古池の言い伝え

 東京のとあるお店。いわゆるゲイバーに分類される行きつけのバーには、最近奇妙な噂が流れている。夏には怪談がつきものかもしれないが、いい大人がそんなこと信じる? と言いたくなるような噂だった。
「本当なんだって。超タイプの顔が浮かんできたの。物は試しで行ってみなって」
「えー……」
 友人が興奮ぎみに話すのを、少し訝しげに見てしまった。見た目の迫力とは反して愛らしいものが好きなベア系の友人とは、趣味は合わないが価値観が似ている。飲みたい時は金額を気にしないとか、人にご飯を進めるときは自分が感動した時だけとか、細やかだけど一致しないと微妙に段差を感じる部分がぴったりだと思っていた。けれど自分は心霊だとか超常現象なんかは全く信じていなかったので、正直『とうとうモテなさすぎて血迷ったんだ』と思った。
「きっとさぁ、都合よく信じるタイプの人が、ガチで出るって言ってるだけなんじゃない?」
 カウンターから注文していたナッツとクライナーが出てくる。大きくて華奢な手に視線を奪われる。
「信じる、人。きっと出る」
 びっくりするほど綺麗な顔が、こちらをただ真っ直ぐに見つめてくる。それだけで顔が赤くなりそうだった。呼彦(よひこ)さんは少し言葉が不自由な人らしく、前に言った人の言葉しか繰り返せない。けれど親切で、丁寧で、ここに来る人は漏れなく呼彦さんが好きだった。性格も人間性もいい上に、……正直ものすごく好みの顔。けれど店長のパートナーだ。初恋同士でくっついて、仲睦まじく店を二人で切り盛りする姿は、ゲイバーに来る客全員の憧れだった。
「そうかな。本当に出ると思う? ちょっとどころじゃない怪しさだけど……」
「思う。ちょっと、本当」
 自分はゲイで、面食いで、しかも中性的な顔が好きで……。好みの対象が若い子になりがちで、彼氏なんて絶望的にできないと思っていた。可愛らしいクライナーの瓶開けて、一気に流し込んだ。
「……店長はどう?」
「え、俺? そうだなぁ……」
 店長に話を振ってみると、グラスを磨く手は止めないまま遠くを見つめた。二人の間にも紆余曲折あり、劇的な展開で一緒になったと聞いているので、何か思うところがあるのかもしれない。
「俺たち二人も不思議な縁で繋がったから、一概には否定できないなって思うよ」
 微笑みを絶やさないけれど、いつになく真剣そうな目をしていた。呼彦さんと店長がそこまで言うなら、と頭ごなしに否定するのだけはやめておこうという気持ちになる。人の態度によって自分の考えを変えることなんて多々あるから大した問題じゃない。自分が心底そう思えれば何だっていいのだ。
「僕たち、縁、繋がった。不思議、否定できない」
 呼彦さんがそう言って店長に甘えるように笑うので、そういうのも浪漫があって良さそう……とさえ思えてきた。
 と言うのも束の間で。
「ほらぁ、二人もそう言ってるんだからさぁ! 行ってきなって」
 毛むくじゃらの友人が便乗してきて、急に現実を見た。――こう言う関係が自分に降ってくる訳がない。
「いや、……自分はマッチングアプリでいいって」
「それで今まで失敗してるんじゃん〜」
 否定はしないでおくけど自分に必要かどうかで言ったら無い。軽く笑って、マカダミアンナッツが軽やかに砕けた。

 ◆

 草木もねむる丑三つ時……と言うわけでもないが、鼻唄混じりになりながら向かうのは、噂の古池。気持ち良く酔えていくうち、急に気になって来ちゃったから仕方ない。冷やかしに行って、ほらそんな事ない! と言いたい。
「えーっとぉ、神社入って……んで、お稲荷さん横の小道……」
 結構な酒酔いのまま、千鳥足手前で向かう。これで池に落ちたら笑えると思いながら、あまり補整されていない石畳をゆく。道幅はそんなに広くなくて、人とすれ違う時にちょっと身体を傾ける必要がありそうなくらい。虫が沢山いそうなのに、しこたま飲んだ為か虫刺されは全然起きなかった。
 冷やかしとはいえ行ってみようという気分になったのは、お酒のせいか、何だかんだで自分もロマンチストだからか。自分には特別なことなんて起きる訳がないのを確かめたいのかも。
「これかぁ?」
 古池、という話だったけれど手入れされていてゴミが浮いていたりすることはなさそうだった。池には小ぶりな鯉が泳いでいて、真夜中にも関わらず気配を感じたためか餌を求めて池の水面をバシャバシャと揺らした。こんな波が立ったら顔なんて浮かぶはずがない、と思いながら好奇心は止められなかった。
「えーと、確か……」
 確か手順が必要だったはずだ。スマホのライトを付けて辺りを見回すと、池のそばにちょこんと置かれた、小さな木の引き出しを見つけた。その中には、一枚ごとにフィルムに入れられた人の形をした紙が入っていた。
『ヒトガタっていうんだっけ、こういうの』
 備え付けの小さなゴミ箱にフィルムを捨てて、紙を取り出す。これに自分の名前を書いて、池に浮かべるのだという。この紙は水に溶けて消えるらしい。
「えー、と。イケメンよりも美形で〜、ヤバくなさそうでぇ、一緒にいて楽しい未来のパートナー! 来てください!」
 独り言にしちゃ大きいし、神様への願いなら割と不敬な声と態度だなあ、と半分自分から離脱して思う。仄かに明かりがあるとはいえ、暗闇の中で池の前に正座して、手を合わせてお願いを口にしちゃういい大人。しかも酔っ払い。池を覗き込んでも残念な人間が映ってない。
 急にバカらしくなってきて、どでかい溜め息を吐いた。こんなだから相手に恵まれないのだ。顔は平凡、逃げ癖アリ、酒に酔わなきゃ行動もできない……。あ、ダメだ死にたくなる。
 もう帰ろう、と立ち上がろうとしたが、何かに違和感を憶えて固まった。
「……ん?」
 目を凝らす。ゆら、と水底から歪むような何か。しょぼくれた自分の顔が変わらずあるだけなのに、妙な質感がある。
「あれ……?」
 映っている自分にしては髪が長い。少なくとも肩までありそうな……そう思っているうち、自分の顔に別の顔が浮かび上がってきた。顔はひと回り小さくて、心なしか青白くて。徐々に変化していって、とうとう自分の顔とは全く違う顔になった。

 目がばっちりと合う。

「出、……!」
 嘘だろ、本当だった! ホラーじゃん、やばいだろ。何で? ガチな訳がない、酔ってるせい?
 貧弱な脳みそが色々考えたり浮かんだりした末、声になって出てきたのは一つだった。
「すっげー美人!」
 水面に映る美人さんは、その言葉につられたようにニコッと笑って、すぐに消えていった。
 
 ◆

「ガチだった」
 そう伝えると、野太い黄色い声で店が揺れる。出勤前だろうオカマバーのキャストさんが一番盛り上がっていた。否定派だった自分が一転している様子が、この噂をまた真実味あるものにしてしまったようだ。
「無茶苦茶、好みの顔だった……。っていうか超美人さんだった。駄目男でもDV男でもいいかも……」
「それは止めておきなって」
 店長から冷静なツッコミをもらったが、あの顔が離れない。一瞬の出来事だったけど、すっかり心を奪われてしまった。クライナーをちびちびと飲んでは溜息を吐く。
「ねぇ、それさ! 二人で行ったらどうなるのかな?」
「オレらの顔が入れ替わるってきっとー!」
 常連組ゆるふわカップルの惚気が可愛らしい。キャアキャアいう若者二人に、常連どもが「はいはい」みたいな視線で生温く見守るのもお決まりだ。
 
 賑やかな店内を見回して、また息が漏れた。ここでじっとしていてもあの美人さんが湧き出てくるわけじゃない。探しに行きたいと思っても何の手掛かりもない。
 あの彼が将来の結婚相手なのだとしたら、どこで出会えるのだろう。つらつらと考えていると、ナッツとクライナーがスッと出てきた。あれ? と思って顔を上げると、呼彦さんがなんだか嬉しそうにしていた。
「呼彦さん、これ頼んでないよ? もらっていいの?」
「いい。もらって?」
 台詞だけ聞くと舞い上がりそうになるが、自分が言葉足らずだったせいだ。素直にお礼を言って、呼彦さんをじっと見つめる。
「?」
 ずっと見つめていると、『どうしたの?』と言いたげな表情で首を傾げた。タイプだなと思うのは変わらないけれど美人さんの衝撃のためか、気持ちの盛り上がりみたいなのは落ち着いたように思う。アイドルを眺める気持ちと変わらないけれど、ガチ恋の要素が削れて安心して見られる感じ。
「呼彦さんさ、会いたいな~と思った人を探す時、どうする? 色々なところに行くべきかな。調べたり、人に聞いたり……」
 なんとなく、呼彦さんなら『行動あるのみ』みたいなことを言うような気がして、尋ねてみた。けど、意外なことに首を軽く左右に振った。
「えっ……探すなってこと?」
 そう聞くと、これまた首を振る。どういうことだろう、と思って考えてみるがさっぱり分からない。うんうん悩んでいたところを見ていた店長が、助け舟を出してくれた。
「もう一度、古池に行ってみるとか?」
 そう店長が言うと、呼彦さんは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「俺だったら、いずれ会えるから無理に探す必要がないしなーって思う。でもじっと待つのが無理な人だっているし、忘れないように顔を見に行くのも良いと思うよ」
 なるほど、確かに。そう思いながらナッツとクライナーを頬張って、一気に煽った。
「行ってきます!」
 爆速で会計を済ませて駆け出した。二人が和やかに見送ってくれて、気持ちがはやる。繫華街の光をどんどん後ろへ追いやって、古池を目指した。

 ◆

 息を整えながら、紙の人形に名前を書いて池に浮かべる。昨日どうやってお願い事をしたか覚えていないが、とりあえず畏まる姿勢をとるために正座して手を合わせた。
「昨日の美人さんに会いたいです!」
 これ、わざわざ声に出さなくても良いんじゃないの、と後になって思った。池に映る自分の顔を見続ける。
 昨日と同じような変化だった。髪がふわふわと漂うように現れて、白い顔の輪郭が浮かんできて、綺麗な顔が明らかになる。もうそれだけで感動していたのだが……。
「声……聞こえますか」
「聞こえます! え、どうなってんの、これ……!」
 なんと、水面に移る美人さんの声が聞こえて来たのだ。思わず、ぐっと覗き込んで顔を近づけた。見間違えでもなければ聞き間違えでもない。手を伸ばせば触れられそうなくらいくっきりしていた。
「これでお話しできますね」
 ニコッと笑う美人さんに心を撃ち抜かれる。あまりに可愛すぎる。この前よりもずっと鮮明に顔が見えた。
 センター分けの前髪は柔らかそうで、額の形と眉、切長の瞳が絶妙なバランスから目が離せない。まつ毛も長そうだし、黒目がちなのか愛らしく見える。スッと通った鼻筋と薄い唇は知性を感じるし、少し高めの声が少年みたいで余計に可愛い。
「あの、お、お名前は?」
 どもってしまったけど、勇気を振り絞った。こんな素敵な人を前にして、前に進めないと言うならいつ進めるんだ。
「ミトと申します」
 ミトさん! 水戸さんっていう苗字かな。名前を知れたことで、気のせいでもなければ幻でもないと確信が持てて、胸の中が甘酸っぱい思いで弾けた。
 自己紹介から始まって、信じられないくらい会話が弾んだ。というよりたくさん話してしまった。好きなお酒、音楽、服の話。一番盛り上がったのは旅行での話だった。ミトさんも旅行するのが好きらしく、おいしいお店や綺麗な景色がある場所を互いに話した。時間はあっという間に過ぎて、ミトさんの姿が消えかかっていった。
「また、話しましょう!」
「はい!」
 こうした交流は二日か三日おきに行われた。毎日だとさすがに迷惑かもと思ったのと、話すと熱に浮かされてポーっとのぼせ上がるのが落ち着くのに時間が必要だったからだ。
 池に映る間だけ会話できる、不思議な関係。少しずつ話せる時間が伸びていって、この前は三十分くらいだった。短い時間には変わりないけれど、濃い時間を過ごしてきた。会話の中で、連絡先を聞き出したりはしなかった。電話やチャットではないやりとりだからこそ、その時間に対する特別感や思い入れみたいなものができた。

 彼は物知りで、歴史や地理に関する知識がずば抜けていた。めちゃくちゃ美人な上に頭も良くて、賢くて、なんてすごいんだろうと尊敬し始めていた。自分が話せることはせいぜい、旅行だとか写真だとか、そういう話。しかも全然深くない。これでいいんだろうか、と思ったりもしたが「素直な言葉で語られていて、とても好き」と言われたものだから、心臓をつかまれたと思うくらいに嬉しかった。
「会いましょうと言ったら、会って頂けますか」
 ある日、ミトさんから会う話を持ちかけられた。「もちろんです!」とすぐさまOKしたが、ミトさんはどこか悲しそうな表情だった。
「でも、姿を見たら腰を抜かしてしまうかも。正直……自信がないのです」
 どんな謙遜なんだろうと思った。むしろ、会って残念なのは自分側にありそうなのに。理由を聞いてみると、観念したかのように話してくれた。
「……すごく昔に、男の人に乱暴されてから……暗いところに閉じ込められて、言っても聞いてくれなくて……それ以来、人に会うのがどうしても怖くなってしまって」
 すごく、昔。子供の時だろうか。子供相手にそんなことをするのも、ましてやクズ野郎のせいでミトさんがつらい思いをしている事に、目の前がカッと燃えるように怒りが湧いた。
「そんなの、ミトさんは悪くないよ!」
「……ありがとう」
 彼は悲しそうに笑うままだったので、思っていることはほとんど伝わっていない気がした。なんとか言葉を尽くそうとして、今までで一番池に近づいて、ミトさんをまっすぐに見つめた。
「ミトさんはすごくすっごく、素敵な人だよ。そんな男、ぶん殴る価値もない。どんな姿だって……自分だったら絶対、愛し続ける。どうしたら、伝わる?」
 口が滑って、告白までしてしまった。後悔はなかったし、ミトさんの心の傷が少しでも癒えるならこれ以上ないことだと心の底から思えた。
「本当に?」
「本当だよ、こんなタイミングで嘘なんか言わないよ」
「じゃあ……。生首でも、愛してくれる?」
 えっ、と思ったのも束の間。池から派手な水音がして、何かが飛び出してきた。思わず飛び退くと、けたたましい声があたりに響き渡った。
「わ、わわ……」
 生首。生首が飛び回っている!
 それがミトさんだと結びついた瞬間、全身の震えが止まらなくなった。
 池から出てきたのが、将来の結婚相手が不思議な力で水面に映っていたのではなく、単に生首がずっとこちらを見ていたと分かれば恐ろしすぎる。池から上がった首が笑いながら八の字に飛び回って、その様子を目だけで追いながら、恐怖で動けなくなった。
 ただ、その恐怖のために絞り切られた思考でピンときてしまったことがある。自分にとってはミトさんが生首だったこと以上に大事な部分だ。
 肩までだと思った髪は、おそらく腰ぐらいまでありそうな長さ。この笑い声の高さだって。今まで水面越しに見ていた顔よりも、はっきりと分かる唇の柔らかさや頬の輪郭……。
 どう見てもミトさんは、女性だった。
「ごめんなさい! 女性は対象外なんです!」
 叫ぶようにそう言うと、ミトさんは八の字飛びをピタリとやめて、池の上で止まってスーッと静かに振り返った。その表情は明らかに怒っていて、慌てて釈明する。
「でも、顔! すごい好みです! 人間性も本当にすごい素敵だと思います! 賢くて、楽しくて、夢中になりました! 友達じゃ駄目ですか!」
 無茶苦茶なことを口走ったと思った。生首相手に友達でお願いしますって、どういう断り文句なんだ。
 ミトさんは少しずつ、本当に少しずつ怒りを収めていってくれた。美人が怒ると怖い。これは男女共通だと思う。今までたくさん話をしてきたから、無言がものすごい長い時間に思えてしまう。
「生首以前に……、ということ?」
 やっとミトさんが口を開いた。それと同時に、全身の震えが収まり始めた。
「え、っあ、そう、そうですね……。好きになる対象が、その、同性なんです……」
 確かにそういう言い方をした。生首が問題なんじゃなくて、そもそもの性的指向だと言った気がする。けど言ったことに嘘はなくて……、いや、本当に尊敬できる人なんだ、この人は。
「すみません、ちゃんと確認するべきでした。この池には言い伝え? みたいなものがあって……。夜に池を覗くと自分の結婚相手が映るって話だったんです。自分の結婚相手なら、当然同性だと思い込んでて……」
 違う。言うべきはこんなことじゃない。腰抜け野郎のまま何か言っても格好がつかない。足に言うことを聞かせて、立ち上がった。
「でも! ミトさんに会えて本当に良かった! これは本心です!」
「……そう」
 ゆっくり、自分の顔の高さに合わせて近づいてくる。水面越しに見ていたときより、更に綺麗な人だと思った。ずぶ濡れで恐ろしさもあるけれど、目の大きさやまつげの長さなんて、人形に美しさを吹き込んだみたいな完璧な作りに思えた。
「私、楽しかったわ。長い間一人だったし……、男性と楽しく、こんな風におしゃべりができたの、初めてだったわ。男性のお友達は、生前と死後あわせて初めてよ」
「ミトさん……」
 ミトさんの身の上話を聞く限り、とても怖い思いをしたのは間違いない。この美しさなら、さらわれてもおかしくないし、そのまま殺されてしまったのかもしれない。だから生首なんかもしれない。だとしたら、この人はものすごく気の毒な人なんじゃないか。
 そう思ったら、抱きしめたくなる。恐る恐るではあったが、そっと手を伸ばして頬を優しく包み込んだ。握手やハグ出来ない代わりに触れることで、少しでも苦しさや辛さを少しでも和らげたいと思ってしまったのだ。
「やぁね。貴方がそんなに泣いてどうするの」
「だって、……」
 楽しかったのは自分もなんだ。ここ二週間くらい、人生で一番と言っても過言ないくらい日々が輝いていた。ミトさんは苦笑いしていたけど、眉間の皺が消えていつもの可愛らしいミトさんだった。
「お礼に、少しの幸運とほんのちょっとの縁を繋いであげます」
 彼女はすり寄るようにして、頬にキスしてくれた。ずぶ濡れだったはずの彼女の髪は、触りたくなるくらい綺麗なキューティクルある髪になっていた。微かに頬を撫で、柔らかい感触がした。
「あとは貴方次第よ」
 今まで見た中で、どんな人の中でも一番綺麗な人だった。
 見惚れているうちに、ミトさんは淡い光の中に消えていき、誰もいない古ぼけた池だけになった。

 どれくらい呆然としていただろう。結局へたり込んで、風の音や虫の声がする只中にいた。鯉が時々跳ねて、水音が響く。
「あの、……大丈夫ですか?」
 声をかけられて慌てて振り返ると、ランニング中と思われる背の高い男性が立っていた。夜だったはずだが、いつの間にか明けていて、空が白んでいた。
 一晩中何も考えられなくなっていたみたいだ。
「あ……、はい」
 立ち上がろうとしたが、長い時間石畳の上に座っていたからか思うように身体が動かなかった。転びそうになるのを、支えてもらってしまった。
「もしかして、不思議な体験をしたんですか?」
 男性は地元の人のようで、憔悴しているのを落ち着かせるために聞いてくれたんだと思う。
「えっと……そうですね。でも、怖いというより、切なくて……」
 ぽろりと涙が出てきた。ミトさんとの別れは単純に寂しい。結婚相手ではなかったけど、彼女が生きていたら親友だったかもしれない。一緒に旅行して楽しい思い出を作っていたかもしれない。
 男性は、境内にあるベンチまで付き添ってくれた。見ず知らずの人に優しい人だな、と思う。スポーツマスクをしていて顔は分からないけれど、スラッとした体躯をしていた。
 不意に言葉がリフレインする。
『あとは貴方次第よ』
『思う。ちょっと、本当』
 
「……よければその話、聞かせてもらえませんか?」
 彼のほうから、話しかけてくれた。ほとんど働いていない頭でも、きっとこういうのが縁なんだ、ということを理解した瞬間だった。
 
 すごく好みの顔面、というわけでは無いけれど、ほんの少し彼女と目元が似ていた。