秘密主義 中編

 ◆ ◆ ◆

「ごきげんよう、ダイゴさん」
 正体は見破られてしまった。けど白状したわけではない。堂々と背筋を伸ばしていつもと同じく、優雅に笑ってみせた。
「……ええと?」
 戸惑いを隠せない様子にちょっとだけ優越感を覚える。サングラスを外し、ブラウススの胸元へ引っ掛けた。ゆったりとしたラインのシックレッド。シルバーチェーンネックレスに小粒ダイヤが揺れるのを感じる。
「お願いがありますわ」
 今日は赤いエナメルハイヒールを選んだ。ブラックレースのタイトスカートは女性らしい仕草を強調してくれる。カウンター席へ着き、光沢のあるパールホワイトのクラッチバックを傍らへ。たっぷりと時間を掛けて頬杖をし、彼を見上げる。
 コクリ、とダイゴさんの喉が動いた。
「もう少し、付き合って頂けません?」
 一拍が長く感じる。
 ダイゴさんはやれやれ、と頭を掻いてから、やがていつもの調子で笑いかけた。
「いいよ。いつもので良いのかな?」
「あら、お酒はお出ししてくれるのですね」
「大人ゴッコには不可欠だろう? 上手くやってね」
 しばらくの沈黙。シェイクの音と洋楽――おそらくトップフォーティーを集めたラジオ――が響く。ポップスの軽快さは日常を少し、忘れさせてくれる。大きく息を吸って、ほう、と吐く。ダイゴさんの手捌きに見惚れたのもあったけれど、これは安堵の息だ。
「君のことを聞いてもいいかな」
 紫色のリキュールは春や夏の差し掛かりに似た香りがする。期待と落胆が混ざってマドラーが作る渦に沈められて、レモンの酸味が覆い隠していく。
「他ならぬダイゴさんですもの。何なりと」
 カラカラと鳴るマドラー、グラス、それから氷塊。
 ――……笑いさざめく振りはしないほうがいい。
「いつから、その遊びを?」
「……一年前、ですわね」
 炭酸が舌で弾ける。シュワリとした感覚は、墜落から急浮上する時の覚醒に、少し似ている。日常で起きる不条理は……、非日常を通して僕の中に溶けていく。
「理由を聞いても?」
「深入りしないのが信条だったのではなくて?」
 上目遣いで見ると、ダイゴさんはカウンターへ軽く身を乗り出した。夕暮れと同じ色をしたライトが照らし出す。
「興味深くはあるからね」
 優しい眼差し、柔らかい笑み。
 伸ばされた右手は僕の頭を撫で、頬をくすぐり、サイドの髪を乱して指に毛先をくるりと丸めて滑る。
 指はそのまま顎に伝い、軽く持ち上げられた。
 言葉は無く、視線だけが絡む。直感的に、試されていると思った。
「何も、大したことはありませんわ。……皆、ただ優しいから」
 顔を伏せると、ゆらゆら揺れるバイオレット・フィズの水面が目に入る。水位が下がって無残な搾りかすが泳いでいた。
 たったそれだけだ。麗人を作り上げた動機は、薫では味わえない物や見えない光を得たい、という日陰者の埃のようなものだ。
 そこには価値は無いし、薫である未熟な子どもが逃げ場にしているに過ぎない。
 ああ、だから、ダイゴさんには見抜かれてしまったのか。
「ダイゴさん」
「何だい、マコトさん」
 ダイゴさんの指が僕から離れていくのに名残惜しさを感じた。僕は幾分真面目な表情を作って、猫が控えめに撫でることを要求するように彼を見つめる。
「本当のお名前、お聞き出来ていませんわ」
「ああ、そうだったね」
 わざとらしい身振りで、忘れていたよと笑う。悪意はないけれど、そこに気安さは無い。彼にとって踏み入ってほしくない部分なのは明らかで、僕は唇を結ぶ。
「もう少し、本当に大人になった時に教えよう」
 ……しばらくは、通ってもいい、という答えだ。鼻の奥が突っ張るのが分かる。この人は、どこまで優しいのだろう。
「非道い人」
 甘えすぎてはダメよ、とマコトさんなら言うだろう。止まり木にしなければ。ここに通い過ぎたら、それが生活の一部に溶け込んでしまう。それは非日常と日常の境目が、曖昧になってしまうということだ。そんなことになれば、僕は不条理を受け止める術を無くしてしまう。
 そうなれば、マコトさんは僕の手を離れてしまうだろう。皆に愛されれば愛されるほど、結局のところ陳腐になるのだから。皮肉をぶつける暇なんて無いほど静かに、あっけない幕切れになるのは目に見えていた。
 無言でドリンクとナッツを口にする。ダイゴさんもまた、忙しくなる時間帯に向けて厨房で準備を進めていた。
 ポップスの陽気さと、静かな店内。準備する音が心地いい。心が休まる空間に杯が空いた。
 キッチンで料理を作る母さんと、食卓の準備をする僕が出す音に少し似ている。楽しいことが起きそうな予感がする、静かで楽しい空間だ。決定的に違うとしたら、卵の殻の上を歩く脆さがあるか否か。それさえ今では有耶無耶になろうとしている。踏み抜いてなお、ここに通うと決めたのは他ならぬ僕だ。マコトさんではない。
「イヤリング、気に入ってくれた?」
 準備が一段落したらしいダイゴさんはオレンジジュースを片手にカウンターへやってきた。隣に座り、朗らかな瞳を向ける。
「ええ、とても」
「うん、思った通り。よく似合っているよ」
 自己嫌悪や不安を一気に払拭する言葉だった。彼の手がさらりと髪を梳き、イヤリングが揺れる。ダイゴさんの手つきがくすぐったくて、少し笑う。
 戯れる手を取り、指先でダイゴさんの爪を撫でた。洗い物や料理をするせいか、少し荒れている。僕にはとても温かく感じる。働いている大人の手だった。
「どうしてこれを?」
「持て余していたんだ。だったら素敵な人に身につけて貰えたほうが、物も僕も嬉しい。シンプルだろう?」 
 するりと手を抜いてさっきよりも強い力で頬に触れる。イヤリングをいじり、耳の後ろへと手のひらが這った。ダイゴさんの熱っぽい視線に、動けなくなる。
「…………マコトさん」
 にじむような時間だ。そう頭の片隅が囁いた。これも見方を変えれば不条理を正面から受けている、と言えるのに、少しも嫌な気持ちにならない。マコトさんを通しているはずなのに、直接僕を覗きこまれているとさえ思った。水よりも僕の身体に近い、透明な液体が僕の中を満たしていく。
『……どうしよう』
 ダイゴさんの指先に遊ばれる毛先や耳。それからイヤリング。それぞれが熱を持っている。強い陽射しに焼かれてしまった熱砂を思い出させた。彼が作るドリンクやフード、店の隅々までを掃除する、この店を作っている手が、僕に触れている。
『キス、されても良いかも……』
 もっと近づいて欲しい。もっと。呼吸ごと食べられそうな距離になっても僕は逃げなかった。柑橘類の爽やかな香りは夕暮れ色に混ざって漂い、覆い隠してくれそうだ。
 二人の間から距離が無くなっていく。目は互いに閉じないままだ。濡れた瞳に見えるようなメイクにしたけれど、ダイゴさんは気に入ってくれただろうか。僕が作り上げたマコトさんとそれに閉じこもる僕に、まんまと引き寄せられているとしたら、それは当分味わえそうもないほど強い陶酔感をもたらしてくれるだろう。
 あと一つ呼吸をしたら、というところで来客のベルが鳴った。
 その音に我に返り、僕はカウンターへ向き直り、ダイゴさんは勢い良く立ち上がる。
 心臓がドキドキしている。触れていないはずなのに、口紅を直したほうがいい気がしてくる。何がダイゴさんをここまで近づけたかわからないけれど、イヤリングと新しい手法で施した化粧は不正解では無かったということだ。
『……耳、赤くなってる』
 ちらりと盗み見ると、冷静を保とうとしている大人が居た。僕はたったそれだけの事実に酒に浸された優越感を感じた。
 何だ、アジカくんかぁ、と間の抜けたダイゴさんの声が聞こえてきた。何だ、なんて非道いじゃないですか! いいじゃないか。彼女、来ているよ。軽いやり取りが音楽の隙間に乗る。急いた足音についで、ブルガリ・プールオムの香水がふわりと漂う。爽やかで、少しセクシーな香り。
「マコトさん!」
「ごきげんよう、アジカさん」
 やはりアジカさんだった。白と金が好きだと言っていた彼らしい香りを、弄ぶ大人の女性とはどんな人だろう、と研究した。その結果、高級化粧品の香りだけにすると結論づけたのは割りと初めの頃だ。だから香水を纏わない。そしてそれが正解だったのも、ほろ酔い彼から直接聞き出せた。マコトさんは、いい香りがする、と。
 いつも通り、カウンターで他愛もない話をしながら、僕は程よく甘い匂いとお酒を楽しむ。アジカさんはお酒が強くないらしいけれど、たまに一杯付き合ってくれる。
 そんな彼が、今日は妙に飲んだ。三杯目を空けたところで、アジカさんは神妙な面持ちになった。
「あのっ! マコトさん!」
「はい、何でしょう?」
 何かしてくれるんだろうか。少し期待を持って、小首をかしげていたずらっぽく笑う。アジカさんは、少しドキリとした顔をして息を大きく吸った。
「今日会えたら、お伝えしようと思ってたんです!」
 取り出されたのは、白い小さなボックス。ハート型にかたどられたそれを開けると、シルバーリングがしっとりと鎮座していた。
「その、不格好ですが、ボクの気持ちを形にしました!」
 少し歪だけれど、細くシンプルな指輪は黄金色の光を反射してきらめく。形にした、ということは、既成品ではないのだろう。
「これ、ご自分で?」
「はっ、はい……」
 真っ赤になっている彼は年上なのに可愛らしく見えた。慣れないお酒の力を借りて、酔い以外の顔の赤さを頬や耳に染めている。僕の反応を、じっと窺って、期待と不安でグラグラ揺れている。
 なんて真っ直ぐなんだろう! こんな僕に――いいや、高値の花であるマコトさんに、一生懸命愛を伝えようとしている!
 心が温かく浮き立つのを感じながら、そっと手に取り右手の薬指にはめた。
「……ふふっ」
「あれっ?」
 指輪はすんなり指を通ったが、余裕がありすぎた。手を下ろしたら抜け落ちてしましそうなほどブカブカだ。
「マコトさん、指、細いですね……?」
「そうみたいですね」
 サァッと彼の顔から血の気が引いていくのが分かる。赤くなったり青くなったり、とはよく耳にするけれどこんな風になるんだなと思う。指輪とネックレスを外した。小粒のダイヤが揺れるネックレスにシルバーリングは合うはずだ。ゆったりとした動作で、リングにチェーンを通して身につけ直す。
「お守りにしても、よろしいかしら?」
 アジカさんには応えられないけれど、心が満たされたのは間違いない。彼の想いを無碍にするつもりもない。
「はっ、はい! 是非!」
 本当にそれで良いのか、と言いたげなダイゴさんの視線がアジカさんへ向いている。呆れてものも言えない、とさえ読み取れる視線がおかしくて、僕はマコトさんらしかぬ表情でコロコロと笑った。

 ◆ ◆ ◆

「俺は、馬鹿だ……」
「うん、そうだね」
 マコトさんが帰ってから、アジカくんはカウンター席で項垂れていた。彼――いいや、彼女でいいか。彼女が居なくなってから開かれるアジカくんの一人反省会は今に始まったことではない。毎回開催されて、終電ギリギリまでテーブルとくっついたままの体勢なのも珍しくない。
「あああぁ……、受け取ってくれて嬉しいけど、マコトさん、絶対俺のこと、相手にしてない!」
「うん、そうだね」
「マコトさん、ああ、彼女は何者なんだろう……。今日も聞けなかった……」
「うん、そうだね」
「ダイゴさん、もうちょっと真面目に聞いてくれたっていいじゃないっすか!」
 こうやって、慣れないお酒をかっ食らって半ば自棄になりつつ、いかんともし難い言葉を垂れ流す。やれやれ、と溜息を付いてオムライスを作ってあげた。
「マコトさん、本当に何している人なんだろう。年上……だよなぁ……。ダイゴさん、何か知らない?」
「さぁ? そんなに気になるなら連絡先でも聞いてやり取りしたらいいじゃない」
「……ケータイ、持ってないって言ってました」
「ああ、脈ないね、それ」
 うぐっ、というアジカくんの呻き声が鈍く響いた。他のお客さんからも見えているというのに、アジカくんは体勢を直そうとはしない。
「中性的なのに、色気あって、いい匂いして、美人で、かっこ良くて……。完璧すぎるし釣り合わないのは分かってるけど、そこまでいう必要なくないっすか?」
「といってもなぁ」
 色気がある、のは認める。今日はまずい所まで進もうとしてしまった。客は恋愛対象になり得ない。それは絶対変わらないことだ。でも彼女――いいや、やはり彼か? は単なる客、という立場から外れた位置に居る。
「本名、なんて言うんだろう」
 最近の若い子は、名前にこだわる傾向でもあるのだろうか。彼もまた、僕の名前を聞きたがっていた。
「うん? マコトさん、だろう?」
「そうじゃなくて、苗字とか、感じで名前をどう書くか、とか。どこに住んでいるのかも知らないし、そう遠くないって言ってたから沿線なんだろうけど」
 そんなに必要なことだろうか。目の前にいて、話ができて、愛を交わせたら十分ではないのか。そこまで考えて自分自身の恋愛観が一般から大きくずれている事を思い返す。
「アジカくん。個人情報に当たる部分はストーカーっぽいからやめようね?」
「気にならないですか? 彼女がどんな人なのか」
 彼の大きな秘密を見破ってしまった今、細かな正体はさして気にならないのが本音だ。それでも手を伸ばしたくなる妙な魅力が、彼にはある。
「うーん。僕にとっては大事なお客さんだからなぁ。綺麗な子だな、とは思うけど」
「年齢、いくつくらいだと思います?」
「僕からしたら、アジカくんもマコトさんも年下だから、よく分からないな」
 中学生の男の子だろう、と彼に突きつけた日を思い出す。結局白状はしなかったけれど、外れていないだろう。
 そう言えば、ダイゴさんも年齢わかんねーっすわ、とオムライスに付けたプチトマトを放り込みながらアジカくんはぼやいた。
「ダイゴさん、そもそも好きな人とか居るんですか」
「わぁ、中学生の恋話みたいだ」
 お客さんから幾度と無く振られる話題に、僕はおどけて返した。アジカくんはむぅ、とむくれた表情でジンジャエールをすする。
「俺、初めてなんですよ。こんなに恋焦がれるの。バンドで曲を書けばマコトさんへの歌になるし、ライブする度に見て欲しいと思うし、あわよくば……なんて。ああ、好きだ……マコトさん……」
「こじらせてるなぁ」
 グラスを拭きながら若人の恋の悩みに耳を傾ける。マコトさんに深入りするのは良くない、と言ったところで聞く耳を持たないだろう。アジカくんのことだから、正体を知ってもなお追いかけ続けるかもしれない。
 アジカくん以外のお客さんの会計をして、店の前まで見送る。今日も程よく忙しかった。マコトさんにしでかした失態を忘れない程度に。
 感触を思い出して頭を掻く。過去のやり直しなんて出来やしないのに。カウンターへ戻るとアジカくんはようやくテーブルから身体を引き剥がしていた。
「ダイゴさんは、どんな人を好きになってきたんです?」
「まだ続けるの、それ」
 オムライスの皿は空になっているから、喉を通らないというほど落ち込んではいないんだろう。今日何度目になるか分からない「やれやれ」を呟いてウォッカを注いだ。
「……実は、好きになった人って、人生で一人しかいなくてね」
 ショットグラスに波打つ透明な液体は喉を焼く。そうでもしないと話せない。
「綺麗な人だったよ。黒髪が綺麗で、肩くらいの長さで、小柄で、優しそうな目をしていて……。今はどうしたって会えないけどね」
「なんだか、大人な回答っすね」
「そうでもないさ。会話すらあまりしてない。一目惚れって言ってもいいかもしれないね」
 意外だ、とアジカくんは呟いた。モテそうなのに。それとこれとは別さ。あ、また大人な回答。少しげんなりする彼に少しおかしくなってクスクス笑った。
「それ、どれくらい前の話なんですか?」
「三年……いや、四年位前かな」
「そろそろ新しい恋をしてもいいんじゃないですか? 似た人で手を打つ、とか」
 からかうような声音でアジカくんはニヤニヤと表情を崩した。無邪気で悪意のない、彼らしい顔だ。
 二杯目を飲み干す。胃がジリリとする。曖昧に笑って誤魔化そうとしたけれど、一度こぼし始めた話はキリがいいところまで流れていってしまうのが常だ。
「最後に見たのは、彼女の死体なんだ」
「……マジ、ですか?」
「誰にも言ったことは無かったけどね」
 息を呑んだのが分かった。はくはくと口を動かそうとして、ままならないアジカくんに構わず続ける。
「彼女がひき逃げにあったんだ。僕はその目撃者。怖気づいて声をかけようか迷っていなければ、って何度も思った」
 三杯目を注ごうとして止めた。呼吸が熱い。あの日の後悔は僕が持つものでもない。分かっていても、店を畳もうかと思うほど何度も情景を反芻した。
「死体すら綺麗だったよ。白いワンピースに彼岸花が咲いたみたいだった。彼女だったものは、彼女らしく美しかった」
 冬の日。季節外れに咲いた赤い花。白と混ざってピンクにも見えた。鮮烈な景色に焼かれて、いつか渡そうと思っていたイヤリングを奥底へしまいこんだあの日――。
「すいません、俺、冗談でもなんてことを……」
「あ、いや、いいんだ。そんなつもりじゃなくて」
 ずっと誰にも言ってなかったことだからさ、とフォローを入れたが、耳の垂れた大型犬が座り込んでいるように見えた。素直なアジカくんだからこそ言えたことかも、と笑う。それと同時に少しばかりのいたずら心も。
 秘めていた事をもう一つ続ける。
「……マコトさん、その人にそっくりなんだよねぇ」
「ええぇっ!」
 ガタガタと音を立てて立ち上がるアジカくんの反応は思った以上だった。
「初めてお店に来た時は本当にびっくりした。今だから言えるけど、僕、もうすぐ死ぬのかなとも思った」
 マコトさんは彼女じゃないのに、彼女へ買ったイヤリングを引っ張りだして、しかもそれを贈ったことは言わないでもいいか。
 彼女じゃないのは重々承知だ。男の子だということも分かっている。でも僕は本気になりかけている。これも言わなくていいだろう。
 目を白黒させて溺れた金魚みたいになるアジカくんは存外面白い顔になっていた。
「ダイゴさんはマコトさん狙ってないって言ってましたよね……?」
「どうしようかなぁ、マコトさんは大切なお客さんだし。でも似た人で手を打ってもいいって言うなら……」
「ダメダメダメ! ダメですよ! っていうか狙い始めたって俺は諦めませんからね!」
「好きにしなよ」
 必死な彼にとうとう噴き出して大笑いする。

 アジカくん、終電なくなるよ。いつもの言葉を最後に店じまいにとりかかった。

 ◆ ◆ ◆
 
 それは、本当に偶然だった。
 毎週水曜日と金曜日の夜十九時、バイトを無理矢理切り上げて足を向けるのは、ショットバー《カサネドリ》。どうしようもなく会いたくなる人が居て、週二回通っている。でも俺は、連絡先どころか本名すら知らない。
 今日はどうしてもバイトが抜けられなくて、二十時まで捕まっていた。マコトさんは何故か、十八時半から二十時までしか店にいない。それより早く来たことはないし、遅くいたことも無い。決まった時間にヒールを鳴らして現れて、同じ音をさせながら帰っていってしまう。つまり今から《カサネドリ》へ向かっても、もう会えない。帰り際の凛とした後ろ姿を、追いかける度量は俺になく、またとても魅力的な背中のラインに見惚れてしまう。
 だから、本当に偶然だった。夜の街にマコトさんが居る。いつもと服装の雰囲気が違う。白いワンピースに、レースがあしらわれたカーディガン。華奢なチェーンのブレスレットが清楚さをプラスしている。雰囲気は違うけれど、俺がその姿を見間違う訳がない!
 だけどその隣には四十代中頃の男がいた。いかにも金持ちっぽい、質の良さそうなスーツ、革靴、時計。ぱっと見、ステータスが高ランクの細身の男は、恭しくマコトさんの手を取り、ゆっくりと歩き出した。マコトさんは硬い表情のまま、男の腕に自分の腕を絡める。ほっそりとした腕は頼りなく、いつものマコトさんの様な気を張った姿勢は見えなかった。
「マコト、さん?」
 勢いのまま弾かれる様に彼女の前に立ち、呼び止めてしまった。大きな瞳が溢れそうなほど見開かれる。
「何だね、君」
「マコトさん、その方は……?」
 マコトはオロオロした様な表情をして、男の顔を見た。
「芳さん、知り合いかい?」
 カオリさん? マコトさんの、本名だろうか。図らずとも知れた情報に俺は心が浮き立つ。が、直ぐに焦りとなった。これではストーカーだし、マコトさんを困らせているじゃないか。
 カオリさんと呼ばれた彼女は、フルフルと首を左右に振り、男の腕を更に強く握った。見た事もない素振りと仕草だった。
「君、人違いだ。あまり彼女を怖がらせないでくれ」
「す、すいません!」
 男の気迫に押され慌てて道を譲り、彼女らを見送る。マコトさんは顔を伏せてしまって表情は分からない。俺が、見間違える訳がない。綺麗な黒髪も、前下がりカットのライン、髪を耳にかけた時に見えるホクロだって、間違いなくマコトさんだ。
「――……」
「ッ!」

 ごめんなさい。

 集中していなければ雑踏に消されてしまうほど、か細い声だった。こちらに視線や意識を向ける事は一切無かったけれど、やはりマコトさんだと確信した。振り返ってはならない、と手を握る。知らず知らず、汗をかいていた。
『一体何を、謝ったんですか』
 名前を偽っていることですか。それともパトロンが居ることですか。俺を無視したことですか。
 それとも、それとも――……!
 俺は深呼吸をする。良くないと分かっていながら、二人の後をつけた。

 ◆ ◆ ◆

 俺には縁がなさそうな高級フレンチ。一時間半ほどで出てきた二人は、行きと同じように腕を組んで出てきた。酒が入っているのもあるだろう。男はより親密そうに、彼女の髪や頬、指を撫でる。手が届かない人だと分かっていても、嫉妬でねじ切れそうだった。
 二人は呼びつけたタクシーに乗り込んでいく。俺も慌ててタクシーを拾った。
「すいません、前のタクシーを追ってください。追いつかなくて良いです。行き先が分かれば……!」
 まるでドラマみたいな台詞だ! 途端に恥ずかしくなったが背は腹に変えられない。
「良いねぇ、そういうの、一度言われてみたかったんだ! 任せな!」
 意外に乗り気な運ちゃんで助かった。つかず離れずの距離でブレーキランプが光る。街の明かりが風にのって通りすぎていった。
 やがて見慣れない道に入っていく。工場だらけの、寂しい道だ。真っ暗闇な夜の空気に、赤やオレンジのライトが明滅する。照らされた煙が低い音を這わせて立ち上り、時折鈍い音を立てて破裂した。
「この辺は、どの駅が近いんですか?」
「佐々南かねぇ。ローカル線の」
 華やかな街並みからはどんどん離れ、郊外へと車は進む。
 閑静な住宅街に入っていった。工場の騒音は殆ど無かったが、温もりに欠ける印象がある。辺りに建つ家屋は比較的大きく、三階建であったり、車庫がしっかりとしていた。俗にいう、高級住宅地なのだろうか。走り抜ける家々は重厚な門や庭の木々、あるいは高級車でそれぞれ権威を表そうとしているようにも見えた。
「お、止まるみたいだねぇ。この先の角で止めようか」
「本当にありがとうございます」
「事情は分からんけど、女絡みかい?」
 曖昧に俺は笑って支払いを済ませた。頑張りな! と的はずれなのかどうなのかも分からない激励を背にして、マコトさんと思しき人達が入っていった住居の前まで来た。
 藤井、と書かれた表札。玄関先の灯りが照らす苗字に、俺の心臓は早鐘を打った。
 藤井カオリさん。それが、マコトさんの本名だろうか。いや、あの男の苗字で彼女のではないだろう。彼女が抱える秘密の一つに近づいて、手に汗が滲む。
 室内を覗く勇気はなかったが、二階の明かりが点いていた。カーテンから漏れる光が、カオリさんが確かに居る証しだと思うと鼓動のBPMが速くなる。
 俺と同じくらいの背丈の門は、白く洋風な作りだった。門だけではなく外壁、屋根、庭先の石畳までが白い。広々とした庭は白いタイルが埋め尽くしていていた。ベンチと丸い机が設置されていたが、それもやはり白い。
 寒々しいほど色彩を欠いた白い家に、俺はやばいモノを見たような心地がした。
 ここは白い監獄だ。潔癖を主張する白がこんなにも外の繋がりを拒絶するのかと身を持って知る。冷や汗が背を伝い、拳に力がはいる。マコトさん……いや、カオリさんとひと目会いたいと思って居たはずが、足が竦んで身動きが取れなくなる。
「おい、アンタ」
「ッ!」
 突然、背後から声を掛けられて俺は猫が飛び上がるように身体が跳ねた。慌てて振り返ると仏頂面の男が立っている。学生服を着崩し、背は俺より少し低いくらい。不信感たっぷりの視線が突き刺さる。
「うちに何か用?」
「あっ、いえ、そのっ!」
 うち、という事はこの人も藤井家の者なんだろうか。怪しい者と思われたくないのと、上手くいけば取り次いでもらえるかもしれないという打算が同時に駆け巡る。
「かっ、カオリさん、に、お会いしたくて。届け物があって、来たのですが」

 もっとマシな言い訳は無いのか!

 言葉にして自らつっこむ。ますます訝しげになる視線が居た堪れない。眉間に寄ったシワのせいで、彼の目つきは途端に厳しくなる。
「何、アンタ。まさかアイツのストーカー?」
「いえ! そのようなことは! 誓って無いです!」
 全身でそれを否定するが、これではかえって認めているようなものだ。何か動作を起こすたびに状況が悪化する気配を察知した俺は、そこから彼の様子を窺う。
「……もう帰って来てんのか」
 独り言のように漏らす彼の視線の先は二階の部屋だった。俺を見るよりも更にキツい……言うなれば、嫌悪感を含んだ視線を放つ横顔に、俺は何も言えなくなる。
「なぁ、アンタ。これから暇?」
「えっ……?」
 ニヤリと笑う男は高校生のはずだ。年下のはずだ。だというのにこの、蛇のような圧力は一体何なのだろう。
「家に戻りたくねぇんだわ。近くでメシ食わね?」

 ◆ ◆ ◆

 駅前にある小さなファミレス。客はまばらだったが静か過ぎるというわけでもなかった。
「デザートまで、悪いな」
「いや、まぁ、……」
 食後のデザートであるパンケーキとドリンクバーのコーラを楽しむ彼に、俺は強く出られずにいた。
 挙動不審で家の前をウロついていた俺のほうが、分が悪い。カオリさんに何か言われるかもしれないと考えが過って、食事を奢ると言ったのが、およそ三十分前。育ち盛りなのかモリモリと平らげていくその間、俺達はほぼ無言だった。
 俺は手持ち無沙汰になり、煙草に火をつける。
「アンタ、アイツをどこで知った?」
 突如、核心に触れる質問が飛び出て俺は煙に噎せた。呼吸を落ち着かせるために咳を二、三度して、点けて間もない火種を折って消す。
「その、行きつけの店で会ってから、綺麗な人だと思って……。ボクが一方的に好きなだけです」
「ふーん」
 しどろもどろで敬語混じりになりつつ、なんとか言葉を発した。じろじろと舐めるように、そして突き刺すように俺を見る彼に、俺は下を向いて目線をそらす。
「アイツは、アンタが思ってるようなやつじゃねぇよ」
 心底馬鹿にした声だった。この男が、マコトさんや俺達の何を知っていると言うんだ! カッと集まった熱に俺は思わず立ち上がる。
「ッ俺は!」
 勢い良く出した声は思いの外、響いた。ファミレス客から一斉に注目を集めてしまい、静かに着席し直す。
 呼吸を一つ置いて、彼を見据えた。
「あの人がどんな人でも、想いは変わらない」
「っは! 笑える」
 メイプルシロップを過剰に掛けたパンケーキはしとどに濡れ、ほろりと崩れている。彼はそれに容赦なくフォークを突き立て舐るように口に含んだ。
「アンタ、アイツの何を知ってるんだよ」
 フォークを目の前に掲げられ、反射的に身を引いた。彼の髪の毛が歪な赤と黒に輝いている。挑発的な言葉と瞳に言葉に詰まったが、咳払いを一つして向き直った。
「あの、君はカオリさんとは、どういう……?」
 パトロンの息子、というのが俺の予想だった。あの男とはあまり似てないが、彼は母親似なだけかもしれない。
「俺のきょうだい」
「姉弟!?」
 思いがけない単語に声が裏返った。嘘だろ、似てないじゃなないか。思わず声に出して睨まれてしまった。
「じゃあ、あの男性は?」
 ということは、マコトさんの本名は、藤井カオリさん……ということになる。とすれば、マコトさんがあの男を連れ込んでいるということになる。あの彼女が? 考えたくもない可能性は更に理解できない単語で遮られた。
「俺の親父」
「……んん!?」
 彼が、カオリさんの弟で、あの男の子ども? となればカオリさんとあの男の間柄は一体何だ。パトロンではないのか?
「待って、待ってくれ、急に分からなくなった」
「簡単な話だ」
 一呼吸置く代わりに彼はコーラを飲み干す。氷が打ち鳴らす涼やかな音が場違いだ。氷が描く複雑な曲面は、肩を出し淫らに誘う悪女の媚態。グニャグニャに映り込む景色が混ざって、何が映っているかわからなくなる。
「アイツの母親と俺の親父が再婚した。だが母親は死んだ。母親に瓜二つなアイツは親父に気に入られて、母親の代わりにされている」
 淡々と吐き出された文章が、頭に入ってこない。
 なんだ、それ。カオリさんは、あの男の子どもなのに、妻として振る舞う事を強要されている。だから、普段と違う服装や仕草だったのか。それはつまり、あの男がカオリさんに――……。
「そんな……そんなのって!」
「狂ってんだろ? 今ごろ、アイツは親父の腕の中だ」
「やめろ!」
 俺はとうとう叫んだ。迷惑そうにこちらをみる他の客の視線は最早気にならない。睨み合ったまま固まった。
「分かったなら、消えてくれ。アイツに関わるな」
 やがて飽きたのか、心底面倒くさそうな表情になる。パンケーキは既になくなっていた。
「君は、いいのか? 姉さんが、その、慰み者になってるってことだろ?」
「……アンタに何が分かるんだ」
 低く這う声に気圧される。あの男にも感じた、他を排する声。ああ、親子というのは本当なのかもしれない。額ににじむ汗を感じながら彼から目をそらせなくなる。
「ついでに、もう少しいいこと教えてやるよ」
 歪んだ笑顔は彼を余計に蛇らしく見せた。学生鞄を雑に担いで立ち上がったかと思うと、俺の座っている位置の真横に並ぶ。
 不意に胸ぐらを捕まれ、彼の顔が至近距離に迫った。
「ひとつ、俺はアイツを姉だと思ったことはない。
 ふたつ、アイツ自身を見てやれるのはこの俺だけ。
 みっつ、俺はアイツを愛している」
「なっ……!」
 長くて赤い舌が覗く。舌に載せた言葉は毒々しい愛を歌う花みたいだ。この彼もまた、カオリさんに家族以上の感情を抱いているのは俺でも分かった。
「世の中にはな、アンタが思っている以上に、《普通》で割り切れない事で溢れてんだ。少しは勉強になったかよ、金髪キノコ」
 耳元で囁かれた言葉にぞわりとした悪寒が走る。慌てて突き放したが凶悪な笑みを助長させただけだった。
 じゃあな、ご馳走さん。手を振る後ろ姿を呆然と見送るしか出来なかった。
 バクバクと鳴る自分の心臓がうるさい。
 ダイゴさんなら、深入りしすぎないようにね、と言うだろう。俺もそう思う。間違いなく、カオリさんを取り巻く二人は普通ではない。その二人にカオリさんは、あの白い監獄に閉じ込められている。
『つまらないところへ、寄らなければならなくて』
 いつか言っていた言葉。それはあの二人のもとに帰るということだったのだろうか。
「マコトさん……」
 それでもマコトさん――いや、カオリさんへの想いは変わらない。
 助けなければ、どうやって?
「……カオリさん」
 弱々しい仕草や視線を思い返す。あの男にバレないように呟いた謝罪の言葉。ちらりと覗いたネックレスには、俺が贈った指輪がたしかに通っていた。
『お守りにしても、よろしいかしら?』
 あの日の声がリフレインする。
 カオリさんは間違いなく、あの男との関係は望んでいない。

 助けなければ。でも、どうすれば……。

 ぐるぐるとした迷路に入り込んだ俺は、グラスで濡れたテーブルを見つめた。