消失願望にて #2

 テストは無事乗り切った。
 解いて、解いて、ひたすら解いて、二回見直ししても時間が余った。確かな手応えがあり、充足感で満たされる。ふわふわして足元が覚束ない。
 点数は悪くない。ボーダーを超えられた感触がある。順当にいけば問題なく一番上のクラスになるだろう。彼はどうだったんだろう、と考えて、頭を振った。
『……一緒になった所で、何だというの』
 良い成績を取るために通う場所。勉強以外の目的を作ったって良いことなんか絶対に無い。今日はたまたま、顔見知りがあの場にわたししか居なかったから、一緒の席に座っただけだ。わたしじゃなくても良かったことだ。もしあの場に彼の幼馴染の子がいたら間違いなくそちらへ行く。今日は色んな偶然が重なったことによって起きたイレギュラーだ。彼がわたしに話し掛けてきた理由は、塾というコミュニティ内での沈黙や孤独を、単純に紛らわせたかったからに過ぎないだろう。
『……だから、きっと。この気持ちは忘れた方がいい』
 好意の色はグラデーションだ。対策もせず放っておいたら、色濃く芽生えた想いは、物凄い勢いで育つ。小さいうちなら摘めるはずだ。
 好きなだけなら勝手かもしれない。それも良いかもしれない。楽しいこともあるかもしれない。それでも、無いに越したことはないはずだ。
 それが最善だと思い直し、立ったまま電車に揺られて夜街を眺める。ガラガラの車内にはくたびれたサラリーマンや怠そうなOL、仕切りに端末をいじる大学生らしき人。群像が窓に映り込み、街灯や家屋の光と共に揺られている。美人には程遠い自分の顔も、映っている。
 化粧を変えてみようか。春休みが明けたら男子だらけのクラスだ。別に可愛く思われたい訳でも無いけど、可愛くないと陰で囁かれるのも癪だ。
 化粧は単純に楽しいこともあって、好きなほうだ。もっとこうだったらいいのにとは思うけれど、作った顔は不細工ではないと思う。体型も、もう少し細くて脚が長ければ不満はない。痩せたいとは思う。服のサイズに悩むことはないけど、似合う服がイマイチ分からないから。
 はぁ、と息を吐く。
 そんな人間が、彼の隣に並んでも惨めになるだけだ。辺りを見回す。わたしとこの群像の隔たりはどこにあるだろう。彼はきっと学校でも人気のある男子だ。自分より優位な人種の側にいるのはきっと苦痛でしかない。やはり、無かったことにしてしまうのが一番だ。

 ——苛む原因は劣等感なのではないか。

 学校で最も頭が良い訳じゃない。音楽だって、打楽器はそこそこ出来てもピアノは弾けない。
 もっと目が大きくて、鼻が高くて、唇もふっくらしてたら、こんなに悩まなくて済んだかもしれない。もっと世界が楽しかったかもしれない。
 もっと頭が良くて会話する能力に長けていれば、友達や親友と呼べる人も出来るかもかしれない。
 もっと楽器が何でも上手くて、だれもが目を見張る実力があれば、音大だって夢じゃなかったかもしれない。
 もっと、優れていれば、彼に芽生えた想いを摘まなくても良かったかもしれない。

 ああ、やっぱりわたし、何もない。

 降りる駅になったので下車する。二十一時。いつもより帰宅する時間が早い。何となく帰りたくなくて、駅前のカフェへ足を向ける。風がまだ冷たい。息を吐けば、靄となって消えていく。
『……なんか、消えたい』
 空に溶けたらどんなにいいだろう。澄み切った空気に自分の存在や、自分がしてきたこと、みんなの記憶から消えたら、とても楽なんじゃないか。溶けるとしたら、水と緑が豊かな所が良い。のどかで、余計なことを考えずに済むほど、静かな場所がいい。
 カフェは空いていた。ストレートティーだけを頼んで、隅の席に陣取る。閉店時間は二十三時だったはずだ。テストの問題用紙を開いて、自己採点を始める。
『……スマホ、放置してたな』
 チャットアプリの通知がカンストしていた。いつものことだ。グループチャットは大抵こうなる。面倒だったので、流れを読まずに「塾おわ」とだけ打って投稿した。すかさずスタンプが流れ着く。
『今日あったこと、書くべき……?』
 手が止まる。もうすぐ春休みに入る。今のグループの子たちとはクラスが分かれるだろう。今より疎遠になることも考えられる。
疎遠になって、それから?こちらから出向かなければ、一人で過ごすことが増えるだろう。
 学校で、一人。四十人掛ける八クラス。三百二十人という数の中、一人で過ごす。体育や音楽は合同クラスになる。その中に今のグループの子たちがいたら?よそよそしくされて、一人で外れることもありえる。
 何となく、しかし、とんでもなく恐ろしいことに思えて「今日言ってた人と話せたよ」と打ち込んだ。投稿されたメッセージが、緑の淵に囲われてから気が付く。
『……わたし、あの人を利用してる』
 はじめからそうだ。話題に入れないのは嫌だから、そもそもあの人を好きになった体で話を振った。今日、初めてあの人と話して、本当に好きになりかけてる。しかもさっきまで、忘れるのが最善だとしたのに、今こうして、《好きな人と話せて舞い上がってる》ことにしている。
 嘘は言ってない。嘘ではない。ただそこに自分の本音は全て隠している。

 一人になりたくない、という下らない本音が。

『バカなの、わたし。バカだ。死ねばいいのに』
 あんな風に、笑うなんて知らなかった。あの悪意も裏も無い笑顔を利用している。怒涛の返事が押し寄せて、凄まじい自己嫌悪の波に拍車をかける。津波みたいだ。飲まれそうだ。思わず突っ伏して呻く。
 とにかく返信から逃れたくて、「明日詳しく話すね」と入力し、アプリを切った。
 駄目だ、これ。問題を先送りにしただけだ。意味がない。学校行きたくない。みんなに会いたくない。話したくない。休んじゃおうか。どうせ授業も無いようなものだし、そもそも明日は午前中しかない。部活だけ出ようか。どうしよう。

 ストレートティーの氷が、カシャンと鳴る。
 溶けたい。溶けて消えてしまいたい。



 学校が爆発したり、季節外れの台風が来たりはしない。いっそ如何ともし難い理由で休校にならないかと願ってもそう上手くはいかない。晴れやかな空を呪いながら、いつも通りの電車に乗るべく家を後にした。
 今日に限ってお母さんが家に居た。カドーチョーセーとかで遅くに出勤らしい。仕事が忙しくとも、学校のスケジュールは把握している。サボったりして何か言われるのが面倒だったから、結局登校することにした。声をかけたけれど、適当な返事があっただけだった。
『上手くいけば、みんなに会わずに済むかな』
 終業式は明日。今日はHRと簡単な掃除だけだ。今日をやり過ごして、明日部活に逃げ込めば、あとはアプリ上のやりとりだけで済む。はぐらかすのは得意だ。
『……仮に、グループから外れたとして』
 私はどうなるだろう。学校での居場所はグループと部活だ。部活に行く頻度がより高くなるだろう。麻雀をしている先輩たちは三年生になるし、そんな暇もなくなる。正直目障りな行動を目の当たりにしなくて済むから、尚のこと部室に居られる。昼休みに心置き無く練習できるのはきっと楽しい。部活がない放課後も、今のグループの子たちと遊ぶことはあまりない。あってもご飯を食べたりカラオケへ行くくらいだ。それが無くなれば、塾に直行することになるだろう。どの道、部活か塾があって、夜遅くまでかかる。その後遊びいくにも店はしまっているし、家にも帰らない。みんなと何かすることが無くても、やることはある。
『あれ? あまり、困らない……?』
 目からウロコが落ちそうな感覚だったが、突風がその考えを取り去った。
 修学旅行、文化祭、体育祭。日常生活は元より学校を挙げてのイベントはまだ残りの学生生活の大半をしめる。当日はもちろん、その準備期間中はどうやって過ごせばいいのだろう。部活動が停止する曜日や期間だってある。

 《誰かといる必要がある場面》はいくらでもある。

 やはり恐ろしいことに思える。想像もつかない。一人でご飯を食べて、ボーッとして、楽器も触らず、問題集も手元になかったら、何をして過ごせば良いのだろう。スマホのアプリゲームだけでは限界がある。そもそも、今やっているゲームだって、誰かが始めたから、話題のためにインストールしたものだ。
『……消えたい』
 消えて楽になりたい。駅のホームはいつもより空いていた。相変わらず殺伐としていて、人々は俯いている。近くに聳え立つアウトレットモールの建物が、その風景をよりハリボテに見せている。わたしの居る世界や景色は、いつだって大したことなくて、いつだってどこか嘘くさい。
『けど、死にたい訳じゃない』
 死んだら葬式がある。遺品が残る。形見分けされて、みんなの中で何となくズレた姿となって、いい子だったのにと言われる。そんな風になりたいんじゃない。ただ、消えて、なかったことになりたい。
『自殺は、自分のせいになる』
 何故か悪とされる自殺が、どうして良くないことなのかはピンと来ていない。それでも弱者のすることだと世間は言うし、死ぬ奴は自業自得だという冷たい総意がある。虐められてもない。学力も問題ない。家庭も多分裕福なほうだと思う。学生が死に至る原因がない場合は特にそうだ。
『殺人、事故、病気』
 痛いのは嫌だ。苦しいのも嫌だ。誰かのせいには出来るけれど、苦しんで、もがいて、そうして死ねばやっぱり何かが残る。残って欲しくない。訳のわからない人物像でもって《わたし》を捉えて、その上忘れ去っていくくらいなら、誰も彼もの記憶から消え去って、わたしが残した物や、やったことも、無かったことになるほうが良い。
『ああ、こんなことばっかり考えても』

 空虚だ。



 電車とバスが事故に遭うこともなく、不運に巻き込まれることはなかった。
 校門の桜が一つ二つと花を付けている。満開になる頃には、きっと何か変わる。そう信じて昇降口をくぐった。定位置で鎮座する上履きはいつもと変わらない表情で待っていた。
『いっそ学校に来れない様な状況だったら良かった?』
 例えば壮絶ないじめにあえば不登校になる理由が付く。コンクールや演奏会があれば公休が使える。でもそうはなっていない。いじめにあうこともなく、二人一組で組むような場面でもあぶれはしない。選抜の演奏会に選ばれるほど、部活の実績も残っていない。考えても無駄なことばかりが巡る。突っかけた上履きはペタペタと音を鳴らした。
「おはよー!」
「お、はよ」
 背後からミキが話しかけてきた。咄嗟に返事をしたので上手く発音できなかった。
「ぼーっとしてたってことはー。昨日の彼のこと考えた?」
 朝から明るい声と笑顔。ベクトルがこちらに向いていなければ、鬱屈とした気分を吹き飛ばす春の嵐みたいだ。
「まぁ、うん。昨日、たくさん話せたから」
 ぼかして話を誤魔化す。ミキはきゃあきゃあ言いながら、わたしに続いて階段を登る。デコパージュされた派手な上履きが足音を鳴らす。
「彼、どこ高なの? に頼んで聞いてみよっか?」
「聞くって、何を?」
「カノジョとか、好きな人いるかどうか!」
 冷や汗が伝う。聞いたとして、返事があって、それから? 何かを不安に感じ、何を期待するわたしが居る。正直何もしないで欲しい。かと言って、ここで彼女の親切を無碍にしたら、巡り巡ってどんな陰口を言われるか分からない。
「ありがと。でも、今は大丈夫」
「どして? 何で今はいいの?」
「その、彼と話せる話題を残しておきたいから……」
 目を伏せてそう言った。照れ臭そうな、《恋している顔》に見せかけた別の何かでしかないけれど、ミキならやり過ごせると確信していた。
「ちょっともー! どんだけ乙女なのー? 超カワイイ!」
「か、可愛いとかじゃなくて……!」
 彼女の腕をペシペシと叩く。照れ隠しをするフリにはなっているはずだ。パッとミキの目を見つめ、俯く。
「でも、そのうちお願いするかも。わたし、そういうことを聞くの下手だからさ。その時は良い?」
「もっちろん!」
 相手を頼るフリ。気になるフリ。恋してるフリ。
 これは、どこまでわたしの本音なのだろう。どこまでが、本当に思っていることなのだろう。フリしたフリ。裏表。自覚の広がりはとうとう自分で把握出来なくなっていく。
「協力するから、ちゃんと言ってよね!私も惚気聞かせてやるんだから!」
 ミキは天真爛漫だと思う。どこか幼くて、放って置けない雰囲気もある。だからこそ、機嫌を損ねさせてしまったらと思うと、ヒヤヒヤする。無言で頷いて見せると、彼女は上機嫌で立ち去っていった。
 ふう、と一息ついて自分の教室へと入る。チャイムが同時に鳴って、ジャージ姿の担任が欠伸をしながら入ってきた。
「よーし、全員いるなー」
「先生、出席ちゃんと取って!」
 このやり取りはお決まりだ。担任は大して出席しているか否かに注目していない。単に面倒なんだと思う。白髪混じりでぼさっとした短髪を掻きながら、出席簿にペンを走らせる。
「今日は掃除の後、HRして終わりです。だけど、先生はHR居ないので適当に帰るように。他クラスには迷惑かけんでなー」
「先生、授業ちゃんとこなして!」
 これも、お決まり。どっと笑いが起きる。この先生は生徒を信用してなのか、連絡事項だけを伝えたらあとは自由時間にしてしまう。こういう雰囲気が好きだから、わたしも学校を嫌いになれない。
『部活の時間増えるし、ラッキー』
 窓側の自分の席から校門の桜が見える。満開が待ちきれない。

 掃除、といっても机の中身を空にすることと、表面を拭くだけだ。グループの子たちに帰りを目撃されるリスクが無いのであれば、直ぐにでも部室に駆け込んでしまおう。
 心にそう決めると、幾分心が楽になった。



 メトロノームはアナログに限る。
 メモリを六十に合わせてウォーミングアップを三十分。百二十に合わせて更に三十分。百四十四の十六分音符でパラリドル。アクセントを付けてのダブルストロークを追加し、三十分。気に入っているルーディメントで、基礎練用のゴムスタンドを打つ。テンポに合うと、メトロノームから発せられるカチカチ音が消え、打音が響き渡る。目で見て、耳で聞いて、自らの精度を上げる練習だ。
 只管に没頭していると、他の部員がちらほらとやって来た。気がつけば、お昼に差し掛かっていた。
「あれ、早いね」
「暇だったから」
 サックスのカオリがパーカッション部屋にやって来た。顔立ちが可愛らしく、裏表の無い性格で、部活中はよく話す子だ。化粧やネイルも上手なので、お互い教えあったりもする。
「パーカスの練習って、相変わらず座禅みたいだよね」
「基礎練は総じてそんなもんじゃない?」
 パーマがかったボブヘアーにベージュのカーディガンが魅力を引き立てている。今日も可愛くしてるな、と手を止めずぼんやり思う。適当な椅子に腰掛け、荷物を展開し始めた。
「お昼は?」
「ダイエット中。あとで適当にゼリーでも食べるよ」
「ストイックー」
 何も考えたくないだけだよ。その言葉は飲み込んだ。カオリは特に気にせず、お昼ご飯を目の前で頬張り始める。桜パンなるパッケージが破かれて、ふわりと白あんの匂いが漂った。
「新歓の曲のこと、聞いた?」
「どうせ、なんかのジャズアレンジでしょ?」
 人数が少ない編成で出来るジャンルは限られてくる。最も手軽なのはジャズだ。けれど、腕前がなければ大火傷するリスクがある。
「またドラムソロ長めにするって」
「別に困らないからいいけどさ……」
「あと副部長も来年からヨロシク、だって」
「ええっ。……まぁ、いいけど」
 いつだってそうだ。特に相談も無しにいつの間にか決まっている。腕を認められているのは良いけれど、何か一言あってもいいのに。パタパタと不機嫌にゴムスタンドが跳ねた。タイマーが鳴ったので、インターバルとして手を止める。
「セプテンバー、やりたいなぁ」
 カオリがぼんやりと呟く。クラリネットが活躍する構成で、それを更にアレンジしてある。サックスもそれなりに美味しいパートになっているので、楽しく吹ける代物だ。
「シング・シング・シングは?」
「長いから飽きられると思う」
「それもそっか」
 流行りに流行って定着した曲。サビは聞き覚えがある人は多いだろう。それでも長いソロを各パートで回すので実力がなければやはり難しい。
「直ぐ出来るのはイン・ザ・ムードじゃない?」
「そしたらテナーサックス、練習しなきゃ。金管欲しいよね」
「本当に、それ」
 彼女は、脚を組んで陽気に歌いはじめた。イン・ザ・ムードのメロディーラインが流れる。
 今の現役メンバーは音域をカバーするためにそれぞれ配置されているが、金管パートが不足していた。花形のトランペットに至ってはゼロだ。先輩が担っているが、その人はトロンボーンも兼任している。パーカッションはわたし一人だし、サックスのカオリもだ。彼女はそこそこ真面目に練習するので、ちゃんと吹けている数少ない人材だからこそ、負担が大きい。でも彼女は、嫌な素ぶり一つしなかった。
 腕のストレッチをしながら窓へ近づく。三階から見える景色は南里大学の運動場と、ゴルフ場の森だ。運動場では、フットサルチームが活動している。暖かくなってきたからか、いつもより人数が多い。春が待ち遠しいのは私だけじゃないみたいだ。
 不意に昨日の、彼とのやりとりを思い返す。もし同じキャンパスになったとしたら。バンドの経験は無いけれど、その辺のプレイヤーより上手い自信はある。そしたら、もしかしたら、バンドを組んで一緒に演奏する未来があるかもしれない。
 そこまで思い至って、やめた。カーテンを雑に閉め、景色を遮った。くたびれた生成り生地がゆらゆら、ひらひらと動き、やがて止まる。
「……なんかあった?」
「ううん、何も」
 反射で答えて、カオリを見た。じっと視線をよこす彼女に、見透かされている様な気分になる。思わず懺悔じみた想いを吐き出したくなる。
「ネイル、変えたんだ?」
「ああ、うん。昨日の夜に」
 塗り欠けがあったから、と言葉を足した。見窄らしい見た目が嫌で、水彩ネイルとくすみブルーを交互に施した。我ながら良い出来映えだった。途中までは。
「寒色、珍しいね。可愛い」
「ありがと。たまにはこういうのも良いかなって」
「ふぅん」
 寝付けなくて、恥ずかしくて、半ば現実逃避から修正したネイル。一通り仕上げたあと、不意に嘘で塗り固めている気分になり、手を止めた。急激にやる気を無くして、結局、途中で誤魔化してしまった。本当はネイルシールとラインストーンを足したかったが、それもやめた。はじめに描いていたデザインからは随分中途半端になっている。どうせそれは、他人に言ったところで誰にもバレはしない。
「好きな人でも出来た?」
 ピンポイントに射抜く質問は、確信をもった声音だった。カオリ相手に隠し事は出来ないと思い知る。髪の毛を耳にかけ、前髪を梳かす。否定も肯定も出来ず、押し黙った。
「その割には、……。凹んでんね」
 諦めのため息を吐いて、カオリの向かいの椅子に座る。ネイルを眺め、輪郭をなぞる。カオリの顔を見ることが出来ない。
「塾が一緒の人なんだけど」
「うん」
「かっこいいんだ、その人。頭も良いし、ギター弾けるし、将来やりたいこともあるし、しっかりしてる」
「うん」
「別に今までは何とも思ってなくて。昨日、初めて会話して。……」
 切れ長の目に整った眉。それらが作り出す優しそうな目元。筋の通った鼻。爽やかな横顔。細くて綺麗な指。テキストをなぞる形のいい爪。
 それを鼻にかけない、素直そうな性格……。
「すごく、良い人だった」
「それで、何を悩むことがあるの?」
 無性に泣けてくる。口に出せば出すほど、想いの輪郭は解像度を増し、わたし自身に突きつけてくる。敵う気がしない。叶う気もしない。
「自分より優れている人だから」
「普通、好きになる相手ってそうじゃない?」
 端的に言えば身の程知らずな自分が恥ずかしいのだ。その上、恋人をアクセサリーとして扱うクラスの子と、本質がなんら変わらない。そうした人たちを、わたしは軽蔑していたにも関わらずだ。
「一般的に《優れている》とか《スペックが高い》って評価される、判断水準の高いラベルが張り付いた人に、お近づきになりたいだけなんじゃないのかなって」
「ごめん、分かりやすく言って」
「……自分に自信がない。それを補うためだったり、利用する目的で《恋してる》ことにしてる気がする」
 柄にもなく、まくし立ててしまった。すぐに冷静になって深呼吸をする。カオリは少し考え込んだのか、脚を組み直してわたしを見続けていた。
「また小難しいこと、考えてるね」
 彼女は少し呆れたような、困ったような顔になる。細められた目を縁取るまつ毛が細微な影を作っている。彼女のまつ毛はくるりとカールしていて、彼女の気高い猫みたいな雰囲気が増していた。綺麗なのに可愛い、可愛くて綺麗。柔らかそうで触れてみたい。わたしもこの子みたいな雰囲気があれば、と考えそうになって、こめかみを押さえた。
 それはカオリにも彼にも、途轍もなく失礼なことのように思えたからだ。
 膝に置いた彼女の指がトントンとリズムを取っている。華々しい白くて無垢なレースをあしらったネイル。繊細な空白からのぞく大人っぽいワインレッドとパステルピンクのグラデーションは見事だった。
「決定打は?」
 カオリは質問を一つ、わたしに寄越した。決定打、と鸚鵡返しをする。
「昨日話したのがキッカケなら、ああもうダメだ!ってなったのは、どういう理由?」
 キッカケ。契機。決定打。間違いなくあるとすれば。
「……笑顔が」
 リフレイン。ストロボに炊かれたみたいな点滅と網膜に焼きつく強烈さ。顔を覆い、小声で絞り出す。
「笑顔が素敵だった」
 熱い。頭が茹だりそうだ。顔から火が出そうというのはこのことだろう。じゅうじゅうと湯気が出ているに違いない。
「なぁんだ。じゃあ、それは立派に恋だよ」
 カオリは、緊張感を解いて取っつきやすい小動物のようみたいにコロコロ笑った。何故だかわたしは急にいたたまれなくなって、指の隙間から目を覗かせて言葉を吐く。
「でも、塾だよ。接点はそれだけだし、勉強する為の所だよ?」
「本来、学校もそうだよ」
「……向こうの学校でも、絶対人気あるよ」
「そうかもしれないね。それに、何の関係が?」
「……そもそも、恋バナに置いていかれるのが嫌で、ミキたちに、その人が気になってるって嘘ついたんだよ」
「無意識でその人を挙げている時点で、嘘じゃないよ」
 一つ一つ、理由を潰されていく。優しい声音で壊されていく。剥き身になったわたしは、もはや子供みたいに首を振るしか出来なかった。
「わたし、何もない。何も、持ってない」
「私からしたら、充分だよ」
 涙が込み上げ、すぐに溢れていった。化粧が落ちるのが嫌で上を向き、顔を覆う。グラスから零れる水滴のグラム数を算出する問題が解けても、自らの水位を下げる術は知らない。
「恋は理屈じゃないらしいよ。恋愛ばっか歌ってるポップスが証明してる」
「陳腐すぎる……」
 くずり、と鼻を鳴らす。涙はどうにか治まったが、鼻の奥がツンとする。ぼやけた埃で汚れた天井が、綿を敷き詰めたみたいだった。
「良くあることだから、陳腐なんでしょ」
 優しく笑うカオリは温かい。話を真面目に聞いてくれて、わたしには勿体無い友人だ。グループの子みたいに囃し立てないし、触れ回らない。ちゃんと会話が出来る、好きな友達。
「もうちょい自信持ちなってー」
「そう言われても……」
 わたしに何があるというのだろう。カオリがわたしの中にある池に投げ込んだ石はさざ波をたて、ざわざわと広がる。
「学生なんてあっという間なんだから、楽しみなよ。私からしたら羨ましい限りだよ」
 言い回しに、直感的な違和感を覚えた。私からしたら、とはどういうことだろう。意味を掴みかねて少し固まる。
「それ、どういうこと」
「何が?」
「カオリだって、学生じゃん」
「ああ、私ね、大学行かないことにした」
 息が止まる。涙は引っ込んだ。この学校ではありえない選択——いや、選択肢としてすら存在しないことだ。
「ど、して」
 カオリの学力は特別高くはないが、悪くもない。指定校推薦は無理でも、自己推薦やAO入試、その他にも色んなやり方がある。もう一度、どうしてと言うために開いたが、遮られた。
「うち、片親だから。せめて短大はって母さんは言ってるけど、地元で就職してもいいかなって」
 背筋に冷たいナイフがスーッと通っていく心地がした。到底口出しできない。
 それでも腹のなかで渦巻く。
 どうして。真面目で、視野が広くて、優秀で、人が出来てるカオリが、どうして。
「お金が無いだけが理由じゃないよ。単純に、この街で生きて死ぬのも良いなって思うんだ」
「そんな、……」
 何にショックを受けているのかも分からない。ただ只管にショックだ。もったいない。どうして、カオリほどの人が、そんなの、もったいない。
「この街のネジや歯車になっても、悪いことじゃないなって」
 伸びをしながら幸せそうな顔をする。どうして。カオリは宝石みたいな人だ。磨かれてもっとキラキラする人のはずだ。ダイヤじゃなく石炭として燃えようとするなんて、もったいない!
「アンタはもっと人生楽しまなきゃダメだって!」
 わたしの背中を叩いて笑う彼女は明るい。全てを決めていて、それに向かっていく人特有の眩しさに溢れている。背中に広がる衝撃の余韻で悟る。
 カオリはカオリの生き方があって、わたしはそこに微塵も関わりがないと。
 最も仲が良いと思っている友人だけれど、彼女にとって、その友人が入り込む余地は無いと。
 そもそも、彼女の中で一番仲が良いのはわたしではないかもしれないと。
「将来、何になりたい?」
「……分かんないよ、そんなの」
 そっか、と彼女は言って、広げた荷物を簡単にまとめはじめた。もうそろそろ午後練の開始時間だ。
「選択肢が多いだけだよ。絶対あるよ、アンタにも」
 色んな感情が混ざって何も言えないわたしに、カオリはサックス部屋に戻る、と一言添えて彼女は出て行った。上履きが軽い音を立てて、やがて遠ざかって行った。

 春はすぐそこだ。桜も花が開きはじめている。
 わたしの胸の奥に、不安の種が芽吹く気配がする。
 いいや、本当はそれはずっと生え続けていた。
「……ネジや、歯車」
 わたしがずっと目を背け、だか確実に育っていた芽だった。

 足音を立てて、春が華々しくやって来ている。