2 被食讃歌

17

 バーの近くにある喫茶店で、俺は窓の外を見つめていた。小雨が降っていて、雨音が静かに奏でられている。周辺に誰もいなくて、貸切状態だった。多分、周辺が夜のお店ばかりなので昼間は空いているのだろう。
 アイスココアを頼んだけれど少し甘すぎたので、少しずつ飲む。母ちゃん向けに写真を撮ったけれど、送るのはやめておいた。
 タケチカさんの食事会から、俺はずっと上の空だった。あんな風に素敵な出来事は人生で何度も経験できるものじゃない。美味しかった。温かかった。夢中になった。素晴らしかった。それと同時に、宇深に直接的に食われそうになって心底恐怖した事実に自ら失望していた。食材として扱われたいのは、痛くないことも含んでいるのははっきり分かった。食われる喜びに比べたら、たかが痛みが無いくらいで……と自分に対して思ってしまう。
「なんだか物憂げだね」
 マスターの声が後ろから聞こえていた。待ち合わせの時間よりもちょっと早く合流できてホッとする。バーには慣れてきたけれど初めて入る店はどこだって緊張してしまう。
「食事会のこと、思い出していました」
 マスターを呼び出してしまったので、来てもらったことにお礼を言った。マスターは少し驚いた顔をして、「気にしないで」と花が綻ぶように笑う。この人は本当に掴みどころがなくて未だにどういう人なのか分からない。けれど、何かを叶える大人であることは違いないと思っていた。悩み事の相談という名目で、話を聞いてもらえることになったのだ。
 マスターはホットコーヒーをテーブルの上に置いて、俺の前に座る姿が、いつもと違って少しドキリとする。いつもはかっちりとしたお店の服で黒いエプロンが印象的だけれど、今日はUネックの黒い無地のTシャツに、シンプルなペンダントをしていて、セットされた髪の隙間から華奢なピアスが覗く。
「早速だけど、……何かあった?」
 俺がマスターに連絡することといえば、コミュニティのグループで開店状況に対してスタンプを返す程度の、事務的な内容しかなかった。だから突然、個別で「相談に乗ってください」何て送られてきたら、何事かと思われても不思議はない。
「……タケチカさんから、ずっとマスターに相談乗ってもらったって聞いたので、俺のことも聞いてもらえたら……と思っているんですけど」
「もちろん良いよ。どんなこと?」
「……あの、被食側なのに、痛みを嫌うのは変ですか?」
 俺の話はだいぶ下手くそだったと思う。何とか、食べられたいけれど痛いことは耐えられなくて、とんでもない恐怖を感じてしまった事を伝えた。
「まず、僕が必ず被食側のみなさんに言うことがあってね」
 何だろう、怒られるだろうか。本当はそんな願望捨てて、何かしらの治療を受けろと言われるのだろうか。
「食べられたい、というのには色々な想いが込められているんだ。それに向き合うことは、自分と向き合うことに他ならない。それは辛くて悲しいこともある。自分の核になるところや柔らかいところに触れることもある。それでも、話していい?」
 じわ、と心の奥が溶け出す。こんな風に、正面から話を聞く姿勢を持ってくれた人なんて、過去にいただろうか。それだけで俺は涙が溢れそうになる。
「……お願いします」
 涙声にならないように頷く。マスターはニコッと笑って、緊張はしないでと言う。何となく、笑い方がタケチカさんに似ていた。
「ちー君は、食材みたいに扱われるのが好きだって言っていたね。何かきっかけはある?」
「蟻が俺の皮膚を運んでいったのが、きっかけです」
 このことは既に話をしていたので、あまり躊躇わずに言えた。このコミュニティ内だったら、それほど珍しくなさそうな気がしているのもある。
「蟻に運んでいかれてどういう気持ちだった?」
「……衝撃的、でした。俺みたいな奴の、不潔な皮膚を……、散らかしたゴミみたいなものを、食糧として大事に運んでもらったこととか」
 あの時、雷に打たれたみたいな感動があった。それを全然言語化できなくて、歯痒く思う。もっと、自分の根源のところを埋めてもらった気がしたのに。
「どうして、……『俺みたいの』って思った? ずっと、いじめられてきたことが関係している?」
 根源に関わるところ。生まれて物心がついてから、ほとんどを迫害されて生きて来た、今までの時間……。頭の中に、濁流が流れ込んでくる。川を強制的に遡っていくような勢いだった。
「……ッ、すみま、せん」
 何も制御できないまま、両目から涙が溢れて来た。昔のことは思い出したく無い。楽しいことがほとんどない。
「無理しないで。少しずつやっていこう」
 マスターの優しい声に余計に泣いてしまう。誰もいない喫茶店で良かった。雨音に混ざりきれない嗚咽を何とか抑えて、口を開く。
「本当に、俺。ずっといじめられてきて。いじめられてない瞬間なんて、この夏休みが初めてなくらいで……」
 ボロ雑巾みたいにされた。母ちゃんに傷ついて欲しくなくてたくさん笑った。誤魔化した。でも心は耐えきれなかった。自分に価値があるなんて信じられなかった。
「俺を、大事にしてくれる人は母しかいなかった。それだけは救いだった。けど……」
 歯を食いしばって暮らしていた。母ちゃんが一番苦労をしていた。……だから、俺は早く自立したかった。大学まで出て人並みの生活をするならそれだけは必要な切符だったから。
「楽を、させたくて。俺が重荷なのは間違いなかった。寮のある今の学校に来て……でもまた、いじめられて、逃げ場もなくて……!」
 息がひっくり返る。自分語りではなくて、ちゃんと、説明するために喋っていたはずなのに心の叫びの蓋がガタガタと震えている。全部放出したら、自分が傷ついたと騒ぎ、自分の正当性を証明しようとするだけになる。そんなのは、見苦しい。だって、どうしようもないんだ。この気持ちを受け止めてくれるべき時に、受け止めてくれる人が居なかったんだ。本当はマスターにだって言うことじゃないのに。
「辛かったね」
 マスターの、たった一言に心の中にあるいくつかの無念が成仏していく。優しい声。穏やかな、男の、大人の人……。目を瞑ったままで溢れ続ける涙をテーブル越しに拭ってくれる。少し冷たい指先は、同級生の誰とも違う。骨ばった指に少し荒れた手で、働いている大人の手だった。
「ごめ、なさい。せっかく忙しい中、時間もらってるのに」
「気にしすぎだよ、ちー君は」
 苦笑しながら俺の頭を撫でる手つきは、とても優しい。少しずつ落ち着きを取り戻していった俺は、深呼吸をして、涙をまつ毛で切り落とした。
「蟻の食糧になったことは、俺が逃げ場のない中で見つけたら唯一の自己承認欲求を満たすためだった……と思ってます」
 泣いて少しスッキリしたからか、冷静にそう言うことができた。実際、ずっと悩んでいたことだった。被食願望として宿ったものは、単に他人に認められたいことが真にあるだけで……。食べられるなどという大それたことではなく、普通に身の安全が確保されて、勉強に問題がなく、友人ができれば薄れるようなものなのでは……と。
「その後、自分の血を吸わせた蚊を蜘蛛に食べさせてみたり……、自分のものを食される事について、良いと思う事を探しました。結果、何となく自分の遺伝子が入っているものを別の存在に食べられるのが良いなって……」
 だから、色々と試したんだ。桃色に染まる蜘蛛が一番好きだったけれど、宇深に襲われてからやめてしまった。無理に虫に食わせることは、勝手に食い散らかしてきた、あの時の宇深と重なったから……。
「なるほどね。確かにそれなら、みーくんとの相性が良いことも頷けるよ」
 マスターは足を組み直して、コーヒーを一口飲んだ。
「みーくん自体はさ、多分食べるという欲求よりも体液に触れたい気持ちのほうが強いと思うんだよね」
 多分、そうだったと思う。この前の事がなければ、俺もそう思う。みーくんの体液に対する執着と、俺の食材として扱って欲しいところは重なる部分が多いから。
「この前みーくんを怒らせてしまって……」
「何かあった?」
 俺もアイスココアを一口飲む。甘ったるい砂糖とミルクが口の中のへばりつく渇きを潤しながら、喉へと下っていく。
「食事会に行ったこと、何か……すごく怒ってて……」
 それで、めちゃくちゃに犯されました。そこまで言えたら楽だったけれど、言葉を濁す。今でも服の下は歯形や鬱血のあざだらけだ。
「ああ、なるほど……?」
 マスターは、何となく事情を察したらしかった。大人の人は、全部説明しなくても勝手に話をうやむやにしてくれるみたいだ。
「心当たりはある?」
「あんまり……。好きとか……正直言って今更? って感じですし」
 マスターは一瞬、ぽかんとした顔をしたあと、大笑いした。
「みーくんが、ちー君の事に思いっきりハマってるからだよ」
 そんな事ない、と思う。身近に居たのが俺だっただけで。同じような趣味を持つ別の人がいたらそっちに行くと思う。
 ……でも、他にハマる人がいないことも事実かなと思う。リオは多分なんちゃって趣味だから合わないかもしれないし、のあちゃんは……そういえば、宇深が祭りの日に撒いてから見かけていない。話が逸れてしまうと判断して、ちょっとだけ咳払いして切り替えた。
「それで……大元の相談なんですけど。被食側なのに、痛いのは嫌で。だからこそ、自分の承認欲求の問題じゃないかって悩んでいるんです」
 マスターは、なるほどね、と呟いて再びコーヒーを飲んだ。
「痛いのが良いっていうのと、食われたいっていうのは全然違うよ。痛みに耐えられなければ喰われたいと願ってはならないなんて、そんなわけない」
 指先をくるくるとさせながら、話に回転を掛けていく感じがした。マスターの声と喋り方は、とても分かりやすい。先生とかになったら、とても人気が出そうだなと思った。
「タケチカ君だって、そうだもの。噛まれたいという願望はあっても、掘り下げたら吸血行為に執着はなくて、血そのものにもこだわりはなくて……結果、吸血鬼が美女の血を啜る姿というのは、憧れだって結論付けたんだ。自分が美女になってまで実現したいことではないって整理したんだよ」
 弁証法で掘り下げたと言っていた内容に違いない、と俺は思った。単なるあこがれと願望は確かに履き違えやすいのかも、と思う。俺にとっての憧れは……一体なんだろう。
「で、解体されたいという風に次の願望に気付いた後も、痛みが必要なのかで彼は悩んでいた。結果、傷跡が残ればいいし、欠落しているからこそ満たされるものがあるという結論を得て、食事会を企画したんだ」
 何となく、タケチカさんらしいなと思った。きっと今は、傷跡のケアをしながら食事会のことを思い出しているかもしれない。無くなった脚を見るたびに思い返せるなんて、とても素敵に思えてしまう。
「俺にも何か……そういう実現する方法ってあるんでしょうか」
 多分、慌てて決める必要はない、とかそういう回答が来ると思っていた。ある種の予定調和になることも想定しつつ、それでも聞かずにはいられなかった。 
「うーん……。例えば、オークションとか?」
「オークション」
 すんなりと返答してもらったせいもあって、間抜けにもおうむ返しをしてしまった。そういうイカニモという催しがあるのか? と訝しむ。
「オークションって聞いて、どういうイメージがある?」
「えっと……。なんか、指でサインを出して、金額を競って、最後に一番高い金額の人が落札するっていう……」
 マスターは頷いて、微笑んだ。外れてはないみたいだ。
「オークションに掛けるのは、何も金銭だけじゃない。当事者の行いを吊り上げたってかまわないんだ」
 どういうこと? と声に出さずにいたが首が知らず知らず傾いていた。マスターは丁寧に、オークションのしくみについて教えてくれた。
「出品者からとんでもない条件を出されたとしても、絶対に欲しいと言う人はいる。金は色々な人にとって、信頼だったり共通言語だったりする。だから用いやすいだけなんだ。必ずしも金銭である必要はない」
 少しずつ、内容を噛み砕いて説明してもらう。金銭は誰にとっても一定の価値があるので、それぞれの間に立って取引が成り立つという経済と心理の話。出品者の条件として、特約を定めた上で取り引きを行う形式で相互に納得いく内容とすることも。
「満足いかない時は出品者の権利を行使して断ったっていい。こういうのは、選ばれる側が常に有利なんだ。一番強力に選ぶ権利を持つのは、実は選ばれる側なんだよ」
 俺が出品者になったら、常に選ぶ権利を得られる……? 選択の余地なんて、自分が地べたに張り付いて苦労しなければ手に入らないと思っていた。それがただの立場で決まってしまう世界がある事自体、夢物語みたいだった。
「金銭ではなく行動の良し悪しを対価にすることで、落札者を決めるという手もあるよ。出品するのは君自身ではなく、たった一つの権利で十分なんだ」
 人差し指を立てるジェスチャーをして、何かの講師みたいに笑った。
「すぐにちー君を引き渡すんじゃなくて、ちー君を食べてもいい権利を売るんだよ。実はこれ、すっごく違う事なんだ」
 マスターの提案はとてつもなく可能性に満ちた内容だった。諸条件、そんなに強気でも良いのだろうか。落札者に対して、旨みがなさすぎやしないか。
 雨音が一層強くなって来たことに気付いたのは、一通りの事を話してもらった後だった。
「時期についても君が決める条件にしたらいい。こういうのは『選ばれる側』が最も有利なんだから」
 それからは、他愛のない話になっていった。マスターとタケチカさんは、十年来の付き合いだという事だとか。タケチカさんの高校生時代の写真を見せてもらったりだとか。当たり前だけど、俺の知らない話や出来事がたくさん降り積もっているのだと知った。
「ありがとうございました。痛みについてだけじゃなくて、その、別のことも教えてもらって……」
 マスターは「こちらこそ」と言って、二人分の会計をさっさと済ませてしまった。取り出していた財布の出番が無くて、黙ってカバンにしまった。ご馳走様です、と頭を下げると、当然のことだよ、と返ってくる。
「若い人は持ち物が少ない。お金もないし、経験もなければ技能もない。でも圧倒的な眩しさがある」
 マスターは僕の頭をぽんぽんとして、何か遠くにあるものを眺めるみたいな視線で、俺のことをじっと見つめた。
「マスター……?」
 眩しさが何かは答えてくれなかった。少しの沈黙と、寂しげな微笑みが答えの代わりみたいだった。
「僕はお店に行くけど、どうする?」
「えっと……。多分、目が腫れてるので」
 何となく、少し一人になりたくてマスターと別れた。駅に向かいながら、このまま荷物を取りに帰って寮に戻ることを決めた。雨は止んでいたけれど、また泣き出しそうな空模様だったので、小走りになりながら道を進んだ。

 ◆ ◆ ◆

 夏休みの終わりが近づいてくる。セミの死骸がその辺に転がっていて、蟻が運んていく姿がよく見られるようになった。一度だけ、女郎蜘蛛の巣に掛かっていたセミを見かけた事があった。あんな大きなものでも捕らえてしまう蜘蛛の巣に感心してしまう。
 俺はまた、旧校舎裏に居た。日陰になるところで腰を下ろして、カメラを携える。
 スマホには、常に誰かしらの連絡が入るようになった。リオから買い物の誘いが来たり、タケチカさんから世間話が届いたりする。
 リヒトからも雑談みたいな連絡が増えた。とうとう寮に遊びにくるようになり、寮に戻り始めた同級生は、ひどいいじめの加害者と被害者が普通に話しているのをみて仰天していた。それでも、血を流させる行為は隙があればしようとする。手首の傷は……俺の利き腕側を傷つけるのが良いらしい。一度、風呂から上がった時に鼻血が出たのでその写真を送りつけたら、やたらと興奮した様子で電話がかかって来た。
 宇深はあれから、行為をエスカレートさせている。寮に戻ってきて、まだ人が少ないのを良いことに共同浴場で俺を茹でた。のぼせた俺を担いで、水を口映しで与えたり、介抱ついでに汗や涙を舐めようとしたり……。身体を重ねる事が常態化していて、噂になるのも時間の問題な気がしている。今までみたいな食べるための触れ方に加えて、筋肉や骨の位置を探るような触り方をする時が増えた。
『みーくんが、ちー君の事に思いっきりハマってるからだよ』
 マスターの言葉を反芻する。
 ……もしかして、みーくんだけではない? 俺は皆んなに食われるだけの愚図だと思っていたけれど、スマホは夏休み前とは比べ物にならないくらい賑やかだ。本当に俺が、選ばれる側なのだろうか。
 俺を食べるものに例えるなら、何だろう。皆に好かれるスナック菓子? 食事に欠かせない白米? あとを引く味のソース? もしかしたらもっと……もっとご馳走様めいたものに例えられるのだろうか。
 じゃあ、この通知は。俺を食べようとして集まってきているということ? 人気のラーメン屋みたいな行列? それとも落ちた飴に群がる蟻の大群? ……俺にとってはどちらも甘美な存在だ。
 俺を皿に乗せて、いただきますって顔していたとして。俺を餌に釣られてるって分かった時、どういう顔をするんだろう。俺が言わなければ、誰もそのことに気付かないだろう。虫かごの中で過ごす蜘蛛みたいに。食っている時の姿を捉えられている監視カメラに映る人たちみたいに。
 ご馳走に群がるように見えて、それは食卓の上。誰が何を食べているかなんて、実はきちんと分かってないんじゃないか。
 食って食われるというより、食われてこそ食っているという矛盾と超越に触れた。こういうと大それた妄言みたいに思えるけれど。
「そっか、だから。強気でも許されるんだ」
 たった、確信を持てること。それ一つのみに由来する、しかし揺るがないもの。自分は皆に食われる価値のある人間で、早い者勝ちにもならないし、金持ち順にもならない、希少な肉なんだ。
 慈しみを与えて、信仰と執着の間を彷徨う人たちの手を取る。その時に注がれるそれぞれの眼差し! 熱っぽく浮かされて、少しずつ、少しずつ、傀儡になっていくのだろう。
 俺を食べているつもりの人たちが、俺の栄養になる。俺に群がる人たちは、俺の食卓に並んでいるというならこれほど愉快なことはない。自分の遺伝子を取り込んで別の生き物が回っていくのは奇跡みたいだ。

 俺が人並みに生きて、未来に向かって暮らせるようになったとして……。その頃の俺と、今の俺だったらどこが一番魅力的だろう。
 若者が貧乏から脱して、涙を誘うような努力をして、ようやくこれから幸せになる……というタイミングの肉。

 それってすごい、天文学的な価値になるんじゃないか。タケチカさんのお肉をたった十人で分け合った。あの人の価値は、二十代のよく引き締まった筋肉と、程よく脂が載っていた部位だった。俺なら? 俺は十代で、青春真っ只中で、これから成長する余地を残している、発達していない柔らかい肉。物理で見ただけならこれだけだ。
 
 こんな切り口じゃ、まだ足りない。

 マスターの言葉は、思考か転がるように回り始める合図になった。

 今の俺をもっとご馳走とするには、自分の価値を高めるためのセールスポイントをまとめなければならない。物理の価値は日々下がっていく。だって、それだけで競ったら赤ん坊の肉が最上になってしまう。
 のあちゃんは全身で語っていた。可愛くて金があって若けりゃ最高。
 リオは思わせぶりに歌っていた。相手のことを理解しているアピールこそ、その人の心に足を踏み入れられる。
 マスターは教えてくれた。その人にしかない価値が絶対ある。
 俺しか経験していないことや、今でしか体験できないことを数えていく。
 単なる金銭のオークションにさせないようにしなければ。こちらから食べていい相手を決定できるものは、極めて主観的なものがいい。
 ああ、俺の価値を食える人。そんな人ってどういう感じになるんだろう。今いるメンバー? それとも何か別のタイミングで出会える、まだ見ぬ人?

 俺は、自分の足元を撮った。
 ここがスタート地点だった。金本にぶん殴られて、柿谷に無視されて、宇深に暴行されて、リヒトに乱暴されて、みーくんに食われたこれまでを、始まりの場所からまた始めるんだ。
 
 土の味を知った。便所水の味を知った。
 男と女の味を知った。人間の血肉の味を知った。
 じゃあ、これからは、何の味を覚えようか。