マヨイガ 後編

「ふふ、お礼を言われたのは初めてです」
「え?」
 抱き寄せたままの距離で、マヨイガは無邪気な笑み浮かべた。思っていた反応とは違うものが返ってきて、少し面食らう。
「いえね、ワタシに長く滞在する人なんて今まで居ませんでしたし、こうして言葉を交わすこと自体、初めてのことに溢れているのです」
 純粋な目が、俺の心の奥底まで洗っていく。
「その……嫌じゃないのか。俺、人殺しなんだけど……」
 その眼差しがあまりにも綺麗で、俺には不釣り合いな気がして口ごもる。
「全く。まぁ、いわくを持つことになった家には少し同情もしますが、ワタシは並の家ではありませんので! それに、身の安全のために安心できる別の家に逃げ込むのは、人間なら当然のことでしょう。きちんと逃げられたのですから、本当に良かったです」
 分かっていたつもりだったけど、家主観の価値観に目眩がしそうになる。いわくを持っちゃった家、と言われると、確かにそうだと思ってしまう。あのアパートは殺人事件が起きた現場となり、事故物件サイトに記載されることになるのだろう。
「ワタシの方こそ、ありがとうございます。貴方がここへ逃げてきてくれたおかげで、とても充実した日々になっています」
 額を寄せて、逆に礼を言われる。心が洗われるどころか、火が灯ってしまいそうになる。マヨイガの顔が、はっきり言ってタイプど真ん中なせいだ。相手は家だってわかっているのに、顔が良い男の眩しい笑顔を直に浴びてるのだから……、正直言って、困る。
「あ、あのさ。話からして分かったかも知らないけど、俺、ゲイだから。その顔で近寄られると……その」
「ゲイとは何でしょう?」
「えっ」
 そこから? と思ったがマヨイガは家だ。知らなくても不思議はない。そんな相手にどう言えば良いのか迷いながら言葉を選ぶ。
「えっと、……男が好きな男ってこと」
「それは……誰でもそうなのでは? 以前訪れてきた人も、男三人組でしたよ」
「それは多分、肝試しに来た友達同士じゃないか?」
「? よく分かりませんね……」
 本気で分からないみたいだった。性的指向と言っても多分通じない。セックスする相手が男同士、と言えば早いが……なんだか憚られる。
「ええ……っと。その、営みの相手が女じゃない男ってことだよ。男同士じゃないと逆に無理な人ってこと」
「ははぁ、なるほど! 理解しました!」
 営み、という単語に置き換えたのが良かったらしく、パッと表情を明るくして手を叩いた。
「料理や酒なんかはいくらでも出せるんですがね、女だけは出せないんですよ。だから、嗚呼、良かった」
 言い回しに、とてつもない引っ掛かりを感じる。二重三重に被さっているオブラートを剥がして良いものが悩むが、聞かずにはいられない。
「…………男は出せるのか」
「ワタシは家ですから。家長なら、というのが正しいでしょうねぇ。つまり貴方の目の前に居るのが、ワタシであり家長というわけです。貴方は家長に招かれ続けている客人という立場です」
 家政は貴方に合わせたものが出ますよ、と言われ、納得する。料理などが最たる例で、全て俺好みの味加減なのもそういう仕組みなのだろう。
「そして、家長としては客人を最大限にもてなしたいのです。嗚呼、やはりこの姿を作ってよかった!」
 大きく腕を広げて大袈裟なくらいに喜ぶので、俺はなんだかいつもとは違う不安に駆られた。
「要は……なんだ、まさか、性的な意味でのもてなしを、俺にしようと……?」
「おや、このような外見がお好みかと思い作りましたが」
「い、いらねぇって!」
 案の定だった! キョトンとした顔を作っているけれど、すっとぼけてるのは明らかだった。
「遠慮なさらず! 風呂やトイレで慰めるのも限界ではありませんか?」
 心に灯った火は、顔に飛び火した。全く悪気のなさそうにしているというのに、マヨイガの手は俺の脇腹を撫でていた。
「何で、何で知ってるんだおまえ……!」
「この家はワタシですよ? 何でも存じてます」
 くすぐり自体に弱い俺は、マヨイガの指を布越しに感じてビクリと跳ねる。他人から与えられる性感を馬鹿正直に拾ってしまう自分の神経を叱責したくなるが、強引に唇を奪われてしまってはそれどころではない。
「んっ、んんッ!」
 逃げようとしても不安定な体勢にさせられて、マヨイガに縋らないと上体が起こしていられない。倒れ込んだらもっとヤバいことをされる気がして耐えるが、キスそのものに抵抗する余裕がなかった。
「んぁ、……ん、んん、……」
 心地よく撫でられるような舌使いで、冗談抜きに溺れそうになる。キスだけで腰砕けにされたのは初めてだった。
「待って、ここで……?」
「……期待していたくせに」
 口角を片方だけあげて耳元で囁かれる。色っぽい声が腰に響いて、ぞくぞくとした波が背中を走る。
 後ろから抱きかかえるような体勢にされたかと思うと、イージーパンツの中を弄られる。
「ほら、証拠に。もうこんなに濡れている」
「ッあ、何で……!」
 長い指が下着越しに触れて、ボクサーパンツの隙間から忍び込んできた。先走りを指先で広げられ、先端から強い刺激を与えられる。反射的に背中を仰け反らせた。
「ひっ、ぁ……!」
「敏感なんですね」
「しゃ、しゃべるなよぉ……!」
 吐息混じりで、耳を甘噛みされる。自慰とは明らかに違う感覚が久しぶりで、とんでもない声が出そうになる。
「ッ、うっ、ん……!」
 マヨイガの指の動きに合わせて腰が震える。声が甘く漏れて、俺はマヨイガにしがみつくようにして息を殺した。
「我慢は良くありませんよ。さぁ」
「っ、……! は、ァッ! 待って、そんなの、……! イ、イクから……! ぁ、あぁっ、ぅああッ……!」
 性急な動きと、僅かに立つ水の音がトドメになって呆気なくマヨイガの手の中で果ててしまった。全速力で走った後みたいな疲労感に身動きできないままでいると、マヨイガは何を思ったのか、手の中にある俺の精液を啜り始めた。
「ばっ、な、何して……!」
 わざとらしく、指に絡ませた白濁を舌で舐める。視線は俺の方を向いていて、訳の分からない背徳感にのぼせそうになる。
「良かったでしょう?」
 一滴残らず啜り上げてから、第一声にそんな事を言うものだから、恥ずかしさで居た堪れなくなった。
「お前……なんなの、俺のこと、好きなの……」
 マヨイガの、俺に対する執着を垣間見てしまった。追い出されるとか、そんな心配は不要なのだと教え込まれたような気がして、阿呆みたいな聞き方をしてしまう。
「そりゃあもう。人が訪ねてくることはあれど滞在する方は居ませんでしたし。廊下を踏み締める足音だけで心が満たされます」
 艶々とした表情は、俺が口を挟めるものでないことを物語っている。おかしいな、俺の話のはずなんだけど、俺が入り込む余地がない。
「端的にヤベェ……」
 存在丸ごと、それこそ息をしているだけで全肯定してくる相手に、俺はとうとう身も心も火に炙られた。

 ◆

 その日の夜から、夜にマヨイガが部屋に訪ねてきては、俺を優しく抱くようになった。決まって簡単なツマミなんかを用意して、少し会話して、ふと落ちる沈黙が合図になる。
 濃厚なキスから始まって、全身にリップ音をさせながらスキンシップをする。緊張が解れてから始まる愛撫に、爪先までマヨイガに染まりそうになる。
「なあ、っ、もうっ、もてなすとか、考えなくていいって……!」
 舌を使われ、指で解され、前戯だけで絶え絶えになってしまう。特に臍から下は丹念に触れて、慣らしていく。浅い呼吸で強すぎる快楽を逃しながらでないと、あっという間に天井まで押し上げられてしまいそうだ。
「私が好きでしていることですから。遠慮せず」
「遠慮とかじゃ、っぁ、あ、あぁ……!」
 にこやかな表情に嘘はない。百パーセントの善意と好意であることは間違いない。けれど、良過ぎるのだ。マヨイガは俺が余裕を無くして乱れると分かっていて、追い詰めるようなやり方をする。
「ここ、良いんですね。気持ちよさそうなお顔で……」
「言うな、……! ぁっ、ん、んァ、はぁっ、あ」
 グジュグジュと卑猥な水音が響く。薬抜きでこんなに感じたことなんて今までなかった。中にある前立腺の膨らみを押されると足が震えて、勝手に肚の奥が伸縮する。そこだけ俺とは別の生き物になってしまったみたいに、マヨイガの指を美味そうに食っている。
 恥ずかしすぎて腕で顔を隠そうとするが、もう片方の手でベッドに押さえつけられ、阻まれてしまった。
「ここ押されるの、好きですよね……。さぁ、もっと見せて」
「やっ、やだ、見るな、ぁ、ああっ、……〜〜〜〜ッ!」
 恍惚としたマヨイガの表情は目の毒だ。奉仕というには利己的なくせに、しかし身勝手さは無く、心の深くまで触れられている感覚がする。呆気なく達した俺の精液が、腹を汚していく。
「嗚呼……。愛しい、とても……」
 ただでさえ好みの見た目をしているのに、少し意地悪そうな笑みが刺さって、胸がキュウと締め付けられてしまう。こんなの、逃げられるわけがない。頭の芯からバカになるくらい気持ちよくて、身体がふわふわと浮いてしまう。
「んっ……」
 深い口付けが、これから先の時間を更に濃密にしていくことを示していた。俺の性感帯を把握しきったマヨイガが、隅々まで愛そうとする。ゆっくりと入ってくる屹立に、肌が粟立った。
「は、っ……! まよいがぁ、んん……」
 奥まで埋め込んだ楔を、更に奥へ、奥へと押し付けてくる。腕の中に閉じ込められた俺は、はくはくと呼吸を繋ぐのに精一杯だった。指よりも圧倒的に嵩のある存在を直に感じ、身体の中身がグズグズに崩れそうになる。
「……行かないで」
 繋がったまま、ぎゅう、と強く抱き締められる。マヨイガとの距離がゼロどころか更に食い込んで、混ざり合って一つになれそうな気がした。
「どこにも行かないで。ずっと、ずうっと、ここに居てくださいね」
 あいつと同じ台詞なのに、ちっとも嫌な気持ちにならない。重い気持ちにも感じない。むしろ、俺を逃がすまいと案外強引に抱く姿を、愛らしく感じてしまう。
『行くアテなんてねぇのに』
 密着したまま良いところを擦られ、短く喘ぎながら、マヨイガの髪に指を絡める。喉が焼けそうなくらい甘い時間は、互いの乱れた息で埋め尽くされて、肌が溶け合いそうだった。

 ◆

 匿ってもらってどれくらい過ぎたか。季節が一つ過ぎて夏真っ盛りとなった。
 庭先でビニールプールを設置して、良い歳してはしゃいでしまった。ついでにマヨイガもずぶ濡れにしてやった。
 何でこんな子供の夏休みめいたことをしているかというと、とある映画に出てきた建物に対して「うわ、すげー豪華」なんて言ったのが始まりだった。オーシャンビューが売りのゴージャスな野外プールが付いている建物で、いわゆる海外のセレブがパーティーで集まるシーンだった。
 たまたま二人で見ていた時に、羨むようなことを言ったものだから、「今から野外プールを増やします!」とか言い出したのだ。作られてもそんなに入らねーから! と言っても聞かなかったので、それなら懐かしさ感じる大きめのビニールプールが良い、ねだる事で落とし所をつけた。滅多に娯楽を要求しなかったので、それはそれは張り切って用意してくれた。
 マヨイガが変な対抗意識を燃やしたのが一番笑えたのだが、それは言わないことにする。
「嗚呼、全く。貴方がテレビを観たがらない人だったので油断していました! 良くある『セレブの豪邸、ドドンと紹介!』なんて特集をこの家で見られたら、悋気でどうにかなりそうです」
 りんき、がよく分からなかったが、多分ヤキモチ焼くことになるということだろう。ぷりぷりと怒る姿が新鮮で面白くなってしまう。
「ところで、シアタールームにある映画ですが、同じものばかりで飽きませんか? ネット接続すればサブスクの配信サービスなんかも使えますよ?」
「あんまり、流行りのものって興味ないんだよな。……マヨイガは観たい?」
「興味がないと言えば嘘になりますね」
 マヨイガは人間の作るコンテンツに興味津々だった。元々の成り立ちを軽く聞いていたので、人間が好むものや気に入るものの研究に熱心なのだろうと思う。
 というか、サブスクにも対応してるって、支払いどうなってるんだ? と思う。そもそもインターネットに接続できる仕組みが気になった。プロバイダでの契約がなければ不可能なはずなのに、ネットが使えること前提での娯楽提供をしようとしている。
「過去に幽霊として某掲示板に現れた例もありますし……いつも通り使う感覚でいてもらえれば使えると思いますよ」
 聞いてみればそんな回答で、なんだそりゃ、と思わずこぼした。試しにパソコンを書斎に出してもらう。メーカーも何も書いてないが、設置されたノートパソコンのカバーを開いて電源をつけた。
 半信半疑でブラウザを開けると見慣れた検索エンジン画面が表示されて脱力する。
「マジだった……」
「便利でしょう?」
「理解し難い……」
 家の中にルーターもモデムもないのに、無線LANに接続しているマークが付いている。LANの名前は文字化けしてぐちゃぐちゃになっているので、ああ、本当に俺、怪異の中に居るんだな、と変な納得をしてしまった。
 もう、世の中を覗いても大丈夫だろうか。あれから数ヶ月経っているのだ。すぐに話題が移りゆく世間なのだから、きっと、大丈夫だ。
 呼吸を整えてネットニュースを見る。トップに踊る見出しが目に飛び込んでくる。
【同居人男を指名手配】【凄惨な現場】【恨みからの犯行か】【強い薬物反応 日常的に使用か】【全国捜索 進展なし】【同性同士の痴情のもつれ?】【死後浮かび上がる 空白の時間】
 嫌な汗が出た。これは本当に世間のニュースなのだろうか。俺が考えてしまった、避けたい現実を映し出しているだけなのではないか。
 記事を見るまでもなく、察してしまった。すぐには発見されなかったんだ。何で発見が遅れた? 元々ゴミ屋敷みたいな部屋だったから? 腐敗臭で大抵発見に至るのに何故?
 ニュースだけではない人の口に上っている情報を確認したくなり、SNSにログインしようとして躊躇った。プロバイダがないので、位置情報やログイン履歴を漁られたところで提供されることはない。だが、俺が生存しているのが明らかになるのも悪手だ。
 この家の中にいる限り安全だとしても。俺みたく運良く発見する捜査員がいるかもしれない。そうなったら…………
「大丈夫ですよ」
 後ろから目を、手で覆われる。子供っぽい遊びを思い出させる声音と手つきだ。それが、妙に安心してしまう。
「あなたは悪くないのですから。愛されたくて、必死に付き従って、暴力を振るわれて。身の安全を確保するために、逃げただけです」
 償う罪などありませんよ。
 そう言って、ノートパソコンのカバーを閉じて、俺の座っている回転椅子をくるりと回した。うっそりと微笑むマヨイガと対峙するうち、本当にそういう気がしてきてしまう。
「償う罪は、無い……」そう口に出せば「ええ、そうです」ときっぱりとした口調で、マヨイガは笑みを滲ませる。
 不安は薄れるが、絶対的な安心感にもう1ピース足りない。
「だけど、もし、この家にたどり着く人がいたら……」
「ワタシと家族になりませんか」
 遮るような言葉に、思わず目を丸くした。返事をする前に、マヨイガは続きを口にする。
「客人ではなくこの家の一員になるのです。そうすれば……貴方は私の一部となって、永劫隠せます。」
 常人が聞いたら耳を疑う台詞だろう。人の道を外れる提案だ。だがそれは、俺にとってプロポーズ以上の言葉だった。俺が欲しかった、最後の一つ。歓喜が胸の内から溢れ出て、俺は驚きで口元を両手で覆う。
「本気で言ってる……?」
「貴方さえ良ければ」
 赤面してしまう。だが同時に、自罰の波が再び襲いかかる。
 ──既に人の道を外れているから、ホイホイと着いていくのか?
 こんなに良くしてもらっているのに。こんなに愛してもらっているのに。信じられなくて、自信も持てない。
「分かってるのか? 俺、男だぞ」
「嫁いできた人、という意味では性別関係なく嫁と称します。私の嫁として来てください」
「マヨイガ、小さい子が好きって言ってたよな。俺、男だから……子供、作れない」
「人の営みは、家の数だけあります。夫婦二人の営みに、何の不都合がありましょう」
「何で、何で俺なんだ。もっと良い人間もいるのに」
「何を仰います。〈良い人間〉がこの家の中に留まるわけがないでしょう。ええと……割れブタに綴じナベでしたっけ?」
「逆、逆」
 途中でいつもの調子になってしまって、少し笑う。だがすぐに、マヨイガは真面目な顔つきになって、椅子に座った俺の前に跪いた。
「ワタシが、一体いつから在ると思ってるのですか。長い間、本当に……。ずっとワタシだけだったのです。
 誰が来ても良いように家を保ち、何を持ち帰られても益があるよう気を払い、しかし、賓(まれびと)は足速に立ち去っていく。それが普通だと思っていましたし、そういうものだと思っていました。……ワタシは、そういう存在であると」
 人間の俺では想像もできない話だった。悠久の時を経て、なんて言い回しがあるが、マヨイガが言うと重みが違う。俺の両手を静かに取って、そっと口付けを落とした。
「貴方だけなのです。私の中で身体を休め、くつろぎ、暮らし、息づいて、鼓動を鳴らす……。愛おしくて堪らない。手離すだなんて、惜しいなんてものじゃない」
 少し、手が震えている。そんな話を聞かされて、どうして断ることなどできるだろう。
 嫁ぎます、なんて言うのが気恥ずかしいのは、許して欲しいから。それこそ、これから続く、俺たちなりの悠久の時を過ごす意思を表したいから。マヨイガの両手にキスを返して、正真正銘の、初めてのおねだりをしよう。
「表札、作ってよ」