5

 翌朝になっても、では俺は? という問いが渦巻いていた。単なる自己承認欲求をこじらせたのだとしても、《被食願望》が消えたわけではない。これを上回るくらいの、自己承認を得る方法なんて思いつかない。結局のところ、自分に自信が持てなくて、誰かに認めてもらいたいという幼稚な感情を自分で取り扱えない。むしろ、虫と戯れていても理由がわかっているなら健全なのではないかと思い始めていた。同時に、自分の中の何かが、「そんなのは終わっている」と囁いてくる。

 気晴らしになるかも、と思い学校へ行くことにした。校内は開放さているはずだ。部活動に勤しむ生徒が学校に居るはずだ。瓦解している文化部の俺が紛れ込んだって誰も気にしない。何か聞かれたら面倒なので、写真部の活動のために来ました、と言えるように学校に着いたらカメラを用意しておこうと思った。
「あっつ……」
 寮と学校はとても近く、徒歩五分の距離にある。それでも、夏の日差しが肌を焼いているのを感じ取れるくらい、今日の夏は激しく燃えていた。道路を反射する光は板金みたいに伸ばされていて、ゆらゆらと熱を放つ。梅雨明けを過ぎても蒸していて、この道は気合を持って歩かなければ、ただ汗にまみれて疲弊するだけになりそうだ。それでも、部屋の中で自分の内面を見続けるよりはマシだった。
 学校の側にくると、声が聞こえる。運動部はやはり活発な雰囲気だった。それを遠巻きに見て、昇降口から入って部室に立ち寄る。俺と柿谷が撮った写真は、変わらず壁に掲示されている。金本たちが押し寄せてきてから、何も更新されていない。
 無断で合鍵を作っていたのでそのまま開ける。あまり周辺を見ずにカメラを引っ張り出した。……変化と言えば、タバコ臭さがずいぶん抜けていた。灰皿は空の状態で放置されていて、その周辺は嫌な臭いがする。ほんの少しでも掃除しておけば、夏休み明けから部室として使えるようになるんじゃないか……。そう思ったが、今は掃除する気力がなかったので、部室を後にした。
 自分のクラスに行ってみる。見慣れているはずの教室は静まり返っていて、俺がいつもいじめを受けていた場所とは思えなかった。《今日のミッション》から逃げ回るだけの俺。今日は何もないかもしれない、と淡く期待する俺。もしかしたら誰かに助けてもらえるかもと……。
 そこまで考えて目をそらした。気が滅入るだけだ。普段は行かないようなところを散策しよう。ここから一番遠いところに行ってみよう。ここから一番離れた校内というと、三年生の教室がある棟だった。上級生がいるところには、こういう人がいないタイミングでなければまず向かわないだろう。学年で仲が悪いわけではないと思うが、俺は特に接点がない。
 ……写真部の先輩たちは、元気だろうか。金本のグループが部室を占拠しようとしまいと、今頃だったら引退している。良好な関係だったら、この夏休みに写真部の活動として何かしていただろうか。急に、自分が過ごすはずだった時間や関係をあいつらに壊されてしまったのだと感じてしまう。悲しみの塊みたいなものが、腹の奥へと飛び込んできたようだった。今更考えても仕方ない、と何度も言い聞かせて、憎たらしいほどに晴れた青空が目に染みた。
 三年生の教室は、特に静かだった。校庭に面しておらず、中庭が見下ろせる位置にある。別の棟の屋上に出られる扉があって、それ以外は一年生の教室がある棟と同じ造りだった。補習を受けている人たちが一クラスに集められていて、そこだけ足早に通り過ぎた。寮の自分では想像つかないが、自宅から通っている生徒もいる。この暑い中、バスと自転車で来るはずなので、補習は気が重いに違いない。ほとんどが大学進学をするので、きっと受験対策も含まれているのだろう。
 一番奥まで行って、近くの階段から降りようと思ったが、屋上の扉がわずかに開いている事に気付いた。なるべく音を立てないように、開く。そろそろと慎重に歩き、中庭からも校内からも死角になるところまで進んだ。日陰になっているところはかなり涼しい。光を浴びつつもリラックスできるなんて、良い所だな。伸びをして穏やかな気持になったのも束の間。屋上の柵にもたれている人物のせいで血管が凍りついた。

 柿谷がいた。
 
「……ッ!」
 目がかち合ってバチン、と鳴る。視線の絡みがそのまま縄につながって、身体に絡まっていく。逃げなければ、と心の中を掻きむしるような激しく動揺しているのに、一歩も動けない。暑さとは関係のない汗が身体から吹き出した。
 柿谷が手招きをしている。行ったら何をされるのだろう。でも、行かなかったら……。選択の自由がない。あの時の寮と違って、三年の教室には人がいる。何かあれば……屋上に忍び込んだことを怒られるかもしれないが、身の危険を回避することはできるかもしれない。
「な、に……?」
 油が切れた鉄の扉みたいに関節が固まる。そんな中で恐る恐る近づくと、隣に来るよう促された。無言で、サンドイッチを手渡される。俺に? と尋ねると、無言で頷かれる。調子が狂うが、何かしてこようという空気は感じられなかった。
 しばらく、無言でサンドイッチを咀嚼した。ラップに包まれた簡単なものだったが、ツナマヨの味がちょうどよくて美味しい。コンビニで買ってきたものではなく、明らかに手作りだった。
 柿谷と飯を食っている。めちゃくちゃだ。夏空の下で、何かが有耶無耶になっていく。俺はこいつのせいで、脳みそを内側からかき混ぜられたような苦しみを味わったはずなのに。こいつは俺にみっともなくなれと命じるような変態で、俺は俺で……。ゴキュ、と喉が鳴る。サンドイッチだけではなく、口の中に合った空気を余分に飲み込んでしまった。何か、言わなきゃいけないような言葉も一緒に。
「ごめん」
 短く、だがしっかりと声に出された言葉。思いがけない台詞で、思わず柿谷の顔を凝視する。頭一つ高い身長なので、俯いていても表情は見えた。ふざけていたり、嘘を付いているような雰囲気ではなかった。
「どう考えても行き過ぎてた。反省してる」
 幻聴? 真っ先にそう思った。謝罪なんてされるわけがないと思っていた。こいつは、俺のことをいじめたかったんじゃないのか。《今日のミッション》を課して、面白おかしく玩具にして、嘲っていたはずなのに。
 ……ただ、柿谷は積極的にいじめに加担するタイプでなかったことも分かっている。だが、助けてくれたわけでもない。俺を犯したのだって……何か金本とは違うようなことをしたかったのだと思っていたのに、どうして謝るんだ。
「……俺、お前が考えてること、全然分からない」
 片言に溢れていったのは混じりけのない本心だ。柿谷の振る舞いは、理屈も筋も通らない。加担しないことと助けないことは両立すると理解できても、あんな風に扱った後、……こうしてサンドイッチを寄越すに至った理由が一つも分からない。
 謝罪を受け入れて良いかすらも分からないから、手がかりが欲しい。
「話を、してよ。柿谷のこと、全然知らないし」
 
 少しずつ、柿谷のことが語られていった。両親の元を離れて一人暮らしをしたいと思って寮があるこの学校に来たこと。金本とは体力測定の時に記録が同じくらいだったのがキッカケで仲良くなったということ。いじめについては関わる気はないが、止めると面倒になるので積極的には止められないこと……。
「莉比斗(リヒト)は金持ちなんだよ」
「莉比斗?」
「ああ、金本の下の名前」
 人を選ぶ名前だ、と思った。響きが強くて、生まれながらに何かを持ってそうな音に聞こえる。金本はイケメンの部類に入るし、名前負けしていない状態が疎ましい。その上、金持ちならば、ああいうふうな横暴な態度も納得がいく。
「あいつ、ボクシング経験者で強くて、……。それだけじゃなくて、界隈でも持て余すくらい暴力的で追放されたっていう噂。今はパルクールにハマってるんだってさ。……まぁ、要は問題児だから、親御さんの目が届くこの学校に押し込められたらしい。献金がトップクラスなのも、莉比斗の学籍を守るためなんじゃない」
 俺とは全然違う人間だった。薄々分かっていたが、簡潔に説明されると、自分が惨めに思える。どう考えても、道楽の暇つぶしに、俺の人生が台無しにされているという風にしか捉えられなかったからだ。あいつは望むものを全て与えられてきただろう。能力にも恵まれたのだろう。なんでも揃った人間が、退屈しのぎで俺の尊厳を削っているのなら……。俺は沸々と湧く怒りで、頭が茹だりそうだった。
「なんで、追放されたの。ボクシングから」
「さあ、……。反則になるようなことをした、とは本人から聞いたけど」
 暴力的な人間だからこそ、そういう世界に収めるべきなんじゃないのか。本人だってそこに居たほうが幸せなんじゃないのか。どうして追放した後のことを考えてくれなかったんだ。ちゃんと檻の中に入れていたなら、俺は、こんな目に合わなかったのに!
 何度か深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。そうだ、聞かなきゃならないのは柿谷のことだ。金本の事が聞けたのは良かったが、肝心な事が分からない。
 何で柿谷は、俺のことレイプしたの。そういうことを聞かなきゃならないのに。喉がカラカラになって、俺の中身が砂漠になりそうだった。
「あの日は……。写真を渡したら、すぐに帰るつもりだった」
 ドクッと心臓が鳴る。締め切った部屋の中で行われた、虫の足をもぐような行為がリフレインする。手を強く握って、意識を保つ。
「……とにかく今しかない、って。自分でも分からないけど、そう思った」
 思ってもみない台詞だった。チャンスを逃すまいとした、咄嗟の行動だったというように聞こえる。それがどういうチャンスなのかは分からない。だが少なくとも、同性の俺を、屈服させる以外の感情で抱いたのなら……。思い当たるのは一つしか無い。
「それは……。俺のこと、好きだから、とか?」
 自分で言っておきながら自意識過剰な応答だった。恥ずかしさで顔に熱が集まる。自分に好意があるかを確認する言葉を、この俺が言う日が来るとは思わなかった。
「分からない。でも、絶対に、嫌いでは無い」
 何度も「ごめん」と重ねる。聞いているうちに力が抜けて、戦意や緊張が解けてしまった。
 理不尽であることこの上ないが、……柿谷自身は元々、危害を加えるつもりがなく、好きかどうかも分からない状態であることが判明して、露骨に安心してしまった。金本の好きにさせていたことにムカついたのか、玩具を独占できるタイミングだったのか……。そういう子供じみた理由かもしれない。俺がそれを受け入れるのは甘すぎるのかもしれない。それでも、マイナスな感情で手にかけたのでなければ、まだ何か、良い変化となる気がしてくる。
 その後は、カジュアルな話題になった。サンドイッチを作ったのはほんの気まぐれだったけど、賄い係が楽しくなってきて、料理が作れるようになりたいと思っていることだとか。アクセサリーが好きなこととか。
「指輪、いっぱい持ってんね」
 俺がそう言うと、ああ、と言いながら手を握ったり開いたりした。大きな手で楽器が似合いそうだった。
「これ、手作り」
「え、柿谷が作ったの」
 シンプルだけれど品のある感じがする。てっきり、きちんとしたブランドのものなのだと思っていた。素直に感心してしまう。
「へぇ、器用っていうか……やっぱおしゃれなんだな」
「それ、時々言ってるけど、何?」
「何が?」
「おしゃれって」
 そんなに言ってた? 過去に会話した、柿谷との会話を思い出す。
 
 部活で一緒に学校を回った時。「おしゃれな人って、写真も上手そうだよな」
 寮で飯を食っている時。「内履き、ちゃんとした靴なんだな。しゃれてんね」
 ……部屋に押し入ってきた時。「出かけるんだろ? おしゃれにしてるんだしさ」
 
 確かに言ってる。
「いや、だって。小物とかさ。何か……こなれてるなって」
「何それ」
 フ、と力が抜けたように笑う。長めの前髪から覗く目が人懐っこく見えて、柿谷の素が見えた気がした。だがすぐに、いつもの無口で無表情な能面にすり替わってしまった。
「……親からも、言われたことある」
「おしゃれだって?」
 いや、と歯切れが悪くなったのを見て、ピンと来た。俺が「何考えてるか分からない」と言ったように、同じ事を言われた過去があるようだ。元々、あまり感情を出すのが得意ではない性格なのだという。会話も得意ではなくて、必要最低限のことだけ喋るようになってしまっていたらしい。
「親にそう言われたら、なんか気まずくて」
「……そうなんだ」
 俺は母ちゃんと助け合って生きてきた。だから、母ちゃんに「何を考えているか分からない」と言われたら……かなり悲しく思う。柿谷と家庭環境が全然違うとは言え、肉親に言われたら、早めにひとり立ちしたいと思うのも自然なことだと思えた。
「川津は?」
「俺……? 俺んちはずっと貧乏で、かなり窮してる。だから、母ちゃんに楽させたくて、ここに特待で入った」
 柿谷の目が大きく見開かれて、しまったと思った。学校側は誰が特待生で入ってきたか、分からないように配慮してくれているのだ。それが原因でいじめに繋がる可能性もゼロではない。自分から言い出さない限り、特待生という存在は目に見えないようになっているのに。
「……他言しないでね」
 困ったように笑うと、柿谷にもう一度「ごめん」と謝られた。俺は自然と、「もういいよ」と言えた。

 レイプ犯と一緒に飯を食って、穏やかな時間を過ごしてしまった。
 そういうと、とんでもないような事が起きていそうだが、何ということのない時間だった。入道雲がもくもくと膨らんで、夏の盛りを先取りした空が広がっていた。持っていたカメラで切り抜くと、新しい場面の挿絵みたいに思えた。

 ◆ ◆ ◆

 屋上で話したその日に、連絡先を交換した。向こうから「恋愛感情か分からないから、はっきりするまで色々試したい」と言われて身構えてしまったが、ただ単に顔を合わせて話をする時間をもらいたい、というお願いだった。
 寮の食堂で一緒に飯を食うようになったり、談笑室で話したりするようになった。段々と砕けた話をするようになって、下の名前で呼びあうようになった。部活でまだ寮にいる人から見ても目に見える変化だったようで、「最近仲いいね」とすれ違いざまに声を掛けられたりした。良い方向に向かっているような気がして嬉しくなる。
「千芳。ちょっと課題教えて」
「いーよ。自習室いく?」
 二人で課題をしたり、他愛もない会話をしたり。たった数日でここまで変わるのか、というくらいに仲良くなった。口数はお互い多くない。その上で沈黙が苦にならない。こいつの話は、誰かを下げたり傷つけたりしない。言い方にも気を払っているように思えた。そのことに気づいてから、何で金本と仲良くやれるのかが分からなかった。
 
 アクセサリーや服の話になったタイミングで、宇深の自室に招かれた。一瞬警戒したものの、あの時と違って、夕飯を過ぎている。つまりは部活を終えた生徒でこの前よりは寮には人が居るのだ。その上で、扉の鍵を開けておいてもらえば……と思い、部屋へ行くことにした。
 同じ間取りなはずなのに、壁に掛かっている洋服や、小物を置くプレートのデザインで、俺の部屋よりずっとおしゃれに見えた。
 やっぱりおしゃれだ、と呟くと「また言ってる」と笑われた。そのやりとりが友達っぽくて、やたらとくすぐったい思いをした。
 
 話題に上がったアクセサリーを見せてもらう。シンプルで飾りは最小限なデザインばかりだが、自分が身につけても、ガキが背伸びした感じになるなと思ってしまう。宇深の気に入っているポイントを聞いたり、「千芳ならこっちが良い」と何故かゆるめで薄手のパーカーを着せられたりした。宇深の服はさすがに大きかったが、「普段着てないから、良ければもらって」と言われて、ありがたく貰うことにした。服を買う余裕は無いので正直助かるし、夏なら着られるカラーだった。
 楽しい時間だった。やりとりのひとつひとつ、心が浮わついた。今の、すごい友達って感じだ、とかいちいち感動していた。だから警戒心もなくなっていって、緩んだ顔になってたと思う。互いにベッドの上に座って、話し込んでいた。
 不意に後ろから抱きつかれ、息をする臓器が全部紐で閉じられてしまう。
「ッ、宇深……?」
 また襲われるのかと思って身体がこわばるが、距離の近いスキンシップの範囲……とも言えるだった。ほんの少し身体を左右に揺らして腕の中に閉じ込めていく。腕の力は緩やかで、やろうと思えば振りほどけそうだ。
「宇深さ、その。確かめたいから……って前に言ってたけど」
「うん」
「……わかりそう?」
 肯定もせず、否定もせず、宇深は俺の項あたりに鼻を埋めた。大きい犬が控えめに甘えてきているようにも見えるが、俺は気が気じゃなかった。宇深の呼吸がダイレクトに感じられて、むずむずとする。
「嫌だったら、言って。すぐやめるから」
「ひえっ……!」
 柔らかい感触が耳の後ろを撫でる。宇深の唇だとすぐに分かる。ちゅ、ちゅ、と可愛らしい音を立てていき、たくさんの軽いキスを耳や項に落とされた。
「嫌?」
 大真面目な声だった。何か煽ってやろうだとか、なし崩しにしようだとか、そういう不誠実な感じはしなかった。困惑するが、本当に確認しているだけなんだ、と理解したので素直に言うことにした。
「嫌、っていうか。…………困る」
 宇深はすぐに止めて、じゃあこれは、と言いながらうなじを甘噛みする。「ひっ」という声が出て身体が逃げ出そうとするが、俺が拒否反応を示さないギリギリの力加減になっていく。唇だけで、ぱく、ぱく、と柔らかく啄むような動きだった。気持ち悪さがあったけど、そう言ったら傷ついたりするのでは? と思って言えない。気を使わなくていいはずなのに。
「それは……落ち着かない……」
 なんとかそう言い換える。宇深は短く、「ん」と返事をしてまたすぐ止めた。
 今度は身体を離し、俺の腿上に頭を載せて、ごろりと寝転んだ。いわゆる膝枕の状態になる。俺の顔は真っ赤になってたと思うが、仕掛け人は対照的で、本当にいつも通り、という風だった。
「これだったら?」
「まぁ……さっきよりは全然……」
 そのまま、雑誌を開いてだらだらとし始めた。俺はどうしたらいいか分からず、手持ち無沙汰にスマホを見たり、宇深の髪を梳かしてみたりしているうちに、……こういう友達関係もあるのか? と落ち着かないまま過ごすことになった。
 宇深が居ない側の手の、親指の爪の表面を、人差し指でガリガリと削っていた。ほとんど無意識のうちだったが、ある瞬間で「あ、またやってる」と思い出して、手を止める。……気がついたらまた削っている。他人の部屋に自分の爪や皮膚を撒き散らすのは、なんだか不潔に思えて気分転換に話を振ろうと思った。
「俺、明後日からバイト始めるんだよね」
 学校の道を降りて、街に出てすぐの。ほら、あの定食屋。賄い付きらしいから楽しみなんだよね。割りとどうでも良いことをぺらぺらと喋る。
「宇深は八月中、どうすんの」
「両親が海外出張中ってことにして申請してる」
 つまりは、俺と同じように用意してもらった宿泊施設で寝泊まりするということだ。そういうタイプの生徒はかなり数少ないので、場所は同じところだろう。
「じゃあ、多分俺と同じホテルだな」
 そう言うと、雑誌から視線を外した宇深と目が合う。二回くらい瞬きをして、また雑誌へと視線が戻っていく。実際には見たことが無いけれど、ソファーに寝転んで返事をしない親父……みたいなものを浮かべてすぐに打ち消した。それは熟年夫婦の絵図であって。どちらかというとマイペースに膝の上を占領する大型犬とかのほうが近いのに。
「明日、また屋上いかない?」
 ……これじゃデートの誘いみたいに思われるのでは。何を考えても色恋に発展しそうな気がしてしまい、一人で焦る。
「写真部の活動……ってことで」
 そう付け足すと、寝転んだまま、再び「ん」と短い返事をされる。
 おとなしい大型犬というより、あんまり愛想の無い猫が無断で甘えている感じに思えてきて、少し笑った。