八尺様

 じっさまは、そりゃあもう格好いい人だった。
 真っ白な髪は銀色の狼みたいに思えたし、歳をとっているのに若々しくて、飛行機ごっこをしてくれたのが昨日のことのように思い出せる。
 庭にある倉には、じっさまの宝物がたくさんあって、子供の頃はそれを見るのが夏休みの楽しみだった。
 じっさまは大戦の折、旧帝国海軍に所属していたと聞かされた。水交社製を表す金色のボタン、傷みがあるものの気高い白い制服のほか、麻でできた深緑色した士官用の装いまであった。袖を通させてもらったこともある。幼少期だったからぶかぶかなのだと当時は思ったが、大人になった今でもかなり大きい服だったと思い出せる。
 実際、じっさまが何者だったのか詳しくわからない。意気軒昂、気炎万丈、とにかく頑丈なじっさまだった。戦争の話しは怖かったけれど、じっさまが命を懸けて戦った話はどれも心を掴んで離さなかった。
 そんなじっさまに憧れたし、もともと船や海に惹かれていたので、幼くして海上自衛隊を夢見たのは自然なことだった。じっさまは俺の夢をとても応援してくれた。

 じっさまは二年前に亡くなった。百歳を超えても元気にしていたし、季節の節目に送り合う手紙のやりとりもしていた。だから、本当にショックだった。
 俺は、じっさまとは子どもの頃に会ったきりだった。
 中学に上がる前の、小学生最後の夏休みが、今でもへばりついて離れない。

 ◆

 夏休みのお盆は、じっさまの家に集まるのが決まりになっていた。正月と同じように親戚一同が集まるので、一大イベントになる。
 従兄弟にはとこ、明確な血縁は分からないけどとりあえず親戚らしい子。年少組の中でも俺は歳が上の方だったため、当時の俺は、子供達をひとまとめにして近所を遊び歩いた。近隣に住む悪ガキも合流して、境内で影ふみをしたり駄菓子屋でアイスを買ったりして過ごしていた。
 じっさまが別宅の側にある小川へ連れて行ってくれた日。炎天下に冷たい川の水は気持ちがよくて、キャーキャー騒いだ。向こう岸はすぐに山で、草木が生い茂っていて、それがまた涼しげだった。
「あんまり深いところはいかんぞ」
「わーってるって!」
 じっさまはよく通る声で子どもたちをまとめて、水遊びの相手をしてくれた。岩場で危険なところを避けながらもスリリングな遊びになる工夫をしてくれた。
「じっちゃま、肩かして! 肩車するの!」
「わはは、よしきた! にいちゃんを倒してやれ!」
「ずりぃって、じっさま戦車は反則!」
 水鉄砲や水風船でひたすら相手に当てまくったり、釣りをしたり。そうそう、その日は確か、釣った魚をその場で焼いたんだ。母ちゃん達に持たされたおにぎりと一緒に頬張って。最後にはゴミ拾いをするのが決まりだった。
 その時も、ゴミ拾いをしていたと思う。チビ達の手本になるようにとじっさまに言われていたのもあって、張り切ってしまったのだ。自分達の出したゴミの他、夢中になって枯れ葉まで拾っていた。

 気が付けば元々居たところから随分離れていた。チビたちがはしゃぐ声が響いて聞こえるので、方向は分かる。すぐに戻らないと、と踵を返した。
 ――それは、目を引く姿だった。そう遠くない河の向こう岸、真っ白な詰襟のようなものを着ている男が立っていた。船長さんが被るような帽子を目深に被り、白手袋をしているのが分かる。
「こ、んにちは」
 じっさまの敷地のそばで、海に関する仕事をしていそうな服装だったので、知り合いかもと思って咄嗟に挨拶をしてしまった。木々の隙間からこちらを覗いていて、顔はよく見えないがずいぶん背が高い人だった。向こう岸にある岩や木はじっさまの背丈よりも高かったと思う。それらが胸より下に位置していた。
 その人は、ゆっくりと左右に動きながら、「ぼ」とも「ご」とも――すごい低い音の「ぽ」とも聞こえる声をぽつぽつと出し始めた。
 あまりに不気味で、真夏が見せた幻覚かと思った。だが変に現実逃避して冷静になろうとしたのか、『あ、この人、歌ってるのかな』とも思った。少し神経がおかしい人なのかも、とも。
 俺は直視し続けてはいけないものだと本能的に感じ取り、勢いよくお辞儀だけして、じっさまの元に駆けた。

 ◆

 帰りの車中、チビたちははしゃぎすぎてぐっすりと眠ってしまっていた。起きていたのはじっさまと俺だけ。9人乗りのバンがやたらと広く感じて、じっさまの一番近くの席を選んだ。
「着くまで寝ててもいいんだぞ。チビたちの面倒、頑張ったから疲れたろう」
 向こう岸で見かけた人は、もしかしたら見たら行けない人だったのかもしれないと思うと、じっさまに言うのが少し怖かった。何故だか怒られるような気がしてしまって、俺は「ううん」としか答えられなかった。
 耳から「ぽ、ぽ、ぽ」という音が離れなくて、我慢し続けていたが俺はとうとう泣き出してしまった。じっさまは慌てて車を停めた。
「なんだ、どこか痛いのか」
「ううん」
「学校でひどいことされたのか」
「ううん」
「怖いものでも見たか」
 じっさまの大きな手で頭や背中を撫でられているうちに少し落ち着きを取り戻して、俺は白詰襟の人について話し始めた。
「向こう岸に、船長さんの帽子を被って、白い詰襟を来てる人が居たんだ。多分じっさまよりも大きくて、変な……歌? 声? 出してたんだ」
 鼻を啜りながらだったのでスムーズに言えはしなかったが、何とかそこまで伝えることができた。怒られるかもと思い、じっさまをそっと見上げる。予想とは違い、じっさまは怒ってなかったが厳しい顔つきをしていた。
「向こう岸に、渡ったか?」
「ううん」
「挨拶、したか」
「……海兵さんか船長さんなら、じっさまの知り合いかもって……」
「よし、分かった。チビたちを置いて、すぐ出掛けるからな」
 怒られはしなかったが、じっさまがあまりにも真剣な表情だったので、やはり何かいけないことをしてしまったのだと悟った。謝ろうとした矢先、じっさまが「大丈夫だ、じっさまが何とかするからな」と励ましてくれたので、何も言えなくなってしまった。今思えば、あれはじっさま自身に言い聞かせていた言葉だったかもしれない。
 
 その時、夕焼けがやたらと赤くて、長い長い影が目の端に入ってきたのをよく覚えている。

 ◆
 
 チビたちを送り届けた後は、とにかく慌ただしかった。近隣の大人が集まって、何かの準備に取り掛かっていた。大変な騒ぎになってしまい、やはり自分が引き起こしたことは本当に良くないことだったのだと思い知ることになる。
「君かい? 大変な目に遭っているね」
 真夏だというのに、今日見た夕焼けみたいな赤いパーカーを来たお兄さんが話しかけてきた。フードを被っていて表情が分からなかったけれど、妙に芽立つ人だった。いまいち俺が状況を理解できてないのを感じ取ったのか、その人は俺が目撃したものについて色々と教えてくれた。
 あれは、「八尺様」なる化け物で十数年に一度現れるという。名前の通り背が八尺……240センチメートルもあり、見え方は人によって違うらしい。ただ共通して言えることは、人間の姿をして頭に何かを載せていること、低い声で「ぽぽぽ」と笑うことだという。
 どうして皆、慌てているの? と聞くと、少し面白そうな顔をして教えてくれた。
「八尺様は、特定の地域に封じられていて外に出られないんだ。東西南北に地蔵を配置して、山一つまるごと封印に使っていた」
 お兄さんは不敵そうな笑みを滲ませる。あえて俺を怖がらせる様な声音をさせて喋るので、ぞわぞわとした嫌な感覚が足下に集まってきた。
「あの辺りなら本当は八尺様は移動できないはずなんだよ。でも、君は魅入られた」
「魅入られた……?」
「簡単に言えば、気に入られたのさ。魅入られた者は数日以内に取り殺される」
 不意に、耳の奥から「ぽ、ぽ、ぽ、……」と聞こえてくる。
『あれ、笑ってたんだ』
 木の影から覗く姿をくっきりと思い出してしまった。ヤバいものだという感覚はあったけれど、最初は化け物だなんて思えなかった。ぞおっとした寒気が全身にまとわりつく。
「あの人、向こう岸に居たんだ。嘘じゃない。船長さんみたいな格好、じっさまの知り合いだって思っちゃうよ」
「船長さん?」
 お兄さんは一瞬、にやり笑いを引っ込めて意外そうな顔をした。
「八尺様、女じゃなかったのか?」
「ううん、男だと思う」
「へぇ。今までは女の姿だったンだよ。いつもと勝手が違うようだ。君、無事に済めば良いなァ?」
 いよいよ、膝が笑うほど震え始めた俺を尻目に、お兄さんは「大人の言うことをしっかり聞けば大丈夫」と言って立ち去ろうとした。
 赤いパーカー姿に向かって、「簡単にいうな!」と八つ当たりに叫んでしまった。ひらひらと手を振る後ろ姿にむかむかとした。今なら八つ当たりだと思えるが、あんな風に話されたら、そして子どもならなおさら、嫌がったって仕方ないと思う。

 不意に正門あたりが少し騒がしくなった。様子を窺うと、小柄なお婆さんの周りに人が集まっていた。
「坊や、こっちにおいで」
 優し声で手招きされ、なんでか躊躇ってしまった。じっさまは怒らなかったけど、周りの大人の人はどう思っているんだろうか。
「大丈夫。みんな、坊やを助けたいと思って集まってるからね。怒りゃしないよ」
「……ごめんなさい」
「こんな時に気遣えるなんて、優しいいい子だね。でもね、気にすることなんて一つもないからね」
 そっと撫でてくれた手は、当然だけどじっさまとは全然違った。しわくちゃで軽くて、じっさまとは違う優しさがあった。
 その人はKさんという人で、どうやらじっさまが連れてきたようだった。じっさまがKさんに深々と頭を下げていて、ものすごくびっくりした。じっさまは誰かに頼られることがほとんどで、頭を下げられる側の人だった。じっさまが真剣にお願いするほどの事なのだ、とだんだん理解してきた。
「これからね、八尺様から逃れるために一晩頑張ってもらうからね」
 俺は短く、「はい」と答えたと思う。じっさまはKさんに「用意は済んでいます」と言い、Kさんは静かに頷いてじっさまの家に入っていった。
 俺は二人の後をついていき、じっさまの二階にある部屋へと足を踏み入れる。その部屋は普段、俺たちが遊んだりするのにも使ってた部屋だったが、見慣れない光景が広がっていた。
 部屋にある窓は全て新聞紙で目張りされていた。その上にお札が貼ってあり、触ってはいけない物だと瞬間的に理解した。部屋の四隅には盛塩が置かれ、木箱の上に小さな仏像が置いてあった。
「ここに、朝の7時まで閉じこもるんだ。絶対に部屋から出るな」
「うん」
「もし7時になる前に、誰かが声をかけてきても絶対に開けるな。声がじっさまだったとしても駄目だ。外の人にも朝まで声をかけてはいけないと言っておく。絶対に、絶対に開けるな。出来るな?」
「は……い」
 何度も念押しされ、お札を手渡された。怖くなった時はそれを握っておくようにとも付け加えられた。
 
 一人きりの長い夜が幕を開けた。

 ◆

 布団を被って震えながら朝を待つ。テレビは付けていても構わないと言われたが、好きなアニメを見る気分でもなく、ただ何となく付けているだけになった。それでも人の声があると少しは不安が紛れる。
 午前1時を回って、テレビには静かな音楽と自然映像が流れる。賑やかだったバラエティ番組とは違い、外の音が何となく耳に届くような気がする。
 窓を叩く音がした。空耳かと思って慌てて体を起こすと、続いてじっさまの声が聞こえ、「おおい、大丈夫か。怖けりゃ無理せんでもいいぞ」と言ってきた。
『じっさま!』
 思わず窓に近づいたが、お札まみれの光景を見て我に帰る。絶対に開けるなと言われた。誰も声をかける者は居ないと。そう言った本人であるじっさまが「無理しなくていい」なんて言うはずがない。
『あれは、じっさまじゃない』
 では、声の主は?
 寒気が全身を駆け巡る。たまらずお札を握りしめて祈っていると、「ぽぽっぽ、ぽ」と不気味な低音が聞こえてくる。
『あれが、八尺様。笑ってる……あれは、俺を見て、笑っている……!』
 再び窓ガラスを手で叩くような音が聞こえてきた。弾かれるように窓から離れて、急いで布団を被る。
「おおい。いい子にしているか。差し入れをやろう」
「そうだ、じっさまの自慢の、士官服を見せてやろうか」
「偉いなぁ。頑張ってるなぁ。どれ、この帽子をあげようか」
「下でお父さんとお母さんが心配して待ってるぞ。少し声をかけてやってくれんか」
 大好きなじっさまの声で、あれこれと言うのは八尺様で、じっさまの声に混じる「ぽぽ、ぽっぽぽ……」という音に頭がおかしくなりそうだった。
『じっさまはそんなこと言わない、じっさまじゃない、あれは八尺様、八尺様……』
 ぶるぶると震えながらお札を握りしめ、薄暗闇の中で考えてしまう。
『どうして八尺様、男の姿なんだろう』
『どうして白い詰襟なんだろう』
『どうして俺なの』
『挨拶したから? 目があったから?』
『あの帽子、カッコよかった』
『俺も、背伸びて大きくなれるかな』
 そこまで考えて、何を考えてるんだろうと頭を振る。カッコよく見えたのは船長さんみたいな格好で、俺が好きなじっさまを連想できるからだ。
『違う、八尺様をカッコいいなんて思ってない!』
 地底で弾ける様な低音が、一層大きくなった気がした。俺が恐がれば怖がるほど、八尺様が面白がっている様に思えた。
『じっさま、じっさま……!』
 くしゃくしゃに握りしめたお札が、淡く光っていた気がする。どうしてこんな目にあわなければならないのか何度も考えて、赤いパーカーのお兄さんのにやり笑いが脳裏をよぎった。「無事に済めばいいな」と笑うあの声が、影からこちらを覗いていた八尺様の姿と重なる。
『あれだけ大きな手だったら』
 頭を撫でられたりしたら気持ち良いだろうか。
『例えば背中をさすられたら』
 どれほど安心できるだろう。
『抱えてもらったら』
 悪いものから隠してもらえそうだ。
『おぶってもらえたら』
 山も谷も、全部一っ飛びして遠くに逃がしてくれそうだ。

 こんなにも怖いのは八尺様のせいなのに。
 じっさまより大きな人に守ってもらったら安心できるのに。
 
 八尺様が、怖いものから全部守ってくれたらいいのに!
 
 ◆
 
 朝まで耐え、テレビのニュースで7時を過ぎたことを確認できた。夜中のことはあまり覚えていなかった。ひたすらに続く不気味な低音、じっさまの声、テレビの音、自分の呼吸……色んな音が混ざって、混ざって、ぐるぐる回って、どうにか時間を迎えられた。
 部屋の隅に置かれた塩は真っ黒になっていて、俺は腰を抜かしてテレビの前まで這って行った。このテレビや時刻も、八尺様が騙しているのではないか。あるいは俺がそう思いたいだけで本物じゃなかったらどうしようか……。
 未知の土地を歩く猫より慎重に、恐る恐る部屋を出た。
 ドアを開けると心配そうな顔をしたばっさまとKさんがおり、その後ろにお父さんとお母さんが居て、優しく出迎えてくれた。緊張の糸が切れて、へなへなと力が抜けて情けなくもべそをかいた。みんな俺の無事を喜んでくれて、ぎゅっと抱き締めてくれた。
 たが、まだすることがあると言われた。
「あと少し頑張れるかい?」
「まだ何かあるの?」
「安全にここを離れるために、準備したからね。一階にいってごらん」
 促されるまま下に降りて庭に出ると何人かの大人の男の人たちがいて、昨日乗っていたバンが止まっていた。じっさまが、バンのそばで手招きをしていた。
「じっさま!」
 俺はじっさまに抱きついた。じっさまは軽々と俺を持ち上げて、抱っこする。いつも見上げるじっさまの顔が、俺の目線より少し下にあって不思議な気分になった。
「もうな、お前はここには来れなくなる。ちゃんと父ちゃんや母ちゃんの言う事を聞くんだぞ」
「俺が、魅入られちゃったから?」
「……うん、そうだ。じっさまは八尺様を倒せないんだ。逃すまでしかできない」
 もうここには来れない。じっさまに会えなくなる。じっさまだけじゃなく、ばっさまやチビたちにも。どうしても我慢できなて、わんわん泣いた。すまんな、ごめんな、許してくれ。抱っこされながら背中を優しく叩かれて、じっさまを絶対に忘れないようにしようと、しがみついた。
「さ、いい子だ。車に乗ってくれ」
 悲しくてでも素直に車に乗れたのは、じっさまだけじゃなく色んな人が助けようとしてくれていることが分かっていたからだ。涙を拭って、大きく頷くと、じっさまが満面の笑みで「いい子だな」と褒めてくれた。
 じっさまの言う通りバンに乗り込むと、バンの中列、真ん中に座るように指示された。ぐるりと八方を囲まれる形で座らされる。乗り込んできた他の人はほとんどが親戚で、何人かは初対面だった。
 隣に座ったおじさんから「自分たちには何も見えないが、お前には見えてしまうから目を閉じて下を向いていろ」と告げられて、呼吸が止まる思いをした。まだ終わっていないのだ。
 バンをお父さんとじっさまの車が前後に挟む形で発進していく。門をくぐる前に目を閉じて、なるべく身体を屈めてた。
 時速20キロもない、ゆっくりとしたスピードで走っていると、外から「ぽ、ぽ、ぽ」という声がし始めた。
 俺はKさんからもらったお札を握りしめ、目を閉じて下を向いていたが、一瞬薄目を開けて外を見てしまった。目に入ったのは白い詰襟。
 八尺様が大股で車に合わせて移動しているようだった。
 その巨体が車内を覗き込むように頭を下げるのが見えたため、慌てて目を瞑り、お札を握りしめた。
『居る、居る! 早く、スピード上げて!』
 そう叫びたかったが声にならなかった。さらに、「コツ、コツ、コツ」と車の窓ガラスを叩く音まで聞こえてくる。
 誰も、何も、音や声に反応することは無かった。俺だけが席の真ん中でうずくまるようにして震えていた。
 
 やがて、音と声が途切れた時に、周囲の緊張感が解ける。特定の地区から脱出できたようで、無事に八尺様から逃げ出せた。
 握りしめていたお札を見ると、盛り塩と同じく黒く変色していた……。

 ◆

 あの後、父さんから聞かされた話によれば、車に乗っていたのは、全員俺と血縁関係にある者で少しでも八尺様の目をごまかそうと親族を集めたのだという。
 最悪、じっさまと父さんは、自分たちが身代わりになる覚悟だったらしい。父さんからは、子供の頃に友達のひとりが八尺様に魅入られ命を落とした、とも聞かされていた。

 じっさまは最期まで、俺を心配していたと聞いている。じっさまが気を揉んで、守ってくれた甲斐もあってか、大人になるまで目立って妙なことは起こらなかった。
 だが、八尺様をきっかけに、俺はホラーの類いが心底苦手になってしまった。安アパート部屋の奇妙な音だとか、夜中に鳴る呼び鈴だとか、家鳴りなどの自然現象やタチの悪いイタズラだと思うようにしていたのだ。
 
 だから、この報せをどう受け取れば良いのか悩んでしまう。
 ばっさまが言うには、向こう岸の土地に置いていた地蔵が壊れてしまっていたという。今、自分が暮らしている方角にある地蔵だったので、そちらに行くかもしれないとも。「それだけだったら、今すぐ何かが起きるとは思えないから大丈夫。気を付けておくね」と返事はした。
 色々と考えてもうこれ以上心配させたくないのもあるし、大人になった今、子供を狙うと言い伝えられていたので、過剰に反応しても仕方ないと思うことにした。

 だから、ドアの覗き穴より向こうで起きている出来事について、どう言えばいいのか分からない。
 奇妙な黒い影を引きちぎる巨大な男。白い詰襟に目深に被った、しっかりとした海兵帽子。ちぎられた黒い何かは、苦しそうに蠢き、やがて白詰襟に食われていった。大きな口らしきものが安蛍光灯に照らされて、あらわになる。
 玄関前でへたり込むしかできない。目にしたものが現実のものなのかがさっぱり分からなくなる。
「おおい、大丈夫か。久しぶりだなぁ。お前が怖がる奴はな、ぜーんぶやっつけたからな」
 懐かしいじっさまの声が外から聞こえて、「ぽ、ぽぽ、ぽ……」と不気味な低音が心臓を掴む。慌てて廊下の半ばまで後退り、しかし扉からは目を離さずに距離を取った。

 玄関の扉一枚隔てた向こうに、居る。
 
「お前の怖がることはしない。ゆっくりでいい。良いと思った日に顔を見せてくれ。ずーっと、待ってる。その間も守ってやるからな」
 
 ── 八尺様が、怖いものから全部守ってくれたらいいのに!
 
 幼い頃の俺が、じっさまに求めたはずの願いが、ぐるぐると混ざって俺の元に戻ってきた。