2.


 入学してしばらくは平和だったんだ。
 
 四月からの新生活は胸が躍った。特待生として入学することができて、新しい人生の始まりだとさえ思っていた。仮入部を経て写真部に入った。部活は必須だったが文化部も多く、男子校でよくある《運動部でなければ人で非ず》みたいな雰囲気があまりなかった。居心地も良かったし、同じクラスで友人になれそうな人も居た。昼飯を食堂で食べる人も。
 柿谷は出席番号順で俺の前だったので、始まったばかりのクラスでも互いに顔を覚えたのは早かったと思う。背が高くて垢抜けていて、持ち物がおしゃれに見えた。
『こういう人だからおしゃれっぽくなるんだろうなぁ』
 自分とは違う人種だとすぐに分かったので喋ることはなかった。だが、入部締め切りの当日に、写真部に入ってきたので驚いた。おしゃれな人は写真やってることもあるもんな、という程度の印象に変わって、軽く会話する仲になった。
 写真部は三年生が三人いるだけで、二年生はその場に居なかった。とても歓迎されていたと思う。ささやかだったけれど歓迎会を開いてもらったし、写真についての話で盛り上がった。文化祭での発表さえすれば十分な活動として認められるらしく、ゆるい部活動内容であるため、二年生の部員は普段あまり来ないということだった。節目ごとに顔を出すようには言っているから、そのうち顔合わせをしようという話にもなった。
 この時に、柿谷も寮生であることを知った。寮の中でも顔を合わせればなんとなく話すようになっていた。近い距離ではなかったけれど、タイミングが重なれば、食事や登校を一緒にするようにもなった。同じクラス、同じ部活の友人ができたかも、とほんの少し、嬉しくなっていた。
 
 本入部してすぐ、先輩から「学校の敷地内で、良いと思ったところを写真で撮ってくること」と課題を渡された。学校の機材でもスマホのカメラでもOKとのことだったので、俺は学校の機材を使った。古いかもしれないが、俺の家庭では手が出せない金額の代物なのは間違いなかったし、自分のスマホカメラは貧弱だったからだ。柿谷とは別行動になると思っていたが、意外なことについてきた。会話は少なかったが、世間話はした気がする。この頃は決して険悪でなかった。
 二人で一番高い場所になるところを探して、結局屋上では? ということで向かってみた。鍵が空いていなかったので、屋上が見える窓枠を絵に見立てた構造になるようカメラを構える。物理的なシャッター音がして、胸が弾んだ。
 ほぼ同時に、後ろから軽快な電子音がした。柿谷が俺の後ろ姿を撮っていた。つまりは、写真を撮る俺の姿を撮影している、という絵になったはず。思わず「それでいいのか?」と問いかけたが、「これがいい」とシンプルに返答された。おしゃれな人は何がいいのか分からない、と思ったのも覚えている。部室に帰ると、先輩たちがデジタル処理の方法や額装までを教えてくれて、三日後には写真部新入生の作品として掲示された。《川津千芳(チヒロ)》《柿谷宇深(ウミ)》と氏名まで掲示されてあって、なんとなく照れくさい気持ちがした。柿谷の目線で撮られた俺の後ろ姿は、俺の目線よりもずっと高いところで捉えられてあって、新鮮だった。
 
 順調だと思った。
 
 ゴールデンウィークが明けてしばらくした頃――街に出て活動する話が上がりはじめた頃であったとも記憶している――、柿谷が金本を連れてきた。部活に入っていない友人を連れてきた、という体だったが弱小写真部に素行の悪い存在が入ってきたら……。悪い想定が走り、実際それは現実になった。金本をはじめとするグループが、溜まり場として部室を使い始めた。居心地の良かった部屋には煙草の臭いが立ち込めた。先輩は夏には引退の予定だったのを前倒しにしてしまった。二年生の顔も名前も知らないまま、事実上、入部したての俺一人を残して写真部は瓦解した。
 そのまま俺も幽霊部員になって消えれば良かったが、金本に目を付けられた。柿谷は、俺に及ぶ被害の数々をひたすらに傍観していた。
 
 クラスを跨いだメンバーからいじめを受けている状況になれば、学年全員から遠巻きにされるのは当然だった。昼食を食う友達も、選択授業で一緒に移動する人も、すぐにいなくなった。
 
 だから、体育でペアになる必要が出てくる今みたいな状況が、まさにストレスになる。
 プールか器械体操の選択授業だった。水着姿になることへの抵抗感と、悪ふざけで溺れさせられそうな危険を感じて、消去法で体育館行きになった。体育の種目自体はまだ良かったが、最も嫌な瞬間は準備体操だ。
「川津」
 柿谷が俺を呼ぶ。金本やその他のメンバーに比べたら、柿谷は積極的な加害をしないし、可笑しなあだ名で呼ぶこともない。だが、とてつもなく冷え切った目で俺を見てくる。好意的でないことは明らかで、わざわざ俺をストレッチの相手に選ぶ理由が分からない。柿谷はあえて一人で過ごす事が多いが、俺のように爪弾きにされているわけではないから、他の誰かでも良いはずなのに……。とはいえ、俺に別の相手が見つかるわけもないし、惨めにも先生と組むことになるよりはマシに思えてしまう。
 柿谷が先にストレッチをする。床に座った状態で足裏を合わせて体を前に倒す。俺はその後ろから背中を押す。たったこれだけの普通のことが、俺には恐ろしくてたまらない。何かされるのでは、何か起こるのではと怯えてしまうのは仕方ないんだ。早く終われ、と強く念じる。
 交代となり、俺も同じようにストレッチをしようとした。
「《今日のミッション》」
 ぼそりと呟かれて背筋が寒くなる。足裏を合わせた姿勢になろうとしていたところだったが、脚を伸ばした状態で開かされた。
「い゛……!」
 遠慮なしに押される。そればかりか、背中に覆い被さられた。唐突な痛みが脳天を抜けていった。
「〈きちんとストレッチすること〉」
 柿谷はミッション内容を読み上げるように淡々と囁く。容赦なく力を込められ、太もも裏が無理矢理伸ばされて強い痛みが一層強く走り、息が止まる。膝が浮き、腹筋や背中と腰も酷く突っ張った。咄嗟に手を床について抵抗しようとしたが、両手を掴まれて自分の足先の方へ持っていかれる。柿谷の身体の下で、抵抗がろくにできない姿勢にされて、柿谷の重みで潰されていく。
「ひ、ぃぎ! い、……!」
 筋肉が引きちぎれる! 経験したことのない痛みが目の奥を引っ張っていく。生理的な涙が頬を伝い、短くて浅い呼吸を繰り返した。口を締める余裕がない。垂れていく涎と涙が体育館の床を濡らしていく。床の木から微かに体育館シューズのゴムの臭いを感じたが、自分の身体と柿谷ので影になり、目の前が真っ暗になった。
「無理、無理! 本当に無理!」
 ぐっと強く手のひらで押されたかと思うと、俺の両腿の内側を柿谷の足が押さえる。脚を閉じようとしても柿谷の足が邪魔で閉じることができない。肩甲骨あたりを押されてしまい、手で起き上がろうとしても自由が利かない。身体の仕組みを分かり切っている押さえ方で、俺は悲鳴じみた声を上げた。
「うぁ、ああぁ! いぁ、い゛だい……!」
 ぎちぎちと身体が強制的に伸ばされていく。筋繊維が引きちぎれて、腿から爪先まで裂けていく! 千切れていく錯覚に陥り、とにかく逃げようとして顔を上げた。床の木目がすぐそばにある。顎が床につくと、拘束を一気に解かれた。
「……っ、はぁ! あぅ、ううぅ……!」
 一気に緩み、息を思い切り吐いて吸う。無理に伸びた脚は拘束が解かれてもすぐには動かせず、芋虫みたいに蠢くことしかできなかった。
 軽快な電子音。俺の無様な姿を被写体に、柿谷がスマホで写真を撮影したと分かったのは、少し後になってからだった。
「《今日のミッション》は終わり。よかったな」
 何が? と聞く勇気はない。浅い呼吸のまま睨みつけると、涙と涎まみれになった俺を、更に冷たい目で見下してきた。お前がやったくせに、何でそんな風に見るんだ。どうして。俺、何かしたか? 登下校していた時、少しは仲良くなれたと思っていたのは、俺だけだったのか?
 柿谷は俺を置いてさっさと立ち去っていった。器具の準備が始められている中、俺は一人でうずくまったまま。周辺からの冷やかしめいた笑い声がして、自分だけに季節外れの雪が降り積もるようだった。

 ◆ ◆ ◆

 柿谷から受けた《今日のミッション》のせいで、放課後になっても脚の痛みはなくならなかった。骨盤が壊れたかと思うくらい横に広がったような奇妙な感覚があり、違和感と戦いながら歩く。
 今日は絡まれないための対策として、放課後は食堂に行こうとしていた。それなりに活気があるのを知っていたからだ。図書館に行くほどではないが、誰かと勉強したい人。早めの晩御飯だと言って採点をしながらカレーを食べる先生。そういう人が三々五々にいて、安全かもしれないと思ったのだ。規律にうるさい学校だが、裏を返せば決まりを守っていれば比較的緩やかに過ごすことができるようになっていた。金本が好き放題する人間だとしても、上級生や先生もいる食堂で大っぴらに何かしてくることはないはずだと踏んでいた。
 だが、その食堂へ行く前に捕まっては結局無意味だったりする。
「も、今日は終わりだって……!」
 金本から《今日のミッション》だと殴られて、教室後ろのロッカーにぶつかる。他クラスの人間が入ってくると先生に厳しく言われるのだが、担任はすでにいないし、同クラの連中は足早に立ち去ってしまった。金本の後に続いて取り巻き二人がにやにやとしながら、俺の脇腹を踏んだ。口からみっともない声が漏れる。
「ちーちゃんは分かってねぇなあ」
 金本が、侮蔑を込めたあだ名で俺を呼ぶ。千芳という名前に由来していることは間違いないが、それだけではない。影送りして遊んでそう、とか。貧乏すぎてそれくらいしかすることがなさそう、だとか。一人遊びするくらいしか趣味がなさそう、だとか。そういう浅くてしょうもない侮蔑だった。
 ふざけた言い方で恐れるに足らないと頭でわかっているのに。そのあだ名が、犬猫みたいな愛玩動物以下の、人間扱いではないことを指す意味があると理解しているからこそ、そう呼ばれただけで俺の手足に枷を嵌められる感覚になってしまう。
「オレへの《今日のミッション》がまだでしょうが」
 蛇みたいな目が愉快そうに歪む。
 分かっている。俺に直接の原因なんてない。手頃なところに転がっていた、害しても問題がない玩具(トモダチ)と見做されただけ。ただ、俺があまりに頼りなくて、その《害していい存在》に選ばれるだけの雰囲気を纏っていたことが、間接的な原因だってことも。だから、「いじめられる側にも原因がある」と言われれば反論できない。通常、《害していい存在》がいたとしても加害すること自体、理性ある人間だったらしないことが大前提だとして……、社会にはそうでない人間が多くいるのも事実なのだから。
 理屈として分かっていたところで、再び《今日のミッション》を課せられることは心が持たなかった。
「柿谷、柿谷が。写真だって撮ってた。どうせ、共有されてるんだろ」
 狼狽える声になったけれど、本当にもう限界である証拠だった。
 毎日、毎回、毎度。肉体的にも精神的にも、ひどくダメージを負わされることがほとんどだった。上履きと外履き両方を隠された時を思い出す。昇降口に裸足で立たされた上に、目の前を通る人全員にデカい声で「さようなら」と言う《今日のミッション》を課せられた。たったそれだけ? と始めは思った。だが、耐え難い羞恥の姿を晒すに等しいことであると、すぐに思い知らされた。見ず知らずの他クラス、ガラの悪い上級生、清掃業者のおじさん、……。訝しげな目で見られ、その視線に晒されることは、雪山に全裸で放置されるに等しかった。全身を襲う寒気に震えが止まらなくなったことは、当分忘れられない。
 もとより人見知りの俺が自分から他人にアクションすること自体が苦痛だった。そういう、俺の性質を見抜いた上で《ミッション》を課してくるのだ。
「も、いやだ」
「なんだぁ? 今日やたら抵抗するじゃん」
 柿谷の《今日のミッション》のせいで、いつもより余計に身動きが取れない。後退ろうとしても芋虫みたくもぞもぞと動いただけになったが、惨めっぽい動きだったせいが金本は急に機嫌良さそうな声になった。蛇の目が何かを思いついたのか、きゅうっとしなる。俺には降りかかる災厄の前兆に思えて、身体が震える。
「な、何」
 胸ぐらを掴まれたかと思うと、襟を開かされた。ボタンが飛んでいった音がやたらと耳につく。軽薄な音が転がって遠ざかっていく。
「いちいちウルセェなあ。ストレス溜まってんの? カラオケとかいけねーしなぁ。ここの校則マジだるすぎ。わかるよな、ちーちゃんなら」
 馬鹿らしいことを紡いでいるだけなのに身動きが取れない。柿谷が廊下にいたのを視界の端で捉えた。助けてもらえるわけがないのに。何度も同じ考えがよぎること自体に嫌気が指して、ぎゅっと目を瞑る。
「〈大きい声を出しましょう〉」
 場違いに明るく朗らかそうな声音なのが一層恐ろしい。金本の拳が飛んでくると思って身構えていたが、違う種類の痛みが走った。殴られるよりも、ずっと、ずっと強い痛みが。
「ッ――!? 、あ、あああああ!」
 口から勝手に叫び声が出ていった。飛び上がるほど痛い! じたばたと藻掻いたが金本に抱きつかれて何もできず、ギギギと軋むような傷むような音を聞いた。
「痛い! いあ! うあぁぁ゛、ぁああ!」
 首を強く噛まれているのだとわかったのは、金本の髪がちくちくと頬に刺さって、息やよだれと思しき生温かさが漏れて来てからだった。目の前に稲妻が走り、目を開けていられなくなる。
「めっちゃ泣くじゃん。ウケる」
 突き飛ばされるようにして解放され、文字どおり転げ回った。だくだくと堰を切ったように涙がこぼれていく。痛みの元を手で押さえた。金本の唾液で首がぬめる。じんじんと熱を持っていて、絶対に歯型だけでは済んでないと確信する。一刻も早く消毒したい。脂汗が絶えず滲み続け痛苦に目眩がした。
「まっず」
 ベッ、と吐き捨てられたのは血と唾がまざってピンク色になったベタつく泡だった。傷口はきっと今、グジュグジュになっていて、金本の口から菌が入って……。そう考えると、とてつもない嫌悪感が鳥肌になって襲いかかってくる。居ても立っても居られず、俺はたまらず走り出した。

 下卑た笑い声のトンネルを、みっともなく叫びながら抜けた。

 ◆ ◆ ◆
 
 こんなことばかり、何で俺に起きるんだ?
 
 走って、走って、とにかく遠くへと思って居たのに、結局来たのは旧校舎裏だった。無理矢理走らされたりぼこぼこにされたりする因縁の場所だと言うのに、思いつくところはここしかなかった事実が絶望に拍車をかける。
 思考が止まらない。爪も指もボロボロだって分かっている。それでも止められない。
 拳を握ると爪の角に接した指の皮が他よりも硬くなっているのが気に障る。異物のように感じて引きちぎる。そのささくれを引っ張って指紋の溝に沿って皮膚を剥がす。指で感じる凹凸は引っかかりになって気になる箇所を生み出す。人差し指で親指を、親指の腹で人差し指の角を。感じ取った段差をなくすように、また皮膚を剥く……。
 この行動に意味なんてない。強いて言うならば、ストレス発散だとか、べろんと剥けた時の爽快感が目的だとか、そういう風に言語化されるだろう。だがそんな良いものではない。自滅に向かうことで今の無事を確かめているに他ならない。ああ、まだこんなに剥がれるものが俺にはまだあったのだ。剥がしたものが大きければ大きいほど、自分にへばりついた不安が刮げ取られていく。
 俯いたままその行為を繰り返すうち、地面の一帯に指の皮が散乱していた。自分から離れた自分だったものの一部。ゴミのよくに散らばる光景は、不潔で目を背けたくなる散らかり具合だ。
「こんなもの、……!」
 土の上に白っぽい皮膚片が浮いて見える。いずれ土に吸収されるだろう。雨ざらしになってどこかに流れていくだろう。いくら散らかしても何にもならない。無意味さを繰り返している自分をそのまま表しているようで、どうにもならなさに打ちひしがれた。

 荒くなった呼吸に歪んだ視界。何とかゼロに戻そうとしているうちにピントが合い始める。その中で、うろちょろとする黒いものがいた。
 蟻だった。
 散らばった俺の皮膚片のいくつかを観察しているようだった。蟻は自身の頭より大きい欠片の一つを選んだらしい。顎で掴んで、運んでゆく。
「……、…………」
 俺はそのまま導かれるように蟻のいく先をついていく。涙は止まっていた。蟻の姿――よろめきながら、皮を落としそうになりながら、懸命に運んでいく――に、夢中になった。
 やがて、それは巣穴に運ばれていく。その頃には、俺の皮膚という感覚はなく、俺から出た餌としていく先を見つめていた。
 しばらくして、蟻は仲間を引き連れて散乱した皮膚片の全てを運んでいった。大きく剥がれたものは三匹がかりで持ち帰られていき、地面にはただ、地団駄を踏んだ後だけが残った。
 綺麗さっぱり、散らばったものは片付けられた。いや、正しくいうならば、俺の皮膚は蟻の懸命な運搬によって食糧として持ち帰られた。その事実は、土に溶けるよりも水に流されるよりも、より原始的な欲求を満たし、何かが高まる心地をもたらした。
「…………、食糧……」
 俺から出た不潔な指の皮が……、あいつらにとっては冬を越すのに必要な食糧になる……。
 
 あんな汚ねぇもの、頑張って運んでくれちゃってんだ。

 俺の中で何かが迸り、胸の内側が喜びに似た何かで満ち溢れていった。
 自然の中の循環やサイクルのようなもののなかに自分がリアルに取り込まれたような感覚。言いようのない安寧を腹の奥に突き立てられたようにも感じられた。

 ◆ ◆ ◆

 蟻をじっと見つめて観察する姿は、誰かに見つかれば奇妙に映るだろう。自分でもキモいことこの上ないが、今までの人生で経験したことがないくらい、のめり込み始めていた。
 血が滲む指に無理矢理貼った絆創膏を剥がす。ふやけた指先は凸凹がより分かりやすく浮き出ていて、大きく捲れそうなところが浮いて見えた。血は止まっていて瘡蓋になりかけているところもあり、指の腹でそろりと触ると、その中でも硬くなっているところが棘や鱗のように引っかかった。爪と指の境目に、白い筋状になったものが見える。爪が小さく割れている箇所を外側へ引っ掻き出すと、棘のように鋭い先がこちらに向いた。強めに引っ張ってちぎると、ささくれて溝や段差になった皮膚の境目に血が通う。留まりきれなくなった血がぷつぷつと浮いて指先から落ちていった。地面に血が溶けるのを何となく見てから、引きちぎったものを蟻の目の前に置いてやる。血がついたそれにすぐ気がついて、黒い真面目虫はしっかりと咥えて勇者の凱旋のように巣穴へ戻って行った。
 蟻って、雑食なんだなぁ。
 彼らが虫の死骸を巣穴に運んでいくのを見たことがあったはずなのに、イマイチ理解していなかったように思う。血がついた俺の皮を持っていった事実に、あれは血肉も食う虫なのだと実感する。
「……全部、お前らにあげられたらいいのにな」
 こいつらの食糧になること。一体どこに、何の魅力を感じているのかは自分でも不明だ。ただ単に、土の上にゴミや埃に見紛う皮膚の塵を撒くよりも、ずっと満たされることは確かだ。自分のような無意味そうに見える存在でも、皮膚一片が何かの命をつなぐ栄養になり得る……。そういう安心感からもたらされているのかもしれない。
 金本の噛み痕をさする。ひりっとした痛みが未だに走る。傷口はふさがったけれど、痕は薄っすらと残っていた。
 
 金本に噛みつかれてから、少し変化があった。金本の取り巻き二人が、俺のいじめに加わらなくなったのだ。理由はわからない。噛みついた金本に引いたのか、何か金本が指示したのか……。詳しくは知るよしもないが、逃げなければならない相手が減ったことで少し負担がなくなった。
 その変化もあってなんとかテストを乗り切って、特待制度の条件である点数を保持できた。授業の合間に行われる《今日のミッション》は歯を食いしばって耐えている。短時間かつ教室内でやれることなんて、殴られるくらいだからと折り合いを付けた。昼休みや放課後に課せられる《今日のミッション》は特に苦痛で長時間に及ぶものなので、集中して逃げ回っている。夏休みになるのを指折り数えていればきっとすぐだ。
 あと二週間足らずで夏休みになる。閉寮は八月から。だが、やむを得ない理由で帰省できない場合、近隣の宿泊施設を用意してもらえることになっている。経済的な理由も加味してもらえたので、夏休みに入ってしまえば少しの間は平和になる。そうだ、宿泊費は学校や県から出ると聞いているけれど、食費は自己負担ということになっているから、アルバイト先を探さないと……。
 
 きっと、今も、金本は俺を探し回っている。校舎や食堂、図書館をくまなく探しているだろう。引きずり出して、旧校舎裏に無理やり連れてこようと躍起になっている。けれど、俺は自ら旧校舎裏に来て、優雅に蟻の観察。金本のことなんか考えずに夏休みの楽しい計画に思いを馳せている。その構図が滑稽で、一人でくすりと笑う。

 暑くなってきた気候に汗が浮く。見つめる黒虫のそばに、顎から伝った一滴が落ちていった。
 
 ◆ ◆ ◆

 小雨が降る土曜日。ちょっとした実験をしてみたくなって、俺は浮足立っていた。窓を叩く雨のシトシトとした音がおしゃれなBGMに聞こえてきてしまうくらいに。
 透明なプラケースで蜘蛛を一匹、飼うことにした。旧校舎裏の鬱蒼とした藪で見つけた、半透明で乳白色の蜘蛛。よく見ると体と足の節に斑点模様があって、つぶらな瞳が可愛らしい。今まで、虫に対して特別思い入れがあったわけではなく、むしろおぞましいものに見えていたのに、自分が飼うと決めると途端に可愛く思えてしまうから不思議だ。もっと本格的な設備が必要なのかと思っていたけれど、ネットで調べてみたら手のひらサイズのプラケースだけで十分に飼えるということを知った。念のため、と寮のキッチンからキッチンペーパーをもらって、湿らせたものをペットボトルのキャップに詰めて設置した。
 俺はわくわくとする気持ちが抑えられなかった。予め、自分の血を吸わせた蚊を別のケースで採取しておいたのだ。何匹かは潰してしまったし、刺されたところは痒いし。手間暇とちょっとした犠牲を払ってでもなお、やってみたいことがあった。
「さて、食べるかな」
 弱りきっていたが、蚊はまだ生きていた。俺の血を吸った蚊。そっとつまんで蜘蛛のケースに入れる。徘徊型の蜘蛛はもぞもぞと動く蚊に気づいて、すぐさま飛びかかった。捕らえた蚊を、前足で器用にくるくると回し、がぶりと獲物にかじりつく。頭から食べていくのかな、と観察していると、どうやら眼から食べているらしかった。俺の血を吸った蚊の腹はパンパンになったまま。ばたつかせていた足の動きはやがて鈍くなり、生き物から餌に変わっていく。命がゆっくりと止まっていって、少ししてから、蜘蛛は餌の腹にかぶりついた。
「わ、やった、……!」
 俺の血液が、そのままダイレクトに啜られていく。蜘蛛は乳白色の体を少しずつ桃色に染めていく。俺のヘモグロビンで、酔っ払ったように赤くなっていく。彼……彼女? 自身が愛らしい色に変わっていく。文字どおり、血の通う色になっていく。可愛くて仕方がなくって、言いようのない達成感が満ち溢れた。
「へへ、……」
 これが、どういう感情なのかわからない。だが、殴られたり、無視されたり、《今日のミッション》で与えられている苦痛すべてを吹き飛ばすほどの威力であることは間違いない。
 血を分けた相手が目の前にいる。まるで他人のように思えず、格別の愛着が湧いてしまった。

 自分の皮膚を食った蟻をこの子に食わせてみよう。この子が死んだら旧校舎裏の蟻にあげよう。あるいは、……この蜘蛛をくった鳥を猫にやってみようか。いや。だったら。自分の何かを直接鳥に食わせたほうが早いか。猫に直接食ってもらうなら、それなりの塊をあげることになるだろうから、……もっと、考えないとならないかもしれない。
 
 夢が膨らむ一方で、「これは違う」と感じるものも出てきた。
 自分の腐った死体を鳥に啄まれたい訳では無い。自分はそれを見て楽しみたいのだから、自分の意識がない状態でそんな風になっても嬉しくない。
 それに、なんというか、虫はそのまま自然に食べることが普通なので違和感はない。だが鳥も猫も、自分の中では「調理・加工済みの餌」を食べているイメージが強いせいか「自分という腐肉」を食べてほしいわけではない。新鮮で、できたてで、つまりは「さっきまで自分だったもの / さっきまで自分の中にあったもの」を摂取してほしい……。
 かと言って、俺がゲロったものを食われても嬉しくない。それは気持ち悪い。食べたものを戻してもそれは自分に吸収される前のもの。自分のものではない。もちろん、排泄物を食われることも違う。それは終わってる。消化済みのものをどうこうされても、思うことは何もない。むしろ嫌悪を感じる。
 
 自分だと感じられるもの。遺伝子? そういうものが含まれているのが良い。血液や皮膚は、きっとこれに該当する。
 自分だと分かるもの。臓器? そういう塊でパッケージングされたものであればわかりやすい……。例えば目玉。鳥が巣に持ち帰ったら? 猫が前足で転がしていたら? ……きっと興奮する。
「変態かよ」
 俺の右後ろで、蔑む自分の声が聞こえる。分かっている。今、目の前にある状況は他人に明かして良いものではないと。
 これは遊びだ。矮小な俺でも楽しめて、全能感を味わえる遊びを見つけただけなんだ。
「虫に食われて悦ぶとか、本当に終わってる」
 そうだ、俺はもう、終っている。終わりの始まりに突っ込んでいっている。
 良いじゃないか。人生を変えようと思って一念発起して、その努力を継続するために一時的に人間として終わっていたとしても、それを知っているのは自分ひとりなのだから……。
 終わっていて、キモくて、それでいて、今人生で一番充実しているのだ。雨に隠して、目を瞑ってしまえば何も起きていないのと一緒だ。俺へのいじめだって、……みんなが目を瞑ってしまった結果だ。俺でさえ、そうしているのだから。だから、この世界に俺がいじめられているなんていう事実、起きてない……。

 蜘蛛の小さな瞳がこちらに向いている。
 せがまれているような、責められているような、同時に許されているような。