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 奴からの暴行があった翌日、蜘蛛を逃した。
 元々は旧校舎裏にいた蜘蛛だったので、採集したところと同じ場所――あじさいの葉の上――にそっと置く。透明のプラケースは、ちょっとした小旅行中の、ホテルみたいなものだったんだ。彼女にとって、記憶にも残らないひととき。俺が勝手に、朝昼晩の三食を提供しただけ。別に食いたくないメニューだったかもしれない。住処に戻った彼女は、しばらくの間あじさいの葉の上をうろうろとして、別の葉へ、あじさいの萼片へと移り、やがて見分けがつかなくなった。乳白色の体は自然の中に、いともたやすく溶け込んでいった。
 俺は、ひたすらぼーっとしていた。何を考えたら良いのかも分からなかった。何をされたのか、決して思い出してはならないと本能が告げていた。思い出さないことに精一杯で、何も考えられない状態であるというのが正しいかもしれない。

 蟻をただ眺める。彼らにとって、餌場の行き来を懸命にする今日が、平坦に過ぎていく。生きるために生きている姿が少し羨ましい。俺もそうだったから。人生を変えたいと思って、人並み以上の暮らしをしたいと願って、……生きたいと思ったから、生きようとしているのに。今や、何を考えたら良いのかが分からない。脳みそを内側からかき混ぜられたみたいだ。
 
 俺は、何をされたんだろう。
 思考力が戻らないまま、思い浮かんだのはそんなこと。
 暴行を受けてから意識が戻ったのは昼前で。腹が減っているのに食欲はなく、腹を下して、誰もいない大浴場でシャワーだけザアザアに浴びて、体内にこびりついていた滓を洗い流して……。そう、噛まれたんだ。血こそでなかったけれど、茶色っぽい痕になった。金本に噛まれたほうもまだ完治していないのに。あいつに、……柿谷に。

 犯されたんだ。

「……っ、ゥッ……!」
 魂がえぐられたような痛み。それはレイプされたことにあるのはもちろんだけれど……。あんな一方的な暴力を受けたというのに、身体が快楽に溺れてしまった事実を受け入れられない。
『みっともなくなって』
 柿谷の声と言葉が、耳にこびりついている。何回も身体を洗った。中を洗うのは勇気が必要だった。何でこんなことをしなければならない? 何度もそう考えて、怒って、泣いて、戸惑って、今はとにかく誰の目にも映りたくなかった。こんな恥ずかしいだけの塊、さっさと溶けて無くなった方が良い。
 
 気づけば巣穴の回りに、また引きちぎった皮膚をばらまいていた。餌場から帰ってきた黒、餌場に出かけようとした黒がそれらを見つけてせっせと運ぶ。巣穴を出入りする全ての黒は恥知らずの塊を無視する。白っぽい欠片だけを集めていく。
 俺も砕いてその中に持っていってくれ。土と便所の次に知った味が、男の……なんて。中身は砕け散っているのに身体が繋がったままのほうがよっぽど可笑しい。
 鋭い痛みが走って手を止める。引きちぎった指の先。無傷な指は一つとして無い。親指と中指がひどく削れている。血が止まらない。手のひらに握り込んで圧迫して、ビリビリとした痛みに顔を顰める。
「消えてなくなりゃ良いのに、痛みには怯むんだよな」
 木の根元に座り込んだ。死にたくなる。けれど、――この期に及んで――ただ単に死にたいわけじゃ無い。消えたい、溶けたい、そして出来ることなら……。木の幹に身体をもたれさせ、上を見る。強い日差しが木の葉の隙間を縫って、きらきらとしている。
 自分が栄養になって地面にそのまま溶けて、いっそ木になったら何が起きるか、と夢想する。夏の日の光で一気に腐ってスープになって、この土に染み込むのだ。生命力逞しい木であれば存分に吸い上げてくれるだろう。俺という肉から有機物へ。鳥やムジナの類が腐肉を持ち去って、骨が何かの巣の材料になって、……きっと指の皮膚よりも広く散らばっていくだろう。それはそれで胸が躍る。自身の血と肉と骨を吸った木の実が、秋にはびっしりと実って、それをまた何かが食って、食ったものを何かが食って、そいつをまた何かが食って……。やがて、人間のもとに集まってくる。
 そこまで考えて、急に希薄に思えてきてしまった。人間に集まって来た時、俺の含有量なぞ一滴の雫にも満たないだろう。直に、誰かの一食になったとしても、結局はたった一食分だ。雑に口にする菓子パンの味や種類なんていちいち覚えていないのと同じように、俺の何かを食ったことなんてすぐにどうでも良くなるはずだ。
「お前たちは、……俺でさえ食うんだもんな」
 決まりきったことを考えている。
 何のために食う? 生きるため。何のために生きる? 生きるため。すごくシンプルで羨ましくなる。たったそれだけの、存在と目的。俺だってそれで良いはずなんだ。今時点で人生の目的や目標なんてない。高校生になってから、やっと人生をスタートさせたようなものなのだから。手段や過程がそのまま目的になっていても不思議はない。
「俺、どうなりたいんだろうな」
 将来のことを思い描く。人並みの暮らしがしたい。母ちゃんにも楽をさせたい。大学に行って働いて、……。そこまで考えて、スープになって溶けるよりもあやふやな夢だと気付いてしまった。
 今まで意識したことはなかったが、「どうなりたいか」と「どうしたいか」はどうやら別の話になるらしい。思い切って口に出してみる。
「俺、どうしたいんだ」
 何かに食われたい。安心したい。俺だって大丈夫なんだ、と実感を得たい。誰かの栄養になるくらいの価値があるんだって思いたい。長い期間に渡って食べて欲しい。食べた人の細胞が俺によって成り立ってるんだって感じたい。蟻に食われて、蜘蛛に食われて、……もっと他のものに食われたい。出来ることなら……俺をまるまる食い潰して、時折罪悪感を抱く相手がいい。ああ、あれ美味しかったな。また食べたいけどもう無いもんな。食べちゃったから、死んじゃったもんな。……そんな風に俺へ思いを馳せて欲しい。
 恐ろしく身勝手な願いが溢れ出てくる。虫に食われたいというステージにもいるが、既に、更に、もっと先のところへ足を掛けている。罪悪感なんていうものは人間しか感じない。人間の中でも、罪悪感があるかどうかは関係性によるものなのに。
 つまりは、人間に食われたいと思っている。
「……どうして……」
 朧げに、脳内で像を結んだのは柿谷の姿だった。狂気じみた笑みがこちらを向く……。
 あんな目に遭ったというのに。蟻の足を引きちぎる無邪気さに似た暴力を受けたというのに。食われたい、くわれたい、……!
 
 俺、何かの病気? それとも狂っちゃった?

 ◆ ◆ ◆

 自室に戻ってきて、臭いが気になった。換気しても、消臭スプレーを撒いても、昨日の体液の臭いが染み付いている気がしてしまう。窓を開け、換気扇を回した。いくらかマシになったような気がするものの、こびり付いている気がして完全には無くならない。もしかして鼻の中? と思い至り、鼻毛を全部切って顔を洗う。すぐには消えなかったが、爽快感もあったためか、少しずつ臭いは無くなっていった。
 だが、部屋でじっとしてもいられなかった。俺に逃げ場なんて無い。壁が押し寄せてくる錯覚に陥りそうだった。
 何かしらの精神異常をきたしている。絶対に。でなければ、こんな光景を見るわけがない。そもそも食われたいなんて思うわけがない!
 咄嗟に自室から飛び出した。だらだらと流れる汗をどうにかしたい。ふと、自習室の存在を思い出して飛び込んだ。ここならクーラーが効いていて涼しいし、夏休みになった今は、入退室を細かく管理する人もいない。Wi‐Fiも飛んでいるから、気晴らしに動画を見てもいいかもしれない……。バクバクと鳴る心臓がだんだんと落ち着いてきて、長めの息を吐いた。

 そうだ。この感情が何なのか、調べてみたらいいんじゃないか。貸出用のノートPCの電源をつけて、検索ブラウザを開く。どう検索したら良いか悩んだが、『食べられたい』と辿々しく入力した。
「……!」
 サジェストに唖然とする。『食べられたい欲求』「食べられたい 心理』『食べられたい願望』……。全て俺のことだ。検索サジェストに見透かされている。ということは、多くの人が調べているということ……。
 試しに『食べられたい欲求』で調べる。検索結果の一番上にあるものは性的に食われたいというものだった。次に出たのはカニバリズムだった。違う。物理的な、生きたままの話がしたい。
 次に『食べられたい願望 名前』で検索する。名前が知りたい。病気ならそれはそれ。多くの人が調べているなら、名前くらい……。一番上の誰かの質問が躍る。
『カニバリズムという食人趣味を聞きますが、では反対に食べられたいという願望に対して、正式な名前ってあるのでしょうか?』
 俺が聞きたかった事! 胸が高まる。ベストアンサーの回答はこうだった。
『正式かどうかは分かりませんが、《被食願望》という言い方をします』

「被食、願望」

 誰もいない自習室の中、コトンと音がした。その単語が表示されて、胸の中に落ちていった音だった。違和感なく落ちてきて、収まるところに収まって、ようやく息が付けた心地だ。
「そっか。これ、他にも感じている人がいるんだ」
 思い悩むものに名前がつくと安心する。正体不明な病気ではなくて、願望の一種だった。そこまで考えて、ああそうか、俺は不安だったんだと分かった。
 それからは、猛烈な勢いで情報を集めた。
 一口に《被食願望》と言っても、数多く分岐することを知る。
 丸呑みされたいタイプ。大きな怪獣や人外のような存在に生きたまま丸ごと呑まれたいという願望を抱える人。大昔前に書かれたブログだったが、それを夢中で読んだ。日本が生んだ大きな怪獣に呑まれる夢。絶滅した恐竜に呑まれる夢。実現しようとしてゴム製のプールを改造して、空気を送り、ローションを送り、丸呑みを体感できる装置をつくるまでの過程が綴られていた。
 生で食われたいタイプ。自分が生きているままで、目の前で少しずつ齧り取ってほしいという願望だった。恋人にお願いしては振られ、次こそはと前向きに走り続けている人がいた。SNSのアカウントで願望を吐露しており、切実な言葉の数々に共鳴してしまう。齧られるための努力として身体作りをしていて、同時に脚の指を少しずつ糸で縛り、関節から壊死させてかじり取りやすくしようという肉体改造を行っている人も居た。
 スープになりたいタイプ。風呂桶での孤独死がニュースになるたび、想像してしまうというSNSの投稿があった。弱火でコトコトと煮込んで、自分は出汁でもいいから、その流れ出た養分を色んな人に飲んでもらいたいという願望を叫んでいた。いくつかは創作上のキャラクターにそうさせたい、という人形遊びみたいな欲求も混ざっていた。その中でも、自分がそうなりたいと言う人もいて、俺はこっそり応援したくなった。
 啄まれたいタイプ……。死んだ後、鳥葬されたい人は意外と多くいた。それ以外には、アメリカにある死体農場へ行くことを夢見ている人もいた。その中で最も稀有なものが、生きたまま鳥の餌になりたいという人だった。鷹や鷲などの大きな鳥にさらわれる願望や、雀やシマエナガなどの小さな鳥を無数に集めて啄まれたいという願望をあらわにする人だった。目だけを保護して、自分の手足から食われていくにはどうしたら良いかを大真面目に研究している人もいた。

 そこまでして夢を実現させようとする熱量がすごかった。多くの人が叫ぶ願望には熱意があり、本気でそう考えている人が過去にもたくさん居たのだ。マイノリティーかもしれない。それでも、想像しているよりも多くの人が居て、病気とかではなく本当に願っているのは一目瞭然だった。破滅に向かう願望は、生物全体のサイクルで考えたら、不自然なことは何もないのでは? という趣旨の論文も見つけた。
 
 どれもこれも、共感できる部分があり夢中になった。

 ◆ ◆ ◆
 
 俺は、どうしたいだろう。
 
 自室に戻って、冴えた目のまま天井を見つめる。時間はもう真夜中だというのに、今日吸収した情報が、今になっても処理できていないのだ。
 
 何で、食われることに悦びが芽生えたんだっけ。
 
 俺は、花びらを一枚ずつ、外側から剥ぐようにして自分のことを振り返っていた。
 俺の人生は、悲惨だった。貧乏を味わって、除け者になって、今でも……それは変わっていない。自分が価値ある人間として扱われることはほとんど無くて、家族以外……というか、母親以外には雑に扱われるか、無下にされるか、無視されるかのどれかだ。
 だから、蟻に自分の欠片を運ばれた時の感動は、俺でも食糧という価値になるという実感だった。皮膚片の群体は、自分から見てもただの汚くて気持ち悪い存在だったのに、貴重な食糧として運ばれていく様子を目の当たりにして、自分を強く求められたような気分になった。蚊に血を吸わせてパンパンになった腹をじっくりと観察した時は、知っているようで知らない世界を覗き込んだみたいだった。蜘蛛にそれを食わせて酔っ払いみたいな色へ変化した時も、今までに経験したことのないくらいの強烈で本能的な喜びが湧き上がった。
 俺が栄養になったという実感が、根底の願望や欲求につながることだけは分かる。けれど具体的にどうされたいのかは分からないままだ。
 丸呑みは、そこまで魅力を感じなかった。丸呑みされている感覚を味わいたい訳ではない。巨大な生物の、胃液に消化されたいわけでもない。誰かの喉を通過したい願望があるわけでもない。
 生で食われたいと思うところは少しだけ分かる。鳥に啄まれるというのも魅力的に思う。だが、白骨化した後の話ならば、俺の骨が巣の材料にされると嬉しい。猫に肉を食われるのも良いと思う。庇護欲が手伝っていくらでも差し出したくなるかもしれないが、目玉で遊ばれるほうが好ましい。単に、《被食願望》といってもそうではないところもあり一致しないところがある……。

 平たく言えば、必要とした時に、無感動に必要とされたい……というのが近い……。
 
 パチンと弾けるように繋がった。浅い欲求と願望に覚えがある。興奮混じりだった火のような広がりは、惨めに萎れていった。ああ、行き着いてしまった。途端に矮小な欲求であると思え、長い溜息を吐いた後、頭の中の電源を落とした。
「バッカみてぇ」
 人間として相手にされないから、小さな存在に自分の価値を認めさせているだけじゃないのか。だというなら……。確かに、罪悪感を持って俺を完食して欲しいというのは分かる。人間様に、俺みたいな存在を惜しんでもらい、極上の食糧として摂取されて、人間様の忘れられない思い出になりたいのだ。つまりは自己承認欲求。ただ誰かに認めてもらいたいだけ。そんなもの、腹の足しにもならないと分かっているのに!
 だからこそ……。一周回って、スープになって溶けたい、というのが一番近いかもしれない。

 薄暗い天井に、虫食いみたいな黒が現れる。きっとこれに身を委ねれば、夢も見ること無く眠れるに違いない。視界も奪って、思考も奪って、泥みたいに眠りたい……。

 食ってくれ。嫌なものも、見たくないものも。どうしようもない俺も。