秘密。秘めて、密する。人を美しく見せる一つの真珠。繋げて飾れば、人を寄せ付ける魅力となる。
黄昏時からショットバーへと足を向ける。
ちょっと寂れた人気のないところ。そこへ似つかわしくない位、いい服を纏って、靴底を打ち鳴らす。背筋を伸ばして、ヌードカラーのスプリングコートをはためかせた。
周囲の目を引きつける様に外向きへ意識を思い切り張る。何か《目立つもの》が居ると気付かせて、視線を集める。思い通りに男女問わず注意を向けさせた。それを敢えて無視して、臆さずに前を向く。
大丈夫、誰も、疑ってない。
不意に足を止め、ゆっくりと振り返る。前下がりにカットしたサイドブロックを耳にかけ、サングラスを外した。慌てて目を反らす群衆が愉快でならない。
意味ありげな微笑を湛え、店の扉を開けた。
「ごきげんよう、ダイゴさん」
「やあ、マコトさん。今日も綺麗だね」
「ふふっ、……お戯れを」
何も言わなくても、菫色のドリンクが置かれる。ここのカウンターで、酒を傾けるのが週二日の習慣になっていた。水曜日と金曜日のきっかり十八時半。ゆっくりと癖のある味を楽しむ。
「マコトさん」
テノールの心地よい声。ダイゴさんは若いながらもこの店を切り盛りしているマスターだ。自らキッチンに立って、ホールにも出て、話し相手にもなる器用な人。若く見られがちだけど、見た目よりも年上だよ、といつだか言っていた。
「今日も、二十時まで?」
「ええ」
「どこか行くところが?」
「つまらない場所、ですよ」
すいっと、グラスを傾ける。ぱらりと落ちた髪の毛を逆の手で撫で付ける。動作はゆっくりと、クロスするラインを意識づけている。
「マコトさんは謎の多い人だなぁ。夜の人とも違うし。常連さんがうるさいんだ。聞き出せってさ」
「あら、直接お聞きになればよろしいのに……」
「奴らにとっては、高嶺の花なのさ」
ダイゴさんは、くるくると癖がついた栗毛色の髪を遊ばせて、屈託なく笑う。
「そんな、大層なものでは無いです。みなさん、何か勘違いをしてらっしゃる」
だって、この格好をした自分は普段と随分違うのだから。
赤いルージュを引いた唇を、研究した角度に結ぶ。弓がしなる様に見える、最も美しい度合い。
「マコトさん、お代わり要る?」
「では……、今日のダイゴさんを頂こうかしら」
「ドキドキする言い方するなぁもう」
ヘラリと笑うこの男だけは、群衆と同じ反応をしない。むしろ、その辺の猫に語りかけるくらいの気安さだ。安心するが、物足りない。もっと振り回してやりたいとは思うけれど、完璧な麗人は下品な言い回しや振る舞いをしない。そういうことは、ここぞという時に出すから、効果がある。
「はい、どうぞ」
「あら、レディーキラー?」
「たまには口説いてみようと思ってね」
クスクスと笑いあう。大人のやり取り。憧れた自分になって、誰もが羨む洒落たやり取りをする。
「ダイゴさんは、ミステリアスね。」
「僕がかい? 一体どうして」
おどけた表情は少し新鮮だ。つい目元まで緩む。不自然にならない程度に目を伏せて、カクテルの氷を鳴らした。
「誰にでも話しかけられて、誰にでも好かれる。羨ましい魅力」
「ちょっと、僕が口説かれてどうするの」
照れた様にオレンジジュースに口をつける。でも、その表情はよく知っている。見慣れたものだから。
「……ダイゴさんの、本心が見えないんですもの」
やや寂しそうに、ポツリと零す。これは半ば本音だ。誰にでも好かれる人間なんていやしない。この人は心に扉が何枚もあるタイプの人間だ。
「やだなぁ。僕は嘘がつけないのが取り柄なのに」
肩をすくめて困った様に笑う。その顔も知っている。鏡で何度も、見たことあるやり方だ。
「ダイゴさん」
名前を呼んで、三秒目を合わせた。
「本当の名前、教えてくださらない?」
僅かに目を見開いた。ここが、琴線だ。すぐにいつもの顔に戻ってしまったが。
「マコトさん。深入りはよくないんじゃないかな」
ため息がわざとらしい。何か――具体的なことはわからないけれど、何かをしようとしているのが分かる。肘をついて手を組み、そこにあごを乗せた。何をしてくれるか、楽しみだ。
「マコトさん。僕はいま、酔っている。だから忘れてもいい戯言だ」
傍らに置かれた橙色が氷を取り込んでカランと鳴る。薄まっていく色はダイゴさんの外側にも見えた。
「拝聴いたしましょう。他ならぬダイゴさんの言葉ですもの」
ニコリ、と頬を崩した。小首を傾げ、視線を絡ませる。
「君、まだ中学生の、男の子だろう」
「えっ……」
ダイゴさんから、花が飛びそうな雰囲気が消えた。代わりに現れたのは探偵の様な鋭い目の光だ。
「白目が綺麗すぎる。衰えていない。肌も幼さが抜けきってない。声や肉付きでは判断できなかったけど、内臓は嘘をつかない」
不意にカウンター越しに頭の後ろを抱えられ、ぐんと顔が近づく。キスされる、と思わず力を込めて抵抗したがままならなかった。
「んっ」
「子どもの舌を犯すくらい、訳ないのを忘れちゃダメだ」
唇に触れたのは、彼の親指だった。
口紅を乱される。
「……面白い事を、なさるのね」
至近距離で身を崩せば触れそうな唇に、声が震えそうだ。いや、実際足は震えている。少々無理な体勢をしているせいに出来る程度ではあるけども。
「秘密は人を惹きつける。でもやりすぎてはいけないよ」
「それはどういう意味ですの?」
解放されて、おしぼりを手渡される。唇に押さえつけてはみ出してしまったところを少し拭き取った。
「年甲斐もなく、本気になりそうだから」
テノールの声は、這って聞こえる。口角は下がり、今にも噛み付いてきそうな色を孕んでいる。
『……目が、本気だ』
素になった思考が片隅で囁く。秘めて密するだけじゃ意味がない。欠片を見せて、辿り付かせなきゃ、美しさには繋がらない。
僕はこっそり、笑みを含んだ。
◆ ◆ ◆
マコトさんとしてではなく、
そうでなければ、僕の上履きはいつも両足揃っているはずだし、机の上にゴミ箱の中身をぶちまけられたり、花瓶が置かれたりすることもない。
僕としては花瓶のほうがありがたい。ゴミだらけの机になるのは嫌だ。
事の始まりは些細なものだった。中学に上がってからクラスに馴染めない日陰者がいじめられる。よくある話だし、僕はそれにすっかり諦めを感じている。エスカレートしたのは体育の着替えであまりに貧弱な身体をからかわれてから。なるべく目立たないように、邪魔にならないようにしていても防ぐことは出来なかった。
中学二年になった僕は、周りの同級生からどんどん置いて行かれている。成長を見越して採寸した制服はぶかぶかなまま。
きっと、普通じゃない生活を送っているから成長が進んでいないのだと思う。……もしかしたら、僕自身が成長することを恐れているからかもしれない。これ以上背が伸びたら母さんから遠く離れた容姿になってしまうだろう。それは、父さんからも必要とされなくなるということだ。
『ああ、これも、きっと、普通の考え方じゃないんだ』
普通の人は、誰かに物を隠されたりはしない。
普通の人は、家に帰ってから家事に勤しんだり、働いたりしない。
普通の人は、兄弟やその友人にひどい事をされたりしない。
普通の人は、父さんに抱かれたりしない。
それから。
それから――……。
工場が多い街で、僕を救い上げる人は居ない。立ち上る煙はモクモクと僕の心にも広がって視界を遮っていく。灰色の空に、更に濃い灰色が撒き散らされて、僕の世界には何もない。濃淡はあっても、色が無い。今なら分かる。
いっそ分からないほうが、『僕の普通』として受け入れ続けられたかもしれない。痛烈なほどの色合いを、今の僕は知ってしまった。
黄昏時の溶けるような橙。紺碧に瞬く星のような夜の街。打ち鳴らす靴の、なんと心地の良い音。例えるならあれはつんざく真紅。
僕の中に創りだした人物が持つ色彩を思い出して、ほう、と息を付いた。週二回、一八時半から二十時までの魔法がかかった時間。彼女が生きる時間は短いけれど、僕よりずっときらびやかな人だ。
「ダイゴさん、」
呟いてしまった言葉を慌てて飲み込んだ。袖が余っている学ランで掬おうとしたけれど、結局取りこぼしてしまった。
まだ月曜日だ。水曜日が待ち遠しい。この前買った小さなダイヤが付いたネックレスを付けたい。それに合わせて、何を着ようか。
今後のためにも、宝石について勉強しよう。誕生石くらいの知識しか今は持っていないから、例えば歴史上の人物がどの宝石を特に愛していたか、調べたら面白いかもしれない。
明後日身に着けていくなら、最低限のことくらい、『大人の女性として』知っておかなくては。
「――……!」
繁華街を通り抜けようと角を曲がると、見たことのある人影が居た。
『――……兄さん達だ!』
見つかったら、痛いことをされる。そう思うと身体がブルブルと震えた。
来た道をすぐさま引き返して、高速道路の高架下に身を隠す。
「どうして、まだ、学校じゃ……」
震えが止まらない。僕が水曜日と金曜日に外を出歩けるのは、父さんと鉢合わせたくない兄さんが家を空けるからだ。その日は家で暴力を振るわれて、おもちゃにされずに済むから、外に出られる。
週二日、父さんが帰ってくる。僕は父さんを女の恰好――母さんの様な清楚な服装――で出迎えるのを言いつけられられている。
歪な関係に歪な約束を取り付けて、どこを足の踏み場にすればいいかさえ、既に危うい。いつまでこのままなのだろう。兄さんの暴力に怯え、父さんの倒錯した愛を受ける。
「母さん、」
今日は言葉がやたら零れていく。僕は家で声を出すのに抵抗があった。どうしたって、母さんの声にはならないから。
僕の母さんは、僕が十歳の頃に事故で死んでしまった。夕飯の買い物の帰り、ひき逃げにあった。母さんは白い服を好んで着ていたから、血痕が花柄にも思えた。羽織っていたコートにも、その花は広がっていた。
事件は進展せず、今でさえ犯人のハの字も浮かばない。
僕は母さんにそっくりだ。黒い髪も、二重の瞳も、化粧をするとより一層、母さんの面影があった。
僕の母さんは一人で僕を育ててくれた。本当の父さんはわからずじまいだ。さして会いたいとも、思わない。
連れ子同士の再婚で、子供ながらに不安だったのは覚えている。父さんという存在に憧れはあったけどどういうものなのか、僕には分からなかったし、加えて兄さんという存在まで増えた。初めて会った時、僕は恥ずかしいのと怖いのでずっと母さんの影に隠れていたけど、活発な兄さんはそんな僕を引っ張ってグリグリと頭を撫でてくれた。
そうだ、初めは、幸せだった。
父さんは母さんを愛していたし、僕ら子ども達も愛していた。休みの日は必ずご飯を食べに連れて行ってくれて、遊園地やピクニックにも行った。水族館でずいぶんはしゃいだ。その頃は、兄さんと仲がとても良かった。シャチとイルカのショーに大興奮して、お揃いでシャチのぬいぐるみをねだったし、その日は二人でそれを抱えて同じ布団の中で眠ったのを覚えている。
母さんの手作りのお弁当はいつでも美味しかった。タコさんウインナーは兄さんと取り合ったことも覚えている。父さんはそんな家族を見て、写真をたくさん撮っていた。
「母さん……」
母さんが死んでしまってから。
母さんが死んでからは、父さんはすごく悲しんだ。すごく悲しそうだったから、僕がお母さんの真似をして料理を作った。元々母さんと二人で暮らしていた時は、家事は僕がやっていたから問題なかった。父さんは元気になったし、兄さんも僕の料理を食べて嬉しそうにしてくれた。
だから、母さんの代わりに色んな事をした。料理に始まって、アイロンがけ、お掃除、お弁当作り。父さんは元気になったけど、立ち直りはしなかった。僕を通して母さんを求めて、今では引き返せないようなところまで来てしまっている。
『――……お前のせいだ!』
兄さんに言われた言葉を思い出してしまった。兄さんは泣いていた。泣いていたし、怒っていた。
今ではもう、二人共、普通でなくなってしまった。
「……うっ、ううっ……!」
僕は何を間違えたんだろう。火の消えた家の中を明るくしたかっただけだったのに。
『――……ひどいこと、忘れられそう?』
ダイゴさんの優しい顔と声が浮かんで消えていく。
今すぐ会って、慰めて欲しい。マコトでも良いから。薫じゃなくていいから。
でも駄目だ。
完璧な麗人は容易く誰かに同情を求めたりしない。大人の女性は、軽率に足を運んだりはしない。
ああ、水曜日は、何を着よう。
◆ ◆ ◆
父さんは狂ってしまった。
今は単身赴任で離れているけれど、週二回必ず帰ってくる。母さんと暮らした家を手放す気にならないからだろう。僕は、父さんの前では母さん――芳として振る舞う。
新幹線で帰ってくるから、帰宅は二十一時を過ぎる。父さんが帰ってくる日は、兄さんは家を空ける。父さんが僕を抱くからだ。そして僕は、学校から帰宅し、父さんを迎えるまでの空いた時間を使って、マコトとして過ごしていた。
卵の殻の上を歩くような脆さで、僕らの家族は成り立っている。
父さんがいない他の日は、兄さんが僕をいたぶる。兄さんからしてみれば、僕は父さんをたぶらかして、おかしくさせてしまった張本人だ。きっともう、キャッチボールをしたり、自転車で遠出してくれるような兄弟には戻れない。
それでも、僕は兄さんを嫌いになることはない。
兄さんはおかしくなってしまったけれど、僕は兄さんを突き放すことはしない。
「薫」
名前を呼ばれ、肩が震える。
「薫は、アイツに何をされた?」
アイツ、とは言わずもがな父さんのことだ。ジャリッとなる金属がこすれる音に、体温が下がっていく。
「……ご飯を……。デートに行ったよ」
「それから?」
首に巻かれたチョーカーから伸びる鎖を引っ張られる。うめき声が出そうになるのをこらえた。
「それから……。服を貰って、着せ替えられて、そのまま……」
言葉を濁すと肩に蹴りが飛んできた。思わず悲鳴を上げて、慌てて続きを言う。
「そのまま、父さんの寝室で、えっちした」
「感じたかよ?」
小さく頭を振る。
父さんは、僕を抱くけれど後ろからしかしない。正面から見たらどうしたって女ではない。それに、小柄だった母さんの背を僕は抜いてしまったから、少しでもそれらしく見える角度や体位になるのは当然だった。
「そっかぁ、良かったな! ママの代わりを立派に果たして、パパに可愛がられたんだな!」
兄さんは、壊れてしまったおもちゃみたいに、甲高く笑う。ぐしゅっと僕の鼻がなって、やがて涙が溢れ落ちた。
「お願い、兄さん。止めて」
兄さんも狂ってしまった。僕は兄さんが好きだったし、兄さんも僕が好きだった。もちろん、普通の兄弟として。
「お前があいつをおかしくさせた! 俺もおかしくなっちまった!」
鎖を強く引かれる。僕は兄さんに捕まり、乱暴に床に倒された。眩しい室内灯が視界を白く塗りつぶす。白い靄の中から兄さんの手が伸びて、首輪の上から力を込められる。
「何で。何で俺が、こんなになったか、分かるかよ」
酸素が足りなくなる。黒い斑点が浮かんで兄さんが滲んでいく。水槽の中で溺れたらこんな感じなのかもしれない。水族館で見た巨大な水槽を想像して、上も下もなく苦しくなる。掠れた呼吸が耳の内側から聞こえて、その度に青白い泡と黒い濁りが目の裏で弾けた。
癇癪を起こした兄さんは、いつも僕の首を絞めて、僕の意識が途切れる寸前で手を離す。
「弟はお前だけだった。俺だけの弟だったんだ。なのに!」
兄さんは悲しんでいる。
僕が父さんに奪われたのは、小学六年の時。何をされているか訳がわからなくて、でも、間違いなく正しい事ではないとわかった。僕は声を押し殺して泣いて、父さんは声を噛み殺して果てた。
「分かるかよ。俺の気持ちが。俺が家に帰ってきて、お前の飯を楽しみに、塾から帰ってきたら、お前が、お前が……!」
兄さんは可哀想だ。父さんは僕にばかり構って、今や兄さんは邪魔者扱いだ。僕が、《兄さんの弟》を止めたら、兄さんはたった一人になってしまう。
意識が急浮上し、水面から飛び出た時みたく酸素が回った。咳き込むたびに肺が震えて、喉の奥が痛む。
「兄さん、僕は……! 薫は、抱かれてないよ」
やっとの事で言葉を紡ぐ。首締めと涙と鼻水のせいで酸欠になる。自分の言葉が頭の中でエコーがかかって広がった。耳に水が詰まったようで、何もかも音が明瞭でなくなっている。
「そうだよな。お前を汚してるのは、俺だけだもんな」
兄さんは、僕を痛めつける事で兄としての立場を保とうとしている。いじめっ子の兄さんは、弱虫の弟をいじめる。よくある兄弟話だ。だから、悪い友達に、僕を痛めつけるために貸し出すし、乱暴されているところを笑って眺める。
「可哀想になぁ、薫。ロクでもない兄ちゃんのせいで、兄ちゃんの友達からもレイプされてるんだもんなぁ」
可哀想な兄さん。
笑いながら泣く兄さんは、もしかしたら父さん以上に壊れているかもしれない。震えるように、身体を小刻みに揺らし、兄さんの髪の毛がそれに合わせて赤い光を反射した。どんなに黒染めしていても分かる、赤みがかった髪の毛は兄さんの生みの親譲りだ。
僕ら家族は互いに誰にも似ていない。
兄さんがこれ以上、孤独になるとしたら、僕が死ぬ時かもしれない。
引きずられて、犬みたいに這いつくばりながら、ベッドに投げ込まれる。これからされる事に、歯がガチガチと鳴る。だと言うのに、目に入るのは、今の状況から逃避するようなものばかり。
本棚に無造作に置かれたシャチのぬいぐるみ。オセロの碁盤。野球グローブ。自転車の鍵。
壊れた兄さんのギラギラした目を見た後、僕の意識の電源が落ちていった。
◆ ◆ ◆
気がつくと、僕は浴室でシャワーを垂れ流し、倒れていた。水ハケを良くするための床の模様が、身体に跡として残っている。兄さんにつけられたキスマークや噛み痕が、模様に混じって浮き上がっていた。
寝てもいないのに、意識が飛び、そして急に返ってくる。きっと僕の防衛反応なんだろう。僕は床や天井へ散らばった自意識をかき集めて、鏡を覗いた。
「ああ……顔は、殴らないでって言ったのに」
唇の端が切れている。学校はマスクを着けるから問題ない。でも、水曜日にマコトに化けるのは難しそうだった。
「……僕は、どうして」
どうして僕は、攻撃されやすいのだろう。貧弱な身体だからだろうか。暗くて地味なオーラが出ているからだろうか。僕にはもう、分からなかった。何をされても、通り過ぎるのをじっと待つだけの小石になるしか術がない。
鏡に手を付き、張り付いて、視線を合わせる。
「マコト……」
マコトという名前は、僕の名付け候補にあった名前の一つだった。母さんが生きていた頃、母さんが作った大好きなカレーを食べながら、聞かせてくれた褪せない思い出。
「――マコト」
結局、僕の名前は母さんと一音違う薫になった。女の子みたいで好きじゃない、と言ったら「母さんと二人きりの家族になるから、お揃いが良かったの」と言われ、嬉しくなったのを覚えている。持ち物が少なく、欲しがる事もあまりなかった僕だったけれど、お揃いという響きは心に降り注ぐ天使の羽根みたいにキラキラしたものだった。
もちろん、今も。
でも薫は、今の世界に望まれていないみたいだ。
「マコトは、強いひと」
僕を望み、愛してくれた母さん。父さんと結婚するまで、僕を一人で育ててくれた母さん。昼夜働いていたけど、僕は大切にされていると感じたし、家事を手伝えば母さんはとても喜んで、料理をたくさん教えてくれた。
「マコトは、強いひと……」
母さんみたいに綺麗で、母さんよりも強い人。僕では逆立ちしたってかなわない、強くて素敵な、大人の女性。
だから、呼び捨てなんてできない。
「マコト、さん」
鏡の中のマコトさんが笑う。ゾッとするほど綺麗に、血が出た唇を舐めた。舌は赤く、白い肌の対比に背中が粟立つ。眼の奥で意味ありげな光を揺らし、僕を慰めてくれる。
マコトさんであるうちは、……少なくともこの瞳である間は、僕はこの世にいてもいい気がしてくる。男である自分より女性のマコトさんには、誰もが優しくしてくれる。
好意をもって慌てふためくアジカさん、見守ってくれたダイゴさん、必死に口説こうとする人や、通りすがりの群衆でさえ振り返る。みんな彼女を認めてくれる。
僕では手に入れようもない、人の優しさ、それから温もり。
「……お肌の手入れ、しなくちゃ」
マコトさんを通して、僕は世界から愛を感じて生きている。
◆ ◆ ◆
薫は、俺の弟だ。血は繋がっていない。
俺の母親は最悪で、留守がちな親父に飽きてか、遊びまわって他所に男を作り、離婚した。
赤みがかった髪の毛は、母親によく似ていた。離婚してから、親父は俺を見るのを避けていた。あの女を思い出すからだ。俺は俺で、その髪色が気に食わなくて黒に染めていた。
離婚してから一年にも満たないある日、親父はとある女を連れてきた。それが芳(かおり)さんだ。肩まで伸びて、綺麗な黒髪に少し垂れた優しそうな瞳。桜色の唇をよく覚えている。
「
鈴が鳴る声。慈愛に満ちた人だとすぐに分かった。
「ほら、薫。お兄ちゃんにご挨拶して?」
芳さんの背後から、なかなか出てこない子どもが居た。それが薫。もじもじと影に隠れ、なんとか顔だけを俺たちの方に向けた。
「……!」
今でも覚えている。芳さんを小さくしたような、小動物みたいな奴。サラサラの髪から大きな目がこちらを見ていた。
「かおる、です。お兄ちゃん、お父さん」
衝撃で言葉が出なかった。慌てて親父の方を向けば、長い間見せなかった穏やかな笑顔。
「お父さんは、この人と結婚する。この人はお前のお母さんで、この子はお前の弟だ」
おとうと。
友達の話を聞いては、羨ましかった存在。それが、こんなにも可愛いものなのか!
恥ずかしがって出てこない薫の手を引っ張った。我慢できず頭をガシガシと撫でる。一瞬泣きそうな顔をした薫は、しばらくするとヘニャリと笑った。
「お兄ちゃん、よろしくね」
幸せだった。優しい母さんに、可愛い弟。
赤い髪を見て、芳さんも薫も、似合っていてかっこいいと言ってくれた。その日から、毎月していた黒染めをやめた。
俺はおかしくなっちまった。
薫が大好きだった。いや、今でも。
何をするにも、どこへ行くにも薫を連れた。キャッチボールが下手で教えてやった。自転車に乗って隣町のゲーセンに行ったりもした。ゲームをして、勉強も見て、本当に俺たちは仲のいい兄弟だった。中学に上がった俺は部活で忙しくなったが、芳さんと薫の作る飯が毎晩楽しみで、真っ直ぐ家に帰っていた。
散々に痛めつけた薫を見下ろす。
虚ろな目は何も映していない。ワイシャツにチョーカー……いや、首輪と言ったほうが正しい。鎖がつけられたそれは、薫の白い肌をいやらしく引き立てる。
可哀想な、俺の弟。
殴りたくなるほど、可愛い弟。
可愛い可愛い、俺の薫。
「あいつとは違うんだ、俺は。俺は、俺は……、お前に芳さんを見てないんだから。なぁ、薫」
今では真っ黒に逆戻りしてしまった、俺の髪。そこから覗く薫は心底愛らしく、憎らしい。
毛先が俺の低い笑い声と共に揺れ、歪な赤色を発した。
◆ ◆ ◆
肌の手入れをしながら、《カサネドリ》――ダイゴさんのバーの名前だ――に訪れて、日が浅い頃を思い出す。
「通い始めて半年も経ってないのに……」
ダイゴさんにはバレてしまった。いや、もしかしたらその他の人にも? 一度不安になるとそれぞれの反応を思い返しては確かめ直す。そんなはずはない。そうだ、今のところ、ダイゴさん彼だけだ、と繰り返し唱えた。
女の格好をして、出歩くようになったのは一年前から。
はじめは、父さんが母さんの服を寝室で着せただけだった。いつの間にかそれはエスカレートして、芳として食事に連れ出されるようになった。堂々としていれば案外分からない。それどころか振り返る人がいると気づいてからは、芳としてでは無く、また薫としてでもない存在にその視線が欲しくなってしまった。
強くて、綺麗で、大人で、謎めいた麗人。僕の理想の人そのものだ。それに成りきる為に、モデルの取るポーズや表情、演技、声の質、教養と呼べるもの全てを勉強し始めた。学校で習う授業も、その教養のうちの一つだと思えば苦にならなかった。それどころか、勉強や読書にのめり込んだ。
元々、学校では馴染めていなかった。浮いた存在はいじめの標的になる。マコトさんなら上手く躱すのに、薫である僕はそれが上手く出来なかった。目立たないように、刺激しないようにしても結局は無駄で、貝のように閉じこもる事でしのいでいる。
それでもマコトさんで居るうちは、僕には行けないところへ行けて、とんでもなく丁寧に扱ってもらえる。この事実は覆らない。食事を奢ってもらったり、きらびやかな物を貰ったりするなんて、僕ではあり得ない。
あの日だって、そうだった。あの日は、曇天で晴れない天気が何日か続いていたんだっけ。
僕が痛めつけられようと、マコトさんで居るうちは、――。
◇ ◇ ◇
「明日は、何を着て行こうかな」
眼鏡をかけ直して、マスクの位置を調整する。目立たないように振舞って、邪魔にならないように隅を歩く。抱えた学生鞄はボロボロだ。新しくしたところで、どうせすぐダメにされる。
明日は何を着ようか。新しく見つけたバーはとても気に入った。行きやすく、入りやすい。マスターは嘘くさいけど気に入った。ダイゴと名乗ったあの人は、ずいぶん若そうに見えたけど、多分きっとすごく年上だ。
明日は何を着ようか。夕暮れの中、汚れた制服を隠しながら歩く。見えないところにしてもらえるだけ良いかもしれない。顔なんて殴られたら、唯一の楽しみが出来なくなってしまう。
明日は、何を着ようか。
「ふっ、……う、っ……!」
心は明日に向いているのに、涙が勝手に溢れてくる。身体のあちこちが痛い。帰ってもどうせ一人だ。いや、誰もいない方がいい。兄さんがいたら、と思うだけで背筋が震える。
明日もあのバーに行こう。ものすごく上品な女に化けて、めいっぱい甘やかしてもらうんだ。僕よりずっと年上の人たちに、僕を見てもらうんだ。
「あれれ? 薫ちゃーん、またいじめられたの」
ハッと顔を上げる。夕暮れの寂れた街に伸びる影が三つ。兄さんと、その友達だった。
最悪だ。最悪なタイミングで会ってしまった。痛む身体に鞭打って、身体を反転させる。
「まァ待ちなって」
「や、やだ!」
どうして僕は、いろんな人間から攻撃されるんだろう。どうして。赤く焼けた空は紺色に侵食されている。細長い奴の手は僕の身体を捉えて、手首を強く捻られた。
「い、」
「俺たちゲーセン帰りでさ、これからナンパ行こうかと思ってたトコ」
兄さんが通う高校は治安が悪いと有名で、こいつは兄さんが連んでる奴の一人だ。黒いブレザーから煙草の臭いがする。バーで嗅いだ大人の匂いとは違う、廃棄場みたいな臭さに吐き気に拍車が掛かる。
一人はよく分からないまだらになった金髪。もう一人はピアスだらけの耳をしていた。
薄目で笑う奴らの顔は見たくなかった。
「なぁ、一哉にーちゃん。いいだろ?」
「……そうだな」
兄さんは黒くて鈍い光を目に灯した。冷たく発せられた言葉は背中をナイフで撫でられている心地がする。兄さんに直接されるのは、まだ我慢できた。でもこの遊びだけは、慣れることはない。
兄さんは歪んだ笑みで僕を見下ろす。わざとらしい黒色の髪から見えるざらざらした視線は、僕の身体の自由を奪っていく。
「やだ! 嫌だったら!」
背が二十センチくらい違う高校生の力に敵うわけがないのは分かってても、手足をばたつかせた。無駄な抵抗、ってやつなんだろう。これからされることを想像して涙がぼたぼたと落ちる。
「兄ちゃんと遊ぼうな、薫」
ああ、僕はどうして。
人気のない工場だらけの町に、僕を掬い上げてくれる人は居ない。
◇ ◇ ◇
その翌日は雨だった。昨日の夜からずっと降る雨は僕の涙を隠してくれたし、お気に入りの傘を差せるので嫌いではない。
落ち着きのあるサテンの黄色は、僕の心を上向かせてくれる。
サングラスを外し胸元へ引っ掛けた。
「マコトさん、いらっしゃい」
その名前を使って、店にやって来たのは三回目。この店に来たのはまだ三回目だ。ダイゴさんはもう名前を覚えたらしい。
「あら、覚えて頂いていたなんて……」
何度も研究した仕草。恥ずかしそうに目を伏せて、小さく笑う。コンタクトに変え、化粧を施した顔にマスクは要らない。ガーネットみたいに発色するシフォンワンピースにシャンパンゴールドのカーディガン。コートは要らなかったので、大判のスカーフを纏った僕に、ダイゴさんは柔らかに微笑む。
「そりゃ、覚えるさ。綺麗な人なら特にね」
この前のでいい? とカウンターに座るよう促される。赤いルージュを引いた唇を少し緩ませた。小気味良い音を立てる黒いハイヒールは、僕に自信を持たせてくれる。膝丈で揺れる柔らかなワンピースに合わせて店の奥へと進んだ。
「バイオレット・フィズ、好きなんですね」
「綺麗な色ですから」
ほんの一口含んで、強い香りと独特の味を楽しむ。正直、色はどうでもよかった。ただ、兄さん達に遊び半分で無理やり飲まされたビールや、芋焼酎よりもずっと身体に馴染む。悪酔いもしない、喉も焼けない。けれど染みるような刺激は、優しい毒を飲んでいくみたいで気に入っている。
「何か、嫌な事がありました?」
ピクリ、と肩が動いてしまった。これでは三文芝居をする役者くらいわざとらしい。佳人の隙に変換するために、考えを巡らす。
「ほんの、……少しだけ」
「嫌な男に言い寄られた?」
「……ひどいことを、されました」
声が硬くなってしまった。結果的に効果はあるかもしれないけど、これを出すのはまだ先のほうが効果的だったかもしれない。
「もう少し、お酒が必要ならサービスしますよ」
「ダイゴさんは、お優しい人ですね」
伏せた目を静かに上げ、視線を絡ませる。強気に見える麗人が、隙を見せるのは二人きりの時だけ。他に客が居ない今なら問題ないはずだ。
「マコトさんみたいな人でも、失恋するんだなぁ」
大人というのは楽だ。勝手に話を進めてくれるし、納得してくれる。それに否定も肯定もせず乗っかれば、会話が出来るのだから。
「あら、慰めてくれますの?」
「やめておこう、早速ついた君のファンに、刺されてしまう」
クスクスと笑う大人の人。深くは聞かず、程よい距離感で心に触れてくれる。親密すぎない距離は孤独に慣れた僕にとって、とても息がしやすかった。それ以上近ければ、火傷してしまうだろう。
「ファン、だなんて。そんな大層なものではありませんのに」
軽い調子で言葉をつないでいると、カラカラと来客を告げるベルが鳴る。振り返れば、切り揃えられたマッシュカットのプラチナブロンドが真っ先に目に入った。
「あっ……!」
「以前、お会いしたかた方かしら。ごきげんよう」
よく覚えている。バンドのベーシストをしていると、以前言っていた人だ。顔を赤らめて話す姿は僕の心をひどく満たしてくれた。
「あっ、あの、会いたいと思ってたんです!」
「まぁ、……ありがとうございます」
ハイブランドモデルがする隙の無い笑みをイメージして、綺麗に笑う。敢えて顔を傾けて会釈をすれば、前下がりに切ったサイドの髪がパラリと落ちた。これも計算だ。彼の視線が、僕の耳あたりに集まり、静かに視線を合わせた。
「だっ、ダイゴさん! 俺もバイフィズ!」
「あのねぇ、君はお酒飲めないでしょう。オムライス作ってあげるから」
舞い上がる姿に僕の器は満たされて温かくなっていく。注がれていくのは透明な、紫に近い黒、だと思う。
「アジカさん、でしたわね?」
「そ、そうです! 覚えてもらえていて嬉しいです!」
僕よりもかなり背が高い。兄さんより少し大きいと思う。確か大学生だと言っていた。
僕を痛めつけた奴より綺麗な髪をした年上の人が、痛めつけられた僕の一挙手一投足に踊らされている。
なんて愉快で、気持ちのいい!
「お会いしたかったんです。ライブや学校の話、聞かせてくれませんか?」
「ボクで良ければ!」
話に花が咲く。
誰でもいいんだ。僕を攻撃する奴らより、僕を迫害する奴らよりもレベルが高い人間に、特別扱いされれば、何だって――……。
「マコトさんは、どちらにお住まいなんです?」
「ちょっと離れたところです。地元はあまり、好きではなくて」
三杯、飲んでいる。そろそろ帰らないと、父さんが帰ってくる。今日は兄さんが居るから喧嘩になるだろう。帰りたく無いけど、帰らないと。
「そろそろ、お暇します」
「え、……。もう、ですか?」
二十時過ぎを指した針はカチコチと僕を地獄へ送るカウントダウンをしている。
「つまらないところへ、寄らなければならなくて」
苦笑すれば、アジカさんは何か言い淀む。連絡先を聞かれたら厄介だ。
「ダイゴさん」
「はい、サービスしておくね」
「よろしいのですか?」
「大したものを出せてないのが、心苦しいくらいさ」
この人は、道行く人やアジカさんみたく好奇の目で見ない。それが心地よく、それでいて悔しい。
僕を見て、もっと慌てふためいて欲しい。
僕が払います! と勢いよく立ち上がったアジカさんの言葉に甘えた。出費が無いのは正直ありがたい。どんな美人に化けていたとしても、結局のところ中身はただの中学生なのだから。
「マコトさん、ちょっと」
身支度をし、席を立ったところでダイゴさんに声をかけられる。
「これ、差し上げます」
赤いベルベットの小さな箱だった。アクセサリーが入っていると一目で分かる。ちょっとやそっとじゃ手が出ないブランドのロゴが金の刺繍で控えめに、かつ小奇麗に主張している。
「そんな、ただで頂く訳には」
「まあ、そう言わないでよ」
そろり、と開けると中には品の良いイヤリングがしまわれていた。今日のワンピースに合いそうなパールと華奢なチェーンフリンジが付けられている。
「とてもじゃないですが、こんな良いものを」
「良いんだ、受け取って。マコトさんに使って欲しいんだ」
ね? と言い聞かせる姿はどこかいたずらっぽく、それでいて強い意志を感じられた。
「とても、嬉しい」
耳朶に早速つけたイヤリングは温かく感じる。近い距離感の親密さであるのに、心地が良い。火傷すること無く触れられたことに安心さえ覚えた。
「やっと、笑ったね」
「えっ?」
「ひどいこと、忘れられそう?」
ダイゴさんも、背が高い。この大きさと同じくらいの人間に毎日恐怖している。でもダイゴさんからは、守ってもらえそうな空気が漂っていて、鼻の奥がツンとした。
「……ズルい人」
心の中に、何かが生まれそうな卵がコロリと転がる。でもそれは孵してはならない。さっさと割って、オムライスにして美味しく食べた方がいい卵。
こんな風に、僕に目を向けてくれるだけで十分なはずだ。
それが弱くて男に犯された薫ではなく、謎めいた麗人であるマコトに、向けるものだとしても。
◆ ◆ ◆
「――そうだ、イヤリング……」
ヘアパックをしながら、僕はつぶやいた。
あれをつけて、《カサネドリ》へ行こう。チェーンフリンジが上品だから、ヘアセットはすっきりまとめよう。きっと似合う。デコルテが綺麗に出るブラウスに、少しモードさを効かせよう。ああ、カジュアルになり過ぎないように光沢のある生地を選ばなくちゃ。
「貰い物を使わない、なんて、失礼だよね」
ねえ、マコトさん。
声もなく語りかければ、意味深な笑みだけを返した。