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 夏休みに入ってすぐ、帰省組とお迎え組で寮はいっとき賑やかになって、すぐに静かになった。金本からの積極的ないじめ、クラスからの消極的ないじめのどちらも受けることなく、俺は日々安寧に満ちた生活だ。蜘蛛とも仲良く過ごせてとても快適だった。
 課題も山盛りだされている。熱心な特待生として完璧な出来になるように取り組んで、七月中に片付けると決めた。幸先のいい夏休みスタートだ。
 梅雨も明けて、時々激しい夕立があって、夏らしい気候に少し嬉しくなる。暑い季節は苦手だけれど、窓から眺める空の色だとか、植物の変化だとかは好きだ。簡素な机の上、課題を脇に寄せて、頬杖ついた姿勢で外を眺める時間が好きだ。惨めさをゆっくりと、染み抜きしていく心地がするから。
 スマホのカメラで目の前を切り取る。蜘蛛と旧校舎裏、自室からの景色が、俺のほとんどのメモリーだった。午前中の太陽光が個人的に好きだ。明るくて、自然で、何を撮っても爽やかに見える。

 夏休みに入る前から、することがたくさんあった。
 寮の食堂では調理師さんがいて、朝と晩に食事が提供される。寮には共同キッチンもあるので自炊しようと思えばできるが、寮そのものが七月いっぱいで閉まってしまうのだ。八月からは学校が用意してくれる宿泊施設で過ごすことになっている。閉寮するまでは飯に困らないが、宿泊施設滞在中の食費は自腹になる。その間の飯代を稼ぐため、アルバイトを決めなければならない。学校からアルバイトの許可証を発行してもらい、未成年に不適切なアルバイト先でないことを示すために、追加で申告も必要になる。しかも夏休みの間だけの特例なので、短期アルバイトとして探すことになる。その上、滞在中は二十時が門限として定められているため、必然朝から夕方のみのシフトに限られてしまう。制約の多い条件で見つけづらいが仕方ない。いざとなれば学校から斡旋してもらえるが、少しでも条件がよいところを見つけたい心情だった。
 ガソリンスタンド、薬局、コンビニ、飲食チェーン店……。飯のことを考えれば、まかないがあるところが望ましい。面接をいくつか受け、定食屋に決まった。夜は飲み屋になるようだが、地元住民に知られている店だったので問題なく通り、七月末から働くことが決まった。
 
 テスト終了とバイト探しのヤマを超えたのはほとんど同時期だったので、余計に気が抜けていたのだ。課題に区切りをつけ、癒やしのひとときを得ようと、蜘蛛の入っているケースをそっと覗き込んだ。今朝取ってきた餌はすでにおらず、蜘蛛もゆったりと休んでいるように見えた。
 俺はほんの少し、虫に詳しくなった。乳白色の蜘蛛はアズチグモというらしく、別段珍しくもない蜘蛛だ。斑点模様が個体差であるらしい。餌は外から手ずから取ってくると決めていた。俺の血を吸わせた蚊の他に、蝶や蛾を与えた。小さな体なのに、自分の何倍もある虫でも平らげてしまうのが見ていて気持ちよい。俺の血液で柔らかくて温かそうな色になるのが、何回やっても可愛く思えた。
 
 俺と蜘蛛しかいない時間。静音のカメラアプリで蜘蛛を撮影したり、SNSで呟いたり。緩やかな一人の時間、最初は空耳だと思った。そうでないのなら、別室の音かと思った。コンコン、トントン、と繰り返し扉をノックする音がする……。
「ど、どちら様……?」
 ドア越しに声をかけても、再びノックする音しかしない。金本ではないはず。寮生でなければオートロックのエントランスに立ち入りができないようになっている。だから、ひとまず校内の人間だろう。不審者ではないはず……、と思い扉を開けた。
 隙間から覗くのは、内履きなのに高そうでおしゃれな、スポーツブランドのスニーカー。スラッとした長い脚を包む濃いめのジーンズ……。学校生活で下ばかり見ていた俺は、この時点で相手が誰であるか分かってしまった。勢いよく顔を上げると、見知った人間がそこにいた。
「か、柿谷!?」
 何の用事なんだ、という間もなく、無言のまま入ってきてベッドの上に座った。寮に自分以外の生徒がいると思っていなかったし、ずかずかと上がり込んできた者への対応に迷ってしまう。
「何、しに来た?」
 警戒心をあらわにするが、侵入者はお構いなしといった風で、軽く手招きされる。いや、ここ俺の部屋なのに、なんでこいつに招かれなきゃならないんだ。緊張が走るとどうでも良いことを脳が気にするらしい。ゆったりとしたハイネックTシャツから伸びる腕の先、差し出されたのはクラフト紙の封筒だった。封筒の表に、柿谷の字で『-4月 校内-』と書かれてある。
「えっと……。これを、渡しに来ただけ?」
 戸惑いを隠せないまま、そう尋ねる。柿谷は積極的にいじめに参加はしていない……と思っていても、体育の柔軟の時に度々同じような嫌がらせをしてきたし、監視と傍観に徹する性質で陰湿な人間という印象だった。奴は何も言わないまま、瞬きをするだけだった。
「えー……と、あり、がとう……?」
 何を言えばいいか分からず、差し出された封筒を受け取る。中身はゴールデンウィーク前に撮影した写真だった。写真部としてかろうじて活動していた時の、柿谷が撮影した何枚か。俺がところどころに写っている。なんでこの写真を俺に……? と疑問が湧く。写っている本人にも渡しておこう、というニュアンスで渡してきたのか? 撮られた覚えがないものばかりだったが、一緒に校内を回った時のものだろうと察した。
 受け取ったものをまじまじと見て、もう一度、礼を言ったが、柿谷は動く気配がなかった。こういう時――クラスメイトで、寮が同じだが、いじめを仕掛けてくる一派である相手に対して――、どういう会話をすれば良いのかが分からない。奴が身につけているシンプルなネックレス、中指に嵌められた指輪……。そういうものが目に入るが、仲が良いわけではない相手に何かを褒めたりするのは絶対に変だ。そもそも朗らかに会話をする必要がないのだから、さっさと帰ってほしい……。だが、「出て行け」といえるだけの根性が俺にない。
「……これから、出かけるんだよな?」
 おしゃれにしているんだし、と付け足す。早くここではない何処かに行ってほしい。遠回しにそう促したつもりだったが、フッと軽く笑われた。
「別に。暇だったから」
「あ、そう……」
 じゃ、なおのこと帰れよ。簡単にそう言えたら楽なのに。とりあえず柿谷の前を通り過ぎて、写真を勉強机の上に置いた。なんとなく、蜘蛛のケースが見つかるのは嫌だった。何を言えば帰ってくれるんだろう。途方に暮れてしまいたくなるが、何か言わないと、と喉を振り絞る。
「俺の部屋、何もないから……」
 だから早く帰ってくれ、と言外に含むつもりだったが、柿谷は無遠慮に俺の手首を掴んできた。その瞬間、きゅうっと俺の心臓が縮み上がっていく。汗が吹き出して、恐怖で身がすくんだ。
「っ、何……」
 振りほどこうとしたが、座ったままの柿谷は下に引っ張るように力を入れる。反抗らしい行動ができないまま、あっさりと体勢を崩した。
「ぅわっ!?」
 俺は恐怖の只中で、食事をする時の蜘蛛を思い出していた。身体の一部を手繰って、胴を捉える動き……。
「んぐっ! んんっ! んぅ!」
 捕らえられて、息ができなくて。一体何が起きているんだ、と混乱する。上も下も、急に分からなくなって藻掻いた。柔らかいクッションのような感覚に、ベッドに引きずり込まれたのだと分かった。それから、呼吸もままならない理由は……。
「な、ぁ、何っ、んん、っ……!」
 柿谷に、しつこく口を塞がれているから。手ではなく、柿谷の生ぬるい唇で……。
 そう理解できた瞬間、寒気に似たものが身体中を駆け巡った。嫌悪と羞恥と拒絶が、腹の中で渦巻く。
「はぁ……、はぁ、んくっ! ……、ん、んんんっ!」
 キスされている。ベロとベロが合わさるキス。口の中で柿谷の舌がうごめいて、知らない生き物みたいだった。柿谷の身体を退かそうとして腕に力を入れても、とっくに押さえつけらている。被さるような姿勢は、体育の柔軟の時みたいに有無を言わさないものだった。ゼロ距離のところに柿谷の目があって、まつげがあって……ピントが合わないけれど、目を閉じることなくずっとこちらを見ている。
「なんぇ、何でぇ……!」
 意味が分からない! 水の音、俺の心臓の音、柿谷の息継ぎの音、……。耳の中に響いているのはそんなものばかりだ。
「ん、んぐ、……! んっ、んぁ、はぁ……!」
 逃げなきゃ。どこに。ここ、俺の部屋。追い出さなきゃ。どうやって。
 ぬるりとする感覚は金本に噛まれた時を思い出してしまい、その時の恐怖がフラッシュバックする。逃げたいのに動けない。抑え込まれているからだけではなく、体の芯から氷漬けになってしまったみたいだ。
 ごり、と固くて熱いものが足の付根に押し付けられる。ジーンズ越しにでも分かる存在感。それが何なのかはすぐに分かった。生理的に受け入れられないほどの嫌悪感が駆け巡る。全身の皮膚の内側から、無数の棘が出てきたような感覚だった。
「ヒッ……!」
 どうして。
 頭の中を駆け巡るのはそれだけだった。何でこんなことをする? というか何で? 何で勃っている? 俺、何されている? これから、何をされる?
「う、うわああ、あぁ!」
 今までのいじめだったなら。
 痛いことなら歯を食いしばれば、あるいは。したくないことなら俯いていれば、何とか。そうしていれば凌げたかもしれない。犯される。こんなこと、誰が想像した? こんなもの、どうやってやり過ごせば良いんだ。
「い、いや! 嫌だ! 助けて!」
 誰か、と叫んだが柿谷の手のひらで塞がれた。ただでさえ人がいない寮の中。防音もそれなりで、……助けなんて、あるわけない。
 めちゃくちゃに身体を動かして逃げようとする。何回も跳ね除けようとした。脚をばたつかせても、背中を浮かせてのしかかる相手を落とそうとしても、何でもないみたいに抑え込まれる。体力がない俺はすぐにバテて、跳ね返そうとする力がどんどん弱くなっていく……。
「なんで、本当に何で……?」
 諦めが滲み始めたのを察知したのか、奴は小さな子をあやすみたいな仕草をした。シーッと言いながら俺の口元に人差し指を当ててきたのだ。その表情が、今まで見たこともないくらいに楽しそうで。いつもの、傍観に徹してきた柿谷はどこにもいなかった。獲物の動きや反応が嬉しくて、……無邪気そうに「なんとしてやろう」という気に満ちていた。
 見覚えがある。
 俺が、蜘蛛に餌をやっていた時の顔と、きっと同じだ。この瞬間、この行為の間、俺は柿谷の餌になる……。
「い、や……! いやだぁ!」
 命が危ぶまれるのと同等の恐怖を感じた。口を固く閉ざして首を振るが、再び深いキスをされて塗りつぶされていく。グジュグジュと音を派手な音を立てて、時折、柿谷の息だけ詰めた笑みが挟まった。
「は、んんっ……、ン、んぅ!」
 うごめくだけではなく、舌の先で口の中を隈なく探検しているような動きが混ざる。上顎のざらりとしたところ、歯の表面や奥歯裏までの歯列……。くすぐったさに似た感覚を拒むように、身体がびくびくと弾んだ。その動きは、柿谷を喜ばせたらしい。
「んっ、んん、いや、ぁ……! かきや、ぁ……」
 長い時間、密着したままの唇と肌が境目が曖昧になっていく。蜘蛛は……噛んだところを少しずつ溶かして啜って食べる。俺も少しずつ溶かされているのでは……と、思い至った。泣きそうになるほどの不安と恐怖が、飲み込みきれない涎になって垂れていく。
 かわづ、と甘さを含んだ声が降ってくる。
「抜き合いとか、したことある?」
 ぞわりと鳥肌が立つ。耳元で囁かれた言葉の意味がわからないほど、無知じゃない。イージーパンツと下着のウエストから、奴の手が忍び込んでくる。腰を逃がそうとしたが、あっという間にまとめてずり降ろされてしまった。
「ひっ、ひぁっ、あっ、あっ」
 恐怖ばかりで縮こまっていたと思いきや、俺のもゆるく勃ち上がっていた。嫌なはずなのに。刺激に対して簡単に反応する身体の軽薄さに絶望してしまう。あらわになった、敏感な先端に遠慮なく触れ、手で筒を作って行き来する動きをされる。
 根本的に、かつ本格的に犯され始めていると感じて死にたくなる。
「や、あっ、ああっ……! はっ……あっ……」
 性急な快楽を与えられて、思考力が奪われていく。他人の手で触れられたことなんかない。俺より大きな手で包み込むようにして、柔らかく、追い詰めるように嬲っていく。
 気がつけば、みっともなく涙を流していた。柿谷はそれをもったいなさそうに舐めていく。
「川津も、」
 柿谷のを握らされた。俺よりも一回り大きい。男としての差というか、根元的な優劣を見せ付けられた。衝撃的な状況の連続で頭がくらくらとする。ただ、身体は頭と切り離されて、性感により息遣いが浅くなっていく……。
「や、やだ、無理、こんなの、……!」
 俺のと柿谷のを一緒に握られ、互いの先走りが擦れ合う。柿谷は明らかに興奮していた。卑猥な水の音がどんどん大きくなって、駆け足で上り詰めていく。目の前で柿谷のネックレスが揺れて、涙でぼやけた視界の中でも鈍く光っている。
「やっ、あっ……も、もう、やあっ……! おねがっ、あぅっ、んん……!」
 柿谷は俺の唇を舌でこじ開けて、口の中で引っ込んでいた舌を強く吸った。その刺激が後押しとなって、閃光が弾ける。
「っ――……!」
 声もなく、果ててしまった。手のひらに感じる、心臓の鼓動と同じリズムで排出される熱……。
 全速力で走った後のような脱力感と心臓の速さが怖い。無理強いされたはずなのに。確かに快楽を感じてしまった。こういうのって、快感を感じたら同意ってことになるんじゃなかったっけ。もしかして、こういうタイプの《今日のミッション》が増える? ――そんなもの、耐えられない!
「も、いいだろ、帰れよ!」
 ようやく強く言えた。とんでもなく手遅れで、勢いに任せだったとしても、やっと自分の主張らしいことが初めて言えたのに。柿谷は俺を無視して、汚れた手をじっと見てにやりと笑う。
 俺の手と、柿谷の手に二人分の白濁が吐き出されていた。それを、俺の手と柿谷の手でスライムみたいに混ぜて、こねて、ねばぁっ……と広げる。柿谷はそれを、その後……何を思ったのか、下品な音を立てながら啜った。常識的ではない行動で、信じ難く、受け入れられない光景だった。
「――……!」
 気持ち悪い……!
 真っ先にそう思ったはずなのに。迷いなく、ためらいなく、俺の精液が飲み干されていったという事実に、目の奥がカッと熱くなった。
 俺がこいつの餌になったと思えちゃったから? 胃袋で消化されて栄養になるって想像しちゃったから? 俺って、生まれつき変態だった? ……どうして!
「川津、《今日のミッション》」
 いびつな笑顔がこちらを見ている。金本とは種類の違う笑みだった。柿谷の第一印象は、物静かで冷静で、いわゆるクールなイケメンだと思っていた。何を考えているか分からないが、気遣いができる人間に思えた。だが、……目の前にいるのはどう考えても普通の感性の人間じゃない。
「〈みっともなくなって〉」
 歯が見える笑み。エナメル質の白が、不気味に見える。この歯に食われるのか、俺は、なんで、どうしたら、……。

 混乱と錯乱の中で抵抗はした。服を脱がされ、金本に噛まれたところと反対側を噛まれた。泣きわめいて、叫んで、すがって、……。
 
「ひ、っぐ、うっ、うぁ、ああぁ……」
 薄暗くなった部屋の中で、律動が繰り返される。柿谷は、傷になった噛み痕をしつこく舐り、時折、俺の耳を食むように舐めている。通常の用途ではない孔にねじ込まれ、締まりのない口からうめき声に似た喘ぎが漏れていく。互いに生まれたままの姿で、好き放題にされていた。
 ピンで刺されて身動きが取れなくなった標本の虫を思い出していた。無理に身体を開かされて、普通だったら取ることのない姿勢で固定されて、為す術がない。
 こういうのって、出したら終わりじゃないのか。柿谷は休むことなく俺を犯していた。結合部からは絶えず突き入れる音がはじき出されている。無理強いされているはずなのに、俺は断続的に吐精していた。中から押されるたび、とぷ、とぷ、と溢れ落ちていく。
「あ、あぅ、う、ううう……!」
 見られている。蜘蛛に。白濁に塗れて、撒き散らす俺を見られている――……。
 彼女に精液を啜らせたら、もっと乳白色になっただろうか。精液を地面にまいたら、黒い真面目虫はどうにかして運んでくれただろうか。
 こんなにも無様に、暴かれているだけの俺でも、食糧にしてくれるだろうか。
 俺は今、餌だ。食糧だ。捕食されている側と同じだ。為すがままにされて、動きを鈍らせて、命を止めていく虫みたいな、こんな俺を……。
「今、すっごいエロい顔してる」
 柿谷は、俺を見てそう笑った。砂場で大きな石を掘り当てたみたいな、何か思いがけないものを見つけた子供みたいな笑顔だった。ギアを上げるように、腰を打ち付ける速度が増していく。俺の中にある、押されるとまずいところを集中的に擦られて、柿谷の肩に引っかかっている脚が跳ねた。
「あっ、ああぁ、や、ぁ、んぁ、あ、はぁっ、あっ――!」
 何度目か分からない、柿谷のが注がれる。柿谷の心臓の一部が中で弾んでいるみたいだ。熱くて、粘り気があって、……もう飲めないのに。
「分かんない、お前が、分かんない……!」
 俺の身体が半透明だったら、あの時の蜘蛛みたいになっていただろうか。白く汚れて、泣きじゃくる様を、柿谷は余計に面白がっただろうか。
 
 あの日の俺が見ている。覗き込んでいる。無理矢理に食わせて、悦んでいた、あの時の俺が。