悪趣味な映画だった、とはっきり言えたら良かったのに。
「いやー! 派手に人間飛び散ってたな!」
映画の感想が、これ。ストーリーもクソも無い反応だ。感想ではなく反応。苛立ちと共に数々のシーンを思い出してしまい吐き気が迫り来る。
「……面白かったか?」
「まぁそれなりに? 評判通りグロくて笑えた」
笑えるって何だよ、と心の中で毒づく。こいつには想像力が欠けてるんじゃないだろうか。見た目は良くても中身が徹底的に好みではない。映画の趣味も最悪だ。
凄惨なシーンが多すぎて、何度も目を逸らしてしまった。ホラー映画というよりゴアグロだ。ホラーの皮を被っただけの駄作だ。話題の映画だから一緒に観たい! 映画館に一人で行くとかボッチ極めていて嫌だ! と笹木がゴリ押ししに来たのが三日前。正直、一人で行けと思ったが、笹木の外見は非常に好みなので、誘われて下心が湧かなかった訳ではない。得意なジャンルではないが、これも付き合いというやつだな。そう思って承諾したのを後悔した。
描写がリアルだったのもあり、目蓋裏に焼きついている。フラッシュバックに近しい景色が浮かんで、吐き気を誤魔化すようにペットボトルの茶を流し込んだ。
笹木が相手だといつもそうだ。
新卒として入社して、早三年。同期として仲が悪いわけではない。俺は営業三課で笹木は営業一課。あらゆる研修が一緒だったのもあり課を隔てていても付き合いはある。が、強引な性格で大雑把な奴だ。ガタイの良い、いかにも体育会系出身といった風で、正直言ってデリカシーがない。
「腹減ったな。焼肉行かね?」
「さっきの観た後で食えると思ってんのか」
結局はハンバーガーバーで妥協する。俺はポテトと飲み物だけにして、笹木はパテを通常の倍にしたものにかぶりついていた。
飲みながら話すのは、仕事に関連する内容がほとんどだ。
「ドカッとデカイ仕事取りたいよな。誰が見てもアイツがやった! って分かるようなさ」
「そう言っているうちは無理だろ。まずはどんな仕事も、誰もやらなくても俺はやる、ってところからじゃないと」
「でも否定はしないのな?」
「当たり前だ。結果は残れば残るほど良いに決まってる」
ポテトの塩気で、映画のダメージは回復して勢いと食欲が戻ってきた。自然と口もよく回る。
「あ〜……、部長みたいになりてぇ」
「あの人なぁ……仕事は超人的にできるけど、融通が効かないよな。柔軟性がないというか」
何の生産性もない会話だ。ただ仕事に対する姿勢だけは合うなとしみじみ思う。
「アレだな、趣味ぜんっぜんあわねぇけどお前はやっぱ良い奴だな」
大して酒に強くもないくせにビールを次々と空けていった挙句、歯の浮くようなセリフを吐かれた。
「嬉しくない」
少なからず似たことを考えてしまったことが無性に腹立たしくなり、抑揚のない不機嫌な声になる、だが、笹木がそんなことをいちいち気にする訳がない。
「またまたぁ! 女の趣味も多分合わねぇからある意味安心だわ。総務の林さん狙ってっから」
「相手にされるわけないだろ」
清楚で通っている女の苗字を出すので、鼻で笑ってやった。
「お前、タイプどんな女?」
対象は女じゃないんだけど、とは言わない。無意味だ。笹木の厚い唇がソースに濡れている。肉厚そうな舌がペロリと覗いたかと思うと、喉がこくりと上下に動いていた。
「唇が分厚い巨乳」
「マジかお前」
その顔でそれはムッツリ過ぎんだろ、と笑われる。ウルセー、とぼやくように言って、別の話を始める。これも付き合いだと思いながら、と見えない誰かに言い訳する様に嘯いて、俺も酒を煽った。
◆
明日からまた仕事だし、と言いつつ結局ズルズルと飲み、寝床についたのは午前一時過ぎだった。好みの同僚との食事。アルコールであやふやになった思考と意識。浮遊するような眠気の隙間に、あの映画のシーンがぼんやりと差し込まれる。本当にひどい映画だった。ただの作り物だとしてもだ。
赤い、暗い、断末魔。飛び散る肉片の錆臭さ。同時に湯気が立ちそうな脳を……俺は黙って眺めていた。嗅いだことのないなんとも言えぬ体液や消化途中でぶちまけられたのだろうと想像できてしまう饐えた臭い。辺りをはっきり確かめる前に目を背け、身体の向きを変えると……、薄暗い無人駅に気の抜けるような音楽が鳴っている。
「まもなく電車が参ります。乗ったら怖い目に遭いますよ〜」
生気のない声がスピーカーを通して真上から流れてくる。意味不明な内容に面食らっていると、駅の中へ列車が入ってきた。列車といっても、おもちゃの木箱みたいなものにメルヘンなカラーリングが施されたもので、既に三人の乗客が居た。一人一つずつに座っていて、一様に無言を貫いていた。異様な雰囲気に後退りするが、弾みで尻餅をつく。痛いと思うと同時に、最後尾の箱に座っていた。座るつもりなど無かったというのに。
キンと甲高い音がして、何か獣の様な声がした。我に返った頃には、理解し難い光景が広がっていた。
三つ前に座っていた人影らしきものには頭がなく、間欠泉みたく血が吹き出している。頭と思しきものは地面に転がっていて、薄ピンク色のかけらが崩れたプリンみたく、容れ物だったものから溢れている。
夢だ、これは。絶対に夢だ。駄作グロ映画のせいでこんなものを観る羽目になってしまった。
「ご乗車いただき、ありがとうございます」
音割れしたアナウンス。車掌と思しき者が車両の先頭に立っている。目深に被った制服帽のせいで表情はまるで分からないが、明らかに人ではない雰囲気だ。マイクらしきものを持つ手は白い手袋が嵌められているが、間欠泉になった人の返り血を派手に浴びていた。
「危険ですので、途中下車なさらぬようお願いいたします」
列車は動いている感覚があれど、前にも後ろにも進んでいない。二つ前には老人が、一つ前には若い女性が座っていて、項垂れたままピクリとも動かない。車掌は極めて事務的な動きで、何か点検する様に指差し確認をする。軽く咳払いをしたかと思うと、
「次は〜、活けづくり、活けづくり」
と言った。
そのアナウンスと同時に、黒い小人の様なものがワラワラと現れ、老人に飛びかかる。老人はうなだれたままだったが、やがて凄まじい叫び声を上げた。
よく見ると小人たちはそれぞれに刃物を持っており、それを使って老人を解体していた。肉を削ぎ、皮膚を裂き、内臓を引きずり出して木箱の上に積み上げていく。アナウンスの通り、老人は生きたまま解体されて訳の分からない形にされてしまった。
「抉り出し。次は〜、抉り出しです」
次は目の前に座る女性の番だ。小人が二人飛び出して来て、ギザギザしたスプーンを手に持っていた。老人が解体されている間も、静かに項垂れているだけだったが、眼球にスプーンを突き立てられた瞬間、喉が裂けるかと思うほどの絶叫が上がる。小人らは、まるで地面に埋まったどんぐりを穿り返す幼児みたく、夢中になっているように見えた。乾いた何かが反復して、カタカタカタカタと鳴っている。それが小人の笑い声だったと気付いたのは、女性が事切れてからだった。
非現実的な凄惨な状況に、息をするのも忘れて惚ける。気付けば死体は消えていた。間欠泉の男も、活けづくりにされた老人も、目玉を無くした女性も、血の塊をベッタリと残しただけで跡形も無い。
「次は、挽肉。挽肉〜」
ひきにく。
冗談じゃない。間違いなくこんなものは夢だ。そう思っていても身体はピクリとも動かない。
小人が湧き出る。円形の刃物が超高速で回転しながら近づいてきた。駆動音が腹の奥に響く。辛うじて目を瞑ることはできた。意識の覚醒に集中する。
『覚めろ、覚めろ』
と俯いたまま念じる。汗が滝のように流れ、耳元まで刃物の気配が迫ってくる。
『死ぬ! 覚めろ! 起きろ!』
髪の毛が一房切られた感覚を最後に、全身が竦んだ。
短い呼吸を荒く繋ぎ、寝室の天井が視界に広がっていると気付くまで、しばらくかかった。
夢だった。夢に決まってる。
凄まじく不快だった。夢だと分かるのに現実のような臨場感にひどく疲弊している。駅のアナウンスを流していた男の声がこびりついて離れない。
夢で嗅いだ血肉や脳の臭いを思い出してしまい、目を固く閉じた。振り払うようにして、無理矢理眠りにつく。笹木に文句を言ってやる、と脈絡のない八つ当たりを描きながら。
しかしこれは、言葉通り悪夢の序章に過ぎなかった。
◆
途轍もない眠気で、昼休み全てを使って昼寝をすることにした。目を閉じて暗闇の中を漂うも、上手く寝付けない。枕代わりの腕巻きクッションは今日買ったばかりのものだ。真新しいポリエステル生地の匂い。さっぱりしていて、清潔な香りだ。悪夢の中に立ち込める血生臭い匂いを打ち消すのにも有効そうだった。
休憩室の片隅で縮こまるのは、俺だけではない。午後のパフォーマンスを向上させるべく、会社として昼寝を推奨する社風である為、さほど目立たないはずだった。
「よ、昼寝?」
昼寝している人間を叩き起こしてまで世間話しに来るとは、どういう神経をしているのか。声の主に合点がいき、殺意にもなりそうな苛立ちを覚える。目を開けると分厚い唇にいたずら心を載せた笹木が居た。
「邪魔するなよ」
「珍しいな。寝不足?」
会話が通じない。猛烈にカチンと来た俺は吐き捨てるように言った。
「お前のせいで」
「どういうことだよ。何、俺を思って夜も眠れねぇとか?」
「しばくぞ!」
幼稚に叫び、実際肩にパンチを入れるが、しばいたところで何のダメージにもなりはしないのは分かっている。デスクワークだというのに、無駄に屈強な肉体が恨めしい。
「隈やべーな。寝てねぇの?」
「寝付けないんだよ。だからこうして昼寝をだな」
「そんなに神経細いタイプだっけ?」
邪魔するばかりか遮り気味に軽くディスって来た。カチンと来た俺はやさぐれた気分になって、八つ当たりを決行する。
「あーそうだよ。お前と観た映画みたいなグロい夢をな、三日連続で見てんの」
「マジ? どんな?」
「どんなって……」
フラッシュバックするように蘇る情景。無機質な車掌の声に、小人の嫌な笑い声。積み上がる異臭を放つ肉塊、撒き散らされる血飛沫……。瞬間、胃液がせり上がりそうになり、無理に唾を飲み込んだ。
「思い出させるなよ……」
なんだよ、余計に気になる! と無邪気に──否、無神経に食い下がってくる。根負けした俺は、結局内容を説明する羽目になった。
「変な……猿の……。スリラーカーみたいな電車っていうか、おもちゃみたいな列車に乗っててさ、乗客が順番に殺されるんだよ。車掌のアナウンスがあって、その通りに殺される。挽肉だとか、抉り出しだとか……」
そこまで言って限界だった。明確に、物理的に迫る吐き気を寸前で止めるためだけに、側に置いていた水を流し込む。
「むり」
「うわ、ガチのやつ」
顔面蒼白になってるだろう俺は、一番近い男子トイレに駆け込む。トイレの個室に籠ろうとしたがドアを閉める余裕が無かった。幸い誰も居なったが、吐き戻している姿を、後から追って来た笹木に見られた。
「おい」
言葉で返事をする余裕もなく、あっちに行けと手を振る仕草も出来ず、便器にしがみついてゲェゲェと戻す。しかし胃には固形はなく、バシャバシャと音を立てて水と胃液が混ざった液体が吐き出されるだけだった。
笹木は黙って、俺の背中を摩っていた。大きな手が肩甲骨から胃の裏側あたりを行き来する。温かい。しばらくすると、落ち着きを取り戻していた。
口を濯いで、口臭ケア用のタブレットを噛み砕く。吐瀉物の臭いは薄いものの、うんざりとしていた。寝不足な上にロクに飯も食えない。胃を落ち着かせるためにゼリー飲料を流し込み、午後の業務へと取り掛かることにした。
「喋ったら正夢にならねーっていうし、大丈夫」
「何だよ、その根拠」
始終、揶揄うような口調だったがほんの少し気遣う声音だった。
◆
その日の夜、再び悪夢に魘される。いつもと同じく、駅に居て、気が付けば列車の最後尾に座っている。
ああ、またかと思う。恐ろしさが麻痺し始めている。毎回死ぬ思いをするまで目が覚めないのが腹立たしい。自分の番になる前に何度も『覚めろ』と念じてもだ。しかしその苛立ちは霧散して別の恐怖に変わる。
俺の前に座っているのは若い女性ではなく、笹木だった。項垂れた後ろ姿ではあるが、俺が見間違えるわけがない。
「おい、笹木! 笹木!」
がむしゃらに叩いて起こそうとする。全く反応がなく、温い体温の人形が座っているのかと思うくらいだ。力無く項垂れて、呼吸さえしているのか怪しく思えるくらい微動だにしない。
間欠泉の男は変わらず血を吹き出して、老人が活け造りにされていく。時間がない。次は笹木だ。抉り出しだ!
「笹木!」
「次は、抉り出し〜。抉り出しです」
俺がいくら叩こうと喚こうと無反応のままだ。呼び掛けも虚しく、淡々と進められていく。小人達が湧き出て、笹木の頭を掴んで上を向かせたかと思うと、ギザギザのスプーンを眼球に突き立てる!
凄まじい笹木の叫び声に、全身が震え出した。止まらない。震えも、小人達も。小人達は楽しそうに、カタカタカタカタカタカタ笑う。笹木の叫び声の合間に、無理やりほじくり返される目玉が、ニチャグチグチュグチャニチャグチグチュグチャと派手な音を立てるのが聞こえた。
「さ、……」
俺は声も出せなくなる。長い長い時間が過ぎたように思えた。両目がゴロンと落ちて、笹木は叫ぶのをやめた。
「挽肉、挽肉〜」
俺の番。起きなきゃ。起きなきゃ死ぬ。間欠泉の男みたいに死ぬ。活け造りの老人みたいに死ぬ。抉り出しの……笹木みたいに、死ぬ。
目を見開いたまま息を呑む。円形の刃物が頬を掠めた瞬間、俺の身体がガクンと脱力した。
そのまま、視界に広がる景色が自室の天井に切り替わる。
「またですかぁ、お客さん。今度こそ逃しませんよ〜」
最後に聞こえて来た、やや呆れた車掌の声。今までの淡々とした様子とは違う、感情の載った声。夢から覚めたはずの現実世界ではっきりと耳にしてしまった。
真夜中。夢だ。夢だったんだ。だが、あのリアル感は何だ。俺はあまりに生々しい夢に戦慄し、笹木に電話をかける。
しかし、何回コールしても、何回掛け直しても出ない。
「ささき、ささきが、死んだ? 俺が……」
俺が話したから?
◆
そのまま始発の電車が動き出す時間となった。どうすることもできず、しかし居ても立っても居られず、スーツに着替えて電車に飛び乗った。
夢から覚めた後も、笹木の背中を叩いた感触が残っている。目玉を抉り出されている最中の音が耳から離れず、また目覚めた後に聞こえて来た車掌の声が、心臓を掴んだままだ。
会社に到着したが、何も手につかない。早めに出社してくる総務人事の社員を捕まえて、笹木に何かあったかもしれないから、住所を教えて欲しいと頼み込んだ。余裕もなく詰め寄っている自覚はある。昨夜から連絡が取れないだけで何を大袈裟な、と思っているに違いない。俺の異常とも言える態度に気圧されたのか、始業時間になっても来ない場合は……ということになった。
そうだ。やって来るならそれで良い。俺の早とちりで済むなら、それに越したことはないのだ。
だが、……笹木は出社しなかった。滅多なことで会社を休んだことが無いので、よっぽど深酒でもしたのかと部署メンバーは笑っていたが、俺は全くそれどころでは無い。
規律に厳しい部長が、無断欠勤かどうか確認するためにも午後に様子を見に行くと宣言したので、メンバー達は通常業務についた。俺は、部長の席にまで大股で近寄る。
「部長、今すぐ行きましょう」
「午後に行くと言っただろう。急ぎか?」
「気になってしまって仕事に全く集中できません。私だけでも向かいます」
はぁ、と溜息を吐かれた。何かあった場合、平社員の俺が行ったところで無意味だ。管理職の人間が確認しなければならない。それは俺も分かっていた。
俺は、理詰めで仕事人間な部長が苦手だったが、そうも言ってられない。笹木の安否確認が何よりも優先なのだ。とにかく今すぐにと、半ば支離滅裂になっていたが、渋々腰を上げた部長と共に笹木の自宅へと向かう。
賃貸アパートの、一室だった。
呼鈴を鳴らす。反応がない。ドアを叩く。気配すらない。大声で呼びかける。返事がない……。
「笹木、起きてるか、笹木!」
「よせ、近所迷惑だ。すぐに大家が来る」
部長は憔悴する俺を制した。どっしりとした声でそう言われ、少し落ち着きを取り戻す。俺が笹木に呼び掛けている間に、不動産屋を通じて大家に連絡し、鍵を開けてもらうようお願いしていたようだ。
待っている間、俺は最悪の結果が待ち受けてるかもしれないと覚悟し始めていた。
ようやく大家がやって来た。途方もない時間に感じられたが、十分も経っていなかった。簡単に挨拶と礼を済ませて解錠してもらう。
細長く短い廊下、備え付けのキッチン、1Kほどの間取り。となれば扉の向こうに居る。瞬時に判断して靴も脱がずに、入室する。
「笹木!」
部長がまた制止する声をあげたが構っていられなかった。
祈るような気持ちで扉を開ける。ベッドの上に笹木は居た。不自然なほど、肩まできっちりと布団を被っていて静かに眠りについているように見えた。
「ささ、」
覗き込もうとした矢先、笹木の顔色分厚い唇が目に入る。肉厚で生命力に溢れて、ツヤツヤとしていたのに。今は青く干上がっている…………
「おい、靴も脱がずに……」
ベッドから一人分の空間を開けたところで、俺はへたり込んだ。部長は、察したらしかった。先ほどまで「笹木、笹木」と喧しかった俺が目的の人間を前にして放心していれば、……。
部長と大家が慌てた様子で話している。俺は、ただただ笹木の大人しすぎる姿を呆然と眺めていた。何も考えられないままだったが、やがて多くの人が行き来し始める。救急車と警察が呼ばれた様だった。
笹木の死亡が確認されて、部長と大家が警察官とやりとりしている。
「そこにいるのが、笹木の同期です。彼に催促されていなければ、午後の確認となっていたかと。……おい、何か話せるか。どうだ」
部長は、放心し切った俺の代わりに聞き取りに応じていた。事件性はないものの、俺が夜中に何度も電話をした履歴が残っていたのと、朝すぐに発見したので、何か事情を知っているか、ということを聞かれた。言葉が全く耳に入ってこなかったが、何を言われたのかは理解できた。
「虫の知らせ……というものでしょうか。居ても立っても居られなく……」
当たり障りのない言葉。二人がけのソファーに座ったまま、両の手のひらで顔を覆った。ふいに、この部屋は笹木の部屋であるということを急に実感し始めた。笹木の匂いがする。座っているソファー、壁やフローリング。自分の家とは違う色合いや材質だ。ソファーに座ってテレビを見ていただろう。風呂上がりには裸足でフローリングの上を歩いただろう。ズボラな格好でビール片手にテレビを見ていただろう。
ここで笹木が暮らしていたのだ。昨日までは。
息が乱れて、心臓が胸の中で暴れ回った。急激に気が遠のく。部長と、警察が俺に何か呼びかけている。耳元で血が引く音を聞きながら、視界が虫食いだらけになっていった。
◆
「来ましたね、お客さん。今度こそ逃しませんよ」
妙に耳に響く声だった。何度も聞いた声なのに、いつもより……鮮明だ。音割れしておらず、生々しい息遣いを感じる。
我に返るようにして意識を取り戻す。周辺は駅のホーム……ではなく、赤と黒の市松模様の床が果てなく広がっていた。
「全く。無賃乗車も大概にしていただきたいですね」
車掌は目深にかぶった帽子を正して、ツカツカと歩み寄ってくる。途轍もない危機。死そのものが迫るような、災厄そのものが圧し掛かるような、そういう、人間一人では対処のしようのない存在に思えた。咄嗟に後退りすると、車掌は足を止めた。三歩ほど先の距離になると余計に恐怖による圧を感じる。
「ふむ? 慌てふためいて、背中を見せるかと思いましたが……」
車掌は芝居がかった仕草で、何か思案するように右手を口元に持っていくポーズを取る。
「……何なんだ、あなたは」
震える声を何とか律しても、口にできたのはほんの数単語だった。多くを言葉にできない。少しでも気を抜いたら喚き散らしながら逃げ出したくなる。車掌は俺の問いかけには答えることなく、何度か頷いて、やがて笑い出した。
「気が変わりました! 何度も何度も逃げ果せるということは、引き寄せられる因果を持ちながら、死ぬ因果が薄く、業もない。なら作りましょう。私とあなたで!」
まるで劇場に引き摺り込まれたかのようだった。事務的なアナウンスとは違い、狂人が発する世迷い言は、妙な熱を持って俺の動きを封じる。
「ええ、ええ。あなたは心優しい人なのでしょう。しかし優しいあなたですら、ほんの少し許せない人がいたのでしょう。あなたの心の片隅に溜まる、集め損なった塵芥」
車掌はゆっくりと近づいてきて、俺の胸元を指差す。黒くて長い爪は、呪いに満ちていそうにおどろおどろしい。
「かの同僚もそうでしたでしょう?」
名前が無くとも分かる。笹木。そうだ、笹木はここで殺された。現実では心不全でもこちらでは抉り出しだ。腹の底からぐらぐらと何かが込み上げる。
「仕事を押し付けられ、ミスをカバーしてあげても手柄はあちら。しかも本人は対して感謝もせず……。嫌な同僚ですね、ええ。死んで当然です。
ほら、あの方もどうなんです? 確かあなたの上司で、融通がきかない……」
「やめてくれ、そんなんじゃない!」
恐怖に打ち勝ちやすい感情は、怒りなのだと知る。真っ直ぐに車掌を見据えると、帽子で目は見えず、への字口にしている顔があった。
「そんなの、誰でも、俺でも、そういうところはある。完璧じゃないんだ。だから、……」
「だから、仕方ないんですか? それはそれは、……愚かというか、哀れというか」
ぐ、と言葉に詰まった。俺だけが受け入れる馬鹿馬鹿しさに理不尽さを感じることはある。けれど、それを言い出したら全て排除することになるのだ。そんな論理、正しいわけがない。だから、仕方ないと言うのだ。
「ふふ、なるほど。そんな貴方だから、私から逃れられるのでしょう。追いかけたことはありませんが、貴方を何度でも此処へ招待しましょう!」
車掌はより芝居がかった素振りで、腕を大きく広げて笑う。カタカタカタカタと微振動するような音。その音がし始めた途端、俺の身体はガクガクと震え始めた。笹木が死んだ時に鳴っていた音。小人達の、笑い声…………
見ものですね。
底冷えするような声が頭蓋に響く。逃げ回る夜が始まった。
◆
いつもよりひどい夢だ。どれほど経ったのだろう。他に乗客が居ない列車に一人、最前席に座らされている。数々の処刑じみたアナウンスから逃げ惑い、何回も何回も繰り返されている。
次は挽肉、というアナウンスが聞こえて来た。間の抜けた声に釣り合わない物騒な内容。妙な機械が俺の頭上を通過して……無数の刃物が円形に回転する。
『覚めろ、覚めろ、早く!』
風圧を頬に感じたところで、カクンと身体から力が抜ける。
「ふぅむ、なるほど。心底命の危険を感じると離脱してしまうのですね。困りますねぇ」
悪夢から覚めたように汗をびっしょりとかいていたが、目覚めても悪夢だった。
「なら、これはどうでしょうか」
次は、切り裂き〜。切り裂き〜。
車掌がハンドマイクを通して発せられたアナウンス。それと共に、小人達がわらわらと出てきて、それぞれハサミを持っていた。
反射的に逃げ出そうと身じろぎしたが、全く動かない。座席に縛られてしまっていた。シャキン、シャキン、という金属が擦れる音が耳元に迫る。切り裂き。何が待っているか想像に難くない。
『覚めなきゃ、覚めないと、死ぬ、死ぬ!』
金属音が身体の芯まで響く。髪と服が切られるのを感じながら、意識が遠のいた。
「これもダメなんですかぁ〜。心配症ですね〜」
呆れたような、面白がっているような声。音割れした不明瞭な声なのに、愉快そうにするのがありありと見える。
「次は〜、……ふふ」
マイクでアナウンスをせず、ニタリと笑った。真っ暗な口の中には歯も舌もないように見える。おぞましさに対する恐怖を隠すことは出来ず全身が震える。
小人達は現れていない事に気付いた。アナウンスを通さないと、出てこないのかもしれない。だからといって、車掌から逃げられるわけではない。いつの間にか拘束を解かれていたのに、近づいてくる足音を聞くことしかできない。
車掌は俺の手を取って、手の甲に唇を押し当てる。金縛りにあったみたいに動けない。アナウンスが無いので何をされるのか想像もつかないのが余計に怖く感じる。
目が覚めるよう念じながら要らないことを考えてしまった。
こいつは何をするつもりなのだろう。
指先から身体を割くのか? 手首ごと捻じ切るつもりか? それとも…………
「気になりますか?」
車掌は再び笑みを深くして、俺の指先に唇を移動させた。冷たくてわずかに柔らかい。爪の先に車掌の歯らしき硬いものが当たった…‥かと思うと、凄まじい力で引きちぎられた!
「次は、引き剥がし〜。でした」
あははははは! 劈くような笑い声が響いて、訳が分からなくなる。
引き剥がし。爪が。爪を噛まれて、剥がされたんだ。
あまりの痛みに叫びそうになるが、口が縫い付けられていた。開けようとすると、糸が引っ張られて痛い。
「なるほど、なるほど、なるほど! 貴方、想像力が豊かだから、その先を鮮明に描いてしまうのですね!」
車掌の言葉がうまく聞けない。その先? 分からない。はらわた撒き散らして死ぬような数々、誰が聞いても想像できるというのに。
「嗚呼、痛がりなんですねぇ。爪が剥がれただけで、死にそうな顔をして……」
恍惚とした表情に得も言えぬ恐怖を味わう。より痛みつけるためなのか、傷口を舌で舐りだした。
爪が剥がれただけ。そうだ。その通りだ。しかし激痛には変わらず、反射で身がすくみ、呼吸が荒れる。
「そのうち、口が縫い付けられているのもお構いなしに、絶叫をあげるでしょう。嗚呼、嗚呼! 想像するだけで楽しみです」
ぽっかりと空いた眼窩が俺の顔を至近距離で覗き込む。真っ暗闇。己の両目からだらだらと流れる涙に気付いたのは、車掌が両手で俺の頬を挟んで、涙を拭ったから。
「今日はここまでにしましょう。明日のご乗車をお待ちしております」
トン、と身体を押されると、果てのない谷へと突き落とされるほどの対空。
これで死ねたら一番良いのに。
見慣れた天井を眺めながら、嗚咽を漏らした。