八文目

 月二回、真珠を納品する様に決まり、定期的な収入となった。新年から続く変化としては新たな仕事が増えたのと、克則さんの弟子にも仕事を教える様になった事だ。
 六彦(むつひこ)と名乗る男であり、妙に真珠に詳しい男だった。歳は私より二つ上で、真珠好きが高じて克則さんの所へ弟子入りの打診をした変わり者である。
 正直、真珠についての知識について教えられる事は僅かであった。教えるというよりは意見を交わして新たな価値観や切り口を得る様な、謂わば話の合う相手に近い。物静かではあるが都会的な雰囲気もあり、俊春が懐きそうな見目であった。二重瞼で何処か寂しげな瞳が印象的である。それでいて、富士額に真ん中で分けられた前髪がくるりとしていて、女性が放っておかない色気めいたものがあった。
「重兄さん。工房の工事、職人さんが確認したいそうです。」
 年上から兄さんと呼ばれるのは擽ったかった。兄弟子という意味での呼び名であるので受け入れているが、かと言って兄貴風を吹かせられる性質でもない。
「六彦さん、ありがとうございます。直ぐに行くと伝えて下さい。」
 弟弟子であっても堅苦しい口調が抜けない。威厳の有無だとかを気にする事は無いが、もう少し上手く振る舞えたら、と考えなくも無い。

 工事の段取りが済んだので、克則さんにも確認して貰おうと家に行く事にした。六彦さんを連れて昼飯にでもしようかと考える。
 六彦さんと真珠に纏わる雑談をするのが最近の楽しみであり、道すがら、そういえばと彼から語り出した。
「海外では真珠を人魚の涙と表現するそうです。」
「人魚ですか。」
 彼の話を聞いて八百比丘尼を先に思い出したが、恐らく人魚姫の様な姿を思い浮かべるのが正解だろう。人魚姫が落とした涙が純白の真珠になる様子を想像して、成る程、確かに幻想的でかつ美しい情景になるだろうと思えた。
 白い真珠は白くて柔い肌に合うが、色付き真珠は外国人の黒い肌に合わせるとより豪奢に見える事だとか、では赤みのある真珠であればどの国の肌が最も合うか、など世間話も真珠尽くしであり、六彦さんが相手だと私にしては多くを喋ってしまう。
「随分、盛り上がってンな。」
 船場から帰ってきた克則さんが、開口一番発したのはそんな言葉だった。雪がまだ残るものの、ほんのりと春の匂いがする。克則さんが沖に出て太陽をしっかり浴びてきた為だろう。
「重兄さん、本当に話せる方で。僕は幸せ者です。」
 すんなりと気恥ずかしい台詞を言うものだから、私は曖昧に笑うだけになる。
「兄弟子と相性が良いに越した事は無いが、……。ンデ、重坊は何だ。」
「工事の目処が立ったので、確認ついでに昼飯でも。」
 克則さんは、何故だか妙に六彦さんと距離を取る空気を醸し出す。よっぽど押し掛けられたのが迷惑だったのだろうか。克則さんの様な面倒見が良い人がそういった態度になるのは珍しいが、特段口に出すことはなかった。

 昼食は近くの定食屋へ赴いた。飯を大盛りにしてもらえるので、海に出た後の人に人気の店だ。混雑の波は落ち着きつつあったので、日替わり定食屋を三つ頼んで、矢張り真珠に関わる事ばかり話す。と言っても、この場では克則さんと六彦さんのやり取りに頷くのが殆どだった。
「大花珠が有名になったンまでは良いが、どこの馬の骨ど知らん卸が来てな。薄い真珠層でも良いから欲しい、と抜かすンで門前払いにしてやった。」
「嗚呼、産地狙いですね。大花珠と同じ所の真珠と謳えば、最終的に手にする客は天然真珠と信じて買ってしまうから……。その上、養殖ならすぐに出来上がると思っての発言ですね。」
 悪徳業者に真珠を渡さない様に気を払うのも、職人にとって大切なことだ。値が付けば何でも良いと思っていると、己だけではなく最後に手にする人が何かしら不利益を被ってしまう。
「克則さんが宝石商を嫌うのも、そういう理由ですか。」
「卸も卸なら、店も店だからな。だから信用できる所が大事なンだ。ウチの真珠を伊太利製だか仏蘭西製だかにした所があってな。今でも腹が立って駄目だ。」
 繰り返し聞く話なので、半分はもう笑い話と化しているが、当時は烈火の如く怒ったことだろう。
 食事を進めているあい、定食屋に居た客も気付けば客は残り二組か三組程であった。ゆっくりしていって良いとのおカミさんの言葉に甘えて、一服させてもらう事にした。
 完食した器が下げられて、がらんとした机の上に灰皿を置かれる。克則さんが燐寸(マッチ)で煙草に火を付けたので、付き合いで一本貰う。火種が赤く灯っては弱まって、雑談の隙間ごとに燃えていった。
「……六彦。お前、もう良いんじゃないのか。」
 明るく話していたというのに、急に克則さんから大真面目な声音がした。ハテ、何の話かと思い六彦さんを見る。神妙な表情を浮かべており、ハイともイイエとも言わず、ほんの少しだけ頷いた。
「午後の仕事ァ、やっとくからよ。話の肝要はお前だ、重坊。お前の好きにすりゃ良い。最近、商売が面白いと思うなら、六彦の話をちゃんと聞いておけ。」
 何やら私に関わる話なのだと察知する。煙草の火を揉み消し、勘定を済ませてさっさと帰ってしまった。
「場所を変えましょう。私の家でよろしいですか。」
「ええ、是非。」
 工房でも良かったのだが、腰を落ち着けるのであれば家のほうが望ましいだろう。
 行きとは違い、帰りの道は互いに黙していた。

 火を入れたままの火鉢に炭を足して、灰が舞い散らぬ様に息を吹きかける。芯から赤くなった炭から新たな炭の端へと火が移り、そこそこの範囲が同じ色になった。
 火鉢を挟んで向かい合う様にして正座する。火を足している間、六彦さんが湯を沸かして茶を淹れてくれたので、二人で口を付ける。じんわりとした暖かさでひと心地付いてから、六彦さんは話を切り出した。
「先ず、僕のことから。ただの真珠好きではありません。僕は東京で、宝飾や装具に携わっています。」
 思いもよらぬ所から話が始まり、驚きが隠せなかったが納得いく部分もあった。洗練された雰囲気や身のこなしは、人の視線に慣れている為だったのだ。
「俊春君と仲良くさせていただいていて、重兄……いえ、重春さんを知りました。単刀直入に申しますと、是非、僕の所に貴方を迎えたく存じます。」
 表に出づらい性質なので彼には伝わっていないかもしれないが、晴天の霹靂である。私が東京に? 然も煌びやかであろう宝飾の世界だ。私は只の職人に過ぎないというのに。
 一体、何故。
「養殖真珠のイロハを知っていて、加工もお手の物、細工まで手掛けていらしている。重春さんの様な、採取から細工までの過程を全般を知る人は希少なのです。是非、僕の所へ来てくれませんか。」
 突然のことで二の句が告げぬが、頭の片隅は冷静なままであった。続々と疑問が湧いて出てくる。俊春からは六彦さんの事は聞かされていない。だが克則さんの口振りでは、私が六彦さんに誘われるのを承知済みであるように思えた。
「もしや、俊春や克則さんは……。」
「先に話を通しました。元は俊春君の話から重春さんの事を知ったのです。実際にお会いするまで僕の存在は明かさない様にお願いしました。貴方にお声掛けするにあたり、克則さんには随分渋られましたが、手を抜かず本当に弟子入りする事で許していただけました。」
 都会から来た人間からしてみれば養殖業は辛いこともあっただろう。朝は早いし、常に冷える。特に冬の時期は凍てつく寒さである。文句一つ、弱音一つ上げなかったのは賞賛に値することだ。たった、私に会って勧誘するだけの事に、どれだけ骨を折ったのだろう。
「俊春から、一体どんな事を聞かされたのですか。」
「兎に角、凄いと。噂に違わぬ腕前です。」
 俊春の腕前や知識、熱心さが気に入ったので話を聞いてみたら「俺よりも兄のほうが凄い」と仕切りに言うので、興味が湧いたのだと言う。
 家族の贔屓目で上がった基準を試されていたと後から知り背筋が冷える。にっこりと笑う六彦さんであったが、彼の眼鏡に叶わなかったら俊春の評判まで貶めるところであったのだ。
 光栄な事ではあるが、同時に冷や汗で身体中がべったりとする。私の顔色が青くなったり赤くなったりしているのは、自分でもよく分かった。
 だが、私よりも弟の身が気になる。
「六彦さんがお勤めの宝飾店は。」
「銀座にございます。」
「俊春の勤める店舗の競合であれば、お断り致します。」
 商売敵にはなりたくないし、派閥や商家の対立構造に巻き込まれるのは真っ平ごめんである。六彦さんは一瞬、キョトンとした顔になったが、直ぐに満面の笑みとなった。
「ご心配要りません。僕の店も、俊春君が居る店の系列です。マァ、暖簾分けした先だと思ってもらえれば良いです。本筋からは逸れるので、もっと独自な視点を持った店にしたいのです。まだまだ発展途上の小さなものですが、良い立地に質の良い商品を揃えてるので客足は絶えませんよ。」
 僕の店、というので真逆と思い聞いてみれば店長をしていると言うのだから仰け反った。
 東京の銀座という所は新聞などで僅かに様子を知っている程度に過ぎぬ。だが人の多く集まる高級店の店長が、海で煤けた男の前で正座しているのだ。この状況を簡単に受け入れろというのは無理がある。
 私の困惑を他所に、六彦さんは兎に角、如何に私という人材を欲しているかを説明し出した。
「克則さんに無理言って働かせてもらったのは単なる交換条件だけでなく、貴方と真珠の質を見る為でした。僕が必要としている人であると確信しました。
 はっきりと申し上げます。重春さんを技術者として、そして貴方が手掛けた真珠も、本当は全て、今すぐに欲しい。
 工房だって。此処の工房や育て上げた真珠は僕が扱える物ではない。丁寧な仕事をなさっているのは明らかです。重兄さんの努力の結晶である工房は残すべきだと思っています。もしこの地を離れた後の事が心配であるということであれば、工房を維持する人足や費用も工面します。取引先で継続したいところがあるなら、それは重兄さんの名前で続けられる様に手配します。
 重兄さんにとっても、悪くない話にしたいのです。新しく斬新なものを見たい僕にとって、若年でありながら伝統的な技術で以て実績を積み上げている重春兄さんは不可欠なのです。斬新なものの土台は、伝統なのだから」
 六彦さんの熱意を真正面から浴びる。これ程までに必要とされることが、この先の人生であるのだろうかと思えた。仕事で認められたいと願っていた私には勿体ないくらいの話である。養殖での質を認められ、細工などの未熟な部分についても技術や知識の幅として扱って頂いている。
 職人を一人勧誘する為だけに、此処までの労力を掛けているのだ。断る理由も殆どない。心残りになることと言えば松風さんと克則さんのことであったが、取引先として上多万と繋がり続けられる様にも出来るだろうし、工房の維持という名目で克則さんの様子を見ることも可能だ。
 ただ、彼から聞かされた言葉のうち、確信めいて思うところがあった。東京に店を構え、暖簾分けする程度に栄えている、というだけなのだが……。その様な店は、きっと都会には掃いて捨てるほどあるに違いないというのに、どうしても確かめたかった。
「店舗ならばオーナーが居るかと思いますが、……。いえ、言い方を変えます。お偉方を遡ったら、どの家に紐付きますか。」
 妙な聞き方だったと思う。派閥に巻き込まれるのが本当に嫌ならば、気にする必要がない事だ。私の予想から外れて欲しいと心底願う。だが、願えば願うだけ、特に己にとって都合が悪い事ほど、予想というのは当たってしまうものである。
 六彦さんから聞かされたのは、私と父を捨てた家の名であった。
「僕もその家の者で……。嗚呼、でも七光りって訳じゃありません。詰まらない事をしたら直ぐに辞めさせられる程度の、弱い立場です。」
 苦笑混じりにする六彦さんから、共感できてしまう苦労の影を見た。きっとこの人も、自分の力を試す為に、自分の為に、荒波で藻掻く人であるのだろう。
 そして、……この人は私の血縁者だ。だが私の事を調べた訳では無いだろう。私に流れているのは末息から派生した分家だった筈だ。(名前から察するに)本家の六男が、態々この様な田舎くんだりまで来て、遠縁の私を引き入れるとは考えにくい。
 暇を持て余した道楽で始めた事であれば、間違いなく断りを入れただろう。だがそうではない。私と共に真珠について語らう六彦さんは、情熱に溢れた輝く目をしていた。だから余計に、遠ざけられない。
「……時間を下さい。」
 此処に来て、父の願いが叶ってしまうかもしれない。私の望みでは無いはずなのに、心が焦がれている。私の土台を作り上げた執念が、胸の奥から怨嗟を伴って腕を伸ばしている。
 俊春は、都会を海に例えた。飛び込める所であれば何処でも良かった筈だ。飛び込んだ先の岩場の形や色を主軸に捉える事はない。ただその海を泳いでいきたいと言っていた。
 私はどうだ。名前のやりとりがある商いに対して、熱を覚えた。それが一体、私にとっての何になるのだろう。
「何分急な話ですから、ゆっくり考えて下さい。どんな答えでも尊重します。」
 余裕のある表情で柔らかく笑む六彦さんに対して、込み上げるものがある。
 この人は、兄の様な方だ。薄くても血の繋がりがあると知っているのは、私だけ。

 ぼんやりとした火を伴う炭が、パチンと弾けて火の粉を一つ漂わせた。

 ◆ ◆ ◆

 話を貰って、四日。妙に暖かい日であった。工事の件については答えが出るまでは保留にし、日々の業務に勤しんでいた。慣れている作業は私に安寧を与えてくれる。それ自体は悪では無いが、……答えが決めきれぬままである。期限があるわけでは無いからこそ、一週間内に返事を出すと決めていたというのに、時間ばかりが経っていく。
「兄さん、お手紙が。」
 六彦さんは正体を明かしてからも、態度を変える事はなかった。すっかり兄呼びが定着した彼に対し、ほんの少し苦笑してしまう。
 受け取ったのは、上多万神社からの手紙である。明日に重要な知らせがあるので、可能であれば参加して欲しい、というお呼び立てであった。
 あれから、松風さんとは良い仕事相手としてお会いしている。顔を見ても、社務所の玄関先で真珠を納品し、検品し、挨拶をして退出するばかりだ。菓子は変わらず渡していて、時々返礼を頂く。実に仕事の付き合いらしい距離感となっていた。胸の内にしまった思いは宝物の様でもある。宝物を見る度に、古傷の如き疼きを覚える事にも慣れてしまった。
 何が知らされるかは分からない。だが、真後ろまで火の柱が迫ってるような焦りを感じる。
「少し、潜ってきます。明日、核入れを行いますので、貝の調子を見て貰えますか。」
「ええ、はい。道具についても後ほど質問させてください。」
 気温が急激に上がった訳でも無いのに、汗が止まらない。作務衣を脱ぎ捨て、いつも潜る辺りに勢いよく飛び込む。
 東京へ行ったら、こうも気軽に海へ飛び込めなくなる。私はその様な地で生きていけるのだろうか。言い知れぬ不安と、漠然とした疑問を混ぜてしまえば、全ての輪郭が不明瞭になる。水の泡が肌を撫でていくのを感じ、春の嵐が近い事を予感させた。

 翌日、上多万神社へと訪れる。呼ばれた身であるので、初詣の時と同じ装いにしておいた。枯葉を落とした裸の銀杏に、新芽が付いているのを見、芽吹く季節がまた巡るのを予感させる。
 参拝後に授与所へと顔を出す前に、ハツさんと巫女が寄ってきて案内してくれた。歓迎の言葉と共に、何かを遠慮する様な、気遣う様な眼差しであった。
「今後とも、松風さんを支えてやってくださいね。松風さん、貴方とのお仕事が本当に楽しい様だから。」
「ええ、それは勿論……。」
 唐突な、優しい言葉ほど不安になる。これから私は何を聞かされるのだろうか。
 社務所を通り抜けて、昨年末に会議で使われた部屋に通される。座布団が整列しており、ひな壇の様な所には二つの座布団。丸で雛人形の内裏様と雛様を想像するもので……。
 そこまで考えて、己の血の気が引く音を聞いた。
 そのあと直ぐにぞろぞろと関係者の方々がやってくる。昨年末振りにお見掛けする顔だったので、逃避半分で丁寧に挨拶をしていった。各々が祝いの言葉を漏らす度、身体中の血が何処か違うところへ流れ去っていく。
「いよいよ、なのですね。」
 歓談する空気となったので、探りを入れる様な台詞を吐いた。皆一様に喜ばしいといった顔をして、頷く。
「嗚呼、長かった。やっと八木沢さんの頑張りが認められたね。」
「正月の真珠御守りが決め手となったねぇ。谷江さんのお陰だよ!」
「ええもう、八木沢さん、ずっと頑張っていたからね。三崎のお嬢さんも随分と待って下さったのだろう。」
「それもこれも、大花珠のお陰でしょうな!」
 つまりは、こうだろうか。
 若輩者の松風さんは、実力を認めてもらう為に正式な婚約をしていなかったが、漸く関係者周辺の方に認められた。ご本人も仰っていた。身内に手伝ってもらっていると……。新年の真珠御守りが松風さんの功績になり、三崎さんと正式な婚約を行う運びとなった……。
 つまり、婚約式の様な物に、私は呼ばれたのだ。上多万神社の功績者として。
「今後とも、お力になれる事があれば、お申し付けください。」
 強張って下手くそな笑顔だっただろうが、私は元より強面の不器用な男だ。精一杯の笑みだと勘違いされただろう。

 実質、略式ではあるものの婚約式に違いなかった。どういった運びで行われていったのか、あまり記憶が無い。ただ、正装姿の三崎さんと松風さんが並び、その美しさが焼き付いてしまう位に輝かしかったのは覚えている。
 私を呼ぶ事になったのは三崎さんの提案であり、満場一致での賛同を得たという事もお聞きした。私は何と返答したか、恐らく「身にあまる光栄です」だとか、そういった事を口にしたはずだ。松風さんと何度も目が合った気がするが、私の視線が定まらなかった。
 簡単な食事ですが用意しました。鈴を転がした様な声で、三崎さんが宴会場へと案内した。私は死人が彷徨う様な足取りになるのを恐れて、最後尾に付いた。
 酒や食事は豪勢であった。一通り口に運んだが、全く味がしなかった。急激に、自分から意識が離れて斜め後ろから俯瞰している様な感覚となる。意思も何もない私が、絡繰人形のごとく、決まった言葉を繰り返している。
 大変おめでたいことです。嬉しく思います。勿体ないお言葉です。お力になれるのでしたら。益々の発展を願って………。
 離れた私は、松風さんだけを見つめる。斎服で普段よりも凛々しく引き締まった表情に見える。三崎さんとお話する姿は、背中に一本筋が入った様にピンと張っていて、視界の端でも見惚れてしまう。
 いっそ攫ってしまいたい。あのお綺麗な姿を神として崇め、私だけが手の届く存在にしてしまいたい。撫でるのも、暴くのも、私だけであったのなら……。
 そんな暴虐めいた欲求が、私に眠っているのだ。踏み外す前に退散しなければ。
「かなり酔ってしまいました。良い酒です。少し風に当たって、そのまま失礼させて頂きます。」
 私が酒に強いのは周知の事実であるが、足元が覚束なく見えたのかすんなりと帰らせてもらえた。松風さんに一礼して、目を合わせる。
 泣かんばかりの瞳が見えて、私の心臓が跳ね上がった。
 手遅れなのだ。あの様に辛そうなお顔をされたとて、私にはもう、手段が無い。逃げる様に背を向け、無性に海が見たくなる。
 東京へ行くどさくさ紛れに、矢張り攫ってしまおうか。馬鹿な事を。彼はもう宮司として生きる道が定まったのだ。不貞を働いては、彼の評判に傷をつける事になる。
 それによって引き起こされることは何だ。
 三崎さん。彼女の影響力が強いのだろう。何の後ろ盾もない私など、風前の灯と等しく、容易く吹き消されてしまう。そうすれば……松風さんの身代わりになることすら出来ない。
 かの踊り場まで出て、頭を冷やそうと努める。海の見える場所は安心する。波の音が大きく白波がたつ。明日は高波になるだろう。
「谷江さん。」
 か細い女性の声が、波の隙間を縫う。空耳かと思ったのだが、私の胴と腕の間、背後から伸びる細くて白い手によって、実際に呼び掛けられたのだと認識する。
「三崎さ、」
「嗚呼、どうぞ振り返らずに。」
 柵を両手で掴んだままの姿勢で固まる。松風さんは白魚の様な指をしていたが、彼女は綿や絹を縒って作られた人形の部品に見えた。頼りなくて、嫌に白くて、釘付けになってしまう。
「お願いがありまして。聞いてくださいませ。きっと、受け入れて下さると思っています。……貴方は、部を弁えるのに長けた目をなさっておりますもの。」
 そのまま、抱き付かれる。十分石のごとく固まる事態であるが、それだけではなかった。彼女の柔らかそうな右手には、不釣り合いな程ぎらりと光る刃物が握られていた。護身用の短刀よりも短い、西洋式のナイフであると思われた。
 切先が、私の左脇腹に添えられる。凄まじい恐怖を感じ、汗が噴き出た。
「ね、谷江さん。松風さんから離れて下さい。」
 初めて、年頃の女性から甘えるような声を聞いたと思う。出来ることなら、例えば甘味をねだられる時に、この様な猫撫で声を聞きたかった。愛らしさ故に全てを施したくなる様な、どんな願いでも叶えたくなるような、不思議な魅了に掛けられる様な力がある。
 然し、私が叶えられる物は一つも無さそうであった。
「この様なことは、どうか。意味のないことです。」
 暫くの沈黙を経て、私は如何にか言葉にしたが声は震えていた。波の音で掻き消されてしまっているかも知れない。
 何とか立場や心根を説明しなければと、必死で言葉を紡いだ。
「松風さんを側で支えるのは、三崎さんであると思っています。宮司という職であれば、妻の支えが必要でしょう。その役目は私では担えません。私が巫女になれぬ様に、宮司になれぬ様に、私には全く出来ぬお役目です。邪魔するつもりは一切ありません。」
 彼女は始終無言であった。その代わり、突き立てるナイフに力が込められていく。厚手の着物の上から当てられているので、まだ傷は付いていないが、徐々に肌へと迫る鋭さに肝が冷える。
「勘違いなさっておいでですね。離れて欲しいのは心のお話です。ね、出来ますでしょう?」
 ブツ、と布の繊維が切れる音がした。皮膚が裂けて血が滲む感覚がある。だが腹よりも胸が強烈に痛んだ。三崎さんからの言葉を浴びれば浴びるほど、心の中にある松風さんへの思いはますます強固になるばかりである。離れるのも身を裂かれる思いをするが、そうするしか無いのも理解している。思いを断つ事は到底出来ぬと悟った。例え、この人に殺められても、……。
「それだけは……私自身から手放すことは出来ません。」
 殺められても、と思うと同時に、この女性を人殺しにさせてはいけないとも思う。どちらにせよ、払い除けることが出来ない。
 私への裁きである様な気がしてしまった為だ。
 私の神は、私だけの神では無かったのだ。神にみだりに触れた罰に思えて、痛みに耐える。
「私は不出来な人間です。取り柄もなく辛抱強くもない。お許しください。私は、心に、彼という真珠を抱えてしまった、哀れな男なのです。」
 気が付けば涙が溢れて居た。恋の苦しさに喘ぐ大男の涙など、見苦しいにも程がある。しゃくり上げる呼吸や鼻を啜る音が耳障りだ。良い年齢の男が丸で泣き落としをしている様で、途轍もなく滑稽であった。
 ぐるりと回されていた腕が私の胴から離れる。解放されたかと思うのも束の間、三崎さんと向き合う様な姿勢にされる。体勢を崩してしまったが、彼女は気に留める様子はなかった。ぐん、と三崎さんの顔が近づく。思いがけぬ事に反応できぬままであった。
「酷いお顔。」
 彼女は冷たい声音で言い放ったが、その声音とは相反する温かさで、柔らかな指先でもって涙を拭われる。至近距離にある彼女の瞳を直視出来ず、目を固く瞑って涙が止まる様に努めた。
 不意に、私の唇に羽毛の様に柔らかなものが触れる。
「……僅かでも、松風さんへの思いが揺らぐなら、私、貴方の事も好きになれそうでしたのに。」
 今のは、と考えるまでもなかった。とうとう、私は腰が抜けてへたり込んでしまった。踊り場の柵は腰から下は板なので寄り掛かったとて落ちる事は無い。だが、気持ちだけなら今すぐに海へ身投げしたかった。
 三崎さんを見上げる姿勢となってしまい、彼女の、清々しいまでに晴れやかな笑顔を一身に浴びた。
「ぁ、……。」
 何かを言わねばという思いが空回り、池の鯉みたく口を開閉するだけになってしまう。波の音の他、宴会からの賑やかな声が聞こえ、急に現実へと帰ってきた心地がした。
「差し上げます。」
 さようなら、と囁いて背中を向ける彼女に、私は一つも返せぬまま、振袖の揺めきや煌びやかな帯の色を見ていた。蘭鋳の如く魅了する動き、音もなく滑る様に立ち去る姿は、直ぐに見えなくなっていった。

 差し上げます。
 きっと、恐らくは、本当は、愛する男に捧げたかっただろうものの一つ……。
 私が、松風さんを諦められぬばかりに、私は、私は──!
 嗚呼、このままでは駄目だ。私では耐えられない。私は、松風さんを愛しているし、彼に恋をしている。惹かれるままに、過ごしていられたらどんなに幸福だっただろうか。
 自分の為にと言ったところで、誤りは誤りだったのだ。あの人の務めだけでなく、あの人を取り囲む方の邪魔になるなら、否、あらゆる人を歪ませてしまうのなら、……。
 私が居なければ彼女を疵付ける事は無かった。松風さんにしても触れ合わなければ、熱を知らなければ、彼を抱いて穢すことも無かった!

 私は堪らず駆け出して、視界に映る景色を兎に角、後ろへ後ろへと追いやった。

 私は一生、松風さんのことは勿論、三崎さんのことも、忘れぬ事が出来なくなってしまった。
 何方も、それぞれの純潔をやり取りした相手となってしまったのだから。

 元は小粒ほどの大きさだった想いは、とうとう胸が張り裂けそうな痛みを伴い始めた。掻き出せれば楽だろう。吐き出せれば楽だろう。
 私が貝ならば良かった。そうすれば、異物を──純真さなどない核を丁寧に美しく包んだものを──吐き出したとても、もしかしたらあの方に生涯通して愛でて貰えたかも知れぬ。

 ◆ ◆ ◆

 工房に戻った私は、奥の作業部屋に閉じ籠った。集中したい作業の際は扉を閉じる事を六彦さんへ伝えていたので、誰の干渉を受ける事もない。
 暫くは泣き濡れて居たが、何かをしなければ落ち着きが取り戻せないと考え、最も神経を使う核入れに着手した。
 手塩にかけて育てた母貝らの中に、核を埋め込む。貝にとって負担がかかるため、暫くは弱ってしまい、幾つかは死ぬ。死ななかったとしても、幾つかは核を吐き戻してしまう。
 核は異物なのだ。そうなっても仕方がない。私の腕が悪かった所為で、貝は何も悪くはない。
 この行為は、言うなれば、腹に岩を仕込むのと同じ事である。どんなに小さい物だとしても、無理をさせる事に変わりはない。貝の大きさからして、人間だったら拳ほどの大きさに該当するだろう。
 胸がズキリと痛む。母貝に対する罪悪感と、一匙の気の迷い……。私の中に入り込んだ、今では無視できぬほど育った、核となるもの。
 誰かの所為に出来れば。そしてこれが異物であると心底思う事が出来れば。そうすれば、少しは楽になった事だろう。
 痛みがあっても吐き出すまいと固く決意していた。これは私の自己中心的な想いだ。形に成らず、何も生まず、何処にも残らないのであれば、私の中にある今だけは!

 痛みだけでも、抱えていたい──

 全ての貝に核を埋め込んだ。失敗ってはないが、後は母貝次第である。少しでも貝が生きる為に、手を尽くすしか無い。
 私も、……。胸の中にある痛みの元を抱えて生きる為に、どんな手段を取るべきなのだろうか。作業場の扉を開けてすぐ、六彦さんが立っていた。
「重兄さん……。」
 何故か、六彦さんが傷付いた顔をしていて、慰る様な抱擁を受けた。気付けば私の頬が酷く濡れていた。牡丹雪みたく、地に落ちて直ぐに大粒の水玉となって、積もる事なく消えていく。嗚呼、彼に悟らせてしまったのだ。気遣いが申し訳なくて、そっと身を離す。
「見苦しい姿を、……すみません。」
 明らかに様子の可笑しい兄弟子に対し、遠縁の兄は何を思うだろうか。柳眉を顰め、私の辛苦を慮る瞳に、ほんの少し慰められる。
 彼は私を丸で貴重な花珠の如く扱ってくれる。何故なのだろう。私は、どうやら周辺にとっては異物にしか思えぬと言うのに……。
 そこまで考えて、私はとある答えに行き着いた。
 私の中の真珠は、松風さんへの思いだ。彼は見たまま美しい方である。彼に対する欲求を、如何にも情緒的な感情や信仰と、仕事という利益で包んでいった。
 そうして過ごすうち、私は松風さんや三崎さんにとって異物となった。未来の上多万神社にとっての異物と唱え直しても良い。今は歓迎されていても、恐らく腐敗を進めてしまう。第一、大花珠が上多万神社に奉納されてあるのだ。私自身が異物ではなく真珠として居座るのであれば、あれと張り合わねばならぬ。積み重ねられた薄膜の大結晶に、ヒヨッコ風情の私が勝てるわけもなく、弾き出されるのも致し方ない。
 そんな私を、珠の様に迎えようとしてくれているのが、六彦さんである。
 恐らく、繰り返していくのだろう。私が上京して暫くすれば、また誰かにとっての異物になり、或いは誰かにとっての真珠となり、先々へと転がっていくのだ。転がる先に悔いがない様、努力し続けるとしても、己の力ではどうしようもない部分もある。「行き先は海が決めてくれる」という言い回しに通ずるのは、うねりに似た何かから受ける影響や、必然訪れる命運に因る変化を受け入れる為の姿勢である。
 嗚呼、そうか。
 私は、大花珠を奉納したのでは無い。
 私が、大花珠に捧げられたのかもしれない。

 ならば、この身は骨の髄まで、大花珠のものとなる。大花珠の代わりにあちこち見に行き、この地の海や真珠の及ぼす範囲を拡げる事で、──つまり、私がより優れた人間になりこの地の素晴らしさを仕事を通じて様々な人へと伝えることで──大花珠は更なる輝きを纏うだろう。そうすれば、上多万にとっても、私にとっても、良い話となる……。
 行き先は海が決めてくれる様に、花珠が骨になるまで、先々へ転がり続けるのが、私の人生なのかも知れぬ。
 血の通ったやりとりを欲するのも、人の熱を愛おしく思うのも。この身が骨となって朽ちるまで、核を何度も包み上げて、乗り越えるために必要ならば。
「お話を、お引き受けします。」
 抱えた傷や苦しみを糧に、美しく、艶やかに、複雑に織りなす色を載せる。
 美しい物を好む私であるなばこそ、私の骨を花珠とし、またそれが骨となり灰となるまで。
 私は、その為に生きていこう。

 眼前が晴れ渡る程の爽快感は、濡れた頬がそうさせたのかも知れない。

 ◆ ◆ ◆

 六彦さんは、私の返事を聞いて直ぐに東京へと戻っていった。大急ぎで私を受け入れる為の最終的な調整をする事になっていて、準備が出来たら電報を送ると言い残した。
 克則さんには私から伝えた。激励によって背中がひりひりとしたが、快く送り出そうとしてくれる事に心が染みる様に温かくなる。湿っぽくなりそうだったので、おもむろに海へと飛び込んだ。克則さんは、涙が出るほど笑ってくれた。近隣の先輩方や姉さん達も同じ様にして背中を叩かれた。
 俊春の時と同様に門出を祝ってもらい、工房の維持だとか、今いる貝達の面倒だとかの引き継ぎを一時的に組合の者に任せた。後々は六彦さんの力を借りる事になるだろうが、いずれは私の力で維持する見通しを立てなければならない。そういう心算である事を伝え、あれこれと協力してもらう事が出来た。

 上多万年神社への定期納品日に松風さんとお会いした。社務所の玄関先ではなく、室内へ通して貰った。髪飾りの真珠について、初めてやり取りさせて頂いた、あの部屋である。
「先日は、祝いの席へのお招きを有難うございました。ほんの気持ちですが、お受け取りください。」
 婚約式後にお会いした以来であった。改めて祝いの品を贈ると決めていたのだ。
 真珠で出来た耳飾りと、羽織紐である。派手ではないが、華美ではある。清廉さを必要とする立場になる二人に、必要なものだろうと考えてのことだった。
「急な話でしたが、ご足労有難うございました。」
 松風さんは恭しく私に頭を下げ、そのままの姿勢で固まってしまった。不思議に思っていたが、肩を震わせて何かを言おうとしている様子であった。
「重春さんに、どうしても知らせたいと、皆が……。」
 そこまで聞いて、謝罪しようとしているのを察知した。慌てて彼の肩に触れて顔を上げさせる。
「分かっております。それ自体、私にとっては光栄な事なのですから。」
 謝らないでください。言葉にすることは出来ないが、松風さんを責めたい訳ではない。否、責める筋合いなど何処にもない。
 松風さんは今にも涙が溢れそうな瞳をしていた。宴会から退出する時に見た、あの時の目のままである。彼が未だ、その瞬間から抜け出せていないのだと分かってしまった。心が囚われてしまうと、絡め取られて身動きが取れなくなってしまうという事を、私は知っている。
 私が、この人を解放しなければ。私という存在が松風さんを雁字搦めにして動けなくさせるなど、あってはならない話だ。
 息を深く吸い込む間に、心を決めた。
「私の元に、引き抜きの話が来ました。」
 簡潔な言葉に纏めるのが必ずしも良い事ではないにせよ、認識し易さを選んだ。経緯をだらだらと説明するのは、何か言い訳じみた女々しさを押し出す事になると思えたからだ。
「急な、お話で。いえ……、違いますね。聞いておりました、風の噂で。……行かれるのですか。」
 少し間が空いてから、松風さんは瞬きもせず、私を見つめる。ずっと耐えていただろう涙が、一つ、二つと溢れていく。私もつられ、鼻の奥に刺す様な痛みと熱を感じた。
「貴方を、拐かそうと思いました。けれど、貴方の誇りを傷つけてまで、出来ませんでした。それは貴方も同じでしょう。」
 涙声にならぬ様、なるべく息を止めず話そうとしたが、途切れ途切れになってしまう。唇を噛む松風さんを、抱き締めたくなる。
「狡い人だ。そんな風に、……!」
 その通りだ。私は、狡い。松風さんの本心や私の欲求を無視して、そんな風に取り繕っているに過ぎない。
 それでも、私は新天地へ在り方を確かめに行き、松風さんは自他共に認める宮司として在り続けるのが、最善であるという答えは変わらなかった。
「出立は。」
「電報の返事があり次第。」
 それきり、互いに押し黙ってしまった。その間、呼吸を整え、涙を拭い去り、いつもの様子になろうと努める。松風さんも、整理を付けようとしているのは見て取れた。
「傘を、持っていくよ。二人で入れる様に。」
 爽やかな笑顔に、何処となく感じられる神々しさ。微睡みそうになる日差しに良く似合っていた。
 
 ◆ ◆ ◆

 夜更けの空気は未だ寒気を伴い、吐いた息が白く浮き出る。海の見える展望所で、私は待っていた。申し訳程度の柵と休憩処のある、人気のない場である。雲間から妙に明るい月が覗く。薄雲の為に光が拡散して、いつもより大きな月に見えた。
 此処は以前、松風さんと二人で訪れてある種の決別をした場であった。急な雨が降り、私が持っていた傘に二人して入った時を思い出す。
 砂利を踏む様な音がしたので振り返ると、番傘を差した松風さんが居た。辺りに人は無く、海と風の音だけがした。軽装にストールを巻いて、一見しただけならば婦人と見紛う姿であった。

 視線を交わらせて、声なく会話する。傘に入ると辺りの景色が無くなり、この世界にたった二人だけになったと錯覚する。
 確かめさせて欲しい。私からはっきりと、彼の耳元で囁いた。
 今日の海は、風が強く波が高い。数億繰り返される内の何回か。それに紛れて何度も口付けを交わす。途切れ途切れの吐息を縫うのは、喘ぎに似た息継ぎであった。
 満月は大粒の真珠にも思えた。月明かりに照らされる松風さんこそが、矢張り私にとっての真珠であると確信する。私そのものを大花珠に捧げたとしても、私の中にある核は、この人でしか成り立たぬのだ。
 松風さんも私も、瞳が潤み、滲み、溢れてしまう。繰り返す度に苦しくなり、徐々に深い口吸いに及ぶ。
 気が済むまで貪り合う頃には、互いに息が上がっていた。傘は松風さんから私の手に渡っており、傘の下でもっと近くにと抱き寄せたくなる。
 松風さんの身体を包み、松風さんもまた私にしな垂れた。もう片方の手で松風さんの頬を撫でると、陶器の如く美しい肌はひやりとしていながら、頬の赤さは際立つばかりだ。
「僕達を悲しんで月が涙を落とすなら……。きっと真珠となって届くでしょう。」
 大花珠を掬い上げた時の様に、きっと、いつか。
「私の思いを込めて、美しく編み上げたものを何度でも届けます。幾年月経とうと、──また見(まみ)える事を、願います。」
 離れていようとも、私の中に貴方さえいれば。
 何だって乗り越えていける強さが持てると、確かめられたから。

 ◆ ◆ ◆

 ──嗚呼、今日はきっと。そう思いながら顔を空へと向ける。過去、涙に濡れた顔の感触を思い出して、目を拭って見開いた。
 こもった音が耳から抜けて、開放感ある心地と共に、このまま時が止まれば良いのに、と思う。
 海に居なくとも、海に濯がれる。
 いくつもの珠と線を使って、遠く離れた故郷の、思い人へと橋をかける様に。銀線を滑らせる手は随分と慣れて、長く取引をしている所で祀られている、花珠の加護を常に受けている心地があった。
 だから、遠くで宮司をし続けているあの人への道を一つずつ辿っていくうち、展示会を開けるまでになったと言えよう。今では図面を書き起こすことが増え、自身で作る必要はなくとも、手を動かしたくなる。
 私の名で行う展示会であっても、世間に顔を出さぬと決めている。長年の付き合いとなった六彦さんと俊春の助けを得て、海外にも行き、老舗の呉服屋と提携し、結果的に本家との付き合いをするようになり、故郷は真珠が特産品となるまでに広まり……。嗚呼、随分と遠くまで来た。
 それでも私の中にあるものは変わらぬし、私が捧げたものも変わらなかった。
 
 来賓として、斯の思い人の名前が連ねられてある。
 編み上げた思い、宝珠で出来た今までを、あの人へ。