鉢を愛したのなら、赤赤と燃える炭に顔を突っ込むだろうか。
 不毛な事を考えている。そういう場合は何か、直視したくない事がある証拠だ。私はこの地に骨を埋める気で居る。だからこそ、正勝さんが残した工房を長く使う為でもある。それは変わらないはずで、何も問題はない。なのに、何処か自分の目では見えない所でチリチリと燃える存在を感じ取っていた。
 燃えているというよりは、漁火が遠くで灯っているのを気配だけで感じ取っている様な……。焦りではなく、何かが焦げている気がする程度の何かだ。
 気の所為だとして振り切るのは容易いが、経験上、これは火種や大事になるのを知っている。それが誰に影響を及ぼすのかが、まだ分からぬとしても。
「あちっ。」
 焼けた餅で舌を焼いて、反射的に声を上げる。雪がきっと、間抜けな私などは隠していたことだろう。