〈お蚕さま〉

 絡み付いた糸を解すのは、見た目より容易であり、難解である。
「伯父さん」
 憧憬を滲ませる眼差し。秋色の空気が都会よりも充満している故郷。光が些か眩しく見える。
 生まれた時から成長を見てきた。甥が私を慕ってくれているのは知っている。尊敬を含んでいるが、それだけではない。それを感じたのは、彼が中学生に上がったころからだっただろうか。
 子が生まれ、父親となった今でも、その瞳は変わっていない。

 ◆

 本来なら企画について私が横から口を出すつもりはなかった。タレント事務所からの人材紹介を兼ねた新人資料の中で、あまりにも異質な人間がいたのが目についてしまったから仕方ない、と言わせてほしい。
 人間ではないと思うほどに磨かれた肌。ぎこちない笑顔だがそこに不審な点は無い。それよりも、細い〈糸〉すらも持たず、そのくせ結ぶ数がやたらと多い若い男だった。何度か疑いながらじっくりと眺めたが、とにかく人間離れした人間だということしか分からない。どちらにせよ会ってみたいと思えたのはその男だけだったので、事務所へ連絡を入れる。

 会ってみて更に驚いた。写真よりもずっと瑞々しく見える男であり、〈糸〉が結べる数が膨大だった為である。マネージャーからの紹介と本人からも話を聞く。彼の話によれば大学を目指して勉強している最中で、入学費用だけではなく学費も稼ぎたいと考えていること、社会勉強のためにタレント業に飛び込んだということだった。身体を使う仕事であればなお良いとのことで、汗水垂らして働くのが美容にもいいから、と笑ったのが印象的だ。
 仕草や口調の中で達観している様子や、親族の影の薄さが気になる。生い立ちについて、ピンと来るものがあったので言い当てると、とても驚かれた。
「仕事柄、こういうことは得意なもので、気を悪くしたら申し訳ない。……私は貴方を推薦しましょう」
 同席した企画の部下がとんでもない物を見る表情をしているのを横目で見た。職権濫用と言えるが話を転がすようにして繋げる。
「あらゆる仕事の大半はつまらないもの。だが、退屈ではないものを持って来たいと考えています。是非引き受けていただきたい。何卒、よろしくお願いします」
 彼のマネージャーも彼も快諾したので、胸を撫で下ろす。書類は後日送ることにして、エレベーターホールまで見送った。完全に扉が閉まったのを確認してすぐに、
「本当にすまなかった」
 と、部下にすぐさま頭を下げた。
 話を勝手に進めた詫びとして私が責任を取るという言質と、調整を進めていたモデルについては別のヒット商品の広告枠を充てることで落とし所を作る。
 部下にはなんとか納得してもらった。部長がああまで言うってことは何かあるんでしょう、と苦笑いされる。苦笑いで済まされる程度に、私にこういうところがあるという評価と実績がある。厚く礼を言い、私は各所の声掛けと根回しに赴いた。

 端的に言えば放置できなかった。〈糸〉が結べる数というのは、つまり持てる縁の数と同等だ。膨大といえどつまらない物で埋めるのは容易い。ああいった人間は稀だ。良縁のみで埋めていけば、あるいは本人が望み続ければ、日本を代表するタレントとなり広告塔となる。そういった人材を真っ先に押さえることには、色んな意味があるのだ。

 あの彼から僅かに……。そう思ったが、探るのをやめた。甥の訃報があって、しばらく経ったが、今でも残念でならない。センセーショナルに報じられた殺人事件被害者……ではあるが、甥は人の道から外れた行いをしたのだと分かっていた。
 もっと気を払っておくべきだったと後悔の念がのしかかる。
 月末には帰省する予定だ。私の生家で下宿している部下の様子も見ておかねば、と拳を握った。
 スーツの内ポケットに忍ばせた、赤い飾り結びの御守りが熱を持つ。

 ◆

「伯父さん」
 生家に到着すると、甥っ子たちの家族が庭で寛いでいた。着物に袖を通した長男坊が真っ先出迎えてくれる。私に向ける視線については、気付かないふりをした。
「みな元気か」
「ええ、もう。特に子供たちは」
 荷物を縁側に一旦置いて弟夫婦と甥夫婦に挨拶する。子供らは双子の兄弟だ。一瞬でも目も離すと二人して何処かへ行ってしまうくらい活発らしい。芝生の上をよちよちと歩いて、すっかりおじいちゃん顔になった弟が写真を撮っていた。
 三男坊も今回は帰省するとのことだった。次男坊が亡くなって、その葬式以来の顔ぶれだ。四十九日となるので外す訳にはいかないだろう。
「祭事と重なっているが……」
「いつも通り、何も知らせないでおきますよ」
 三男坊は、血筋や家系について全く知らないままである。幼い頃から、別の物に気に入られているのが影響している。山の化身とでも言えばいいのか。奇妙だが友好的すぎるくらいの存在であり、三男坊もまたあちらとこちらを行き来する真似を無意識にしている。そのため、こちらからも深く踏み込まないし、向こうも分かっていて踏み込んでこない。
 人ではない何か。神に似た何か。しかし神ではない何か……。先祖代々、私たちの家筋は〈お蚕さま〉に仕えており、当主となるのは直系の男に限られている。
 〈お蚕さま〉から何かを直接与えられることはなく、また当主である私から捧げるのは今も昔も桑の葉のみである。私が捧げるのは、中秋と新春だけ。この土地で育てた桑の実は特産品として出荷される。無論、絹糸や絹紐も特産に数えられるが、〈お蚕さま〉の糸はこの地域だけに閉ざされている。
 古くからは鬼除けや厄除けとして人々に持たれ、信仰を集めた。だが、評判を呼べば悪人が集まるのは世の常である。〈お蚕さま〉は厄や悪鬼も食うが、人は食わない。だから人の悪意などにも弱い。苦渋の決断ではあったが〈お蚕さま〉を守るため、観光に関する活動や〈お蚕さま〉関連の情報は表に出してはならないと決めた。私が、二十九歳の時、当主となってすぐのことだった。
「そろそろ、当主となったらどうだ。日々の業務をお前が行うようになって、十年以上は経つだろう」
 私は未婚であり子供もいないので、次の当主は弟か長男坊だ。私は祭事の時だけ帰省する形だけの当主となってしまっている。
「いつかは継ぐつもりでいます。でもまだ、伯父さんが当主であって欲しいんです」
 でなければ、もう帰ってこないつもりでしょう?
 私は……黙ったまま、庭先を見た。相変わらず子供たちと弟が日向で遊んでいる。木の影と人の影の中を行き来する遊びをしているらしく、弟の嫁さんがスマホで動画を撮っていた。次男坊を失った悲しみを、皆それぞれに受け止めようとしている。
 今、我々は無垢な幼子に救われている……。
「……大きくなったな」
「三つになりましたから」
 あの子たちも、物心がつくころに力の有無が分かるだろう。
 私の弟はあまり力を引き継がなかったが、子供たちには十分に遺伝した。三男坊は母親に似て少々鈍い。次男坊は危険思想に斃れてしまった。そして長男は、……〈お蚕さま〉に仕えるのに十分な素養があり、また子供をもうけている。長男を見て、その子らを見ていると、出来ることなら何も考えずに人生を送ってほしいと思ってしまう。

 この子には何が見えているのだろう。
 あの子らには、何が見えるのだろう。

 因果なものだ。
 本当は私の代で終わりにするつもりだったが、そうはならなかった。
「……下宿しに来ている彼、伯父さんの部下なんでしょう。熱心で良い人ですね。荷物なんかも率先して運んでくれましたよ。祭事の前に、今のうちにお話ししてきては」
 考え込んだ私に対し何か触れるでもなく、口にするでもなく、当たり障りないラジオのような話題となった。だが事実、部下とは今のうちに話をしておいた方がよいだろう。リモートで何度も顔を合わせているが、部下と直接会うのは久しぶりだ。

 茶の間で一息ついていたところだったようで、声を掛けたら猫のように飛び上がった。
「あっ、ぶ、部長。この度は……」
「ああ、いい。構わない」 
 慌てて立ち上がろうとするので、適当な言い方で制した。
 下宿してからの様子は弟を通して聞いていたが、かなり顔色は良くなっていた。明らかに人ではない何かに引っ張られていた時を思えば、きちんと生きているという感じがする。
「変わりはないか」
「おかげさまで。本社はどんな様子ですか?」
「相変わらずだ。リモートワーク推進は半々といったところであるし、……」
 近況報告をしながら、妙な気配だった糸を辿る。すっかり鳴りをひそめ、ずいぶん薄れている。だが縁が切れているわけではない。言いつけられた通り、〈お蚕さま〉の絹紐を身に着けているようだ。手首に紅白で編まれた腕飾りが覗く。
 安定しているようだし、追加で仕事を任せる頃合いだろう。リモートワークでの生産性を確かめる意味でも、継続案件の一つを受け持ってもらうか、と考える。
「お前に別の案件を引き継ぐ。上手くやってくれ。S社のシリーズだ」
 えっ! と声を上げた。驚き八割、喜び二割といったところだった。冷静な物言いをする奴にしては珍しく声を弾ませたので、その初々しさに頬が緩くなる。
「今度顔合わせをセッティングする。頼んだぞ」
「ありがとうございます!」
 悲しみに暮れているばかりではいけない。責務を果たすだけでもいけない。

 今年の秋は、心の中にさざ波が立つ。残暑ばかりが厳しくて、目が回りそうだ。

 ◆

 祭事、といったが執り行うのは長男坊と私、それから世話になっている坊さんである。私有地の血か、時代錯誤な座敷牢の前で行うので、限られた人間しか参加できない。燭台に建てた四つの蠟燭だけが、その場の光源であった。
 神仏の区別のない儀式とでも言えばいいのか。神と人の相中である為なのか……。崇めているのは神であるはずだが、しかし奉った経緯については伝承が残るのみで不明瞭である。
 手のひらに祭事用のナイフの切っ先を当て、真横に切る。何度も繰り返しているので、左右の手は傷口が手相になってしまった。普通なら分かれている線が、両手とも不自然につながってしまっている。
 血を小さな盃に滴らせていき、その血を長男坊が筆にしみこませる。あらかじめ用意された桑の葉、十八枚。それらに祝詞を血で書いていく。文字の形を保つことなく、ただただ血を塗りつけただけに見える葉だが、坊さんの経を終えるころには、葉についた血が固まり始めていた。
 長男坊が厳かに、〈お蚕さま〉の元へと運ぶ。薄暗闇の中、照らされていたのは座敷牢の柵。その前に葉を乗せた神饌物が備えられる。

 蝋燭が揺らめいて、一つがフ……と消えた。

 シャク、ジャク、パリッ、……

 絶えず聞こえてくるのは咀嚼音。目が慣れてくると、座敷牢の先にいる〈お蚕さま〉の姿が浮かび上がる。頭のてっぺんから足の爪先まで、とはよく言ったもので、文字通り真っ白である。美しく流れるような髪、滑らかで傷一つない肌。華奢で薄い身体。足は……着物に隠されていて伺えない。おそらく退化しているだろう。〈お蚕さま〉が立ち上がった姿を見たことが無い。
 私は静かに立ち上がり、血塗れになった桑を手に取る。最初の一枚は、いつも背筋が伸びる思いをする。慎重に、座敷牢の隙間に差し入れた。
「──……」
 〈お蚕さま〉は私を見ると、にこりと微笑んだ。言葉はない。意思の疎通が取れたことは、ただの一度もない。声も発さなければ言葉も持たない。この神のようなものは、人を見ると微笑むようになっている。

 シャク、ジャク、バリッ、バリッ……

 無数に生えた小さな歯。咀嚼する感覚が、茎を持つ指に伝わる。柔らかな葉は〈お蚕さま〉の小さな口に吸い込まれていき、一瞬、赤い舌が僅かに覗く。反転した様な瞳の色はいつ見ても見慣れない。瞳孔は白く、虹色に反射している。暗闇の中で浮かび上がるものの中で、最も目を引く色だった。
 もう一枚。また一枚。〈お蚕さま〉はいつもの葉を食う様子と変わらず、血で唇が汚れていくのも気にせずに桑を食っていく。

 無言で見つめるだけの儀式。それに一体何の意味があるのだ、と何度も自問自答してきた。だがそんな疑問は、真っ白な〈お蚕さま〉に紅が差されただけで、簡単に消え去ってしまう。この光景に、いつも言いようのない想いが渦巻くのだ。単に美しいだとか好ましいだとか、そればかりではない。幾つもの思いが私の中で折り重なり、結果として胸中に渦巻くのは「私で終わり」にしたくなる思いだ。
 全ての葉を捧げると、仰反って背中をしならせ、静かに、呼吸を伸ばすようにして糸を吐く。艶やかに見える姿に目を閉ざしたくなるし、今すぐ座敷牢に火でも放とうかという衝動が沸き起こる。坊さんの傍にある燭台を投げ入れれば、たちまち燃え広がるだろう。難しいこともない。
 糸を吐きながら、ふと目が合う。
〈お蚕さま〉が再び、にこりと微笑んだ。
 ……感情があるのかも分からない。言葉を持つのかも分からない。ただただ、〈お蚕さま〉は、糸を吐く。その為だけに、座敷牢に居る。いつから居るのか分からない。いつから在るのかも分からない。長い長い時間、はるか昔の時代から、桑の葉を食い、糸を吐き、糸で作った繭に包まり、三日三晩の眠りに就いたあと、再び真っ白な姿を見せる。再び糸を吐けるようになるまで、ひたすらにまた桑の葉を食っていく。
 このサイクルは一度たりとも狂ったことがない。
 ──幼い頃は、度々〈お蚕さま〉を見に来ていた。みだりに足を運んではならない決まりだったにも関わらず、次期当主であるのを良いことに、特に祖父からは大目に見てもらっていた。不気味さと、異様な美しさに夢中になったのは言うまでもない。
 真っ白な糸を吐く姿に何度も釘付けになった。繭から現れる姿には、降臨という言葉を思い浮かべた。
 繭に包まれていく〈お蚕さま〉を眺める。真っ白な繭ではない。血を捧げた時にだけ〈お蚕さま〉は赤い繭を作る。部下が肌身離さず巻いている紅白で編まれた腕飾りの、赤い糸はこの繭から作られたものだ。人が染めたものではない、真紅の絹糸は貴重なものなのだ。
 ついさっき、私の血で唇を赤くした姿を思い返す。幼い頃から、ちっとも様子が変わらぬまま、成虫になれぬままの〈お蚕さま〉。蚕と同じように成虫になったら、すぐに死に絶えるというのに。否、役目を全うして死ねるというのに。
 私たちはずっと、〈お蚕さま〉を留め続けている。

 私は思う。
 年二回、ほんの少々の……献血にも満たぬ血の量でこんなにも赤い繭となるのなら、私一人を丸ごと捧げたら、〈お蚕さま〉は何を作るだろう。より赤い繭だろうか。赤い繭しか作らなくなるだろうか。それとも繭ではなく、もっと別の何か……。

 ジャク、バリッ、ゴリッ、バキッ……

 耳の奥で、咀嚼音が残っている。私を、いつかきっと。