▲▲▲様 前編


 俺の可愛い恋人。こいつが苦しみを引き受けてくれるから、世界は保たれている。
 上質な魂の色。従順な瞳の色。今やすっかり恐怖で染まってしまったが、それを澄んだ光に戻すのは俺の役目だ。
「ああ、お前は本当に可愛いな」
 両手に持っていた物を手放す。右手には湯沸し器、左手にはピアッサー。
 どっちがいい? と言ったら散々に泣いて、結局熱湯を選んだのは意外だった。背中が赤くなっているけれど、今すぐに冷やせば問題ない。身体を起こしてやって、そっと頬に触れると、可哀想なくらいに過剰に怯えた。
 横面を勢いよく叩いたせいで腫れている。鼻血は止まっていたようだが、顎にまで伝って流れた痕が残っていた。その血に舌を這わせ舐めとる。綺麗になったところで、舌を差し込むキスをすると、身体を震わせながらも俺を受け入れた。ねっとりとして甘い。麻薬のような味にくらくらとする。
「どこにも行くなよ。ずっと、ずうっと、ここに居てくれよ」
 抱きしめてやると、震えながら何度も頷いてから泣きじゃくった。薄くて骨張った身体は頼りなく、力を入れたらポキリといってしまいそうだ。
 春の嵐の日。外では風が轟々と吹き、安アパートの雨戸がガタガタと揺れる。

 そうだな。怖かったよな。

 でもお前が苦しみを引き受けてくれたから、▲▲▲様は祝福してくださっている。お前が受けた痛みの分だけ、その調和として、▲▲▲様は力を貸してくださる。これから、どこかの誰かは痛みから回復するだろうし、誰かは命拾いするだろう。

 俺が▲▲▲様の預言者であるなら、お前はその身を捧げる巫女なのだから。

 全てはイコウのもとに。全てはシコウのもとに。
 全ては▲▲▲様の御心のままに。

 ◆

 ▲▲▲様(こくりんさま)をご存知だろうか。まぁ、ご存知なわけがないことくらい分かっている。俺が信仰するのは秘匿中の秘匿。密教より由来した教え。唯一の真理を守り続けている少数派だ。俺はそこで、生まれてきた意味を知った。
 こくりんという音には大して意味がない。あくまで信者に概要を分かりやすくするためのあだ名のようなものだ。本当の音を知っているが、あの音は人間では発音できない。
 ▲▲▲様は真理であり、自然であり、神であり、個である。最大の存在は最小単位の末端生物に至ってもその位置を変えることはない。▲は力が満ちている様子を表し、▲は生命の根源を表し、▲は全ての調和が保たれた様子を表している。
 つまり、▲▲▲という文字そのものにも完璧さは宿り、俺たちのような信者は浅ましいながらも敬意を表すために敬称を付与してお呼びする。様付けすることは、完全さを汚すため、本来は行ってはならない。
 しかし▲▲▲様は仰った。人と理解を深めるためであれば一欠片の汚れなど気にも留めぬ、と。何という寛大さ、寛容さ! 完璧(りそう)を求める思い、理解しえないものを拒否する反応を同時に合わせ持つ人間に手を差し伸べる▲▲▲様、これほど寄り添いたもう神が存在することを、多くの人間は理解していない。理解していないのが〈普通〉なのだ。

 俺は〈普通〉ではない。生まれからしてそうなのだ。兄は土地神に仕えるために地元に残った。弟は鈍いながらも山の化身に愛されている。兄弟が山や家に仕えるのであれば、俺は外に仕えたいと考えた。家とは歴史、地とは所縁(ゆかり)。どちらも横に広がって時を折り重ねるものであるならば、俺は深度を持とうと考えたのだ。
 弟が大学へと進学してしばらくたってから、俺も自分がしたいと思うことを探したいと家族に伝えた。家族の誰にも、胸の内を話したことはない。理解されるわけがないと考えたからだ。俺は兄に比べれば役割がなく、弟と比較したら愛されるだけの魂の魅力がない。
 家族は……特に兄は快く送り出してくれた。全国各地を回った。自分が仕えたい物はなんだろう、と四六時中考えていた。深度を持ったもの、となると根強さと幹の太さが必要だと思っていた。今となればその発想は青臭く気恥ずかしい。真に深度があるということをは全てに影響を与えるということなので、自身の中にあって、また他者・他物にも存在するものだと気付いた。
 それは波。それは潮。ついには指向。うねりとくねり。万物は常に指向性をもって志向し、思考し、試行していく。それらシコウが全て同化していくなかで、背後にある神の気配を感じ取った。
 これは必ず、同じことを感じている同志がいるはずだと探し回った。大衆宗教にも含まれている部分はあったが俺の思う〈それそのもの〉ではないと理解してからは、異端と呼ばれる宗派まで広く見て回った。

 紆余曲折あったが、俺は▲▲▲様という存在を知った。▲▲▲様は完璧だった。▲▲▲様こそ、俺が探していた真理を持ち、体現している神そのものであると確信した。
 ▲▲▲様を絶対神として崇める信者に集団としての呼び名はなく、また宗派と言えるほどの規律もなかった。俺は熱心に彼らと語り、また▲▲▲様の素晴らしさを最大限表す方法を探し、信者の振る舞いによって▲▲▲様を貶めることはしないように決めた。そうこうしているうちに、信者は増え、俺は預言者のような立場になっていった。
 本来であれば、末端の人間がどんな振る舞いをしようとも▲▲▲様に傷などつかない。しかし宗派として成り立つまでに成長した団体が、無作為に動き回るのは下策だ。信者同士で争いになり滅びる危険さを常に孕むほどの規模になったのだ。そういったリスクはいつの時代にもいつの団体にもある。歴史を見れば明らかだ。だから規律を作った。

 俺は次第に、▲▲▲様の存在をより強く肌で感じるようになった。もとより霊感はあった。兄ほど確立したものでもなく、弟ほど魅了する濃度ではないが、常人よりも優れている。
 その日は雨だった。雨の日は大抵阻害される要因が多く、アンテナのようなものが弱る性質なのだが、そんなものは些末な事と言わんばかりの電流が駆け巡る。
 呼ばれている。▲▲▲様が、お呼びになっている! 居ても立っても居られないという気持ちになり、家を飛び出した。
 車を走らせる。県から出て、より近く、より遠く感じる方へ歩みを進めていくと、どんどん山奥へ入って行ってしまった。カーナビにもないような道。躊躇いはあったがアクセルを踏んで突き進むと、忘れ去られたかのようにぽつんと現れたものがあった。あたりの景色には似つかわしくない廃ビルだ。
 まさか、と思った。静かにその廃ビルへと入っていく。低級霊すらもおらず、清涼な空気に満ちていた。それどころか、獣が通った気配すらない。廃墟となってから日が浅いのだろうか。しかしビルの一室にかけられたカレンダーをみると、昭和四十年と書かれていて面食らった。1965年……少なくとも五十年近く経過しているというのに、あまりにも綺麗すぎる。否、人間が侵入し、荒らした形跡はある。そういうことではなく……風化していない、と感じたのだ。記憶されることなく、しかし風化せずに保つなどあまりにも超自然的である。
 俺は慎重に地下へと進んでいった。駐車場になっていた。拓けた空間であるはずなのに、一番奥から息もできなくなるような存在に圧倒される。俺はオソレを抱いていた。畏れであり、恐れでもあり、怖れでもあった。足が震えて一歩踏み出すのにやたらと時間がかかってしまったが、あと一メートルというところまで近づくことが出来た。
 それは、形容しがたい姿であった。煤けたヴェールに包まれて、身動きが取れなくなっている人形にも見えた。だが違う。人智を超えた存在が、俺を待ち構えている。
 似たものを知っている。地元の神。だが似ているだけだ。根底が決定的に違う。兄が仕える土着の神は真っ白な神であったが、あれは神と呼ぶにはいささか不安定だった。
 目の前にいるのは、どうだ。これが神でなければ何と呼ぶのだ。俺一人など吹けば飛ぶような存在だと知らしめてくる、この、息を吸えぬほどの圧! 圧倒とはこのことだ。それでいて、人間の尺度など意味を持たぬほどの、目が離せなくなるほどの美しさ!
 頭と四肢はある。しかしどれもが人からはかけ離れている。頭は黒い稲妻が手を象る様にして四方に伸び、再び頭の内側へ引っ込むのを繰り返している。首から脚までは煙の様に曇った色にもかかわらず、背中から翼のように生えている腕が六本、真っ白な肌をしていて目を奪われた。荒れ狂う頭の黒い稲妻とは違い、その腕は穏やかに広げられていて何もかもを包み込む純然たる慈愛のみを感じる。腰には細かな刺繍が施されたストラの様なものを幾つも巻き付けており、マントの裾の様に翻っていた。そこから覗く足首は、いくつも丸紐を解いたかの様な形状で、木の根がばらけている様にも見える。全てを支える足は、きっと見えている範囲よりも広がっているのを察知した。
 膝ががくがくと震えて笑えてくる。常識や知識を超えたものが顕現すると、人間は笑うしか出来なくなるのだと識った。畏怖しか含まない笑いを漏らすだけの矮小な俺は、手を組み膝を折り、祈るしか出来ない。
 間違いない。▲▲▲様だ。力強さを表す黒い稲妻。生命の根源である木の根。調和を取る腕の翼……。▲▲▲様の座(おわ)す地が何故ここなのかは分からない。しかし▲▲▲様が座すから、風化していないのだと合点が入った。鳥肌が止まらない。俺のなけなしの霊力が全身から噴き上がる。
『呼びかけに応じたのは、お前が初めてだ』
 ▲▲▲様が! 俺に話しかけている! 歓喜が胸を刺して涙が滝のように流れた。
 ああ、何ということだ! 発声した言葉は意味をなさない嗚咽だった。だが▲▲▲様は、俺の感じている全ての感情を即座に理解してくださった。
『私の声を聞きなさい。お前が生まれた理由を授けよう』

 俺は選ばれたのだ!

 ◆

 廃ビルの管理者を調べると、NPO法人での管理となっていた。宗教施設として使用する旨を隠すことなく伝え、その上で売却してもらう方向で話を進める。NPO法人相手ならば寄付ではならないのだ。これを機に宗教法人化しようと信者らに提案し、教義を広める活動と儀式行事について確定させた。元より宗教活動は行われており、門徒と呼べる者が居る。実体ある宗教団体であると認められるのは当然であった。手続きが済む頃には秋となり、実りの季節に我らの団体は一本立ちすることとなった。
 全ては▲▲▲様のお導きである。▲▲▲様のお姿は、俺にしか見えなかった。俺はますます、預言者としての立場を固めていった。俺は▲▲▲様のお言葉を、勿体ぶることなく伝えた。
 みだりに子をなしてはならない。何故なら、調和のデメリットが発生するからだ。産まれれば、何処かで同じだけの数が死ぬ。
 では、子を作りたい時はどうすれば? と尋ねると、既に人が死んだ知らせがあった日にまぐわいなさい、と助言を賜る。つまり、死んでしまったことのバランスを取るために子を作る手順を取れば、失われるものは何もないのだ。むしろ調和を取る為の正しい命となるのだと示された。
 全ては調和のもと、表裏一体となっていることを理解せよ。俺の口を伝い、▲▲▲様は仰った。

 惜しむことなく教えを信者達に伝えたが、中には秘密裏に行わなければならないこともあった。その一つが巫女探しであった。
 これには条件を付けられた。一つ、信者にしてはならない。二つ、▲▲▲様の存在も明らかにしてはならない。役割は、世の苦痛を受け入れ、世にある命の苦しみから救うことである。つまり、▲▲▲様の尊さを知らぬまま肉体的な痛みを伴う儀式を執り行わねばならないのだ。非常に難しい条件な上に誰にでも務まるものではない。大抵の人間は救いがあることを知っていて初めて苦難を受け入れるものだ。救いの存在を知らずして、どうして痛みを得ようと思うだろうか。
 俺は巫女に相応しい人間とは何かを考える。あらゆる苦痛を受け入れるのだから、健康体でなければならない。そして受け入れることに対して従順でなければならない。▲▲▲様を教えてはならないが、そういったことを受け入れるのであれば、巫女を支える何かを与えなければ成り立たないだろう。
 ふと、足を止める。ピンと張った糸が頭に刺さる。不意に思い浮かんだ、とてつもない妙案だ。俺は早速、▲▲▲様に申し上げる。
『拙案ではございますが、巫女は男性が良いかと思います』
『理由を申せ』
『人間には稀に、肉体的な苦痛を受け入れることに対して悦びを持つ者が居ます。そういった癖を持つ人間であれば多くの苦痛を受け入れられるでしょう。そのためには頑丈で健康的な肉体が必要です。女性よりは男性の方が丈夫でしょう。ついでに……肉体が男で精神が女であれば、一人で陰陽を持つ者としてより相応しいかもしれません。精神というより魂が女属であれば、と言うほうが正しいですが。そういった者が、▲▲▲様に仕える巫女として相応しいと考えました』
『お前は突飛で面白い。やってみよ』
「ありがとうございます!」
 思わず声に出てしまったが、周囲の信者は特に気にしていなかった。感極まって何か独り言のように聞こえる状況になるのは日常と化していた。
 早速、見た目を整え、夜の街へと繰り出した。こざっぱりとしたヘアスタイル、肌感を拾わない生地で作られたブルーのシャツに、ラインがぱりっとしたチノパン、テーラードジャケットに身を包む。髭を丁寧に剃って肌荒れや隈を隠す為に薄くコンシーラーを施せば、無難であるが幅広く好感を持たれやすい姿となった。

 弟がゲイではあるが、俺はどうなのだろう。そう考えながら、都心まで出る。あまり性別に拘っていなかった節はある。どちらかと言えば魂の清らかさだとか、感覚的に見える色だとか、そういったものに惹かれている気がする。今までの恋人は女性しかいないが、男性だとしても魂が合えば嫌悪は無いように思える。ただ、バイセクシャルかどうかは不明だ。
 繰り出した先に到着して思い出したことがあった。近くで弟が店をやっているはずだ。久しぶりに顔を見に行こうかと過ったが、少しも考えずにやめた。浅ましい考えだが……▲▲▲様が弟を気にいるかもしれないことを恐れたのである。出来ることなら俺だけの神でいて欲しい。預言者としての立場であるだけで身にあまる光栄を既に得ているというのに! 弟は神から見ると、それはそれは可愛がりたくなる人間なのだ。山の化身と深く結びついているので、引き剥がすのに▲▲▲様と言えど手こずるだろう。▲▲▲様の眼鏡にかかり招き入れられる確率は低いが……それでもとにかく嫌だったのだ。
 ▲▲▲様は俺の抱えるちっぽけで馬鹿げた思いをご存じに決まっているが、それでも巫女探しを命じて頂けたのだ。▲▲▲様の為に全力を注ごうと襟を正す。

 何件も、何日もかけて見て回る。だがこれといって相応しい者は居なかった。ほんの少し毛色が違う程度の魂では足りない。誰が見ても一瞥して特別だと分かるような輝きが欲しい。例えるなら黄金色に輝く魂だ。
 別の場所を検討すべきかの判断に迷ったが、まだ入ったことのない小ぢんまりとしたバーを見つけた。ここで最後にしよう、決めてドアを引く。途端、眩いほどの光が溢れてきた。
 店内が明るい訳ではない。寧ろ薄暗く、青や紫のライトが妖しく灯るところだった。不釣り合いなほどの光を辿ると、カウンター席に座る一人の青年から発せられていた。
 口の中がからからに渇く。話しかけたい。絶対に口説き落としたい。震えそうになる喉を律して、思い切って声をかける。
「隣、いいかな」
「えっ、……」
 近づくと、匂いまで立ち登る。若々しく、初心な気配を感じ取った。髪を明るく染め、ラインのゆったりした流行りの服を着て、気怠げに振る舞っているが、目の奥には小さくなって震える姿がある。
 ゴクリと喉が鳴るのを抑えられない。気さくな年上を演じて、明るい表情を作った。
「ああ、急にごめん。もう誰かと待ち合わせかな?」
「いえ、一人です。どうぞ」
「ありがとう」
 席に着いてジントニックをオーダーする。ちらりと彼の手元を見ると、カシス系のカクテルを飲んでいた。あまり酒に慣れてなさそうなチョイス。指先がうろうろとして落ち着きがない。
 どうしたって格好の獲物に思えてしまう。がっついてはいけない。盗み見る視線の高さを徐々に上げていく。片耳だけ光るゴールドのピアスが、光と相まって余計に眩しい。
 見るからに、緊張で身体が硬くなっている。すぐにでも逃げ出しそうな猫に思えたので、敵意がないことを精一杯示そうと努めた。
「こういうところは初めて?」
「……ウン。やっぱり、分かります?」
 居心地が悪そうにするものだから、ひと匙の嘘を混ぜて、安心させようと思いつく。
「俺も初めて」
 このバーに来たのは。そう告げることなく眉を下げるように笑った。
「えっ、そうなんですか?」
 ミスリードさせて勝手に親近感を抱くようにする。嘘は言わない悪い大人のやり方。それをおくびにも出さず、苦笑じみた表情を作る。
「すごく緊張してるよ。……その、どうしても話しかけてみたかったから」
 これは本当。嘘と真を混ぜて話せば、見抜くのは難しい。ましてや純朴そうな子なら尚のことだ。戸惑いは見せるものの非日常的な出来事に対する期待が、ゆらゆらとしているのが見える。
「今、会ったばっかりじゃないですか」
「……一目惚れしたんだ」
 光が揺らいで、少しずつ小さくなっていく。収束していくと、三白眼の瞳が浮かび上がった。鼻が小さくて、眉が少し下がり気味の愛嬌のある顔だ。美青年という訳ではないが、構いたくなる顔をしている。どんどん顔が赤らんていく。アルコールによるものではなさそうだ。
「急にこんなこと言われても気持ち悪いと思うけど……。話をさせてくれないかな?」
「ッ、……!」
 グラスを持っていた手に、やおら自分の手のひらを重ねる。試しに、霊力を少しだけ送り込んでみた。拒否の感覚が薄く、迷いを持っている。迷いの先を閉ざすように爪を撫で、ほんの少し手に力を込める。全てが好意であると示しながら、悟られないように逃げ道を塞いだ。
 酒が来たタイミングで、そっと手を離す。俺は酒には手を付けず、視線を送り続けた。
「俺も、……あなたに興味、あります」
 照れと驚き、疑念と関心。入り混じった瞳のままだが、掲げられたグラス越しに強い期待を見た。
 満面の笑みで乾杯、と囁いてグラスを合わせる。世界が変わる音でもあり、塗り替わる音が鳴った。