金魚伝説 後編

「ね、金魚屋さん」
 池の改築と区画整理のために、人魚は一時的に南の池に留まっていました。そこには弁天橋を模した小さな橋があり、私はそこに腰掛けて人魚との対話を楽しんでいました。秋空らしい秋空で、鰯雲がふかふかに敷き詰められています。
「僕は一体、どんな金魚と合わさったのかな」
 興味を口にするところを見ると、人間と変わらない思考を持っているとしか思えません。
 これは、作り出した命。だから人間の保護下に置く。その理屈は全く穴がなく、大事にするのであれば囲いきってしまっておくのが一番良いに決まっている……。反芻する言葉と思考は出口を失っていました。これ以上考えても無駄であったとしても、私自身に言い聞かせる為に繰り返しました。
「琉金という種類の金魚がいてね。鰭が長くて上品な金魚がいるんだ。それに近いものを君から感じている。柄も様々でね。君みたいな白と赤の模様もいれば、黒色が混ざるものもいる」
「ふぅん。それ、僕も見てみたいな」
「いいとも。少し待っていてくれ」
 私の水槽の中にいる品種だったので、なるべく柄の似ている金魚を選びました。せっかく渡すのにただのタライでは素っ気ないように思え、柄が映える陶器の桶に入れました。
「これが琉金だよ」
「これが……」
 持ってきてやると、彼は早速見入っていました。桶を抱きしめるようにして覗き込んでいました。
「池に入れていい?」
「今だけなら」
 彼の明るい気持ちで輝く顔は千金に値すると確信しました。琉金を池の中に放すと、すいすいと泳ぎ出しました。琉金は彼の胴を数回周り、その後もそばを離れようとしませんでした。彼はその様子が大変気に入ったようで、水中の間近で眺め始めました。互いに口をぱくぱくとして、どこか会話しているようにも見えました。
 一緒に泳いだり、浮かんだり、彼は金魚との触れ合いを楽しんでいました。まるで子猫の前に指を差し出して、匂いを嗅がせて、少しずつ距離を詰めて鼻筋を撫でていくように、小動物と戯れる子供と同じでした。
 じっと互いに見つめ合い、琉金が彼の鼻先をチョンと突きました。彼はうっとりと金魚を見つめていたかと思うと、大きく口を開けました。
「あっ」
 私は思わず声を上げました。
 琉金は導かれるように彼の口へと入っていき、彼はそのまま丸呑みしてしまったのです。
「食べてしまって、よかったの?」
 思いもよらぬ行動で、私はかなり動揺した素振りを見せてしまいました。対して彼は、照れ臭そうにはにかみました。
「何だか、可愛くって」
 そう言ってお腹をさする姿は、ひどく背徳的でした。私は彼に、知る必要のなかった心を教えてしまったのではないかと冷や汗をかきました。
「また金魚に会わせてね。他の種類も、ぜひ」
 そう言って笑う彼を、人として見ればいいのか、金魚として見ればいいのか、……判断がつかないまま、曖昧に返事をしてしまいました。
 
 ◆

 すっかり秋めいて来た頃。紅葉が色づいて、いくらか冷える日が続きました。
 夜から朝にかけての水温が気になったので、水面を覗き込むと彼が静かに漂っていました。池を広くとってから、少し姿が変わりました。腕から鰭が伸長し、身体もやや大きくなりました。脱力した状態の為か鰭という鰭が広がって、まるで巨大な水中花のようでした。眼前にある光景は世界中を探してもここにしか無いのです。
 当の本人は目を虚ろに開き、ぼんやりとした様子でした。普段の姿から考えると、感情が全て抜け落ちたような表情に見えます。おそらく眠っているのでしょう。暗く静かな環境であれば、金魚も数時間ほど眠ります。底でじっとしたり、岩陰に隠れたり、水草に隠れたりと様々です。
 瞬きするのが見えました。私の姿を捉えると、表情を変えぬまま浮上してきました。 
「――……!」
 金魚の習性であっただけかもしれません。水面を見つめる私の唇に、彼の唇が重なりました。冷たくて、人のものとはまるで違う感触でした。
 ずるり、と水の中に引き込まれます。私はほとんど音を立てることなく、彼の世界に招かれていきました。
 覚醒しているのか、していないのか、彼は私に口づけをしながら空気を送ってきました。辿々しく、啄むように私の口元に吸い付きました。
 私は、池の中でも浅い所へと泳ぎ静かに立ち上がりました。金魚から距離を取りたかったのです。乱暴に離れれば、鰭や鱗に傷が入ってしまうので、幼子に言い聞かせる声音となったと思います。
「それは、いけない」
 彼から求愛を受けるのは初めてではありませんでした。直接的で決定的なのは今回でしたが、歌声や表情、鰭の振り方などを見ていれば分かります。私はずっと気付かない振りをしていました。
「僕は人魚なんだ。金魚じゃない」
 意志と自我がはっきりと燃える瞳でした。月明かり浴びて煌めく姿は、何にも変えられぬ存在として、輪郭を増すばかりです。
「愛でてよ。旦那様ではなく、あなたが」
 私が彼の内面に対して好ましく思っていることは事実でした。美しく快活であり、惹かれぬ訳がないのです。後ろをくっついてくるような素直さも、好奇心旺盛な性質も、空を見上げる憂いも、私の心を掴んで離しません。それでも、超えてはならぬ一線があるのです。
「人のものに、手出しはできない」
「ものなんかじゃない!」
 彼が声を荒げたのは初めてでした。驚きで一瞬だろうに身体が固まりました。彼は私の手を取って、彼の左胸に当てました。
「僕は作られたかもしれないけど! 生きてる!」
 人間とほぼ同じ位置、同じ間隔で鳴る胸の太鼓。人よりやや大きいかも知れません。それでも、私たち人間と同じ神秘と生命がそこにありました。
「僕は一生、ここで生きていくそれでもいい。あなたが作った金魚と一緒に泳いで、あなたと一緒に生きて行きたい」
 私の金魚に囲まれて暮らす彼を想像しました。和金、琉金、出目金、小赤……。彼が海外の血を引くのであればオランダの名がつく金魚も。きっと金魚たちは彼を慕って離れないでしょう。私は彼らを見守りながら、絵に描いたり、話をしたり、住まいを整えて……。
 まるで家族のように思えてしまったのです。
「旦那様は、いわば僕のお父様ってやつだから」
 がん、と頭の中を叩かれた思いがしました。あの旦那様に許しが得られる気がしません。旦那様がこの金魚を大切に思っているのは誰よりも存じていました。
「頑張ってよ。嫁をもらう時って人間は父親に怒鳴られるのが常なんだろう?」
「……君、そういう俗物な話をどこから仕入れてくるの」
「良くしてくれる女中が話していたよ」
 すっかり普段の調子を取り戻して、無邪気に戯れる彼になりました。池の水は冷たく、彼もまた温度の低い身体をしていましたが、嬉しさが勝ります。私は胸に灯る想いの暖かさを感じながら、彼をそっと抱擁しました。
「もし、旦那様のお許しが出たら、君に名前を付けるよ」
「本当!?」
 心底嬉しそうにする彼との会話は、これが最後となりました。

 ◆

 翌朝、こういう話は早い方が良いと踏んで、お話する約束を取り付けようと考えました。
 すぐに旦那様を探しましたが、何処にもいらっしゃいませんでした。女中に聞くと朝早くから出掛けているらしく、私も店に出る用事があったため屋敷を出なければならなかった為に身支度を進めました。出かける前に、人魚の姿を見ておこうと探しましたが見当たりませんでした。水草の濃い所で眠っているのだろうか、と思いながら、屋敷を後にしました。
 店に出たのは久しぶりで、近隣の友人とお得意様が立ち寄ってくれました。旦那様の家へお邪魔しているのは誰にも言っていなかったので、とうとう都心に拠点を移して儲けているのかと揶揄い半分で近況を探られました。私は「素晴らしい研究に参加している」ということだけを皆に伝えていました。
 用事を済ませて帰宅したのは、夕方あたりとなりました。旦那様に話をするために急ぎ足で屋内に入りますと、何やらひどく忙しない様子でした。
「ちょっと、あんた!」
 女中さんの一人が私を呼び止めました。私は右往左往する方々を避けて女中さんへ返事をします。
「一体何の騒ぎです?」
「とにかく、旦那様がお呼びですよ!」
 旦那様が。私は慌てて部屋へと向かいました。いつも夕食を共にする部屋には、仏頂面で座る旦那様がいらっしゃいました。そのような表情は今までのお付き合いで見たことがありませんでした。気まずい空気が流れましたが、私が着席しないことには会話は始まりません。一声断りを入れ、旦那様の向かいの席へと着きました。
「聞いたよ。アレに求愛されているそうじゃないか」
 旦那様は面持ちを変えず、私に問いかけました。否、問いかけというよりは、最後の確認といった風でした。確信があってこそ、私に尋問しているのだと分かります。
「なぜ、」
「無邪気にアレが話してくれたのだ」
 私の発言を殆ど遮って、そう仰いました。私は針の筵に座る思いをしましたが、反論などはするつもりはございませんでした。順番を違えているのです。本来であれば私から先に旦那様にお伺いを立てるのが筋というものです。どれほど頭を平にしてもお許しいただけないだろうと私は思いました。
 しかし、旦那様は厳しい表情を引っ込めて笑い出しました。ははは、と明るく笑う旦那様に私はアレ、と思ったのです。
「そう固くならず。受け取ってほしい。これが私の返答だ」
 旦那様が「おおい」と声をかけると、次から次へと豪華な食事が運ばれてきました。
 握り寿司に大皿の刺身にタタキの迫力たるや! 漂うお吸物の香りの上品なこと! にらみ鯛のような赤い魚に水引が飾られて、祝いの品々であることは一目瞭然でした。一介の金魚屋ではなかなかお目にかかれない様な料理ばかりです。あらゆる驚きで胸が詰まります。
「どうか、末永くアレをよろしく頼むよ」
「本当に、よろしいのですか」
「可笑しなことをいう。君と私の仲だ」
 アレヨアレヨという間に、許されたばかりか二人だけの宴が始まりました。品の良い日本酒は魚料理に合うものばかりです。美味であり私は世界一の幸せ者だと思いました。
「旦那様。お許しをいただけて、心より感謝いたします」
「ははは、アレの魅力を分かっている者であれば、文句の付けようがない。どうだ、酒の肴にもなるし、どこを好いているか聞かせてくれ」
 旦那様は、女中に追加で酒の用事をさせました。ヒレ酒があるというので、私もそれをいただくことにしました。
「彼の造形には文句の付けようもありません。鰭を伸長してより優雅になりました。それに加えて、振舞いは少年のようです。屈託なく笑う姿ですとか、好奇心旺盛な様子も……私は、好ましく思っております」
 旦那様は目を細めて、私の話に頷いていらっしゃいました。こそばゆい思いをしましたが、仲を認められるというのは大変嬉しいものであると知りました。
 差し出されたヒレ酒には、かなり長くて大きなヒレが入っておりました。こんがりと炙られて、表面はすっかり火が通っていますが、見覚えのある模様がありました。
 血の気が引く音を聞きました。手が震え始め、酒をこぼしました。料理を見渡します。全て魚料理です。白身で、表面が少し赤くて、……。
 極上のフナにも似た、肉と味………………。
「旦那様、……。この魚は一体、……」
「ああ、かしら付きをな、作らせている。どれ取ってこようか」
 旦那様はよくぞ聞いてくれた、という風に立ち上がって、どこかへと向かいました。
 ややすると、廊下の先で悲鳴が上がりました。女中の泣き叫ぶ声に、旦那様の乱心を告げる声。嫌な胸騒ぎが止まりません。旦那様の足音が、私は地獄の道へと続くものに思えました。
 勢いよく開けられた扉から、鞠のようなものが弾んでこちらに転がってきました。私はその鞠の正体を認めるや否や、自身の断末魔を聞きました。
「やるものか! アレをお前になぞやるものか!
 そんなに欲しいなら、食って一つになるがいい! ふははは、あははははは!」 
 旦那様は壊れていました。とっくに正気ではなかったのです。転がる塊を見えるように掲げ、投げつけました。
 彼の無惨な全身が、そこにありありと示されました。
「なんてこと、……なんてことを!」
 旦那様はどこかへと駆けて行きました。人間とは思えない笑い声を上げながら、使用人たちが狼狽するのが耳に入りました。
 私は彼の頭を慌てて抱き抱えました。何もできることなどなく、ただ震えるばかりでした。
「ぐ、ふ……!」
 人魚伝説では。人魚の肉を食ったものは不老不死となる。恐れは的中していました。人間が食うものではないのです。どんなに美味であったとしても。どんなに美しかったとしても。
「ぐ、うう、ううううう……!」
 私は食っていたものを吐き出そうとしました。けれど実際に出て来たのは大量の血で。とにかく吐きました。自分自身から発せられる慟哭と鼓動が耳にまで響いて座っていられませんでした。
 彼の頭を抱き抱えながら、私はそっと口付けをして倒れ込みました。彼の美しさの一つであった頭……安らかな表情で眠っているようでした。金魚であれば目を瞑って眠っていることはありませんでしたが、今は人のように瞳を閉じています。
 
 酩酊する様な意識の中を私は泳ぎ回りました。大きな大きな影があり、見上げてみるとそこには巨大な彼がいました。
 私は金魚になったようでした。二人にしか分からない言葉で、面白おかしく話をしました。木のトンネルを抜け、藻の林で追いかけっこをして、水底に寝そべって柔らかい光を浴びました。
 
 私は、一つになることを許されたのです。

 彼が私の額に口付けをして、口を大きく開きました。私は誘われまま、安寧の先へと踏み入れます。
 
 そうとも、許されたのだ。共に生きることを。
その暁には、彼に名をつけると決めていた……。
「――……」
 声にならないまま、それは虚空に消えていき、私は彼の中。慈しみに満ちた腹の中は悲しみに似て、ひどく安心しました。

 私の意識の湖も、暗闇に閉じていきました。
 
 ◆

 目が覚めると、訳あり患者ばかりを見る医者の元に担ぎ込まれていました。文士である友人らが見舞いに来て、ここ数ヶ月留守にしていた間の出来事を聞かれましたが、何を話せば良いのか分からぬまま口を噤んでしまいました。
 しばらくして金魚屋を再開し、しかし長くは続きませんでした。そのうち戦争が始まり、戦乱に投げ出された私は各地を彷徨いました。さまざまな社会情勢の乱れが起きても、私はあれ以来、年を取らなくなってしまいました。
 人魚の言い伝えは真だったのです。
 
 旦那様は……。
 乱心の末、物見塔に登って窓を割り、自らの首を刎ね、池の中へ落下したと聞きました。まさしく血の池となり地獄の様相だったとのことです。新聞には変死扱いとして報じられました。
 随分経ってから屋敷を訪れました。後継者が居らず住むものも居なかったため荒れ果てておりました。家財の類は撤去され、美しかった庭園は鬱蒼とした薮と化していました。その変貌ぶりに私は耐えきれず、逃げ出しました。私と彼がいた楽園は無く、この世から追放されたような心地がしました。
 やがては更地になり、半分は更に分割された土地となり、小さな家が建ち並びました。もう半分は、神社が建ちました。

 痕跡などは跡形も残っておりません。
 あるのは、私の肉体だけ……。
 
 全ては俺の愚かさが招いたこと。
 長く生き、長く知識を蓄え、誰よりも十分に考え抜く必要がありました。でなければ、共に生きる理由がないのですから……。

 ◆

 相貌がそっくりな、君。
 プラチナブロンドの髪は錦鯉の白金にも勝る輝き。背がやや低いことを気にして、それを「家が狭かったから」だと言うのも。何だか、かの金魚みたいで。
「帰ろうか」
「うん!」
 花火を終え、一つ一つが散るのを眺めながら、自身の人生を振り返った。俺の魂と、この子の存在が同時に在る時間が、あとどれほど残っているのだろう。そう思うと、一分一秒足りとも無駄にしたくない想いが溢れる。
「あのな、大事な話があるんだ」
「それってどれくらい?」
 金魚を持って機嫌良さそうに笑う君。初めて金魚と対面した時も、期待と希望に溢れた笑顔を咲かせていた。
「プロポーズと同じくらい」
「えっ!」
 少しでも二人の時間を長く重ねるのと同時に、一層濃くしていきたい。数百年の空白と、数百年の未来を、たくさんの出来事で埋め尽くすために。