一番辛い時期の夢を見た。
隣町にある高校に通っていた。順風満帆に過ぎていき、大学進学も一番近いところにしようと決めていた。
「お前ってさぁ」
ある日、学校で噂立てられる。俺がゲイなんじゃないか、というシンプルな内容だった。自分自身がゲイである事は、誰にも言わずに抱えていた。
だって俺にはあの子が居たから。
友人は居た。けれどあの子より仲の良い子は居なかった。
異性から告白されたこともあった。けれどあの子より好きな子なんて……ましてや異性になんて居なかった。
友人とはバカをやった。告白してくれた子には感謝を伝えた。それでも踏み越えられない何かが俺の中にあると、肌で感じ取ったのかもしれない。または告白に応じなかった腹いせだったのかもしれない。
「ほら、あいつが」
「あー、それっぽい」
「ちょっとかっこいいのに、もったいない」
異物を見るような視線に耐えられなかった。狭い地域で、娯楽の少ない環境では、噂は格好の暇つぶしになる。今なら多少客観的に見られる部分もある。けれど、世界が狭くて、あの子が何より優先だった俺には、十分すぎるストレスだった。
一番近い大学に行くつもりだった。でも進路先の選択肢にはならなくなった。高校でも多くの人間が進学する。同級生のみならず、後輩やOBにまで噂が広がってしまった状況では、到底無理だった。
今でこそ多様性なんて言われるけど、当時は……ましてや地方では、迫害の対象になったっておかしくなかった。そうなったら、あの子と一緒に逃げようと思うくらい、追い詰められていた。
学校だけではなく、隣町に行くことさえ躊躇うようになった。残り少ない高校生生活だというのに、突然家に引きこもれば親は心配する。居づらくなってしまった理由を話すのに、家族に自身のセクシャルについてカムアウトしなければならなかったが、幸いなことに否定されなかった。本当に、幸いだった。
「どうせ県外に出るなら、東京まで出ちまえば?」
「AOまだ間に合うんじゃないの。一般じゃなくても」
「ね、ほら。この学科とかどう?」
「学科で選ぶなら、こっちはどうだ?」
まずは県外に出る方向で家族全員が俺の進路について考えてくれた。最終的に決めるのは俺だったとしても、嬉しかった。
行きたい大学は見つかったが、躊躇いはあった。ロクに県外に出たことが無く不安があったからだ。
それを見抜いてか、
「一度遠くで思い切りやってこい」
「あの子にも。ほら」
と兄貴たちに背中を押された。俺は靴を引っ掛けて駆け出す。
本心では、ずっと友達で恋人だった子と離れたくなかった。一番近い大学に行こうとしたのも、離ればなれになりたくなかったのもある。だが、立ち止まってしまっては、俺はこのままダメになる様な気がしている。だから、前を向こう。彼にそのことを言おう。決心が鈍る前に、俺が勝手につけた名前で彼を呼ぶ。
「呼彦(よひこ)!」
集合場所をあらかじめ決めておいて、ついたら声をかけるのがルールというか、お決まりになっていた。辺りには何もない。なのに彼は……決まって俺の真横か真後ろからやってくる。
無言だったけど、ぎゅっと後ろから抱きしめられた。
「しばらく来なくてゴメン。寂しかった? 変わったことなかった?」
「ん、変わったこと、なかった。寂しかった」
腕に込められる力が少し強くなる。首筋や耳元にキスを落とされてくすぐったかった。彼と向きあう体勢になって俺からも抱擁を返した。
離れたくない。ずっとこうして居たい。彼のひんやりとした身体は、森や山の奥深くと同じ匂いがする気がする。
俺は、少しずつ学校であったことや、大学へ行くために地元を出ることを話した。彼は黙って聞いてくれたし、時折髪や頬を撫でてくれた。
触れられるたび、涙腺が詰まるような気がしてしまう。呼彦と離れたくない。だから、
「一緒に行こう」
と言ってしまった。
違う、本当は。頑張ってくるから待っていて、と言おうとしたのに。
どっちにしても、勝手なことを言っている自覚はあった。呼彦なら応じてくれるかもしれない。けれど、……。
呼彦は一際苦しそうな表情を浮かべて、左右に首を振った。
「──どうして!」
その頃にはなんとなく、人間じゃないかもと薄々気付いていた。
あいつは、決まった範囲から出ようとしなかった。遠出しようと誘ってみても、首を横に振るだけだった。こいつは山彦か何かで、声が届くところまでが移動できる範囲なのかもしれない……。長い付き合いの間、思っていたことだ。
だって。
「もう、分かんない、分かんないんだよ。俺、お前のこと好きだし、お前良い奴なのに、何も知らない」
一緒に成長してるけど、学校に行く素振りもなかった。なのに着ている服は俺と同じ制服だった。家も分からないし名前も知らない。なんなら自分が離れたら死ぬんじゃないか、という風に思ってもいた。
けれど気づかないふりをしていた。
癇癪みたいに爆発して、クシャクシャに泣いてしまう。
「ッ、……!」
涙を浮かべる呼彦の顔が一気に近づいて、しっかりと抱き締められたままキスされる。唇を合わせて、ゆっくりと舌で触れ合うと、温かい気持ちが流れ込んでくる。
「よ、ひこ……!」
向こうの心が浸透してきて、温かくて、愛おしくて、でも苦しいしもどかしい。心から、俺を送り出そうとしているのも分かる。
未熟だった俺はあいつの心を受け止めきれなくて、容易くキャパオーバーして。
こんなの、ひどい。嫌い、嫌いだ、嫌いって言ってよ。
泣きぐずる口から言葉が勝手に漏れて止められない。
違う。言いたいことはこれじゃない。
今なら、今ならまっすぐ言えるのに──!
落下するような目覚め。
目元が涙で濡れていた。肌に残るぬくもりは、やっぱりたやすく闇に溶けていく。手の中には、呼彦から貰った宝物があった。握り込んだまま寝てしまったんだ。
呼彦。そうだった。彼を、そう呼んでいた。
会いたい。どうしても。でも、どうやって……。
どんなに手に持ったままでも、石の冷たさは無くならなかった。
◆
なんとなく、石をそのままジャケットの内ポケットへ入れて、店へと向かう。今更、初恋を拗らせたままだということを思い知って気分は沈みっぱなしだけれど、店を休みたくなかった。
十五時過ぎの日曜日。日差しが少し強くて目を細める。いつもの道がやたらと眩しく見えるので、自分が思っている以上に泣いてしまったのかも、と目を擦る。
あとワンブロック、というところで見覚えのある姿が目に入った。オープンする前だというのに、昨日告白してきた常連が店の前で待っている。
「返事は待ってくれるんじゃなかったの」
呼びかけると、スマホから顔を上げてこちらを向く。ヘラッとしたわざとらしい表情を浮かべて、
「堪え性がなくて、つい」
と笑う。思ったよりはうんざりせず、俺も少し可笑しくなってしまってクスリと笑った。外で待たせるのも気まずいので「構えないけど」と念押しした上でカウンター席に通す。
悪い人じゃないと思う。客と恋愛しないと割り切っているし、好意を持ってもらうこと自体はどうでもいい。俺はそれを受け取るか否か選ぶだけ。
「初恋の話ってさ、本当だったの?」
「脚色はしてるよ。でも本当」
相手出来ないけど、と言ったけれど普通に話しかけてくる。カクテルに使うレモンを輪切りにしながら、さっぱりと答えた。
「店長さ、僕と暮らさない?」
「店から超近くてルームシェアなら考えるよ」
レモンの匂いが手元から立ち上って、ほんのすこしの苦さが漂う。
いい加減、俺は前に進むべきなのかもしれない。初恋を引きずって、良いなと思える人が居ないのなら、俺を好きだと言う人と付き合うのも不正解ではないはずだ。けれど、気は進まない。平凡で平穏な生活が良いなら、恋人のいない生活でも足りてしまう。
「気持ちは嬉しいけどね、お客さんのうちは無理だよ」
タッパーにレモンを詰め込んで、ミニ冷蔵庫の中へ。あとはグラスをもう一度拭いて……、とクロスに手を伸ばした。油断していなかったわけではない。その手を取られる。
驚きで一瞬固まった所に、息が止まる台詞を差し込まれた。
「じゃあ、同級生としてなら?」
サァ、と血の気が引く音を聞いた。同級生。大学の? 違う。
「覚えてないよね。高校での噂、嘘じゃなかったんだね」
過去を知る人。その瞬間、目の前の男は退屈な常連客ではなくなった。遠くから聞かないふりをしてきた好奇と侮蔑の声がさざなみになって寄ってくる。
「えっ……、誰?」
やっとのことで言えたのはそんなつまらない事。否定しなかったし出来なかった。
「お仲間だって分かって、僕は嬉しかった」
会話が通じなくて嫌な汗が出る。自分語りにうっとりした目だ。人を娯楽として消費する時の人間の顔と同じだ。対象を犬のおもちゃと同等に見る顔をしている。
「初恋話、嘘だったらよかったのに」
嘘だったら──……
どうして。どうしてそんなことを言うの。
俺に向ける人間たちの残酷さで、呼彦を失ったと言ってもいいのに。
奪い取ってなお、呼彦さえも嘘だったら良いと……?
「東京でたまたま再会できるって、結構すごい確率だと思わない?」
陶酔。心酔。目眩しにあった人間は、どうしてこんな風に、相手を見なくなるのか。ただの偶然に運命を勝手に感じて、俺を削り取るとも知らないで。
運命だと言うなら、それこそ!
「俺が、初恋拗らせてるの分かっていて、そういうこと言ってる?」
押し寄せてくるのは嫌悪。掴まれていた手を無理矢理振り払う。険を強めた目になっただろう。眉間に力が入って、視界が揺れる。
「そんなことは……。劇的な初恋だったなら、ちょっと勝ち目がないなって、思っただけで。他意は……」
俺から何かグツグツとしたものが滲んでいるのを察知したのかもしれない。もう遅い。
言い訳じみた態度、声音、声質、どれをとっても怒りしか湧かなかった。
「呼彦は居た! 居たんだよ! 多分死んじゃったけど、居たんだ! 今でも、……今でも居るんだよ!」
感情を爆発させるなんて子供みたいな真似して、何をしてるんだろう。それでも許せない。お前みたいな人間のせいで、俺は呼彦と別れることになったのに!
「ごめん、そんな。亡くなっていたなんて……。申し訳ない」
取り繕う台詞。どうして。どうしてそんなに軽く口を滑らすの。
怒りが振り切って、処理できない。溢れた怒りは呼彦がいない事実を余計に浮き彫りにして、悲しみへと変換される。
目の前にいない。夢見のせいだ。呼べなんて言うから。
腹が、胸が、喉が、全身が締め付けられる。
「呼彦、……!」
会いたい、今すぐ会いたい。
決壊したかのように涙が溢れ、流れ落ちていく。呼彦の前で最後に泣いた日の続きみたいに、十数年分の感情が頬を濡らしていく。
「ごめん、その……」
無神経に差し伸ばされた手を払う。俺の心が狭い自覚はある。この界隈の常識なら……こんな風に、昔の恋人を否定されたくらいで顔を真っ赤にする方が子供じみている。
けど地雷を踏み抜いたこいつは、もう視界にも入れたくない。帰れ、と言おうとした矢先、店のベルが鳴る。
涙を雑に拭っていつもの笑みで応じようとした。
「ごめんなさい、まだ準備が……」
入店者の姿に、最後まで言葉が出なかった。
儚げな微笑み。透き通るくらい白い肌。光が当たると少しだけ緑に見える髪色。涼しげだけど優しい目元……。
似ているなんてものじゃない。
「ま……、準備、なさい」
極め付けは、声と語彙だった。俺が言った言葉の一部しか……!
「嘘、嘘でしょ? 呼彦!?」
「ん、ぇ……。嘘……、呼彦」
カウンターから飛び出して、飛び付く。俺よりも背が高くて、肩が薄くて、どこか懐かしい香りがする。
抱きしめられて気付く。初めて出会った、山と同じ香りがする。
本物だ。本当に呼彦だ。呼彦の肩に顔を埋め、子供みたいに泣きじゃくった。
「え、なに、何の騒ぎ? てんちょーどした?」
「あれぇ、店長ガチ恋勢じゃん」
「いえ、あの、……。店長の初恋の方が……亡くなってたと思ったら、実は生きていて。たった今、再会を果たしたみたいです」
「ハァ!?」
「待って待って情報が多い」
どれほど経ったか分からなかったけど、すぐ側からゆるふわ二人組の声がして、俺たちを挟んで元同級生が事情を説明する。しばらくは混乱に満ちた空間になった。
俺はわんわん泣いて、呼彦は俺をぎゅうぎゅうに抱き締める。二人組にいじられながらもどうにか落ち着いて、今日は店閉めるといっても出て行かないので、結局なし崩し的に酒盛りが始まった。
「てんちょーの作り話だと……」
「そりゃそう思うよね」
目が腫れてしまったけれど誰も気にしない。それより皆、呼彦をまじまじと見ていた。考えてみれば、家族以外の人に呼彦を会わせたのは初めてだし、複数人で話すのも初めてだ。
「ね、店長好き? 今も好き?」
ちょっと! と叫びそうになるけど、直前の言葉を上書きしてしまえば、呼彦の語彙を奪うことになる。反射的に、俺は勢いよく口を覆った。
「あ、ぇ……。今も、店長好き」
ふにゃ、と笑う呼彦に、二人組はマイナスイオンを浴びたかのように癒された顔をする。一方、元同級生はというと、呼彦が複雑そうな笑みを向けるので、その度に深く沈んでいた。
「店長、ほら!」
ゆるふわ達が元同級生にはあえて触れていないのは分かっていたが、いざ俺自身にマイクを向けるような事をされると、固まってしまう。
「よ、ひこ……。その……」
言いたいことが溢れてくる。
あの時ひどいこと言ってごめん。寂しかった。寂しくないふりしてた。好き、今でも好き、これからもずっと一緒にいたい。離れていた分も。ずっと先も。
言葉を選べずに居ると、呼彦は溶けそうな笑みをひとつ寄越して、唇を重ねた。
「ッて、よひ、ン!」
流れ込んでくるのは、歓喜。
俺が吐いた言葉なんて気にもしてないくらいの喜びに溢れた思い。
『ばか、少しは言わせろよ』
そう思いながら、舌先をくすぐって、呼彦に心を渡すつもりで目を瞑る。
愛してる。心底。今思っていること全部。謝りたい気持ちも、好きだと思う気持ちも、愛も、何もかも。全部あげたいから、全部欲しい。でも一番は。
これからを、作りたい。
囃し立てる二人組に、失恋した一人。そんなのはもう、気にならなくなった。
顔を真っ赤にした呼彦以外に、見つめるものなんてない。
「伝わった?」
「つ、ぅ、伝わった……」
額を寄せ合って、人目も憚らずに心を通わせる。何度も涙が滲んで、何度も笑う。俺たちを肴に飲まれても、もう大丈夫だ。
「ねぇ、そんな凹むなら帰ったら?」
「今帰ったら、多分ヤケクソになるから……」
「ひょっとしたらイケるかもって思ったんでしょ?」
「まぁ……うん。アプローチさえ頑張れば、とは思ってたよ。けどさ、初恋で死人ってだけでとんでもなく敵わない相手だったのに……。生きてるし……しかも地元じゃなくて東京で再会なんて。逆に何なら勝てる相手なのって思ってるよ」
「アッハッハ! 間違いない!」
俺はその台詞にごめんともありがとうとも言えず、お客さんとしてなら大歓迎だから……とか訳の分からない事を言った。
次第に、忙しくなる時間帯に差し掛かる。大抵の客は札を見て引き返していたようだけど、愛すべき常連は遠慮なく扉を開けてくる。
「ねー、今日やってないの? みんな居るのに」
「アンタたちCLOSEDって文字読めなかったの」
「店長の初恋の人が彼氏になったよ……」
「ん何それ、詳しく!」
「ギャー! い、イケメンだわ!」
「うるさいな、もう!」
トントン、と肩を叩かれたので振り返ると、呼彦がニコニコとしながらエプロンを持っていた。それも二着。
「あ〜、もう! 分かったよ、開けるよ、もう!」
仕方ない様な言い草にしたけど、顔が緩みっぱなしだ。呼彦を見ればわかる。エプロンを取って一着は俺、もう一着は呼彦に。ひとつしか無かったはずだけど、これで合っている。
開店して五年。よっぽどの無茶をしなければ、これからもやっていける。
『兄貴達にも、連絡しよう』
背中を押してくれた、二人だったから。