◆
あいつが死んでから二日経った。
告別式を執り行うとのことで参列する。黒いネクタイをしたのは初めてだった。あいつの地元は電車で二時間半ほどの片田舎だったが、道中何を考えていたか思い出せない。
同級生らしき人、ご近所さん、老若男女が集まって、笹木の唐突な死を悼んでいた。無神経な奴だったが、それ以上に魅力あふれる人間だったことが、集まった人々の表情を見れば分かる。遺影の笹木は、俺が知っている姿より少し幼かった。
『死んだ、笹木が、死んだ…………』
夢の内容を話したからだ。偶然と思えるわけがない。昨日のあの車掌の台詞からして、分かっていて招き入れ、殺したのは明らかだ。
『俺の、せい……』
あいつの親族よりも死にそうな顔をしてる自覚はあった。俺はなんて気配りが足りないのか。ひどく悲しむ人を見ると冷静さを取り戻してしまい涙が引っ込むことだってあるというのに。
俺は、……涙こそ出なかった。それでも血の気をなくしたままである。
笹木の死に顔は穏やかだった。顔が驚くほど白い。俺もあいつも……夢に血液を置いてきたんだ。一人暮らしの部屋で見つけた時よりも、更に静かな眠りに就いている。
だけどお前、抉り出しで死んじまったんだろう?
痛くなかったか。痛かったよな。怖くなかったか。こわかったよな。助かりたかったか。助かりたかったよな。
助からなかった。助けられなかった。
笹木は、俺にとって良い奴ではなかった。仕事のフォローを当然のように受け取るバカでもあるが、憎めない奴だった。
性的な目でも見ていた。魅力的な奴だった。無神経だし頭が足りない奴だと思うこともあったが、こんな死に方をしていい人間ではなかった。
俺のせいでごめん、と言えるなら楽になれただろう。言えない。言えるわけがない。
正直そんな場合ではないのだ。
とにかく怖い。
こっちでは心臓麻痺や心不全かもしれない。でも向こうでは挽肉かもしれないんだ。怖くて、怖くて、今すぐ泣き喚きたくなるくらいだ。
「あの……」
話しかけてきたのは小柄な初老の女性だった。笹木の母親だと、口元を見て分かった。ぽってりとした唇を引き結んで、涙を溜めている。
「この度は……」
お経の邪魔にならないよう、小声でお悔やみを述べる。笹木が死んだ状況を警察から聞いているはずで、おそらく俺が、同期の友人であり……所謂笹木の第一発見者であると分かっているはずだ。
死ぬ前日に変わったことがあったかとか、何故それに気付かなかったのかとか、何か恨み言を言われるかもしれないと覚悟していた。
「あの子にね、心配で駆けつけてくれる友達がいるって分かっただけでも、良かったと思ってます」
肩から腕にかけてさする様に触れ、俺の両手をしっかりと握った。涙の膜が張られてある瞳は力強さがある。子供を亡くしたばかりの親が、俺みたいなダメ人間を……どうして励ませるのだろう。
「違います。もっと……、俺がもっとしっかりしてたら……」
「思い詰めないで。人間じゃどうしようもできないくらい、急なことはありますから」
ね? と小首を傾げ、少し無理をした笑顔を向けられる。俺はいよいよ情けない気持ちになって、無言で頷くしか出来なかった。
人間では、どうしようもない。
本当にどうしようもないのなら、俺もあの棺に入って、今すぐ燃やされた方が良いのではないか。
棺の中に手向けるはずの百合を手放せないまま、出棺を見送る。
骨になるところまではとてもじゃないが見られない。おかしなくらい身体が熱い。額から汗が滲む。
俺も。もしかしたら。訳の分からない殺し方をされて。カラッカラの骨に……
火葬場へ移動する団体からそっと抜ける。こんな具合で居ては、迷惑がかかる。笹木の両親に挨拶を済ませ、会場を後にしようとした。
「おい」
聞き覚えのある声がして、正面に視線を持ち上げる。部長が居た。考えてみれば当たり前だ。俺と同じく笹木を発見して、部下の告別式なのだから。
「明日から五日休め。どう考えても仕事にならないだろう」
俺の顔を見るや否や、第一声がそれだった。今までなら少しは情緒を考えてくれ、と思いそうな言い方だったが、心配されているのは明白で、少しも嫌な気持ちにならなかった。
「ご迷惑をおかけします」
「休みの間、気持ちを切り替えろ」
悲しむなら目一杯悲しめ、と言われているのだと感じる。ぶっきらぼうで誤解を招く人だなと、少しおかしくなる。あの車掌……あれは人間のことを、何も分かってない。この人は優しい方なのだ。
「お気遣いありがとうございます」
「……何か困ったことがあるなら、連絡しろ」
これまたぶっきらぼうに、部下のパフォーマンスを管理するのが俺の仕事なんでな、と付け加えられた。私用の携帯番号を記したメモを渡される。再度お礼を伝えると照れ隠しなのか、無言で何度か頷くだけになった。
「見送らなくて大丈夫か」
どちらの意味か分からなかった。笹木のことなのか。俺のことなのか。
どちらにしても答えは決まっていたので、
「大丈夫です」
と言って、お辞儀をした。
部長と別れてすぐ、急激な眠気に襲われた。あまりにも眠い。その辺のベンチに寝転びそうになるくらいに。大慌てて、駅前近くのビジネスホテルへと入る。
『あいつがくるのかも』
そう思いながらジャケットも脱がずに倒れ込んだ。
◆
ひどく頭が痛む。喉も張り付くように渇いている。無理矢理に瞼を開くと、ペットボトルに入った水が目についた。身体を起こして手に取るだけで、全身が押さえつけられている様に重い。渇きが勝ったので、どうにか蓋を空け、貪るように飲み干した。
ビジネスホテルに居るはずだ。覚えている。ここのところ、碌な睡眠がとれていなかったのと、参列して疲弊したせいなのだと思っていた。
水を飲み干して気付く。こんなもの買っただろうか。途方もない眠気に襲われてベッドに倒れ込んだので、余裕は全くなかったはずだ。俺は……何を飲んだ?
ペットボトルに入っていたのは無色透明な水ではなく、赤黒い液体だった。急激に吐き気が込み上げ、胃がひっくり返る。激しく咳き込んでしまったが、苦しさよりも訳のわからなさが勝った。
何かがおかしい。
呼吸を整えながらあたりを見回す。俺は喪服だったはずだ。なのに何故、普段着なんだ? ホテルの部屋も、普通のビジホだったはずだ。なのに何故、和室の部屋が真隣に続いているんだ?
古めかしい箱型のテレビ。砂嵐が映っている。不意に画面が乱れ、見知った人間が映し出された。
部長が、映っている。あの列車に乗って項垂れている後ろ姿。
そこにいたら……!
「何でだ! 何でなんだ! 部長は関係ないだろ!」
テレビに掴みかかって何度も叩く。跳ねるような、隙間の空間が振動する音がするだけで何も影響しなかった。
回転する刃物が部長に迫っていく。死んでしまう。このままでは!
「やめろ、やめろ! 俺が代わるから! やめてくれ!」
「言いましたね? 約束ですよ〜」
不明瞭なマイク音声。どこかとぼけた声音に不気味な笑いが混じる。
ザァ、としたのは音割れか、己の血の気が引く音か。
◆
逃げ惑う夜が再び幕を開けた。息切れとドクドクと口から出そうになる心臓。まだ生きてるんだと言い聞かせることで心を支える。
いくつか分かったことがある。引き裂き、賽の目、爛れ焼き、……。即死級のものはアナウンスを入れないとならない。そうしないと小人が出てこないし、道具も出てこない。
つまりアナウンス無しに行われるものは殺傷能力が低い。だからといって、恐怖から痛苦がないわけではない。シンプルな危害が最も逃げにくい。首絞めは凄まじい苦しみを味わった。もがきにもがいて、やっとの思いで逃げたが、車掌側も何らかのコツを掴んだのか、別のステージに閉じ込めてくる。
その応酬の何度目か。長い長い時の中、全く目覚めることができず気力が目減りする。
『集中しないと、死ぬ。死を、あいつから目を逸らしたら、死ぬ……!』
拘束も口縫いも無く動き回れるのは良い。汗もかかない。リセットされるたび肉体的な疲労は消える。ただただ、精神のみが削れていく。
「随分、余裕そうですねぇ? 慣れてしまいましたか?」
アナウンスばかり流していた車掌が、不満そうに声を上げた。
「ちゃんと怖がってください〜。私は、恐怖と叫びを得た上で命をいただきたい訳なので」
容易い怒りが湧く。何故、俺がこのふざけた空間に付き合わされなければならないのか。俺の周辺ばかり狙って死をもたらして、俺が一体何をした!
反論のために口を開こうとすると、ベルトのようなものが地面から生える。身体に纏わりつき、手首と足首を雁字搦めにされた。
「ンンッ、んー! んー!」
「良いですねぇ! お似合いです。その調子で、どんどん嫌がってください」
口の周りもぐるぐる巻きにされ、くぐもった声でしか拒否を上げられなかった。脚がもつれて派手に転ぶ。まずい。この状態で上から押しつぶすようなものが来たらひとたまりもない。だが正面から来るかもしれない何かに背を向けるのも悪手だ。膝立ちの状態で、車掌を見据える。
「次は〜、だるま落とし、だるま落としです」
アナウンスによって現れる小人たちは、それぞれ奇妙な形をした刃物を持っていた。草刈り鎌みたく刈り取る形をしていて、ぎらりと鋭く光る。
だるま落とし。手足を拘束した俺を、下から、順に……。
手のひらがやたらと冷えた汗で濡れる。横一列に並んで飛びかかってくる小人達から逃れるには、縦に逃げるしかない。だが、この状態で? 状況的には既に詰みだ!
「大丈夫ですよ〜、すぐには死にませんからね〜」
機械で割れた音声がやたらと近くで聞こえる。下から斬るから、即死に至らないと? どうやって逃げる? 馬鹿みたいな理屈だが、片足と片手を犠牲にしなければ拘束は解けない……。
要らぬ考えに頭を振って、自分の中から追い出す。逃げなければ死ぬのは間違い無いのだ。
『すぐ、後ろに!』
不恰好に逃げ出すが、右足首を切り落とされて転倒した。爛れるような痛みが襲うが、絡まっていたベルト部分が外れる。それでも、全身に纏わりつく部分は少しも緩まなかった。
ああ、そうか、このベルトは止血帯の役目をしているのか。だから、すぐには死なないと!
わざわざ止血帯を施した上でのアナウンス。つまりは追い詰める気満々で、死に直面させずに痛みを与えようとしているのは明らかだ。逆にヤバいと肌で感じ、片足でも逃げようとする。
カタカタカタカタカタカタ。振動するような音がより近くなり、左手、右腕、左脛……次々と手足を切り落とされてとうとう走れなくなる。地面に伏し、這いつくばってでも距離を取ろうとするが、小人たちにさらに手足を細切れにされた。
「ン"ンーッ! ゔぅ、ゔッ、んんん"ぅーッ!」
膝や肘よりも短くされる。叫びを上げても口が塞がれているせいで、獣のような声にしかならない。それが余計に、車掌を喜ばせたらしかった。
「ぬいぐるみのように愛らしくなりましたねぇ! 気分はいかがですか?」
瞬時に小人達は消え、同時に車掌が覆い被さってくる。派手に切り落とされた割に、血が出ていない。それでも辺りを血塗れにする程度には出血している。手足の感覚はなく、ただただ出鱈目に無い手足をバタつかせた。
「あなたが女性なら、お土産を持たせることもできたんですがねぇ」
両肩を押さえつけて、首元をべろりと舐め上げてくる。生理的な嫌悪感が凄まじい。鎖骨に溜まっていた血を啜られて、全身が総毛立つ。
「しかし……男性であれば、終わりがありませんから。それはそれで」
舌舐めずりするのが下卑た笑みに見える。
何だ? 何の話をしている?
指先が鎖骨から胸を伝い、腹をたどり下腹部を通過して……俺の臀部へと向かっていく。
「ン!? ン"ぅ……!」
あたりの血を掬って、双丘の奥へ塗り込まれた。激痛の中でもその感覚だけはやたらとはっきりしていて、反射で身がすくむ。
「ふ、ぅう、ゔぅ、ン、んんゔぅ、ゔ……!」
わけがわからず、怯えが身体中に満ちる。指は二本、三本と増え、遂には手首まで飲み込んでいった。そんな風に入るわけがないのに、抵抗すればするほど身体は反比例する様に、車掌を受け入れていく。
中で手首を返されて、ぐるりと拳が反転する。何度も向きを変えられてその度に身体が拒否を示すが、車掌はお構いなしだった。
「柔らかくしましょうね。肉は刺しておけば繊維が切れて、すっかりほぐれますから」
拳が中で開かれて、内壁をめちゃくちゃに突き刺す。脳みそが痛みを熱さだと勘違いしているのか、全身から汗が吹き出した。
血で余計に滑るようになったのを良いことに、車掌の暴虐はエスカレートしていく。引き抜かれたかと思うと最奥を抉られ、腹の中から殴られている感覚にみっともなく泣き呻いた。
「ン"ッ! ンン"ッ、ううぅ、うぐ、! ン、ゔぅ、ゔ〜〜〜〜!」
身体が自分の意思から切り離されていく。激しい痛みと、恥辱と、恐怖の渦に飲まれているはずなのに、俺は腹の奥を突かれる度に断続的にイッていた。
「ははっ、嗚呼、たまらない……。なんて楽しいんでしょう!」
俺の反応がお気に召したらしい。玩具以下の扱いだというのに、何故俺は、感じている? 車掌は無邪気に俺の中を傷つけて暴く。興奮して荒くなる息が、首にかかる。
「ずうっと待っていました。あなたが逃げず、私が楽しくなることを!」
拳が引き抜かれたのも束の間。車掌の怒張が遠慮なしに押し入ってきた。体験したことのない痛みが身体を貫く。
「ん、ぐ、ふぁ、あ"あ"あ"ぁ──ッ!」
ベルトが口元からズレて、解放される。それと同時に俺の声とは到底思えない、喉を裂く音が出てきた。
『何を、何をされてる? 覚めないと、もう、……』
逃げなければ、俺はどうなるんだ?
「まだ逃げないでくださいよ」「今日は死にませんから」「明日はわかりませんが、機嫌がいいんです」「この後のダイヤはありませんし、遊んでくださいよ」……
律動の合間、耳元で囁かれて発狂しそうになる。涙を拭う手がない。逃げようと手をついて、走り出す為の足もない……。
「っゥウ、ゔ、ああ、あ"あ"! アァ、ッ……!」
「はっ、はぁっ、良い、そんな風に、見上げられたら、堪りませんね……!」
車掌と、セックスしている。何故? 俺は、本当なら笹木とセックスしたかった。あの唇にむしゃぶりつきたかった。あの胸筋を好きにしたかった。
俺は、なんで、手足を捥がれて、こいつに犯されている?
「あ"、あ"あ、ああぁ"ッ、あぁ……っ」
痛みは上限に至り、しかし気絶もできない。腕の傷口に車掌の舌が這う。鮫みたいな歯があらわになり、血に濡れててらてらと光る。
前に、この歯で爪を引き剥がされたことがあった。もしかしたら食われるかもしれない。このまま齧られて、剥き出しになった骨をしゃぶられるかもしれない。
「良い、良い、良いですね……嗚呼、たまらない!」
恍惚とした表情。眼窩には何もないのに。ひどく歪んだ笑み。中に、車掌のものが注がれる。何度も、何度も。
最奥に叩きつけられる脈動も、液体の感覚も、粘ついた白濁も、この人ならざるものから発せられるわけがないのに、生々しい感覚に身を捩る。
「殺せ、殺して、もう殺してくれ、なぁ……」
耐えられない。暴力や死の恐怖は立ち向かえるのに。こいつから注がれた何かが俺を作り替えていきそうな気がして、生きながら違うものに作り替えられる不気味さには、意識を放棄したくなる。
車掌は、俺の懇願をいたく気に入ったらしかった。胸を刺すような笑い声がして、更に奥へと突き立てられる。
「あ"っ、ぅあ"ッ、は、ぁ"、あぁぁ!」
バチュ、バチュ、と激しく打ち付けられ、無慈悲に凌辱されていく。開け放したままになった口の中から、腹を押したら鳴る人形みたいな音が漏れた。
「いいえ! 死なせませんよ。あなたが私から逃げた数だけ、私もあなたを逃しません。死んでしまったらそこで終わりなのですから、希望は捨ててはダメですよ〜」
「ッ、そん、あ"……! ア、ア"ァァッ!」
首に噛みつかれ、弾みで穴が窄まる。車掌のものが一際膨れ上がり、大きく爆ぜた。
「次は、〆あげ、〆あげです」
絶望の淵に立たされて、不意にあいつの後ろ姿を見かける。
死ぬ直前の、力なくうなだれたあいつ……。
◆
首を絞められながら、あるいは皮膚剥がされながら、あるいは鋸で手足を更に短く切り落とされながら、あるいは腹を真ん中から開かれながら、あるいは、あるいは、あるいは……。そうされながら犯され続けた。殺してくれと何度も懇願して、嘲り笑われながら注がれて、……血と精液らしきものに塗れて、今もその感覚が落ちない。
俺は今、どこにいる? 見慣れているはずの部屋なのに居心地が悪い。一人暮らしのワンルーム。あいつの部屋と違うのは、昼光色の明かりであること……。夕暮れみたいな光が好きだったから選んでいた。今は、暗闇が怖いからという理由で、家中の照明を点けている。
曜日の感覚がない。俺は、……今まで何をしていた人間だった?
四角い機械がけたたましく鳴る。スマホ。スマホが着信音を上げている。ああ、……誰かが、連絡してきている。
散漫になった意識をかき集めて、画面を見ると〈部長 私物スマホ〉と表示されていた。登録した覚えがない。部長とは……、そうだ、部長だ。
……俺が、部長の代わりになると言って、それから……。
まさか!
慌てて通話ボタンをタップする。早く応答しなければと気持ちが急いた。
「オ待た、せしマした」
思った以上に掠れていた喉に、言葉が所々引っかかって上手く発音できない。それよりも、通話相手が誰であるのかが重要だ。脂汗が吹き出る。
「休みの所、悪いな」
本人のようだった。訃報でないことが分かり力が抜ける。休暇の最終日なので、様子を確認するための連絡である旨を伝えられた。
相変わらず、理屈っぽい言い方だった。
「全く。お前しか知らない仕事を抱えすぎだ。他所の雑務を必要以上に請け負うな。これを機にお前の業務整理をするからな」
俺は曖昧に返事をする。反応が悪い俺と部長の間で、沈黙が流れたが数秒で消え失せた。
「ブ長は、オ変わりなイですか」
俺が列車に乗った部長と代わると言ったのに、あいつから散々逃げ回ってしまったのだ。生きているとしても、何かしら害が出ていたらと気が気でなかった。
「何?」
「ふ、フふ……」
だが、杞憂だったようだ。この人は仕事人間のままだった。合理的なままだった。変わっていない。存命だし、何か不幸が起きた風でもない。ここ最近で久しぶりに……本当に、久しぶりに感じた喜ばしい事だ。
「何か、あったのか」
訝しむ声。眉を顰める表情がありありと浮かぶ。ああ、良かった。部長の平和は守られた。これで良いじゃないか。俺が、俺だけが、こんな目に遭うのは俺だけで……。
「部チョウ、」
週明けから出社しますのでお願いします、と言おうとしたはずだった。喉が引き攣る。制御不能になってすぐに嗚咽が漏れた。
「助けてください……!」
せっかく助かった人を巻き込むなんて、お前は人殺しだ。一人で死ねばいいのに。
泣きじゃくる俺を、切り離された冷静な俺が冷たく見下ろしていた。
要領を得ない説明だった上に非現実的な事情にも関わらず、部長に話してしまった。部長は「分かった」と一言、返してくれた。否定することも、馬鹿にすることもせず、「明日時間をくれ。遠出する。始発で品川駅に来い」と言われて、通話を終えた。
泣き疲れてしまったにも関わらず、全く眠れなかった。引き摺り込まれた悪夢の中、感情が麻痺しているのだと少しずつ理解していく。眠ると再びあいつと対面するかもしれない。日の出前にタクシーで品川駅へと向かい、始発を待った。
「ここに行く」
朝日が出た頃に部長と合流する。挨拶もそこそこに切符を渡して来た。言葉少なに渡されたのは新幹線の切符だった。
意外にも部長は話を信じてくれた。新幹線の中で弁当や茶も用意してくれたので、昨日の今日で最大限の準備をしていると感じ、少し呆気に取られる。
「これから、どこへ?」
「俺の生家だ。そういう話に強い坊さんが近所に居る。話も通してある。」
しばらく無言になる。だが居心地が悪いものではない。張り詰めていた気が、静かに緩んでいく。うとうととした気持ちになっていった。
「少し寝ろ」
「ですが、」
夢の中でレイプされてます、何で言えるわけがない。身体を気遣ってくれているのは分かるが、……。部長の隣で死んだら、迷惑になる。
「気休めだ。持っておけ」
部長が取り出したのは、絹で編まれた紐のようなものだった。真っ白で艶がある質感を、しばらく撫でる。触れているだけで、何か癒されるような心地がした。
一端を左手首に巻き付けてから握り込むように言われる。部長は右手首に巻いて握り込んだ。何となく現実と夢を繋ぐためのものなのかもと思った。何かあったら引き上げるような……。
「部長に、もし害が及んだら……」
そう言っている間に強烈な眠気が襲いかかる。不明瞭になる視界の向こう側、赤い紐で結ばれた何かが見える。
「何かあれば起こしてやる」
穏やかな声だった。柔らかな白い布が頭に浮かんですぐに溶けていった。
◆
水面からゆっくりと浮上するように、静かに目が覚める。部長は窓の外を眺めていた。乗客が増えており、少し賑やかになっている。
「効いたみたいだな」
振り返らずにそう言われた。悪夢は見ていない。覚えていないだけかと一瞬思うものの、すっきりとした目覚めなのでそうは考えにくかった。
そのようです、と言い、何となく紐に目を移す。それはお守りの類いなのだろうと予想はついていたので、その変化に背筋が凍る。
絹の紐は真っ黒に染まっていた。
「まだ時間がある。寝ておけ」
部長は手早く新しい絹紐に取り替えていった。再び短い睡眠を取り……。結局、乗車している間に握った絹紐は全て黒く染まっていった。
新幹線から降りた後、ローカル線に乗り継ぎ、そこからはレンタカーとなった。車でなければバスと徒歩になり、かなり時間がかかるらしい。到着したのは昼時を過ぎた頃だった。
土産屋と民家があるが、人が少なそうな様子で、長閑な田舎道がどこまでも続きそうなところだ。自然に馴染みのない俺にしてみれば、新鮮な景色だった。
「ここだ」
部長の生家はいかにも古い家だった。お屋敷とまでは言わないが、都心ではまず見ない大きさの家。石造の門が余計に荘厳そうにみせる。門をくぐると、つやつやとした芝生がきらめいていた。
出迎えてくれたのは、部長の弟だった。部長とは対照的にとてもにこやかな人で、奥さんも穏やかそうな人だった。部長は、玄関先で弟夫婦と俺をそれぞれ紹介すると、踵を返した。
「坊さんを呼んでくる。ゆっくりしていろ」
命令口調なのは相変わらずであるが、随分と気遣いしてもらっているのは分かっている。何にもないところですが、と通されたのは八畳ほどの和室で、低めの広い机があり、座布団が五つ置かれていた。
「突然、押しかけてしまい申し訳ありません」
「良いんですよ、お気遣いなく」
待っている間、簡単な世間話をする。二人には息子が三人居るらしいが全員独立しており、末の子が俺と同い年だということだった。
俺からは、部長の仕事ぶりや職場での様子を話すうち、打ち解けていく。
「兄さん、気難しいでしょう。いつも不機嫌そうな顔だから」
「いえ、そんな。とても頼りになるお方です」
ここまで俺を連れてくる行動力には驚かされた。尊敬していて頼りになると思っているのは嘘ではない。だが苦手意識を持っているのも事実なので、ほんの少し汗をかいた。
しばらくして、古風な呼び鈴が鳴った。ビーッとブザーみたいな音がして、玄関先の引き戸の音がする。重そうな扉なのに、ずいぶん軽快な音がするんだな、とどうでも良いことを思う。
トントンと軽そうな足音をさせて現れたのはお坊さんはだった。袈裟姿のふくよかな人で足音からしたら意外な体型だった。
何故か厳しくて怖い顔つきをしていて、ひどく怒られるような気がしてしまう。
「初め、まして。ご面倒をおかけします」
座布団から降りて、三つ指をついて頭を下げる。畳での作法がいまいちわからず、いつ顔を上げていいのかも分からない。
「お堅くならず。顔を上げて」
俺の正面に座り、茶を一口飲んで、しばらく無言で俺を見続ける。視線をどこに置いて良いのかわからず、お坊さんの首元を見ていた。
どれほど時間が経ったか分からないが、お坊さんが不意に破顔する。
「よく来たね」
その一言で、ジュッと胸の奥で何かの火が消えた。途端に、緊張の糸が切れたような気がする。
「大変な目にあったはずだ。それくらい変なものに魅入られてる。だが、夢なんだ。夢にしか出てこれない弱い存在だ。夢の中でされたことが何であれ、怯えたり、傷ついたりする必要はない。尊厳も失っていない。分かるね?」
何も話していないのに。
ここまでのことを言われれば、誰だって驚く。
この人は、分かっているんだ。俺が夢の中でどんな目に遭っているか……。
「あ、……」
だら、と締まりのない目から蛇口を緩めたみたいに涙が流れていった。それは、……流し損ねた涙が溢れ出ているように思えた。
「今、君はとても弱っている。だから心が穏やかになる手伝いをするし、癒えるように手助けすると約束しよう」
本当は、私がすることはほとんどないのだけれど。柔和な表情で頭を掻く姿に、親しみを強く感じる。
「生きている人間は強いんだ。正確にいえば、生きようとする人だ」
言葉が温かく染み込んでくる。水漏れする水道みたいな涙は、今流しておかなければならない涙だと分かる。パッキンの役割をしていた感情がダメになっているのかもしれない。
自信がないのだ。生きようとするのを諦めて、あいつに殺してくれと懇願した俺が、……どうやって生きればいいのだろう。
「俺は、どうすれば」
とにかく毎日、絹紐を手首に巻いておくこと。人が居るところで寝ること。乗り物が怖いなら避けること。幾つか対処法を挙げられていく。
「悔いなく生きる……と言っても難しいかもしれない。でも、それが一番だ」
人生を振り返り、これからを考える。笹木と語り合った日の、ハンバーガーバーでの会話。煌めく熱意……。笹木の分まで頑張りたい。これからの俺が出来ること……。
「仕事は……。仕事だけは、頑張りたいです」
結果は残れば残るほど良い。いつまでも生きていられる訳ではないと分かった今、そのニュアンスは少し変わったように思う。
「お前、ここに下宿してテレワークでもするか」
「えっ」
部長からの提案に、思わず顔を二度見した。
「年寄りばかりで退屈だろうが」
「いえ、そんなことは。ありがたい話ではありますが」
ご迷惑では、と言葉を継ごうとするより前に、弟夫妻はそれが良い! と喜ぶので断る理由がなくなってしまった。
部長は柔軟性の鬼だった。
考えてみれば、合理的というのは臨機応変の塊でもあるのだ。
◆
厄介なことしてくれましたねぇ。
ひどくひび割れた、車掌の声がする。憎らしいといった感情を隠してなかった。だが不思議と恐怖は感じない。ずいぶんと遠くに居るような感覚がする。
「ですが。ええ、ええ。素晴らしいひと時でした。また、私と会うことになりましょう」
負け惜しみのような、恨み節のような声音。辺りを見回しても真っ暗で、自分の手すら見えない。感じるのは……柔らかな衣みたいな安寧だった。
「最期の最後にあなたの命を頂戴できればいいわけですから」
ギリギリと歯軋りする音が届く。台詞にも音にも恐ろしさはない。何かに守られていると、害をなそうとする存在であっても、無関心に感じてしまうものなのかもしれない。
「お客さん、お顔は覚えましたからね。またのご乗車、お待ちしております」
遠ざかっていく。電車が周囲の景色を追い抜いていくように。俺を運ぶ新しい道が強固に舗装されて、これまで長いこと留まっていた場所から離れていく。
これから、どうやって生きていこうか。
最期の最後から逃れられないなら、どう生きようか。夢でしか干渉できない者、という言葉が正しいのだとしたら。夢の中でも強く居られる人になろう。そのためにも、強く生きなければ。
俺は久しぶりの、穏やかな目覚めにカーテン越しに朝日を浴びながら、大きく伸びをした。
新しい場所から見える山々が、清涼な空気を運ぶ。