消失願望にて #1

 ふとした時に春を感じる季節になった。まだまだ冷えるけれど、訳もなく楽しくなる。先輩たちは卒業して、わたしには後輩が出来る。それだけで何かが劇的に変わるかもしれない。これは春が運ぶ期待だ。
 空には満月。清々しい空気に、冴え冴えと輝いている。卒コンで遅くなってしまったけれど、家族にはどうせ何も言われない。お父さんもお母さんも仕事で早いし、もう寝ているだろう。飼い猫のメルだけは出迎えてくれるかもしれない。
 ほう、と息を吐く。白い靄が口から出て、月のそばにある雲と同化していく。わたしは二年生になる。クラスが変わる。変わり映えしない日は、何か変化があるだろうか。
 今日も楽しかった。楽しかったと思う。部活のみんなとご飯に行って、カラオケしてボーリングして、プリ撮って。先輩たちは泣いて、笑っていた。わたしも一緒になってはしゃいだ。次こそは地区大会を抜けよう、と盛り上がった。これから新歓の練習をして忙しくなるはずだ。楽しみだ。楽しみなはずだ。

 なのにどうして、退屈だと感じるのだろう。

 気がつけば脚を止めて月を眺めていた。恒星の光を借りて浮かぶ衛星。こうして視認できる物体なら、音が聞こえたって良いものなのに。どんなに耳を澄ませても、路地を挟んだ大通りの車くらいしか聞き取れない。エクトプラズムに似た呼気を吐いて、思い切り吸った。
 帰ったらすぐにシャワーを浴びて、握力のトレーニングだけはしよう。弱小吹奏楽部の打楽器担当はわたしだけになってしまった。同学年はたった七人だ。各パートに一人ずつ充てがっても足りない。そういう状況だ。せめて、あの先輩は上手いと思われよう。経験者が入ってきても、恥ずかしくないようになろう。
 春はもうすぐ、めまぐるしく、きっと華やかにやってくるはずだ。



 精密な動きに、憧れる。
 例えば一定間隔で明滅する踏切のライト。工場で瞬く間に加工していく機械、それらを駆動する歯車。どれも滑らかで、役目を果たす間は絶え間無く動き続ける。逆にそういったものは止まると《異常》とみなされる。普段どんなに正確で、正常だとしてもだ。それは致命的なミスとして報告される。目の前で動く電車や電光掲示板だってそうだ。チャットアプリを片手間に、いつもの通学時間を過ごす。
 わたしが部活で担う役目は、そういうものだ。打楽器はリズムや音を外すと、どんな素人でも気がつく。逆に間違えずに演奏しても、誰も気に留めない。SNSのタイムラインのごとく、あるのは分かっているはずなのに特別注視されないのと同じだ。
 いや、部活だけではないかもしれない。勉強も同じことだ。反復・反芻して結果を出す。決められた通りの事を、決められたようにやる。誰もが目を見張る結果だとしても恒常的に続けば、それは《正常稼働》の範囲として捉えられる。その間、誰に咎められることもない。些細なパターンを、ゆっくり丁寧に進め、徐々に慣らし、自分史上最高の成果を目指す。それがわたしには心地よく、没頭したあとの充実感が好きだ。

 要するに、地味なのだ。
 見た目は、自由な校風の生徒らしく相応に整えている。髪は染めていないけどピアスをあけて、ネイルして、アイメイクに力を入れる。必要以上に目立たないようにするための、カモフラージュに似た何かでしかない。スタンプを送りつけて人のやりとりを受け流すための衣だ。人にひけらかすに足らない性根を、覆い隠す風呂敷みたいなものだ。
『ああ、だからかなぁ』
 進学校と謳われる高校に入ったはずだ。県で三本の指に入る偏差値のはずだ。
 だからと言って、馬の合う人間がいるわけでは無い。アプリの通知は絶えず働く。
 進学校でかつ校則が緩く、自由な雰囲気に惹かれて入学した。確かにその通りだった。パンフレットに嘘はなかったし、OB訪問で先輩らが言った言葉は本当のことだった。
『誰も彼も、惰性でしか無い』
 薄々分かっている。真面目というのは嗤われる。人が真面目にやればやるほど、滑稽に見えるという。嘲笑されるのは気分が良くない。だからわたしも、適当に済ませるフリをする。だからチャットアプリでどうでも良い反応ばかりを返す。
 何よりわたし自身が矛盾している。スクールカーストの類に興味がない素振りを見せているにも関わらず、居心地の良さを求めている。それがきっと、退屈さに拍車をかけている。
『昼休みに部室に行っても音は出せないし』
 しかも男の先輩たちは、どこから持ち込んだかわからないけれど、麻雀に勤しんでいる。本当にやめて欲しい。そうでなくても、昼休みまで部室に行くというだけでよく連むグループの子達は「どんだけ部活好きなの」と言うだろう。言葉の裏に、それって私達と昼休みを過ごすことより大事なことなの? と、自らの価値を天秤に吊るしながら。
 待っていた電車の案内がアナウンスで流れる。殺伐としたホームでは、誰もが無言だ。俯いて手元の端末を眺めている。暖かくなりきらない風が煽り立てる。
 ああ、わたしも惰性で生きているゴミだ。吹けば飛ぶような、無価値の塊。
『いっそ誰か、突き飛ばしてくれないかな』
 何事もなく電車が来て、わたしはそれに乗り込んだ。

 ◆

 芥川でも読めば良いのだろうか。
 漠然とした不安で自殺した文豪の悲劇は、授業では文学史の一つとして扱われる。学年末テストで出て来た問題を不意に思い出す。本当に悲劇なんだろうか、と考えて、すぐにやめた。

 もはや現代文学を、授業で教わることなんてない。

 一年生の日々は指でいつくか数えたら終わる。わたしにとっては消化試合だ。もうすぐ、きっと変わる。それまでの辛抱だ。
 クラスのみんなも気持ちは同じみたいだ。漫画を机の下に隠して読む奴、ずっとチャットアプリをしてる奴、寝てる奴に、化粧している奴。漫然と眺めて、わたしはノートにその様子を書き留めた。こんな光景はもう目の当たりにしなくてすむ。
 進学校といえど、全員が学歴の高い大学へ進む訳ではない。指定校推薦を狙う生徒はともかく、ハナから専門学校に進もうと決めてる奴もいれば、有名私立大学ならどこでもいいとアバウトに決めている奴もいる。要は対して真面目にする必要がない連中だ。先生も分かりきっているので、やる気ある生徒しか見る気がない。自由な学校らしくて、それはそれで好ましいと思う。それでも目の前で遊ばれると苛々するのは事実だ。
 だからわたしは、二年からは理系コースへ進むと決めた。特にやりたい事があったからではない。文系の科目も好きだし、理系の科目も楽しい。単純に理系にはバカが少ないと思ったからだ。男子だらけだろうけど、こっそり苛むよりマシだと思った。

 チャットアプリに通知が付く。
 他クラスの友達だった。昼休みはこっちに来いという内容だった。OK、とだけスタンプを送って直ぐに切る。

 なんだか、孤独だ。
 誰とも目が合わないクラスでそう思う。授業中だからそれが普通なんだけれど。大抵の人は、人との関わりで発生する糸みたいのが、周りや辺りに漂っているように見える。ピンと引き合っていたり、細い糸を何本も出したり、太い糸がゆったりと繋がっていたりと様々かもしれない。人の周りには人の気配がするものだ。わたしの周りには、蜘蛛の糸より細くて軽いものしかない気がしている。唯の、感覚での話だけども。

 ああ、やはり、芥川を読むべきだろうか。

 今日は部活がない曜日なので、寄り道でもしてそのまま塾に行こう。そう決めて、片耳に潜めたイヤホンをかけ直した。



 昼休みに、友達の元へ向かう。コンビニで適当に買った食料を携えて教室のドアを開ける。すでにわたし以外のグループの子たちは集まっていて、先に食べていた。
「遅ーい。お腹空いちゃってたから、先に食べてるよ〜」
「別にいいよ。わたしもお腹空いた」
 しょうがない。だってわたしがここから一番遠いクラスだから。大体、わたしを待ってたことのほうが少ない。
「でさ、ミキの彼氏、どうなの?」
「えー、普通だよー!」
 会話の流れからして、この前できたばかりの彼氏トークなんだろうなと察する。確かイケメンリーマン捕まえたとか言ってたっけ。おにぎりのビニールをピリピリ破る。
「実際、年の差ヤバイじゃん?」
「ヤバくないし! 七個しか違わないし!」
「いや、ヤベェだろそれ!」
 周りはゲラゲラ笑いながらご飯が進む。わたしはふと、その彼の姿を想像した。
 七個上、二十四歳かぁ。きっとオトナなんだろうな。仕事ができて、スーツが似合って、もしかしたら眼鏡とかしてるかも。
「落ち着いてそうで、良いなぁ」
 ポロリと本音が落ちた。焼き海苔が軽快な音を立てる。あ、梅干し美味しい。
「そう、そうなの!すぐホテル行くとか言わないし、必ずご飯奢ってくれるし!アクセもカタログ見ながら選んでくれるし!」
 興奮した彼女は、いかに彼が自分に尽くしてくれるかを語り出す。アクセにカタログなんかあるんだ。ってことはブランド品なのかな。すごいな、ジョシコーセーの彼女にそんな物、渡すんだ。
 わたしの耳からは前半の文脈が省かれた。
「いやいやいや、ホテルとか、それエンコーになるから」
「ならないし! 純だし! まだ手ぇ繋いだだけだし!」
 またも下品な笑い声が響く。わたしは適当に笑って、次の食料である菓子パンにかぶりついた。
「そういや、ユナは? また最近、オトコ増やしたんでしょ?」
「あー、ハッキリいってハズレ。けどマジ、行動が超面白い」
 もう一つ、何か昼ご飯を買っておけばよかった。咀嚼しながら、正直物足りなさを感じる。飲み物でも買いに行こうか、どうしようか。わたしの耳から異性関係の話は右から左に抜けはじめていた。
「急に会いたいとか送ってきてさ。夜の十時くらいだったかな。うちはそんなんムリって言ったの」
「そんで?」
「二時間かけて原チャで家まで来た」
「ヤベェ!」
 それは確かにやべえ。オチに思わず吹き出したし、思わず突っ込んだ。
「彼氏さん、そんなにユナに会いたかったの!?」
「そう思うっしょ!?」
 その時点でもう十二時じゃん?そんでその後、フツーに帰ってった。何ソレ! 何しに来たんだよ! 本当に会いたかっただけかよ! 
 クラスで繰り広げられる会話の内容はどこもそんなものだと分かっていても、違う世界すぎて面白い。ひとしきり笑って、ゴミ袋と化したビニールをくしゃくしゃと丸めた。
「てかさ、最近気になる人とか居ないの?」
 わたしにお鉢が回って来た。退屈しのぎをしたい時、最後にわたしに聞いてくる。社交辞令ってやつかとも思う。一応同じグループだし、聞いといてやるよ、と言う思考が聞こえて来そうだ。
 少し考える素振りをして、表情をやや柔らかくする。
「……ちょっとイイなーって思う人なら、他校に」
「出たよ他校!」
 昼休みはまだ半分過ぎた辺り。こんなハイペースでよく話せるなと思う。
「どんな人なの!?」
「えーと、塾が同じで」
 食い気味に身を乗り出す彼女らに思わず笑う。これから話すのは嘘ではない話なのに、飢えすぎだろう、と。
「背が百八十センチ近くあって、スラッとしてて、ギター弾けて、頭良くて、黒髪サラサラ」
「ヤバくね、それ」
「ハイスペック!」
 実際に、そういう人がいる。話した事はない。塾のラウンジですれ違うだけの顔見知り。たまにギターを担いでいるから、軽音部なのだろう。わたしはその人に、別段好意を抱いてはいない。それに話を付け足して行く。
「実はさ、それもあって二年から理系コースにしたんだよね。その人、理系の大学目指してるらしくて」
「それ気になるとかじゃなくて、既にかなり好きじゃね?」
ちょっと無理があったか。笑ってごまかす。おおっぴらに言わないでよ、恥ずかしいじゃん。とも付け加えた。
「その人、幼馴染の可愛い子が居て。その子も最近、入塾したからさ。正直望みは無いかなって」
 これも嘘ではない。ふんわりとしたボブに華奢な身体つきで、明るく笑う子だ。幼馴染という情報は塾の先生が世間話として教えてくれた。その子も、塾の構内で見かけただけなので、関わりはない。
「いやいやいや、コース変えてまでしたんだからもっと行こう!?」
「ってかそれ行くしかないよ! 頑張れよ!」
 わたしの中の、本当のことなんて何一つ言ってないのに、お気楽な人達。
 また何か進展したら話すねと言って、次の話題へと移っていった。



 帰り道、わたしはバスで最寄駅へと向かう。みんはな自転車なので、帰りは必然的に一人だ。交通手段が違うので、しょうがない。
 単語帳をパラパラとめくる。今日の小テストの範囲はほぼ押さえてあるが、いつもの癖で黙読する。
『これも、もしかしたら惰性なのかな』
 習慣付いた基礎の繰り返し。惰性は目的もなくすることだ。この行動は、小テストでいい点を取るためだ。
 それでもふとした瞬間に、黒いモヤが頭を擡げる。では何故、良い点を取らねばならないのか。積み重ねで学力をつけて、大学に受かるためだ。
 では、それから?
 沼に足を踏み入れる気配がしたので、やめた。あと少し、新学年になったら、きっと違う世界になる。考えるのはそれからで良い。
 バスに揺られる時間は二十分ほどだ。アプリは通知が付きまくってる。自転車なのによく会話できるなと思う。そこまでして繋げる糸は、強固なのだろうか。
『ああ、また、考えてる』
 自分の周りに人の気配はあるのか、どうか。それを他人に問うても意味のないことだ。それこそ、「私たち友達だよね」と確認し合う意味のない儀式でしか触れることは出来ない。わたしはそれを煩わしく思う。なのに気になるだなんて、自己矛盾も良いところだ。
『……例えば、わたしが死んだとして』
 何が起こるだろうか。このバスの座席に座る人間一個分の空間が空く。人一人が飲食するものが減る。酸素も消費されない。服も、カバンも、靴も、化粧品も。わたしの家の一部屋が空いて、全て墓石に集約される。
それから?
 両親は悲しむだろうか。みんなは泣くだろうか。グループの子たち、部活のみんな、クラスのみんな、塾のみんなは、泣くだろうか。
 では泣いて悲しんだとして。
 十年、いや五年先もみんなは覚えてくれるだろうか。
『……忘れるよね、普通は』
 だってそうだ。今から遡って五年前といえば中一の頃。十年前なら小ニだ。わたしでさえ、その頃のみんなを覚えている訳じゃない。

 わたしが忘れたように、わたしを忘れた人がいる。

 そこまで考えて、気持ちが悪くなった。バスに酔ったのかもしれない。単語帳を閉じて、デイパックにねじ込む。
『消えちゃいたい』
 目を閉じて仰ぐ。今の自分に、何か重みを持つものがあるとは思えない。何もかも無かったことになっても、いいのではと思えてくる。特別な何かを持つわけでもない。だったら。

 バスが駅のターミナルに到着したので、漠然とした望みは霧へと散った。



 駅ナカのセレクトショップをぶらつく。勉強中、前髪が鬱陶しくなってきたので、手頃なヘアピンかクリップが無いかと品定めしたものの、目欲しいものは無かった。
『高っ』
 いいな、と思っても値段を見て買う気が失せる。たったこれだけの物に八百円は高い、これなんて千円も、と考えが過ぎる。貧乏ではないけど、物の価値とお金の価値が釣り合わないものが多すぎるとさえ思った。
『新歓始まったら、新しい服が要るかも』
 よく買うブランドの店へ足を運ぶ。ブランドといっても高級品ではない。雑誌で良く見かける、いわゆる無難な服が多いところ。
 ここでもそうだ。どうせ着るのはわたしなのだ。可愛いと思う服を着ても、《それを着たわたし》が居るだけだ。
 もしかしたら素敵な洋服が何処かにあって、わたしはそれに巡り合っていないだけかもしれない。それでもここのビルの中にはそれは無いのだから、流行って居るデザインのワンピースに数枚のお札を対価にする気は起きなかった。
『素材が、これだしなぁ』
 鏡に映る自分を見遣る。何故この姿をしているのだろう。どうせならもっと可愛くたって良かったはずだ。右目の二重の幅がもう少し広くて、唇が素でぷっくりしていれば、化粧する手間も省けたのに。膝から下がもう少し長くて、あとちょっと細ければ似合う服も沢山あったかもしれないのに。
 店員の視線が気になる。接客されると面倒なのでさっさと見て回って、店を後にした。晩御飯を買って塾に行くに、ちょうどいい時間だったのもある。



 塾のラウンジは気に入っている。
 拓けた空間に丸テーブルが並び、食事を摂る人や雑談する人で溢れている。塾では成績順にクラス分けされているので、必然的に仲良くなるのは自分と同じくらいの実力の人たちだ。会話のレベルも合うし、みんな勉強が目的で居るから、余計な人間関係がなく心地が良かった。色恋や派閥が無いのはよいことだと思う。
『色ボケしてるヒマが無い、っていうのが本音かなぁ』
 半年くらい前に、好きだと言ってくれた人と付き合ってみた。けれど三ヶ月も持たなかった。何考えてるか分からない、と言われた。わたしが部活や塾に明け暮れて彼を優先しなかったのが悪い、と友達には言われた。わたしは納得できなかった。好きなことをするのに、何故そうでもない人と会わなくちゃならないのか。そこまで考えて、自分がその人を好きになれなかったことが原因だと分かった。それでもいいから好きだと言ってくれる人か、何もかも放り出すほど好きになる人が居なければ無理だと悟る。
『あ、……』
 彼がいた。スラリとしたスタイル、艶のある黒髪。鼻が高く横顔が綺麗な、あの人。今日、学校のみんなに話した《わたしが気になっている人》にでっち上げられた、彼。ラウンジ側のカウンターで先生と一緒にテキストを広げている。時折見せる笑顔はかっこいいとは思うし、張り出される成績だって上位だ。魅力的な人には間違いないから、嘘は言ってない。
『本当の事も言ってないけど』
 学校のみんなに言う必要もない事だ。適当な空き席に着く。春期講習前のクラス分けテストが今日のメインだ。重いテストではないけれど、転科する身だからか、不安が大きい。最初の一歩から転ぶわけにはいかず、数学とにらみ合いを始めた。例題、基礎、応用と解いて採点。四ページほどそれらを繰り返し、波に乗ってきた頃だった。
「あの、ここ良いですか」
 顔を上げて、わたしは固まった。例の彼がこちらを覗き込んで、声をかけて来たのだ。
「席、空いてなくて」
 見渡すと、ラウンジは満席だった。しかも新三年生と新入生だらけで、新二年生で席を取っているのがわたししか居ないと分かった。相席するにも顔見知りはわたしだけのようだ。
 恐らく、この時間から自習室に行くほどでもないのだろう。自習室での飲食は禁止されているし、ここで済ませたいに違いない。ハの字に下がった柳眉が目に入る。
「どうぞ」
「どうも」
 断る理由もなければ、心臓が早鐘を打つ理由も無いはずだ。サンドイッチを片手に解いていた問題が一気に分からなくなる。ひとまず食事を終えよう。もっさりするパン生地を口の中に押し込んだ。その間、シャーペンをカチカチとノックしていた。うっかり出し過ぎた芯を机に突き立てて引っ込める。わたしは一体何に動揺しているのだろう。ほぼ知らない人を恋愛ネタの犠牲にした、後ろめたさだけだろうか。
「それ、今日の試験の?」
「う、うん」
 更に声が降って来た。咄嗟のことで上手く返事ができなかった。軽く咳払いをして、口に含んでたレタスのせいにする。
「理系コースにしたんだ?」
 そうか、今日の試験は理系向けのクラス分けしかない。ここに来てテスト勉強らしきことをしていれば、明白なことだ。何故か急激に恥ずかしくなり、前髪を梳かした。
「二年生から。その、大学は理系にしたくて」
「どこ大か聞いて良い?」
 理系の大学なんて、大して知らない。有名どころで、勉強して届くところで、立地も現実的な大学を頭の中でフィルタリングする。
「南里。家から近いし」
 弾き出したのは高校側の大学。そこは大学病院も隣接しており県内でも——いや、日本史にも登場する人物が創設者であるため全国的にも——人気と知名度が高い大学だ。
「俺も!」
 怪しまれる事はないだろう、という程度で口にした大学名に、彼は大いに食いついた。目を丸くしていると、苦笑しながら頬を掻く。彼の輪郭を滑る指先は白魚みたいに綺麗だ。
「ごめん。この時期から志望する大学が決まってる人ってそんなにいないし、しかも同じところだったから、何か嬉しくて」
 そうか、この人は南里志望なのか。もっといい大学でも受かりそうだけど、きっとこの人にはやりたい事があるんだろうな。そう思うと途端に羨ましくなった。
「学科も、決めてるの?」
「俺? 放射線技師になりたいから、その方面になると思う」
 安定志向。真っ先に浮かんだのはそれで、次には「かっこいいな」だった。
「そっちは?」
「薬学部。色々見て決めたいとは思ってる」
 赤ペンをくるくる回す。落ち着かない。どきどきする。わたしは何故、この人と会話してるんだろう。ああ明日話すネタが出来てしまった。心のキャパの限界が迫ってるのと反比例して、口からは思ってもない事がスラスラ出て来る。態度としては素っ気ないくらいだ。
「ごめん、邪魔しちゃったよね」
 赤ペンを弄んでるだけで、丸付けは進んでなかった。
 それを見た彼は眉を下げる。切れ長の目が伏せられて、途端に申し訳ない気持ちになった。
「いいよ、大丈夫。解答見ても、ピンと来てないだけだから」
「あ、それなら俺、教えられるかも」
 本当は分かってるし、正解している。口をついて出た嘘はどんどん退路を絶っていく。制汗剤の匂いが鼻をかすめて、赤面しそうだ。彼の教え方は上手く、声も聞いていて心地がいい。
「……また、」
 声が細くなる。ネイルの塗り欠けを隠すために、カーディガンの袖口を握り込んだ。恥ずかしい。
「その……。大学の事とか、勉強とか、話しても良いかな」
「もちろん!」
 見た目クールっぽいのに、笑顔は少年みたいでキラキラしてた。反則だ、こんなの。これがいわゆる、ギャップ萌えというのだろうか。
『何だっけ、こういうの。身から出たサビ、じゃなくて』
 嘘から出た真。
 頭の中に浮かんだ諺に、ため息をつきたい気分だった。

 恋したって、意味がない。受験が目的なのだから。
 恋い慕って、忘れよう。それだけできっと満たされるだろうから。