秘密主義 後編

 ◆ ◆ ◆

 熱を出した。
 自分で看病する分にはどうにかなるけれど、学校へ行く気力は湧かなかった。
 兄さんに学校を休むことだけを伝えて部屋に閉じこもる。仮にも保護者に当たるからだ。学校に連絡を入れてもらわないとならない。兄さんは僕をいたぶるけれど、その辺りは律儀にこなしてくれた。
 やがて玄関の扉が閉まった音がした。兄さん、今日は朝から学校行ったんだ。ぼんやりとそんなことを思った。僕の看病をするより、学校のほうがいいのは当然か、とも同時に思う。
 このまま学校からフェードアウトしたっていいんじゃないか。弱った頭に浮かぶのはそんなことだった。勉強は嫌いではない。ただ周りの人達に馴染めない。マコトさんに化けるようになってから、同級生だけでなく先生すら幼く見えてしまう。彼らの悪ふざけに付き合ってやる必要は無いのでは……。そこまで考えて、僕は自室のベッドに身を投げた。
 マコトさん、学校が楽しくない時はどうしよう。あら、簡単なことだわ。楽しいことを探せば良いの。例えばどんな風に? そうね、いっそクラスの男の子たちを手玉に取ってみたらどうかしら。マコトさんでも、冗談言うんだね。
 脳内で繰り広げられる、マコトさんとの対話は楽しかった。彼女が投げかける質問や回答は僕では思いつかないものばかりだ。
 うっすらと目を開けて部屋を見渡す。
 父さんや兄さんの寝室、お風呂、リビングで気絶するように眠る事がほとんどだ。だから自分の部屋に転がったのは、なんだかずいぶん久しぶりのことのように感じる。
 シャチのぬいぐるみをベッドヘッドから手繰り寄せて抱きしめる。
「ねぇ、マコトさん」
 父さんと兄さん、仲直りするにはどうしたらいいかな。どうして仲直りしてほしいの? それは、だって、家族だし。水族館へ行った時、僕たち家族は幸せだったんだ。父さんが、立ち直ってくれたらきっと元通りになると思うんだけど。あなたのお父さん、本当に立ち直ると思う? 分からない。でも、ずっとこのままじゃ居られない。きっといつかは――……。
 マコトさんは、そうね、と一言言ってから黙ってしまった。
 ああ、客観的に見たら、僕ら家族はとっくに壊れているんだ。不意にそう思うと涙があふれた。
 父さんのことは好きだ。非道いことをするけど、父さんはずっと悲しみの底に居るだけで悪者じゃない。兄さんだってそうだ。父さんが母さんを亡くしたショックで、兄さんを邪魔者扱いするせいだ。苛立ちやその原因である僕に矛先が向くのは自然なことだ。
 僕はどうしたらいいんだろう。母さんの真似事をし続けたらもっと悪化する。でも父さんは慰めて欲しいと言う。僕に出来ることは家事と話を聞くことだけだ。父さんと母さんの思い出話を、僕が芳として聞くことだ。
 兄さんの前では弟でなくっちゃ。弱くて、何も出来ない弟でなければ。じゃなかったら兄さんはこの家で一人っきりだ。
『あなたは、どうなの』
 それはどういうこと、マコトさん。
 あなたはこの家で一人っきりなのではなくて?
「違うよ、それは」
 だって兄さんは僕のことを薫と呼ぶよ。非道いことをするけど、兄さんなりのルールがあるもの。その、兄さんの友達は怖いけど、勝手に僕を殴らせないもの。兄さんの命令がないと、あの人達は僕に触らないってルールがあるって言っていた。それって、僕のことを、兄さんの弟だって認めてくれているってことでしょう。父さんだって、デートと、その、えっち以外の時は薫と呼ぶよ。制服を作った時だって、男の子だから大きめにしないとな、って言ってくれたもの。一人じゃないよ。
 マコトさんは、そう、と言って、また黙ってしまった。
 熱で膨張した僕の頭の芯は、曖昧なテリトリーに溶けてなくなっていった。

 ◆ ◆ ◆

 物音で目を覚ました。何時間か眠っていたみたいだ。部屋の壁掛け時計は十三時過ぎを指している。足を伸ばしてゆっくり休めたおかげか、朝よりは怠さが抜けていた。
 一階で何か音がする。兄さんが帰ってきたのかもしれない。もしかしたら、気まぐれで看病しに戻ってきてくれたのかも。淡い期待をもって階段を降りた。
「兄さん? ……帰ってきたの?」
 返事は無いが、物音は続いている。いつまでたっても返事がないのを妙に思い、辺りを見回した。
「兄さん?」
 一人では広すぎるリビングに足を踏み入れる。真っ白な壁。家具も全て白で統一した部屋。今は僕以外、あまり使っていないせいで散らからない。閉めきったカーテンから細く光が入っている。
 突如、横腹に強い衝撃が走って、僕はあっけなく吹き飛んだ。ソファーの側面をクッションにして、頭を打つのをとっさに避けた。
 突然の事に理解が追いつかなかった。やがて背後でゲラゲラ笑う嫌な声がした。
「薫ちゃん、元気? 学校、休んだんだって?」
「俺たちも休みだからさぁ、一緒に遊ぼうね!」
 不安定に揺れる視界に映ったのは兄さんの友達だった。汚い金髪と、ピアスだらけの人。そこで初めて僕は蹴られたんだと分かった。
「兄さん、は……?」
「あいつ? 居ねーよ。薫ちゃんとじっくりお話したくて、俺たちだけで来ちゃった」
 兄さんが持っているはずの鍵を掲げる。ぞわりと寒気がして、僕は自分を抱きしめて震えた。ゆっくりと近寄ってくる二人は、兎をいたぶる猟犬に見えた。息が詰まって動けない。
 兄さんの許可なく、僕に手をかけないという決まりがあったはずだ。どうして、なんで、ルール違反じゃ、とうまく動かない唇で言葉を出す。
「簡単だよー、お前が黙っていれば、何もなかったのと一緒」
「な? 薫ちゃんは賢いから、分かるよな?」
 最後まで言葉を聞かずに、弾かれたように逃げ出した。けれど、どうにもならない体格差と風邪で弱った身体では結果は見えていた。背中を踏まれて息が止まる。
 どうして、どうして、どうして僕は!
 自宅さえ僕を守る盾にならないなんて、僕は、これ以上、どうやって自分の身を守ったらいいんだ!
 散々に喚いたが、彼らに油を注ぐだけだった。無理矢理に階段を登らされて、自室に押し込められる――。

 ◆ ◆ ◆

「早くしろ」
「ッう! ごめんな、さい、……」
 脇腹を蹴られて、みっともなく倒れる。よろけながら立ち上がる。頭が熱でふらふらする。怖くて前を向けない。
 僕はパジャマの上だけを着た状態で、壁際に立たされていた。堰を切ったように流れる涙は止まる気配がない。
「……薫。中学二、年生です」
 パジャマの裾を握る手がぶるぶる震える。何も身に着けていない下半身を隠す為に引っ張ったけれど、ただもじもじと動いているだけになっていた。
「今日、は、優しい、お兄さん達が、遊んでく、れます。……僕は、っ僕は、ぶたれるのが好きな、変態なので、たくさ、ん可愛がって、っもらいます」
 怖い、怖い、怖い!
 しゃくりあげるのを堪えながら、言われた通りの事を言う。一人はスマホのカメラで録画している。ニヤニヤと笑う顔を見たくなくて、何よりカメラが回っているという恐怖から、目をつぶった。
「はーい、という訳でこれからこの子とイイコトしまーす」
「お前、喋るなよ」
 汚く笑う声が怖い、伸びてくる手が怖い、カメラを構える奴が怖い、二人が、奴らが怖い!
「い、いやっ、嫌だっ、」
 突き飛ばされて、踏ん張る事もできずに床に倒れる。馬乗りになったピアス男が僕の胸ぐらを掴んだ。逆光になった顔は目だけがギラギラと光っている。目には、これから僕を暴く、という明確な色があった。
「や、顔は、ぶたないで……!」
「そうだね、兄ちゃんにバレたら、やばいもんね」
 手のひらで思い切り頬を打たれる。口の中に鉄の味が広がっていく。衝撃で耳鳴りがして焦点が合わなかった。
「やだ、やだ、言うこと聞くから、顔は、」
 自分でも何を言っているか分からなくなる。水槽の奥底へ沈んだみたいに手の先が冷たくなり始めている。二人は顔を見合わせて、悪い顔で笑う。
「なら、そこでオナニーしろよ。撮ってやるからさ」
 乱暴に起こされて、壁に頭を打ち付けられる。鈍い音と共に目眩がした。もう、何が起きているのかわからなくなってきた。分かりたくも、ない。
 それでも殴られるよりマシかもしれない。そうだ、そのうち、いつもみたいに……僕の電源が落ちるみたいに意識が飛ぶ。そしたらもう、全部終わっているはずだ。
 短絡的にそう考え、僕は膝をつく。壁に背中を預けると、自然と下半身が顕になった。
「……っ、ぁ」
 恐る恐る自分の中心に手を伸ばす。体温をなくしはじめている手が冷たくて、小さく悲鳴を上げる。
「ん、ぅ、……!」
 ゆるく握って少しずつ動かし始める。スマホカメラはすぐ近くの、僕の本棚に固定されていた。こっちに向いているのが見なくても分かる。
 芯を持ち始めたところで、二人が僕に触れてきた。
「この状況で興奮するなんて、お前やっぱり変態なんだな」
 熱に焦げたような掠れた声だった。僕はその声をよく知っている。父さんが初めて僕を抱いた時、同じ声をしていた。
 壁から背中を剥がされて、背後に回られる。後ろから抱きすくめられる。耳元でピアス男の荒い息がかかって、背中に痺れに似た波が走った。
「こうされたらさ、どうなる?」
「っあ、や、やだ……!」
 遠慮のない動きでこすられてあっという間に追いつめられる。やがていやらしい水の音が部屋中に響きだした。ピアス男の動きに合わせて鳴る音に耳を塞ぎたくなった。
 おかしい。いつもなら色々される前に意識が飛ぶのに! こんな状況を直視するなんて耐えられない!
「やだ、じゃなくてさ。気持ちいいって言えよ」
「ぃや、やぁあ!」
 強制的に与えられる快楽と、肩口を噛まれた痛みの区別がつかなかった。こぼれ落ちる涙のせいで、頭が余計にぼうっとしてくる。手足の温度はどんどん下がっているのに、頭と下半身に集まる熱を早く手放してしまいたくなる。
「言うこと、聞くんだろ?」
「あっ、何、あ、あぁっ……!」
 あと少しで果てる手前で手を離され、金髪が僕のを踏みつけた。身をよじって逃げようとしても無駄だった。ピアス男は僕の胸の飾りを執拗にいじりだして、僕の身体は陸に打ち上げられた小魚みたいに跳ねた。
「ほら、なんて言うんだっけ?」
 下卑た笑み、とはこういうものを言うんだ。兄さんとは違う。兄さんは僕を弟として手に掛けるのに、この人達はただ意味もなく、僕を汚していく。
 だからと言って、僕に何か出来ることは無い。
「っ、気持ち、いい、です……」
 僕の言葉に、二人がまた笑う。猟犬ではなくて、ただの雄の匂いがする顔になっていく。急かすような刺激に僕は諦めを感じ始めていた。もう、なにもできない。僕は虐げられて、這いつくばって、暴かれる存在でしかないんだ。
「――……ッ!」
 声にならない叫びとともに、僕は果てた。

 ◆ ◆ ◆

「ぅ、えぁ、ああぁ、ぁ……」
 浮遊する感覚と突き上げられる感覚を同時に味わう。だらしなく開いた口から漏れるのは最早意味を成さない喘ぎ声だけだった。
 二人共やがて無言になり、代わる代わる、ひたすら僕を犯す。後ろから、前から、そこかしこから与えられる快楽に僕は息継ぎが出来なくなっていた。
 僕の意識は落ちなかった。涙でぼけた視界にシャチのぬいぐるみが揺れている。学校を風邪で休んで、ぬいぐるみを抱いて寝ていただけなのに、どうしてこんなことになっているんだろう。
 どこか他人事のように感じながら、身体を揺さぶられ、僕の中心から断続的に白い熱が吐き出されていく。
 何が起きているんだろう。どうして意識が飛ばないんだろう。僕は何をされているんだろう。頭の中にあるのはそれしかなかった。
「やっぱ、お前、最高だわ」
「ひっ、ぐ」
 荒い息と共に金髪が呻く。後ろから僕の中をえぐり、項を噛んだ。瞬間、身体が浮いた様にすくんだ。
「あっ、ああ、ぅぁあ……!」
 ポンプのような動きで熱いものが注がれる。奥で激しく弾けている。チカチカと星が飛び、余計に呼吸ができなくなる。
 引き抜かれると、粘度がある液体が内腿を伝っていく。その感触にまた涙が出た。

 助けて、だれか、だれか――……!
 
 誰か、とは誰だろう。父さんは仕事で居ない。兄さんはまだ学校だ。学校の人間に助けてくれそうな人なんていない。
 ダイゴさんやアジカさんは、マコトさんと繋がっている人だ。薫なんて存在、知りもしない。
 一人っきり。
「やだ、あぁ、もう、やだぁ……!」
 ピアス男が余裕のない顔で覆いかぶさってきた。舌なめずりする表情に、強烈に死にたくなる。
 そうだ、もう、死んじゃえばいい。これが終わったら、死んじゃえばいいんだ。
 そう思うと、少しだけ息が出来るようになった。そうか、生きようとするから苦しいんだ。家族の仲を取り持とうとするから、余計に辛くなるんだ。
 自殺は悪だ、と学校の先生は声高に言っていたけれど、生かそうとしてくれないんだから、しょうがないじゃないか。自殺は弱虫がすることだとクラスの誰かが言っていたけど、そのとおりだ。僕は弱くて、どうしようもない。作りだしたマコトさんみたく、強い人ではないのだから。
 仰向けの状態で足を大きく広げられる。ピアス男の先端が、僕にピタリと添えられた。さっきの金髪みたいに難なく飲み込むんだろう。こんなに嫌なのに、身体はとっくに諦めて受け入れている。なら僕も、もう諦めたっていいじゃないか。
 目を閉じると、優しい温度の水が僕を包んでいく気がした。
 僕には誰もいない。一人っきり。音もなく僕の心臓と呼吸だけが聞こえる。
 だったら一人っきりで死んでもきっと――。
「楽しそうなこと、してるじゃねえか!」
 覆いかぶさっていたピアス男が勢い良く僕から離れていく気配を感じ取る。ついで、壁に何かがぶつかったような振動がベッドを揺らした。
 耳が上手く聞こえない。散々に泣いたせいか、耳に水がつまってしまったようだった。変則的に反響する音が頭に響く。
「か、一哉、なんでここに」
「俺が家に帰ってきて、何か文句あるのか」
 あれは、誰だろう。ものすごく怒っている。どうして怒っているんだろう。
「俺の、弟に、何してんだ……」
「いや、ちょっとした出来心っていうか、別に、いつもしてることだろ?」
「アイツは俺のものだって、言ったよな。アイツに触って良いのは俺が許可した時だけだって、言ったよなァ!」
 明らかに焦った顔の金髪は黒髪の人に殴られておもちゃみたいにバウンドした。
「勝手に、俺の、弟に! お前、死ねよ!」
 耳のピントが合い始める。金髪は黒髪の人に馬乗りにされて、サンドバッグみたいに殴打されだした。
 弟? 僕を、弟と呼ぶ人は一人しかいない。わざとらしいくらいの黒色の髪から、赤い色がちらちらと光る。
「兄さ、」
「薫、……薫!」
 掠れてまともな声が出なかったけれど、兄さんは聞き取ってくれた。気絶した金髪を蹴飛ばし、ピアス男をベッドから引きずり下ろして、僕を壊れ物みたいに触れる。
「兄、さん」
 ああ、助けてくれた。一人じゃない、一人じゃなかった。ぼたぼたと落ちる涙に呼応して、包んでいた優しい水が少しずつ下がっていく。兄さん、ともう一度呼ぶと静かに身体を掬い上げてくれた。
「薫……?」
 兄さんが抱き上げてくれている。腕が震えている。声も。こんなに優しくしてもらえたのは、いつぶりだっけ。
 温かい。火傷しそうなくらい、心配している。薫が心配されるなんて、いつぶりだっけ。
「僕、死ななくても、いいや……」
「おい、薫――……!」
 熱で朦朧とする。
 手を伸ばして兄さんに触れようとしたけれど、力が入らなかった。
 ああ、兄さんが、泣いている。
 お礼、言わなきゃ。

 墜落する感覚に引っ張れて、僕は暗い、深い海へ落ちるように目を閉じた。

 ◆ ◆ ◆

「ああ、芳さん! 気がついたかい!」
 薫が入院したと親父に伝えると、ものすごい速さで家に戻ってきた。だがもう、あいつは薫を薫として認識できなくなっていた。それでも大人の大人げない対応を目の当たりにし、結局のところ俺はこいつに勝てる要素を見失っていた。ひたすら苛立ちと、恨みと、ぶつけようのない腹立たしさばかりが募る。
「心配したよ、芳さん。本当に、生きていてよかった……」
 薫はゆっくりと瞬きを何度かしたが、哀れみに満ちた瞳で、親父をぼんやりと眺めている。まだ意識が覚醒しきっていないか、それとも、とうとうヤッてる最中以外も薫として扱われなくなった事実を回避しているか……。
「丸二日眠っていたんだ。芳さんが休んでいる間に全部終わらせたからね。もう心配いらない。証拠もあったし自白している。一哉の学校の生徒だったんだ。だからね、心配いらない。学校側には寄付金を積んで奴らを退学に追い込んだし、それに告発もするよ。私の芳さんに乱暴したんだ。本来なら死んでもらっても良いくらいだ!
 ああ、本当に忌々しい。一哉はやはり駄目だ。出来が悪いどころか芳さんに危害を及ぼすような奴と付き合いがあるのだから。そうだ、あいつを追い出そう。芳さんと二人で暮らして……。どうだろう、芳さん。君もまだ若いし、僕たちの新しい子どもを作ってみないか」
 ベラベラとノンストップで話す奴に、目の前が真っ赤に燃えた。芳さんはとっくに死んだのに、この男は! しかも俺を追い出して薫を本格的に殺そうとしている!
「あの野郎……」
 舌打ちして掴み掛かろうとしたが、呼びつけておいた医師や看護師が俺の腕を取って抑えこんだ。振り切って薫の方へと足を進める。が、薫の発した言葉に急ブレーキをかけた。
「あなた」
 その声は、薫であって薫のではなかった。
 桜が散るような温かな声音。親父を見る眼差しは、どこか懐かしい色をしている。芳さんにひどく似ていた。だが、ゆるくカーブを描く微笑みは、芳さんとも薫とも、決定的に何かが違う。
 俺は息を呑んだ。

「私の、子どもは?」

 あれは、誰だ。
 芳さんに酷似している。だが違う。芳さんはあんな風に冷たく笑わない。それ以前に芳さんは死んでいる。横たわっているのは薫のはずだ。だというのに、薫らしき気配は一片もない。
「君の、子ども? か、おる、薫……? 薫のことかい? 薫は、車の事故で、死んでしまったじゃないか……。ああ、そうか、まだ混乱しているんだね。無理もない、薫は良い子だったから、芳さんが認めたくないのはわかる。薫は君の得意料理だったオムライスを振舞って、私を元気付けてくれたし、そう、エプロンを付けてキッチンに立つと君が帰ってきたように思えてね、……。あれ、芳さん……、今まで、どこに? おかしいな、芳さん思いの薫は、とても良い子で、君の代わりになろうと家事をしてくれたし……。振り返る時、本当に君にそっくりで、……抱き締めた時の感覚だって。
 薫が、君の代わり? 何故だ、君はここにいるのに、何故、薫が、君の代わりを……?」
 ブツブツと呟く親父に構わず、薫から芳さんに似た眼差しは消えていった。水位が下がるようにそれは姿をくらまし、少し戸惑った表情の薫へと変化していく。
「……父さん? 来てくれたんだね」
 ああ、薫だ。間違いない。あんな風に、怯えるように笑うのは薫以外に居ない。
 正体不明の何者かは完全に見えなくなった。安堵と同時に嫌な汗を手に握る。
 親父は半歩下がり、薫を見下ろした。呼吸が浅くなっている。
「あ、ああ……薫? 薫、そうだ、薫だね。良かった、目が覚めたんだね。ああ、良かった、良かった。……芳さん、芳さんも乱暴されて、おかしいな、薫……? 薫は車の事故で死んで、そうだ、その後、薫は料理を、芳さんから教えてもらった、オムライスを作って……、そうとも、あまりに君にそっくりで、私は思わず駆け寄って、そのまま……。
 薫、ああ、薫が、泣いて、泣くから、口を塞いで、そして、ああ、薫が、芳さんの……!」
 ヨロヨロと薫から後ずさり、親父は頭を抱え狼狽え出す。毒がめぐってのたうち回る獣を見ている気分だ。
 壊れろ、壊れちまえ、壊れてガラクタになっちまえ!
「芳さんは、芳さんは……!」
 膝から崩れ落ち、ガクガクと身体を震わす。その様子から俺は目をそらさなかった。
 もうダメだ。もう、俺の親父ではなくなっていたし、薫の父親にもなれなかった、哀れな男の末路はもう少しで行き詰まる。
 薫も目をそらさず見ていた。……いや、ただ呆然として目を離せないのかもしれない。
「ああ、あぁ……! 芳さん! 芳さん、芳さん、死んでしまった! ああ、ああ、芳さん、死んでしまったのは、芳さんだ!
 そんな、そんな! 芳さん、ああ、ああ、ああぁ!」
 一部始終を目撃していた医者や看護師が、親父を引きずって退出させた。
 案の定、親父は狂っていた。二度目の芳さんの死を味わっている。中年の、これといった支えのない男にそれは深刻なストレスになるだろう。俺達の前に戻ってくるのは遠い未来かもしれないし、二度と無いかもしれない。
「……薫」
 自分でも驚くほど、掠れた声になった。
 二人きりになった病室。薫までの距離がとてつもなく遠く感じる。
 俺は、俺はどうすればいい。薫を殺されることは避けられたが、手のひらからこぼれ落ちかけているままだ。ベッドから掬い上げた時の薫の言葉がこびりついて離れない。
「兄さん……」
 薫はゆっくりと起き上がろうとするが、身体中が悲鳴をあげたのだろう。息を詰まらせ、すぐに元の位置へと戻っていった。
 出来る限り優しく身体に触れて、薫を再びベッドへとそっと寝かせる。
「兄さん、どうしよう」
 唇が震え、薫の瞳にみるみる涙が溜まっていく。色白で幼さが抜けていない頬に大粒の雫がすぐに溢れて落ちていった。
「父さんが、とうとう、狂っちゃった」
 こんな時にまで。お前は、どうして、自分の事を後回しにして他人のために泣けるんだ。
 張り付く喉を叱責して深呼吸を一つする。薫の手を取ると、力なくすがってきた。その様子に俺はたまらなく泣きたくなった。
「……病院には、前もって説明しておいた。今回起きたことと、関係あったから」
 薫は長い間、性的虐待を受けていたこと。錯乱して息子を亡くした妻と錯覚していること。俺自身もまた、その虐待に加担していたこと。俺たち家族全員、おかしくなっていること。薫がこんなことになったのは、俺のせいであること――。
「お前の、せいじゃない」
 お前は被害者だ。お前のせいじゃない。俺のせいだから、俺達のせいにしてくれ。何度もそう繰り返し呟いて薫を抱きしめる。薫はとうとう泣きじゃくり、違う、兄さんも、兄さんだって被害者だ、と言った。
「ご、めん」
 俺も涙と鼻水だらけになっていた。謝罪の言葉がつながらない。頼りない身体は熱く、力を込めれば折れてしまいそうだ。何度も乱暴に抱いた時とは違い、体温が行き交う。安心すると同時に俺が守らなければという使命感が、胸の中でジリジリと燃えた。
「本当に、ごめん」
 その使命感は決して息苦しいものではなかった。血がつながった肉親よりも、血の繋がらない弟のほうがずっと、俺の家族であると断言できる。家族がいると言える幸福を失いそうになって初めて気が付くなんて、甘えもいいところだ。
「こんな事が起こるって、簡単に想像出来たのに、あいつらを野放しにして……いや、俺が悪い。俺がお前に八つ当たりし続けただけだ。さっき、親父が言った事は正しい。俺は、俺は本当にダメな奴だ。《ダメ》だなんて言葉で片付けられないくらいに」
 俺は薫から離れて、床に膝をついた。
「都合がいいのは分かってる。ひどい事をしてきた。許して欲しいとは言わない」
 もう出来ることは無い。詫びて済む話ではない。俺だってしかるべき罰を受けて、薫から離れるべきだ。
 それでもこうせずにはいられない。床に額を擦り付けたところで、薫から奪い続けたものが返ってくるわけでも、回復するわけでもない。
「でも出来るなら、薫と、普通の兄弟に戻りたい。お前を、家族として、俺が全力で守りたい」
 しばらく、互いの嗚咽が病室に響いた。遠くで親父の叫びが響いていたが、やがてそれも無くなった。
 リノリウムの床が冷たい。俺の涙が落ちて、みっともなく濡れている。呼気で僅かに曇った床はひび割れていた。
「兄さん、顔を上げて」
 身体を起こした薫が居た。白いカーテンがひらひらと風を受けて舞う。穏やかな笑顔で、薫は俺の手をとった。
「水族館、行こう。シャチ、見たいんだ」
 覚えていたんだ。お揃いで買ってもらった、シャチのぬいぐるみ。俺達にとっての、幸せだった頃の象徴。
「薫、ごめんな、薫……!」
 再び抱きしめ合って、泣いた。これから二人で、家族の幸せを取り戻す。二人でしたいことはたくさんある。取り戻したい、今からすぐに、ずっと、これからだって。

 薫と俺の二人で、生きていく。

 ◆ ◆ ◆

 久しぶりの学校。僕は、風邪をこじらせて二週間ほど入院したことになっていた。実際は目を覚ました二日後には退院していたのだけど、兄さんの勧めもあって長く休みをとった。今までの反動なのか、兄さんは少し過保護になっている。
「行かなくてもいいやって思ってたけど、そうもいかないよね」
 マコトさんへ話しかけるように独り言をいうと、脳内で声が返ってくる。
 今日からなのね、おめでとう。ありがとう、マコトさん。僕ね、兄さんとは仲直りできたよ。そうみたいね、良かった。
 兄さんの友達――だった人たち――に手ひどく犯されて、外に出るのも怖かったけれど心は軽かった。父さんや兄さんに攻撃されることはもう無い。学校の人達からされることは単なる暴力と机の上がひどくなるだけだ。僕自身が削られるわけではない。
 兄さんは正気に戻ったし、父さんは……まだ分からないけれど、少しずつ取り戻していけると信じている。会社は長期休職扱いになる、と兄さんが言っていた。貯蓄の管理は僕がしているから問題ない。当面は困らないだけの額がある。僕が大学に行けるまでの期間程度の額が。
 眼鏡とマスクを外して登校するのは初めてだった。だからクラスへ入った時、一斉に視線がこちらに向くのは予想できた。
「ああ、やっぱり」
 案の定、僕の机の上は酷い有様だった。何もかもが想定通りだなんて、むしろありがたい事なんじゃないか。思わずクスリと笑みがこぼれた。
「あれ、藤井だよな」
「え、……さあ?」
 主犯格が狼狽えている。今ならマコトさんみたいに出来るだろうか。
 マコトさん、中学生ってどれくらいやればドキドキするの? さぁ、試したことは無いけれど、視線を使うのは変わらないと思うわ。じゃあ、やってみようかな。
 真っ直ぐに主犯格に近づいて、足を止める。戸惑いと喧嘩腰の空気が伝わってきたが、兄さん達に比べたら可愛いものだ。
「これって、君たちがしてくれたんでしょう?」
 ニッコリと笑顔を作る。意外と表情はすんなりと動いた。発音だって悪く無い。
「な、何だよ。なんか根拠があるのかよ」
「勘だよ。だって、僕が出席する日に合わせていたずらしてくれたんでしょう? そこまで僕の事が好きな人なんて、放課後に殴ってきた君以外、思いつかないもの」
 明瞭な言葉を発する僕は、以前の姿とは似ても似つかないだろう。ぽかんとするクラスメイトたちの視線が気持ち良い。
「お前、誰だよ、何なんだよ、急に!」
「藤井薫。知らなかった?」
 妖しく挑発的に笑う。いっそ殴ってきたらいい。目を伏せてからゆっくりと開き、足元から腰、胸、鼻を見て、瞳孔を見つめる。
「――……!」
 僕は何もしていない。けれど彼は反射的に後ろへ下がり、僕から距離をとった。正体が分からないものに対して距離を取りたがるのは本能だ。それを見逃さず、彼の懐へ入る。
「片付けるの、手伝ってくれるよね?」
 男の姿で、男に上目遣いして効果があるかは賭けだった。彼の息が詰まる。僕より十センチほど高い背はさして怖くはなかった。
『あらあら、冗談で言ったのに、真に受けちゃったの?』
 困ったように笑うマコトさんの声がする。どうでも良くなっちゃって。やるならびっくりさせてやりたかったんだ。
 そう受け答えをしながら再びニコリと笑うと、彼は黙って僕の机をゴミ箱の側へ持って行き、上に乗ったゴミを滑らせて片付けてくれた。
「……これで、いいかよ」
「うん。ありがとう。君って優しいんだね」
 彼の頬が瞬間的に赤くなっていった。おう、と短く返事をしたタイミングで始業のベルが鳴る。
 今の皮肉だったんだけど、通じないかぁ。子ども相手にやることではなくってよ。はぁい、マコトさん。

 少しだけ形を変えて、僕は世界とやりとりが出来るようになった。

 ◆ ◆ ◆

「なんで、お前が、ここに居るんだよ!」
 《カサネドリ》へ来た僕は、扉を空けるのをためらった。アジカさんらしき声が外まで響いている。
 ただならぬ気配を察知して、ベルが鳴らないよう、そっと開けてこっそり中へと入った。
「あー? 誰かと思えばストーカーの金髪キノコかよ」
 新しい店員さんとどうやらもめているらしい。何故だろう。聞いた事がある声だ。初めて入る人だというのに、どうしてだろう。
 僕はカウンターから死角になる位置で様子を窺う。
「ダイゴさん! なんでこんな人、雇ったの!」
「うちはいつでも人手不足だよ? やる気もあるし、いいじゃないか」
「そーそー。ここのバイト代、結構いいんだよ。嫌ならお前がやれ」
「そうじゃない!」
 飄々と応えるダイゴさん、どこかダルそうに応える店員さん、頭を抱えているのが目に浮かぶ程、動揺しているアジカさん。……何かが引っかかる。
「っていうかお前、マコトさんをどこやったんだよ! かれこれ三週間近く見てないんだけど!」
「ハァ? 誰だよ、マコトって」
「ああもう、カオリさんだよ!」
 その単語に心臓が跳ねた。手が震える。クラッチバックを落とさないように両手で抱えた。
「え……。お前、まさか家の前で張ってたの……? 引くわー」
 家の前? カオリさん? アジカさんとは前に、確かに母さんの時に会っている。もしかしたら、その時につけられていた?
 だとしたら、まさか、アジカさんと話しているのは、まさか!
「アジカくん。そういうのは良くないって、前に言ったよね?」
「ご、誤解っす! マコトさんは水曜と金曜にはだいたいここに来るの! それを見てないって言ってんの!」
 ゆっくりとカウンターへ足を進める。足音に気がついた三人はこっちを見て、まさに三者三様の表情を見せた。
「マコトさん!」
「やあ、マコトさん。噂をすれば、だね」
 目を輝かせるアジカさん、穏やかに笑うダイゴさん。
 そして、目を見開いている、僕の兄さん。
「お前、なんでここに……」
「一哉さん、こそ」
 取り繕った声は出た。危うく兄さん、と呼びそうになったのも堪えた。
 なんでこんなところに。バイトを探すとは言っていたし、家からそう遠くないとも言っていたけれど、こんな事ってあるんだろうか。
 小さく息を吐いて、困ったように笑う。マコトさんが僕にしたように、眉をハの字に寄せた。
「似合わない、かしら?」
 計算外だけれど、今更僕の女装がバレたとしても、兄さんなら上手くやってくれるだろう。わざわざ面倒な説明をしなければならなくなるより、話を合わせてくれるはずだ。
「……いいや。芳さんの時より、ずっとお前らしい。俺好みだよ。マコトさん」
 ため息混じりだったけど、褒められて悪い気はしなかった。ハイブランドの専属モデルのように隙のない笑顔で会釈をする。
「だけど、お前なぁ……。まあいいや。ここに来る時は、俺がバイトに入ってる時だけにしろ」
 思わず、はぁい、とマコトさんらしかぬ表情と声で返事をしそうになった。気を引き締めて、ダイゴさんとアジカさんの方へ向く。 
「今日は、お別れをしようと思ってここに来たのですが……」
 えっ! とアジカさんが声を上げた。目を伏せて悲しげな顔をつくる。……いや、作らずともそういう顔になっていたかもしれない。
「ダイゴさん、まさか、ご存知でしたの?」
「さあ、何のことやら」
 手が届かない、大人の笑顔とおどけた仕草。彼について少しだけ分かったとこといえば、ダイゴさんの表情が大きく動くときは何かを隠しているか、嘘をついている時だ。でもそれを追及しても、何も出てこないのは分かっている。
「僕の名前、知りたくない?」
 夕暮れのライトがダイゴさんの瞳の奥底まで照らす。穏やかで、優しくて、寄りかかりたくなる、綺麗な目。
 えっ、名前? いやアンタがそこ突っ込むところじゃないだろ。あいつらなりに何かあるんじゃねえの。ねぇ君って俺より年下だよね? 何なのその扱い。
 隣でやり取りをする兄さんとアジカさんは案外息があっているのかもしれない。緊張感のない空気に、ふふっと笑いが漏れる。
「本当に、ズルい人……」
 秘めて密する、ひと続きのはずの真珠。ダイゴさんは底が見えない。底があるのかさえ分からない。真珠につられて引き寄せられているのは、僕のほうだ。
 僕にはもう、抱えている秘密はずいぶん少なくなってしまった。
 これから先、本当に大人になった時、素敵な秘密が増えるだろうか。
 イヤリングのフリンジがいたずらに揺れる。
「とりあえず、いつものを下さる?」

 優しい毒は毒ではなくなった。溶けて、僕の色になっていく。



 秘密主義 了