2 被食讃歌

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 学ランを着込んで、一番上まできちんとボタンを留める。髪の毛も、ちゃんと美容院でセットしてもらった。大人受けして、同世代にも好感を持たれるような清潔感が欲しい、というざっくりした要望にも応えてくれるから、プロってすごい。人生を費やして獲得された技術を自分に施してもらうだけで、今までにない自分になっていく。突貫かつ突発ではあったけれど、学校が始まる前にこの催しが出来て良かった、と胸を撫で下ろす。オークションでは無くなったけれど、それを上回る企画になったと思う。
 コミュニティの女子組には、この企画のことは話さなかった。のあちゃんと連絡が取れないままで、リオとは……ちょっとデートするくらいの仲が続けばいいと思っているので、伝えなかった。リヒトとみーくんには、三十分前に伝えた。地元からだったら、すぐに走ってくれば多分間に合う。来られなかったらそれまでで、彼らは俺と戯れる権利さえも失うのだ。

 バーがあるビルの三階。タケチカさんと同じ会場だ。あの日とは違って、とってもダークな雰囲気にして欲しいとお願いした。俺はもやし体型なので、ただの爽やかな雰囲気では合唱コンクールみたいになってしまうと思ったからだ。大きな磨りガラスは濃紺のカーテンで締め切った。ベルベットで重たい記事だけれど、真っ黒ではないので音楽室の消音カーテンみたいにはならず、高級さが出たと思う。高い天井を活かす内装として、会場の真ん中には天井にまで届きそうなフラワーアレンジメントが置かれた。潔白そうな白い花と青々しい緑でまとめられていて、シンプルながら美しいコントラストが目を引く。一番高い位置にある照明は、月を模したデザインの物が設置されていて、薄暗い会場を見守るような光を灯していた。かすかに聞こえる、ジャズっぽいBGMが大人っぽさを引き立てている。清潔そうなのに、仄暗くて、その上ゴシック過ぎない雰囲気に俺はとても満足していた。
「ちー君、そろそろだよ」
 マスターに声を掛けられて、俺は大きく頷いた。深呼吸を一つして、舞台袖で観客の様子を見る。この催しは、表向きは俺の一人舞台という体で開いている。丸テーブルのみを置いたスタンディング形式で、飲み物と軽食を用意してある。招待制ではなくチケット制にした。マスターにそう提案してもらったのだ。チケット制にすれば、会場での設営費だとか会場費だとかを賄えるから、ということでお任せしている。俺には一銭も要求されていないので、おそらくお代は全て捻出できたのだろう。
 会場の照明が落ちる。ほとんど真っ暗になった中、ステージの下部から光が差した。マスターが舞台袖からステージへ移動していく。
「本日は当イベントにお越しいただき誠にありがとうございます。ご参加いただいた皆様にはスタッフ共々大きな感謝と、皆様とともに開催できることに大きな喜びも感じております」
 大きな拍手が沸き起こる。いよいよ始まるんだ。高鳴る心臓の音は、緊張よりも期待に満ちたものだった。
「イベント開催させていただいた鱒田です。本日は何卒よろしくお願いいたします」
 このタイミングで、慌てた様子で会場になだれ込んで来た二人組が居た。再び拍手が沸き起こった瞬間だったので、誰もその二人に気が付いて居ないが、俺はその二人組の姿を見て口元がひどく緩んだ。リヒトとみーくんだった。大急ぎで来たのだろう。髪は乱れているし、肩で息をしている。
「本日私どもが主催させていただくイベントは、とある少年の夢と願いを叶えるために企画し、開催準備を進めてまいりました。メインテーマは《ミッション》となっております」
 ねえ、二人とも聞いた? この催しを知ってどう思った? そうやって大慌てで来たってことは、少しでも止められるとでも思ったんでしょう。その呆然とした表情、一体どういう感情から来ているの? 俺の中に、今までなかった意地悪な物言いをする自分が現れる。
 マスターは深々とお辞儀をして、ステージ上の照明が限りなく暗くなるまで落とされた。上がりすぎたテンションを落ち着かせるために、再び深呼吸をした。
 一人称は、僕に。俺だと舐められそうだし、私だときっと小生意気に思われる。いつも使っている俺という一人称は、今だけ封印する。一人称を変えただけなのに明日落ち着いている。俺のままだったら、きっと今でもジタバタしていたことだろう。
 暗転している間に、ステージ上に机と椅子が用意される。学校にあるような小さな机の上に脚まで隠れるサテンクロスを被せてある。その上には空の平皿が置いてあり、小さな食卓のようになっている。暗いうちに、そこへと行儀よく着席した。人生の中で、人前で喋るなんて初めてだったけれど、きっと僕なら大丈夫。目を閉じて、自分の出番を待った。
 ステージ上の明かりが再び戻ってくる。それに合わせて、少しずつ目を開いた。目の前の観客は五十人くらいだろうか。二十から三十代の爽やかそうな人や、五十代くらいのスーツを来た大人の人もいて、男女差で言えば男性のほうが多そうだった。
「僕の初めてのステージに、ようこそいらっしゃいました」
 自分でも信じられないくらいスムーズに声が出た。早すぎない喋り方。聞き取りやすい滑舌。息を吸うとスムーズに身体が応じた。
「このステージは参加型になります。と言っても、僕のわがままに付き合ってくれるような、寛容な人だけが楽しめる内容かもしれません」
 この催しに参加している時点で、ある程度のことは想定しているんでしょう。
「僕の部位で、好きなところを好きな時に食べられる権利を得られる。そんなレースを用意しました」
 少しだけ騒めきが起きた。本当だったんだ、という声もした。多分、マスターがチケットを捌く時、匂わせる程度に内容を明かしていたのだと思う。でなければこんな人数、集まるわけがない。
「僕は、先日企画された食事会に招待いただき、三品全てを堪能しました」
 再び、観客が分かりやすくざわめいた。あの食事会は、いわゆる食人界隈で話題になっていたらしい。今いるコミュニティは比較的若い人だけで固めていて、本当にアングラな人とは切り離していたらしかった。マスターなりの、若者に対する配慮だったのかもしれない。タケチカさんの肉を食べた人の多くは、俺の知らない人たちばかりだった。タケチカさんの、別のお仲間だろうと思っていたので不思議はなかった。もしかしたら、あの日に白米を欲した少年として記憶している人がここに居るかもしれない。
「素敵な栄養を取り込んでいる身体です。新陳代謝で各細胞は入れ替わっていきます。胃腸は三日~七日、心臓は二十二日、肌の細胞は二十八日、筋肉は百八十日、骨は二年程度。各部位によって決まっていることは、きっと皆様ご存知のはず」
 賢そうで、利発そうで、子供っぽい恐れ知らずを滲ませて。ほら、こういうの、好きなんでしょう。
 観客から注がれる視線の質が、変わっていく。明確に食糧として見つめられていると感じて、腹の奥がちりちりと燃えるような心地がする。
 リヒトとみーくんが、ステージの一番前まで移動してきた。何か言いたげにして目の前に居るけれど、たった数十センチの段差で隔たれた世界を乗り越えてくる勇気は無いみたいだ。それでいい。僕は、いつもの《ちー》ではないのだから。
「僕の魅力を分かってくれる人だけに、食べられたいです」
 二人がひどく顔を歪ませた。そうだね、この夏、ずっと一緒に居たよね。だから俺の魅力を一番知っているって、言いたくなってるんだよね。僕の価値についてしっかり考えるきっかけをくれた二人には感謝しなきゃ。
だって二人は、保管の参加者と比べたらとても有利なのだから。
「だから条件として、《ミッション》を課します」
 観客全員の意識がこちらに向いている。こんな風にゆっくり喋って、こちらの言葉を、固唾を飲んで待つシチュエーションなんて、なかなか無いものだ。ある種の全能感だとか、主役感で満腹になりそうだ。
「写真部の活動に理解のある人が良いです」
 もしかしたら拍子抜けするかもしれないような条件。それが狙いだった。オトナに一人勝ちなんてさせない。金を積めば終わりだなんて言わせない。囲えばなんとかなるなんて思い上がらせない。
「僕のことも、写真に撮ってくれる人がいいです。食べる時ももちろん、その前も」
 食べていく時に、ちゃんと写真に撮ること。記録として残すと都合が悪い、なんていう利口なふりした気弱さを誤魔化す人なんて、いらない。言外にそう含んでいるのを、ここにいる人達はどう受け取っただろうか。子供だから丸め込めると思っているだろうか。子供らしい思い出づくりだと思っているだろうか。……受け取り手によって解釈が違えば、きっとアプローチも千差万別で楽しくなるに違いない。
「中途半端な撮り方じゃ許しません。食わせてやりません」
 若者特有の、怖いものなしな言動。プイッと顔を背ける仕草は、こういうステージ上なら誰にでも受け入れられる。ちょっとわざとらしくても、非日常的な空間になっているステージならば、違和感なく受け取れるどころか、印象の落差をつくりだせるはずだ。写真で構図を決める時と、少し似ている。自分が今、どういう風に映っているかを想像しながら身振りを大きくした。
「ちゃんと撮ってくれて、ちゃんと撮らせてくれる人がいいです」
 相思相愛のような関係を望む、甘酸っぱさ。目にハートを浮かべるようなつもりで、……相手に夢見る姿で喋りかける。こういう目はのあちゃんが一番上手だった。好意がありありと透けていて、自分勝手で、でもそれが可愛らしいと思える純粋さ。きっと、僕も持っている。
「色々な食い方を一緒に探してくれる人がいいです」
 理想の相手を語るような、夢見心地の声。鼻にかけすぎないように、けれど相手の内側をくすぐるような刺激となるように。向上心のある人が良い、なんて言い方ではダメだ。相手に積極性を求めるなら、自分からして欲しいことを伝えていくのが前提にある。僕はそれを惜しまないし、いいパートナーとして枠に収まる可能性も同時に示唆した。
「お金をもらっても嬉しくないです。母ちゃんに悲しい思いをさせたくないので、俺をお金と引き換えにしてほしくないです」
 自滅的な行いをしているにも関わらず、親孝行さを覗かせる、アンバランスさ。《俺》という一人称と共に、人懐こそうに《母ちゃん》と呼ぶことの、素を思わせる言葉遣い。
「僕というものをしっかり観察して、理解し、食べる時にもじっくりと見てください」
 タケチカさんを食したように。僕のことを観て。愛して。触って。そういう風に聞こえるように。少しだけ内緒話をするような仕草も加えた。もう誰も、飲食しながら話を聞いている人なんて居なかった。皆が皆、僕の話を聞き零さまいと耳を傾けていた。
「大人なら、どんな手段を講じてもいいです」
 子供から大人に要求する、無邪気なわがまま。
「子供なら子供で、いろんな方法を試していいです」
 同世代に期待する、無茶振りみたいな気やすさ。
「あなた好みに育ててからでも良し。急いで認めさせて食い散らかしたって良し。基準は《この人に食われたい》と、僕がそう思えばいいだけ。でも、今あげた条件は絶対ですから」
 ここからは、ただ期待を煽って心に決めてもらうだけの時間だ。自分が参加者として入っていったら、片手間では済まなくなるくらい時間を使わなければならない。一人の少年を巡って複数人が争う様子を観劇したい人だっているはずだ。
「条件を満たした人であると合格できた人に、僕を食べる権利をあげます。合格者は一人かもしれませんし、全員かもしれません」
 もしかしたらとても簡単かもしれないルール。しかし一生を掛けても選ばれないかもしれないという不確定さ。けれど、参加してもリスクは何もない。損を嫌う大人であれば参加しないわけがない。
「あなたの人生の一口、一食、……もしかしたら、もっと多くの。あなたの糧になって、生きていきたい」
 この瞬間だけ主語を変えて、穏やかに微笑んだ。会場にいる全ての人の顔を見ながら、語りかける。効果がどれくらいあるかは分からないけれど、口が半開きになってしまっている人が増えてきて、少しだけおかしい。
「リアルに生きる男子高校生。素材の生活を知り、何でできているかを知り、いきいきと暮らす様子を見た上で、味わってみたいと思いませんか?」
 トドメとして、品物としての肉だけではなく、暮らしぶりという価値をくっつけた。これこそが、食糧っぽさを引き立てるセリフだと思ったのだ。目の届く畜産をしてみたい人だって居るかもしれない。
 
 教えてくれたのはみんなだ。
 ここは常識が上書きされていく場所なのだ。
いじめだって一緒だ。学校だって同じだ。コミュニティでも。ああいう狭いところでは、すごい速度で頻繁に、常識が書き換えられていくから、こんなことになる。
 皆んなは空腹なのだと思っていた。だから群がるのだと思っていた。だが、必ずしもそうではない。俺は僕を使って、僕は俺を覗かせて、美味そうな匂いを振り撒く。匂いが味の大半を締めているのだ。ほら、芳しいでしょう。千人にも届く芳しい匂い。それが、僕の名前。
 俺が色んな人から食われる存在を拡大し、自分は《ご馳走》であると確信を持ったのだ。だから僕は今、その確信でもって、全身全霊で、そういう常識へ上書きしてやったのだ。
「じゃあ、参加する人はステージに上がって俺の後ろへ。定員は特にありません」
 真っ先にリヒトとみーくんがステージに上ってきた。その勢いを見たせいか、他の観客もぞろぞろとステージに登り始めた。人間の心理は面白くて、誰かがスタートダッシュをするとその速度についていかないと置いていかれると思いこんでしまうみたいだ。思っていたよりも早く、ほとんどの人が登ってきた。ステージ上が人でひしめき合う。
「ステージに上った皆様、ありがとうございます。これであなた方は、参加者です。僕に対してどういう風にしてくれるのか……とても楽しみです。そして観客席に残った皆様、ありがとうございます。僕の青い春と群像劇を、どうぞ見守ってください」
 席から立ち上がる。空の皿に、色々な人の表情が写り込んでいる。ああ、こんなにも多くの食糧が! 手元に、勝手に、集まってきた!
「このイベント、諸条件で上げた《ミッション》が皆様にとっても有意義なものになりますことを祈念いたしまして、開会の挨拶にかえさせて頂きます」
 大音量の拍手を浴びる。一番顔が知れている二人は、拳を握り込んで俺を睨みつけていた。こんな事になるなんて思っていなかっただろうし、二人だけで取り合っていたはずの玩具が、手の届かない所に行ってしまうかもしれないのだ。今すぐそれを解消できないもどかしさを隠しきれていかなった。
「ああ、嬉しいなぁ」
 緊張が解けて、俺は泣き笑いの表情を浮かべた。その姿もまた、参加者にとってはいい材料になったらしい。
 俺は初めてのステージを満足行く形で終えられて、ここから人生が動き出すのだという感動に全身で浸った。

 ◆ ◆ ◆

 俺、川津千芳の人生転換期は、夏だった。秋になって、カーディガンを来て過ごすことが普通になってきた、という頃。俺は快適なスクールライフを送っていた。
 夏休み前まではいじめにばかり遭う人生だったけれど、今は多くの友人に囲まれている。その中でも、特に莉比斗と宇深は親友と呼べるくらい、一緒にいる。課外授業での班も一緒だったし、体育祭では騎馬戦を一緒にやった。いじめがなくなったおかげで先生方は色々な意味で安心したみたいだ。いじめが無くなった段階で、クラスメイトには自分が特待生で入ってきたことを明かしている。だから、いじめが無くなった理由と勝手に関連付けて、誰も不思議に思わなくなるまでに、時間はかからなかった。
「宇深、お待たせ!」
「ん」
 今日も部活動に勤しむため、部室へと向かう。文化祭まで十日を切った。写真展の準備は大詰めだ。二年生の先輩がひょっこり帰ってきて、今では部員が六人になった。写真だけを適当に提出するつもりだったみたいだが、一年だけで準備するのが危なっかしかったのか、なんだかんだで準備を一緒にしている。もしかしたら、そのあたりは莉比斗の存在が大きいのかもしれない。
「莉比斗、迎えに来たよ」
「おお」
 莉比斗のクラスを覗く。今では部活のたびに、俺と宇深がやってくるのは日常と化していた。莉比斗と一緒になっていじめに加担していた取り巻き二人が、軽いノリで声を掛けてくるくらいに馴染んでいた。
 莉比斗が見慣れないカメラのケースを肩に掛けていたのが目に入る。
「あれ、新しいカメラ?」
「親父がレンズには金かけろって。ちーも使えよ。それでオレに教えろ」
「何でなの」
 こうやって会話していると、俺は意外とツッコむ側に回る。こいつらが自由すぎるだけかもしれないけれど、俺はこういう時間が楽しくてしかたがない。
 部活棟へ向かう途中の渡り廊下で、車いすの先生が向こう側からやってくるのが見えた。
「剛央(タケチカ)先生!」
「こら。東間(アズマ)先生、ですよ」
 タケチカさんは、非常勤講師として入ってきた。それも、ものすごい急に。何でも学校側が障がい者教員を増やす方針だったことから、タケチカさんの採用はすんなり決まった、と聞いた。障がい者スポーツの面白さや、高校生にもできる社会福祉について講演を行っている。話だけじゃなくて、タケチカさんの元の職場とも提携したりして、仮想空間上で授業を受けた。障がいに関係なく多くの人と楽しく過ごせることの大切さを説いていた。
「今日、鱒田さんも来ますよ」
「外部顧問を頼んだんでしたっけ。後で合流しますので、場所だけ教えてください」
 タケチカ先生はそう言って、俺にだけ飴をこっそりと渡してきた。軽く手を振って、車椅子で踵を返していた。車輪がギュッと鳴り、小さな段差を楽々と乗り越えていく。不自由なさそうに移動していった。

 部室に行ったあと、展示会の場所としてあてがわれている空き教室へと向かう。文化祭用の内装はほとんど終わっていて、後は芳名帳を作成し、ポスターの張る場所を実行委員に確認を取るくらいで終わりそうだった。今日の活動は、各自で撮りたいものを撮って自由行動という事になる。
 部屋を見渡す。それぞれが出した写真の現像はもちろん、展示方法にも色々工夫が出来た。色々とアドバイスをくれたマスターのおかげだった。スマホに着信が入ったので、すぐに電話に出た。
「鱒田さん! 今日もよろしくお願いします」
 電話の相手はマスターだった。学校ではちゃんと名字で呼ぶことにしていた。はじめはくすぐったかったけれど、すぐに慣れてしまった。響きが似てるから、気恥ずかしかったのは最初だけだった。
 マスターが鱒田さんって名前なの、何かのギャグなの? って聞いたことがある。高校の時からずっとマスターっていうあだ名だったから、じゃあバーのマスターになるかって思ったんだって話してくれた。本当かどうかは知らないけれど、鱒田さんは気さくでなんでもできる大人に見えた。
「こんにちは。今日はどこに行きたい?」
 でも、この人だって、不完全だ。それから邪悪だ。タケチカさんと幼馴染で、タケチカさんの悩みを理解して、いいパートナーとしてコミュニティを維持してきた風だけど……。きっと自分の好みに育ててから、同時に伝手を作ってから、人肉を食べたんだ。タケチカさんの魂に寄り添ったわけではなくて、この人はこの人の欲を満たすために、効率よくみんなに優しいだけ。自分が一番得をして、一番有利になりたいなら、その場自体を作る側に回ることだ。
「今日は、街を撮りたくて。その後、喫茶店とかにも行きたいなって。食べ物を撮るコツも知りたいんです」
「カフェのご飯なら、僕の行きつけでもいいかな。おすすめだし、奢るよ。もちろん、写真の講座をしながらね」
 だから、俺もこの人の餌にならないように……。じっくりとちょうどいい距離を見極めるようにしている。電話口で、正門にすでに来ているとのことだったので、先輩たちと分かれて鱒田さんと合流することにした。
「二人共さ、鱒田さんのこと苦手?」
 予想できることではあるし、原因も分かっているけれど、あえて聞いてみることにした。少しのからかいと一匙の悪意。途端に、空気が軋むのが逆に面白い。
「絶対、お前を殴り殺すって決めてんだ」
 莉比斗の目じりが険しく吊り上がった。口が耳まで裂けそうなくらいに獰猛な様子で笑う。目も歯もぎらぎらと光って、莉比斗のこういう部分は相変わらずひそんでいるのだ、と実感するのに十分な圧だった。自分の背筋に汗が落ちていくのが分かる。
「熱烈。でも選ぶのはこっちだから」
 余裕そうにいなして、そう笑うと面白くなさそうに鼻の頭を指で弾かれた。少し痛いけれど、いっそ可愛く思えてきてしまって、俺はじゃれつくように笑う。
 ふと、宇深が大人しすぎることに気付いた。
「みーくん?」
 あえてその名前で呼ぶと、睨み潰そうとでもしているかのような、忌々しげな顔になった。同時に正門に居るマスターの姿を認めるや否や、刺し貫くほど鋭い目つきで睨みつけている。
「ますた、」
 正門へと駆け寄ろうとした瞬間、鱒田さんからは死角になるところへ、宇深が俺を引っ張り込む。校舎の壁に軽く押し付けて、宇深の身体で陰になる空間を作った。
「ッ……」
 そっと、軽いキスを落とされる。遠慮がちな触れ合いに心がくすぐったくなった。ほのかに宇深が使っているリップの、甘いバニラの匂いがする。
「どうしたの。……味見?」
「今日、部屋行くから」
「……いいよ」
 みーくんは可愛い人だ。俺に一生懸命で、リヒトがちょっかいをかけたり、鱒田さんがそばにいたりすると、マーキングするみたいに俺を食べに来る。虫に食べさせる俺の趣味も、食材として扱われたい俺のことも、今時点では一番分かってるみたいだった。
 けど、多分、俺を肉として食べるつもりは無いんだろう。

 街撮りをして、カフェへと連れて行ってもらう。ナチュラルで解放感ある雰囲気を重視したところで、女性客も多く入っていた。慣れない店に入って緊張するのは相変わらずだったけれど、内装の写真を撮る許可を得られれば、観察の対象になって気分が和らぐから不思議だ。
「カフェご飯の写真のコツはいくつかあってね。自然光で撮影できると美味しそうになるよ。オープンテラスもあるけど、今日は曇っているからまた今度かな」
 マスターが講師をしたら向いている、と思ったのは全くその通りだった。僕もカメラは勉強中だよ、と謙虚そうに言うのが彼らしいと思う。
「例えば、サラダとかだとカラフルだから色が鮮やかで華やか。背景をいれるとお店の雰囲気も伝わるし、あえて一部を切り取って撮るのも良い。情報の足し引きでストーリーをもたせるんだ」
 手ほどきを受けながら、カメラで料理に向き合う。出来栄えを確認しながらアドバイスを貰う。宇深も莉比斗も、部員として鱒田さんと関わろうとしているのが面白かった。
初めの方は疑いの目で見まくっていた。俺に全く近づけないようにしていたのだけれど、写真部の活動ができなくなるのは本末転倒だということに気付いた。二人は、牽制の意味も込めて真面目に部活動をする羽目になった、という背景もある。
 正直な所、マスターが、このレースに参加するとは思っていなかった。しかも、今のところ全ての条件を満たしているのはこの人になってしまう。写真部の活動に理解が合って、俺の姿も撮影して、カメラの勉強もちゃんとしている。食べ方の模索は……多分、この人は俺が成人するのを待ってからする気がする。大体、外部顧問として高校に割り込んで来るなんて思っても見なかった。それはタケチカさんもだけれど。

 理解のある友人に、頼れる大人。部活動に夢中になって、充実した時間を過ごす。夢にまで見た、楽しい楽しい高校生活。これが俺を餌にして成り立っているものだとしても、全くの悔いは無い。

 だって。そうまでして得たい憧れだったのだから。

『母ちゃんへ。写真は、今日のご飯だよ』
 僕はスマホでみんなの写真と、カフェで注文したタコライスの写真それぞれを送った。
 リヒトの衝動も、タケチカさんの慈心も、マスターの欺瞞も、みーくんの執着も。皆それぞれのやり方で俺を讃えてくれる、眼差しも全部。ぜーんぶ、今日のご飯。
「いただきます」
 食べられたい。楽しみたい。俺と僕の栄養になる、その人達に。

 
 了