1.


 土の味を知っている人以外、俺を慰めないでください。
 便所水のぬるさを知っている人以外、俺を励まさないでください。
 
「ぐ、ううぅ……!」
 こうして呻くだけでも何かのきっかけになるかもしれない。叫ぶなんて無理。抗うなんて以ての外。火に油を注ぐ、寝た子を起こす……どうでもいい慣用句が脳裏に浮かんで、殴打された痛みによって消えていく。愉快そうに馬乗りになる金本(カナモト)が、悪魔みたいに見える。にやにやとしながら再び俺の頬を平手打ちした。自分の鼻血が飛沫になって頬にかかる。
「おい、モデルに選んでやったんだからさ。少しは笑えよ」
 金本はそう言って、スマホを取り出す。今日の、俺のミッションだ。こいつらは俺に《今日のミッション》と称したおかしな内容を要求してくる。今日の内容は〈写真部の活動として川津がモデルになること〉だった。一見すれば普通の内容だ。だが、ボコボコになった俺の写真を撮るのが目的だった。
 金本も、一緒にいる取り巻き二人も、他クラスにもかかわらず粘着質ないじめを繰り返す。取り巻きが二人ががりで押さえつけてきた上に、殴る蹴るの暴行を加えられた。鼻血のせいで顔もシャツもきっとひどく汚れているに違いない。
 無理矢理に笑顔を作ると、シャッター音が響いた。
「タイトルは〜、オレのトモダチ!」
 ゲラゲラと笑う男三人。視界には三人の汚え笑顔と曇天空模様。視線を動かすと少し離れたところで見張りをしている柿谷(カキヤ)が見えた。助けて、と一瞬思ったが、全てはあいつから始まったのだと思い出す。目が合ったが、あいつの無感動な目が怖い。
「オレはさぁ、お前の写真で個展開くのが夢だから。トモダチとして協力してくれよな」
 俺の鼻血がついた手と指。その間にスマホがあって、さっきの俺が写っている。わざわざ写りを確認させて、同意を得たとかいう説明をつけるためにしている行為だというのは分かっている。それでも、自分がくしゃくしゃに丸められたような姿は強烈に情けなくて、もう出ないと思っていた涙が滲んだ。
 幸い、《今日のミッション》は終わりと宣言され、すぐに解放された。旧校舎裏。誰もいるはずがなくて、汚い笑い声が消えて急に静かになる。しんとした空気に木々の音だとか、鳥の声だとかがやっと耳に入り始めた。何とか這いつくばりながら身体を起こした。息が上手く吸えず、震える手を組んでかがみ込んだ。
「友達……」
 玩具(トモダチ)の間違いだろ。心の中で悪態が出てきて安心する。これすらもなくなったら、きっともう俺は立てない。やっと大きく息が吸えたが、喉に回った鼻血に咳き込んだ。
 旧校舎は今の校舎からずっと離れていて、人気(ひとけ)がない。自転車で十五分ほどだが俺はこれから徒歩で寮に戻らなければならない。金本たちは原チャで俺を追い立て、何かあるごとに走らせるのが常だった。無理に走って肺がひっくり返りそうになっているところに、この仕打ち。口の中に土が入っていると今更気がついて唾を吐く。血と泥が混ざっていた。それを見て、俺はまた少し泣いた。
 写真部にちゃんと所属しているのは、俺なのに。高校生活で、勉強と部活に励んで、友人が出来たらいいな、と当たり前のことを思ってたのは、俺なのに。
 いつになったら終わる? 先生に止めてもらえる? 卒業まで続く? ──……。考えても仕方ないと分かっている。この学校を選んだのは俺だ。親を楽させたいと思って寮にした。学費と施設費の免除がきく特待生として入学した。うちは貧乏だから、あの手この手を使ってやっとここまできたのだ。今までの人生を変えたいと思ったから、ここまで来たんだ。石に齧り付いてでも乗り越えなければ……。そこまで考えてまた「いつまで続くんだ」と口からこぼれていった。

 門限までに戻らなければいけない。大丈夫だ。これで明日になる。夏休みになればきっと少しは変わる。その前にテスト。大丈夫だ。夜は平和なのだから……。
 思考を取り戻し始めるとともに、いつもの癖で指の皮を毟っていたことに気付く。爪の境目のささくれから縦に割いてちぎって、指の皮膚の溝に沿って表皮を剥がして……殴られて血が出るのを嫌うのに、自分で血を出しているのが心底アホらしい。なのに止められない。泥が入ってしまうと面倒になることは分かっている。とりあえず洗わなければ……。そうだ、手だけじゃなく肌に張り付いた血と泥を洗わないと。
 動き出す理由ができたので立ち上がった。
 水飲み場は木々に埋まっているが、機能していると知っている。ふと思い出して、シャツを脱いで様子を確かめた。思っていたほど汚れておらず安堵する。ああ、夏服でよかった。シャツだけならなんとかなる。この程度の汚れなら、すぐに落ちるはずだ。
 蛇口を捻ると、ジュワジュワとした妙な音を立てながら水が出てくる。手で掬って少しずつ汚れを落としていくが、段々面倒になって頭ごと洗う。母ちゃんがジャガイモを洗う時、こんな手つきだったなとか思いながら、とにかく泥を落とすことに集中した。冷たい水のお陰で、沈鬱な気持ちが少しずつ晴れていく。

 朽ちかけた柵に野生化した朝顔や紫陽花が、すくすくと育って青々としている。曇天ではあるが、梅雨入りしているので季節らしいといえば季節らしい。旧校舎の古めかしい雰囲気は厳格さと不気味さを持っていて、一人でいる分には好きな場所だ。雨が降らなくて良かった、と思いながらスマホで一帯の写真を撮る。人生の中でほとんどがいじめにあっている俺だとしても、自然は常に変化していて、その中にいれば俺だって毎日違うところがあるんじゃないか……と思えてくる。
 
 シャッター音ごとに思う。
 変わらない。俺はこの先、まともに生きられるのだろうか。
 親父が不倫さえしなかったら、両親が離婚しなかったら、母ちゃんにできる楽な仕事があったら、頼れる人がもっといたら、俺がもっとできるやつだったら、俺がもっと周囲に愛される人格だったら、……きっとこんな人生ではなかっただろう。記憶が正しければ幼稚園から今までずっといじめられている。幼稚園はおもちゃを投げる的にされて、小学生の時には川津菌がうつると言われて、中学生の時は全クラスから無視されて、すれ違いざまに悪口とバレない程度の暴力を加えられて。人生変えたくて地元から離れたのに、高校生になった今、もっともどん底にいる。
 
 土の味を知っている人以外、俺を慰めないでください。いつか良いことがあるっていうけど、俺の人生に「良いこと」なんて数えるくらいしかないのに。数える程度の頻度しかない「良いこと」のために魂を削ってきたのなら、これが地獄でなければなんなんだ。
 便所水のぬるさを知っている人以外、俺を励まさないでください。頑張り続けていればいつかは! と言うけど。今、この瞬間に救われたいのになんで「いつか」のために頑張らなければならない? 今救われたいから頑張っているだけなのに、これ以上何を支払えばいい? ただでさえ家に金がなくて、持っているものは学校のものとスマホくらい。気合いと根性で飢えと貧しさを乗り越えてこの学校に入ったのに、これ以上、一体何を?
 
 また気がついたら皮膚を引きちぎっていた。長めに剥がせると妙な爽快感があって、皮膚の上に覆い被さった不安が一緒に除去されているような気分になる。血が滲んで、表皮一枚めくった柔らかくてつるんとしたところを触ると、神経がより近いためか自分の輪郭に直に触れているような感覚もあった。
 こうでもしなければ、自分を保てないような状況って一体何なんだ?
 「う、ぇ゛……!」
 胃がきりきりと痛んでえずく。食わないと。仕方ないけど生きるために。親にはうまくやっていると伝えないと。自分で生きていけるって言わないと。そのためには、食わないと。その気持ちを保つために、撮らないと。

 大人なりたてのカナブンがいたので、その写真を撮ってから寮に帰ることにした。