──愛していたが、身が持たなかった。
ヒュ、ヒュ、と喉が鳴る。弱り切った身体に鞭打って、ひたすらに駆ける。
ああ、もう冬ではないんだ。意味の分からない理由でベランダに放り出されて凍える必要もない。熱湯を避けるゲームもしないで済む。
春だ。春が来てたんだ。
解放感に似た安堵を感じていたが、同時に取り返しのつかないことをしてしまった焦りが己を掻き立てる。足がモーターのごとく回転して、最寄りの駅からターミナル駅に、そこから更に遠くへ、遠くへ。
新幹線の自由席に乗り込んで、そこで初めて己の手が酷く汚れていることに気付いた。着替えるのに精一杯で、顔も酷い有様だった。慌てて車内の洗面台で落とせるだけ落とす。ついでに、特徴に数えられそうなジャラジャラとしたピアスを全て外した。
戯れに、勝手に開けられたピアス穴。同じだけ心に穴が空いて、垂れ流しになっていた何か。それは生存のための抵抗力だったと今なら分かる。生存本能に任せて振りかぶった後、不必要なほどの上下運動。その名残が手の中にある。全身にガタが来て、手が震え始めた。いや、あるいは、禁断症状なのか。
とにかく一番遠くへ行こう。席に戻って身を丸める。終点は見慣れない駅名で、どの辺りに着くのかもわからない。誰かに自分のしたことがバレて、逃げ道なく囲まれるかもしれないと思うと、それなりの移動時間があっても寝付けなかった。
終点に辿り着いてすぐ、ローカル線に乗り継いだ。終点の無人駅に到着し、バスなどで更に先に行けないかを確認しに走る。しかし今日のバスは既に無く、タクシーは影も形もない。有り金は移動でほとんど消えていたので、どの道、己の足で行くことになる。まだ逃げなければならない。財布を捨て、身分証になる様なものも捨て、とにかく人気がないところ……山奥へと足を進めた。
限界集落なのか家がほとんどない。うねる様な波の音が遥か遠くから聞こえる気がする。東京では春めいていたというのに、寒さが皮膚の下に忍び込んできそうだ。
新幹線に飛び乗ったくらいまでは辺りの景色に気を払っていられるほど余裕もなかったが、今は少しずつ落ち着きを取り戻していた。ほとんど人の音がしない空間は、心を鎮めるのにちょうど良い。山のおかげか酸素が濃い気がする。深く息を吸い込むと、自分の心臓の動きがくっきりとした。
だが、疲労が溜まった身体は正直だ。身体の重さを感じた後に襲ってきたのは空腹感だった。満足に飯を食えない環境だった上に、飲まず食わずでとにかく動き回って来たことを思い出す。足が棒のようなっていると自覚してしまうと、もう一歩も動けないと思えてくる。岩場に腰掛けて一息ついた途端、尻に根が生えてしまった。
溜め息が出た。既に辺りは薄暗い。このままでは野宿になる。見知らぬ山の中で野宿など、手ぶらの状態ですることではない。すぐに行き詰まるに決まっている。
どうにかしなければ、と再び深く息を吐いて顔をあげる。一際目立つ家の屋根が目に入った。洒落た煙突がついていて、きっと大きな家だろう想像できた。
……先ほどまで、あんな家、あっただろうか。最後に打たれた薬のせいで、まだ何か幻覚を見ているんじゃないのか。しばらく考え込んでいたが、その家は煙となって消えることもなく在り続けた。
どちらにせよ選択肢はない。ここまで遠くに来ていれば、東京でしでかした事はまだ伝わってないだろう。きっと大丈夫だ、なんて思いは希望的観測だと分かっていた。せめて軒先を借りられるか尋ねてみようと考え、家に近づくことにした。
門扉をくぐり、石畳のある庭を抜け、ようやく玄関と思しき扉の前まで来た。あまりにも立派で尻込みする。幸いなことにライトが付いているので、人がいるのは間違いなさそうだ。
助けを求めよう、と意を決してベルを鳴らす。が、応答がない。
ドアを押すと鍵はかかっていなかった。ギョッとしたが、田舎ならままある事なのかもしれない。
もしや、これだけ大きな家だから、家の中でも玄関から遠い部屋にいるのかも、と考えた。
「ごめんください」
「どうぞ」
蚊が鳴くより細い声での呼びかけに、思いがけず返事があり硬直してしまった。
「手が離せないのでおいでください」
柔らかな男の声だった。言われるままに入る。普段はしないが、玄関で靴を脱ぎ揃えた。自分の靴下がひどく汚れていて、傷一つない廊下にはあまりにも場違いに思えた
豪華な家なのは間違いない。知識も教養もない自分では、あちらこちらに置かれている調度品や家具の価値は分からない。ただ良し悪しだけは分かる。どれひとつ取っても質が良いもので取り揃えられていて、しかし嫌味さはない。趣味の良い主人が管理してるのだろう。
だが、とてつもなく不安になる雰囲気が満ちている。影になっているところから意味不明な物体が飛び出て来るのではないかという気がしてくる。……まだ、薬が抜けてないのだろうか。
リビング、ダイニング、キッチン、応接間、書斎、シアター、アトリエ、寝室、テラス……。一階を見て回ったが誰もおらず、家主らしき声の主が見つけられない。
不安感に身震いする。肌の一番薄いところをわずかに引っ掻くようなゾワゾワとする感覚。耐えられないわけではないが、とにかく不安が募る。背後に誰かいるような気配が気持ち悪い。外は既に日が落ちてしまった。すぐに真っ暗な山と様変わりするだろう。夜の山よりはこの家の中の方がマシなはずだ。
「ああ、すみません、時間がかかってしまって」
二階へと続く階段から、長身の男が降りてきた。あまりにも整った顔つきで、心臓が別の意味で跳ねる。男にしては長い黒髪で、ハーフアップにしていて都会的だ。スラリとしたしなやかそうな体躯はシンプルな服装に包まれており、スタイルの良さを際立たせていた。
「意思の疏通を取りやすいよう、急ぎ作ってみました。ワタシはこの家、マヨイガと申します」
日本語がかなり妙だと思ったが、家主には間違いなさそうだった。我に返って、呼吸を思い出す。
「あ……と、初めまして。突然、申し訳ありません」
辿々しいながら挨拶をして、迷ってしまったので一晩泊めてほしい、軒先でも構わないと伝えた。
「軒先なんてとんでもない。ええ、ええ、歓迎いたします。嗚呼、人が訪ねてくるなんていつぶりでしょうか」
人懐こい笑顔を浮かべ、どうぞこちらへと案内されてから、怒涛のもてなしを受ける。
「その様子だとお疲れでしょう。お風呂をどうぞ」
岩で出来た浴槽にジャグジーがついていた。一部の壁はガラス張りだった。ガラス壁の向こうには風呂用に作られた小さな庭があり、風流さに溢れている。泡が皮膚を撫で、身体を芯まで温まった。湯から上がると寝巻きがわりに渡されたのは浴衣で、見様見真似で身につける。肌触りが良く、心まで軽くなるようだった。
「怪我をなさっていますね。手当ていたします」
あいつに付けられた傷や痕。手枷の擦り傷や、千枚通しで刺された真新しい傷。傷としては浅いものばかりだが、恐怖が擦り込まれている。だが、銀色の缶に入っている軟膏を塗られると、軋むような強張りまでたちまち解けていった。
「お腹は空いてませんか。夕食にしましょう」
どこから出てきたのか分からないくらいの豪華な料理が並んでいた。まるで旅館に宿泊した時の様な、和食フルコース。聞けば、料理は得意なのだとマヨイガさんは笑った。共に食事をして、春を感じる食材に舌鼓を打った。
「お酒が苦手でなければ、お付き合いいただけませんか」
少し冷えるな、と思っていた矢先、マヨイガさんが熱燗を付けて持ってきてくれた。至れり尽くせりだ。せっかく用意してくれたのだから、断るのもかえって失礼かと思い、甘えることにする。
シアターに通される。深く座れる一人用の椅子が二つ並んでいた。ゆったりと腰掛けると、身体が奥深くまで沈んでしまいそうに思えた。スクリーンの灯りだけがシアタールームに宿る。柔らかに光り、古い映画を穏やかなBGMがわりにした空間は、こびりついた緊張まで解いていく心地がした。
自然と、酒も進む。美酒とはこの事だ。
「この家のことをご存知で、やって来た訳ではありませんね」
マヨイガさんの台詞は意図を捉えかねる言い回しだったが、何となく薄々分かっていた。あまりにも現実離れした家。風呂に入っている短時間であの様な料理が出てくるわけがない。浴衣だってあつらえた様にピッタリだ。酒の味も、何もかも、自分にとって都合が良すぎる。
「……この家は、一体」
俺は夢を見ているのではないかと思っていた。山の中で気絶して束の間の夢を見ているのかもしれないし、何ならもう死に絶えているのかも、と。
「マヨイガ、と申したはずです。まぁ、平たくいうと……貴方がた人間にとっては神出鬼没で幻影みたいな、不思議な家です」
幻影、と俺はおうむ返しをする。疲れが抜けた身体も、舌に残る日本酒の味も、幻影なのか? とても信じられない話であるが、疑う余地がない。
「家のものをどれか一つ、持ち帰っていただければ、その後の人生に役立つかもしれません。如何いたしますか」
「持って帰る……」
どこにだ?
人殺しをして、逃げ果せて、〈その後の人生〉ってやつは、俺にあるのか?
スクリーンの中、若い男が忽然と消え去るシーンが駆け抜けていく。
「ははぁ、貴方、訳ありですか」
押し黙った俺を見てか、マヨイガさんはそう言った。気配をより近くで感じたのでハッと顔を上げると、彼が目の前に立って覗き込んでいた。
暗いせいで、表情は分からない──……
「ああ、怖がらないで」
しゃがんで、座っている俺と目線を合わせる。そこには、慈愛と画策が混ざった笑みがくっきりと浮かんでいた。
「では、こういうのはどうですか。私は貴方を匿って差し上げる。暮らしぶりも贅沢三昧をお約束しましょう。ただし、貴方はこの家から出られなくなる」
ひどく魅力的な話だった。匿ってもらえる。家から出られなくなって困ることは全くない。むしろ家から出たくない。ひたすらに身を隠したいのだから。
「こういう契約、一度してみたかったんですよ」
映画から、グラスとグラスがぶつかる音がした。
◆
滞在して、二週間ほど経った。口調はすっかり砕けた。マヨイガは変わらず敬語混じりであるが、親しみを持って接してくれている。ルームシェアのような暮らしとなっていて、それぞれが寝起きしてお互いのペースで過ごす。とは言え、俺は客扱いなので特にすることがない。テラスで身体を伸ばしたり、シアタールームで映画を観たり、時折マヨイガと晩酌したり、トランプゲームに興じたりしている。
娯楽は望めば出せますよ、と言われたが、映画以上の娯楽が今のところ思いつかなかった。テレビやパソコンなども出せるのだろうが、世間で自分のことが何か報道されていたら……と思うと使う気にならなかった。
飯は美味いし、身体が楽だ。そういえば、薬の禁断症状が消え失せてることに気付いた。
不思議な仕組みで、解毒作用の様なものが働いているのかもしれない。
不満は一切無い。殴られもしなければ、蹴られもしない。風呂は温泉みたいにくつろげるし、用意されている服はラインがゆったりとした俺好みのものだし、料理だって何もかもが望み通りだ。
しかし、不安は消えない。視線を感じて振り返っても誰もいないのは分かっている。マヨイガ以外、この家に居ないのも分かっているのに、あいつが……。
俺が、殺した、元彼が、真後ろに。
汗が滝のように噴き出る。何度も振り返って安全を確保したがるのは、染み付いた歪んだ愛のせい。
「大丈夫ですか」
二階のバルコニーから、テラスを覗き込むようにしてマヨイガが声を掛けてきた。
「ウン、平気」
感謝してもしたりない。俺が呑気にテラスなんてスカした空間で日向ぼっこしていられるのも、マヨイガが匿ってくれるおかげなのだから。
せめて俺は、上手く笑えているだろうか。
「今、そちらに行きます。おやつがてら、少しお話ししましょう」
せっかく良い天気なので、と誘われて和室の部屋に向かう。縁側が付いていて、中庭を眺められるので、気に入っている場所だった。
最中と日本茶を盆に載せ、談笑する。マヨイガの仕草や表情が、安心を与えようとしてくれるのが伝わる。
優しい。マヨイガは優しい。俺は、とんでもない愚図なのに。
「何か、思いつめているようですね」
咄嗟に返事が出来なかった。あの日から外したままのピアス穴に、マヨイガの指先がほんの少し触れる。
「話すと楽になるかもしれませんよ。ワタシは家ですから。何を話しても独り言ってことに出来ます」
「どういう理屈だ、それ」
フハッ、と気の抜けた笑いが込み上げて、ふと胸が軽くなる。
どこかの誰かが言っていた。嫌なことは声に出すことで自分の中から追い出せると。そうすることで、初めて過去になっていくと……。
「……俺は」
「はい」
無意識のうちに握り込んでいた拳を、マヨイガがそっと解く。じんわりと感じる体温が、何もかも許してくれるような気がして、無性に泣けてくる。
「薬中だったんだ。前の恋人に、無理矢理打たれて、それからズブズブに染まったんだ」
ぼろ。ぼろぼろ。口から出た言葉なのか、目から溢れ始めた大粒の涙なのか。どちらとも付かないまま、濁った何かが身体の外へ押し出される。
「俺、本当に好きだった。だから放っておけなくて、助けたいって思ったんだ。けど……どんどん手に負えなくなっていった。あいつは俺より薬漬けになってたし、俺も一緒に使わないと暴力を振るわれた」
ピアスを勝手に開けられても、増やすたびに可愛いと言われて許してしまっていた。……
結局それらは、プレイというには嗜虐に溢れたやり方に使うためだった。ピアスと何かを繋げ、あらゆる攻め苦に我慢できなければ、痛い思いをする何かとして。
「あいつは何かに取り憑かれたみたいに……、とにかく俺をいじめ抜いた。俺が叫び声をあげればあげるほど、何かの養分になるって信じて疑ってなかった」
結局、手枷の擦り傷は痕になった。薄黒く変色した皮膚に爪を立てようとして止められる。
「大変でしたね」
柔らかい声音の肯定。こんな風に、弱音を柔布で包んで貰えたのはいつぶりだろう。
ウン、と言ってから一呼吸。まだ喉奥に埋め込まれた、こびりつくような毒が残っている。
口に出したら終わりなのに。マヨイガが俺を訳ありと察していたとしても、……!
「殺したんだ」
ぼろ。
ボロが出る。とはこのことだ。
「薬打たれて、殴られて、熱湯かけられて。そこまでならいつも通りだった。でも、その日は……ドライバーで刺されて、何度も何度も刺されて、ラリッてて感覚が変になってたんだ」
手が震える。あんな状況だったのに、俺はおかしな興奮で昂っていた。だから、あいつも、俺がヨガってると思って何回も刺してきたんだ。俺が、おかしくならなければ。俺のせい……。
「ドライバーが包丁になった時、もの凄く怖くなった。なりふり構わず突き飛ばして、あいつが落とした包丁で、今度は俺が、何度も……!」
息が酷く乱れていく。胸を押さえて爪を立てて、痛みで自我を保とうとするが、自罰の津波が襲いかかる。
そんな奴と付き合いを続けていた俺のせい。感じてた俺のせい。俺の、俺の──……!
不意にマヨイガが俺の肩を抱き寄せた。一定のリズムで軽くタップして、赤ん坊を寝かしつけるみたいな動きだった。
少しずつ、呼吸を取り戻す。
「死体の処理はしてないし、包丁も、全部そのままだ。服を着替えただけで、全部そのままにして家から飛び出して、放置してる。だから、見つかるのも時間の問題なんだ」
言葉にして初めて、状況が整理できたように思う。明らかに詰みだ。おそらく、警察の手に掛かれば俺の浅はかな逃避行など一捻りとせずたどり着くだろう。
「みっともなく、逃げてきたんだ。……だから、匿ってもらって本当に助かってる。ありがとう」
言いたいことに、やっと辿り着けた。久しぶりに多くのことを喋ったので、少し息が上がる。マヨイガにとっては、いち人間の言葉なんて大した価値はないかもしれない。軽く流されるかと思いながらも、俺自身が言っておきたかった。