消失願望にて #3

 自室のベッドから起き上がれない。
 カオリと話をして、少し気が楽になった。だけどそれを上回る虚脱感が襲いかかってきている。部活を終えてからどこにも寄る気分にはなれず、真っ直ぐに帰宅した。
 お父さんもお母さんも、まだ帰ってきていない。キマツケッサンとやらで遅くなると言っていたのを思い出し、怠惰な時間を過ごしている。電気も付けず、底無し沼に嵌った哀れな動物みたいに寝転び、ぼんやりと瞬きを繰り返す。
『選択肢、とは何だろう』
 何にでもなれるだけの《ルートの数》を指すのは分かっている。では、具体的にわたしの《ルート》とはどういうものだろう。
『理系になること、部活を続けること、勉強すること……』
 これらは大学進学に大きく関わる要素だ。それは間違いない。
 けれど、それは汎用的な選択肢だ。目指す先が明確に決まっているならば、もっと効率的な方法があるだろう。
 わたしにはそれがない。やりたいこと。なりたいもの。目指すべき、目標とするべきもの。
 彼には放射線技師という職業と将来があるし、カオリはこの街で生き続けるという未来がある。
『……消えたい』
 暗い部屋の中で、スマホの画面が明滅している。多分、いつものグループチャットが活発に通知を投げているのだろう。彼女たちを、目先のことや毎日の楽しいことだけを考えて生きる人種だと、どこかバカにしていた。でもそれは、実のところわたしも同じだった。
『消えてなくなっちゃいたい』
 思うだけで行動しないから、行き詰まっている。何かを得るでもなく、何かを生み出すでもなく、ただ淡々と生きてるだけだ。
『……生み出す、かぁ』
 寝返りを打ってネイルを眺める。
 ネイリストに学がいるかと言われたら微妙なところだ。だったら専門学校へ通うか関連の資格をとって、日がな一日、技術を磨く必要がある。ネイリストとして、その業界で生きていくなんて興味が持てない。元はと言えば、ネイルサロンに通うお金がもったいないから始めただけ。ネイルをしている時は楽しいし、完成したら満足するけれど、他人にそれを施したいかと言われたら、むしろ面倒に感じる。きっとネイリストとして適性はない。
 それなら打楽器奏者としては?
 もっと不可能だ。ピアノは過去に習い事として通っていたが、ほとんど無意味だった。リズムや音符は読めるようになったが、演奏は上手くいかない。ついでに言うなら相対音感もほとんどない。聴音が出来なければ音大に進めない。ドラムが叩けるからといって、バンド系音楽の専門学校はなんとなく肌が合わない気がする。それに、世の中に向けて言いたいことがある訳でもない。
『多少、勉強が出来て、ネイルや化粧ができて……。楽器が出来たからといって』
 結局、わたしは何にもなれない。何者にもなれない。ただ息を吸って吐いて、ベッドに寝転ぶ愚図だ。
 これ以上の真っ暗闇は、より深い沼地に沈むと思えたので、ベッドヘッドにあるライトを点けた。淡い色の影が壁に映し出されて、ほう、と息を吐く。
 影の正体は光を受けて透けたステンドグラスの色だった。それを照らすライトがとても気に入って、中学の頃、お父さんにベッドごと買い直してもらった。
『……ああ、落ち着く』
 万華鏡みたいな幻想的な色合いに、激しすぎない光量。朧げな色付きの影は心を癒してくれる。
『このガラスの色、どうやって作られたんだろう』
 こんな色合いが似合う人になりたい。漠然と思った当時、大人になれば無条件に綺麗になれると信じていた。今では、この色に溶けてしまいたいとさえ思う。
『この色は、誰が作ったんだろう』
 不意に湧いた疑問は、たちまちに膨張していった。
 誰が。それはメーカーだ。工場だ。機械が作ったかもしれない。ではその機械を作ったのは? 機械を制御しているのは? いや、それだけではなく、このデザインを考えたのは?
 思わずベッドから身を起こして辺りを見回す。 勉強机。エアコン。椅子。クローゼット。小さなテレビにディスクプレイヤー。本棚。並ぶ本の一冊それぞれ。制服。化粧品。ネイルアートに必要なシール。パーツ。その道具。相変わらず忙しそうなスマホ。中に入っているアプリ。その機構。
 辺りがぐにゃぐにゃと捻れ、混ざり、たったわたしだけが取り残されていく。
『なに、これ』
 錯覚だ。錯覚に決まってる! そう頭で分かっていても爆発的に広がる疑念と真実は止まなかった。
 あれも、それも、誰かが考えて、誰かが作ったものだ。誰かが発明して、操作して、制御しているものだ。全部。全部が全部、何もかも!
 それは、わたしを更に消しとばすのに充分だった。
『やだ、何これ、すごい嫌だ!』
 当たり前に転がっていたベッドのマットレスも、誰かが作った。当たり前に操作しているスマホもだ。わたしの居場所がじりじりと削られていく。わたしが居ても良い場所が、——わたしの部屋とされていたとしても——全くそこには、当然といえる要素が目減りしていった。
 身体が震える。血の気の引いた両手を合わせて握りしめる。浅い息の中でわたしは目を閉じた。
『なに、考えてるの。普通はそう。普通にそうだ。わたしだけじゃない。必需品を買い揃えてあるだけ。誰かが作ったものを使うのは、当然のこと』
 イン・アウトを小刻みに繰り返す呼吸は自分のものじゃないみたいだ。訳もなく虚しくて、涙が出て、苛んでいた淡い願望の比でないほどの、何かがのしかかる。
『わたしは、わたしだ。誰かが作ったものじゃない!』
 そう思い至ったとしても震えは止まらない。両親の顔がちらつく。何故、二人はわたしを産んで育てたのだろう。社会一般的な人間としての生活に則った極めて自然なことだ。だけど、どうしてわたしなのだろう。
『わたしは、なんなの』
 その考えに至り、辺りは弾けた。ぐにゃぐにゃに捻じ曲がった景色は日常を取り戻し、薄暗闇に洒落たランプの影が壁に映っている。静けさが耳に痛いくらいだ。
『わたしは、わたしのはず。誰かが作った物で生活するのは、普通なこと。わたしは、普通の人……』
 強く握り組んだ手の甲にネイルが刺さる。キリキリと痛みを与えなければ、わたしは何処かに置き去りにされるか、遠いどこかへ吹き飛んでしまう気がした。

 誰かが作った物の中でしか、わたしは生きていけない。

 こびりついた真実が背中にヒタリと張り付く。すっかり元どおりだ。朧げな室内。目を閉じれば真っ暗闇が、目を開ければ色ガラスの影が、わたしの目の前で佇んでいる。その景色の中で、わたしだけが明らかに異質な存在になってしまった。

 死にたい、消えたい、溶けたい。

 遠くさざなみを立てる淡い願望。その輪郭は、消えるどころか、本当の意味で生まれ落ちた。ステンドグラスのほの明かりに、祈りを捧げるようなポーズで、わたしは項垂れ、やがて眠りへ落ちた。



 悪い夢から醒めたような不快感はずっと続いている。それでも日常生活は流れていく。
 春期講習真っ只中。部活を終え、楽器屋に寄ってから塾へやって来た。講習そのものは二週間もない短い期間だけど、新学年からスタートする授業の予習がメインだった。
 彼はというと、大抵わたしの左斜め前に座っている。そこが彼の定位置らしい。どのコマも、決まって前から三番目、左端の席にいた。
 わたしもわたしで、その斜め後ろに位置する席がなんとなく落ち着くので変える気はない。授業そのものは集中できるし、むしろ良いパフォーマンスを発揮できている、と思う。彼と話をしたりしている時は、不快な波は薄らいで、忘れられた。
「お疲れ!」
「お疲れ様」
 向こうから声をかけてもらうことも増えた。わたしも見かければ挨拶するようになった。例によって彼は定位置に着き、ギターケースを置いた。きっと、彼の学校でも新歓があるのだろう。その練習をして来たに違いない。小テストに備えてパラ見していたテキストから一瞬目を離した。その弾みで、彼と目が合う。
「楽器、邪魔じゃない?」
「大丈夫。けど、先生が何か言うかも」
 確かに、と彼は呟いて教室の後ろの壁に立てかけた。制汗剤のスッとした香りが鼻をかすめる。心地の良さと舞い上がるような落ち着きのなさが同時に湧き起こった。
「あれ、それってイシハタ楽器の袋?」
 席の戻り際に、彼が話しかけて来た。わざと少し目立つ場所に置いたそれは、打算があっての事だったから、話題に触れられて心臓が跳ねる。
「うん。ここに来る前に寄って来たんだ」
 わたしは上手く話せるだろうか。数少ない共通点でかつ、それなりに好印象と思ってもらえる可能性が高いはずだ。
「その、部活が吹奏楽でさ。新歓でドラムやることになったから、スティックを新調したの」
「ドラム!」
 彼の表情がパッと明るくなる。思い通りになりそうな反応に、少し気分が良くなった。
「女子でドラムってすごいね!何やるの?」
「ディープパープルメドレーとか、色々」
 あえてロック寄りの曲を挙げた。彼の目がキラキラと輝く。その流れで、彼の好きなバンドや新歓でやる曲について話が聞けた。有名なポップロック、知らなかった歌手。彼からもらう知識に、意識せず表情が緩む。
「あのギターって、ストラト?」
「そう。よく分かるね」
「形が何となくそうかなって」
 他愛のない会話が続くことに、幸せを覚える。それと同時に、泣きたくなるくらい胸が苦しくなる。
 チャイムが鳴り、講師が紙束を持って入って来た。座り直し、チラリと彼を見ると、彼もまたわたしを見ていた。
「今日、コマってこれだけ?」
 小声で囁く彼に、キョトンとしながら軽く頷く。
「そしたらさ、一緒に帰ろ」
 ちょっといたずらっぽい表情が、可愛く見えた。肯定の意味で笑顔を返す。配られ始めたテストを何事も無かったかのように後ろへ回し、問題用紙へ向き直る。深呼吸。
『ああ、もう。かっこいい、ズルい——!』
 スラッシュビート、BPM216。早鐘がドコドコと鳴り、呻きたくなるのを堪える。開始の合図と共にシャーペンを握り込んで、前屈みで答案用紙の氏名欄へ自分の名前を殴り書いた。集中しなければ。恥ずかしさと、悶えるような、喚きたくなるような、こみ上げる気持ちは一体何と呼べばいいのだろう。
 どうしようもないエネルギーはテストを解くことへ昇華させた。髪を伸ばしていて良かった。垂らした髪で表情を隠しながらテストを終え、授業中は講師の言葉を一言一句逃さずノートへ書き留めた。



 午後十八時四十分。
 暖かで浮き足立つ春風が吹いている。彼は自転車を引いて、わたしに合わせて歩く。道中——と言っても最寄り駅までの短い間——ローカル話に花を咲かせていた。
「あと、あそこのパン屋さん、お勧め。ちっちゃいクロワッサンとメロンパンが美味しいんだ」
「焼きたてのパンって良いよね。俺もたまに駅前の所に行くよ。塾の前も後も小腹空くし」
「分かる」
 寄ってみる? と言いかけたけれど、人気店なので夕方にはSOLD OUTの看板を出していることが頻繁にあるのを思い出して、やめた。寄り道して、彼ともう少し話したいと思っても、口実が見つからない。
 喫茶店に腰を据えて話す理由も、見当たらない。ご飯に誘うほどの勇気が持てない。
「PANIってスタジオ知ってる?」
「スタジオ?」
 彼が足を止めた。暗くなりきらない夜の道に彼の横顔が浮かぶ。頭一つ高いので、わたしは必然的に見上げる形になった。
「そこでよく個人練で入ったりしててさ。アンプ通して音を出したい時、帰りに寄ったりしてる」
「そうなんだ。スタジオは行ったことないけど、どんな感じ?」
 そうだなぁ、と言いながら彼は様子を語ろうとしたが、それきり黙ってしまった。急に静かになった彼に対し、わたしは首を傾げた。
「……今から行ってみる?」
「え?」
 思ってもない提案だった。今から、と間抜けな鸚鵡返しをする。
「何か軽く食べる物、コンビニで買って、一時間くらいスタジオ入ってみたら面白いかなと思ったんだけど」
 急に言われても困るよね、と眉を下げて謝られた。
 スタジオ。二人きり。ご飯を食べながら、彼の演奏が聴ける。
 血が沸騰するかと思うくらい、身体が熱くなった。長く一緒に居られるだけじゃなくて、二人で演奏するなんて! これを逃したら二度と無いかもしれない。
「いいよ、楽しそう」
「ホント? やった」
 平静を保って、短く返事をした。彼から花が飛びそうな明るい空気が放たれる。社交辞令的なものではなく、本当に嬉しそうだ。
 幾分はしゃぐように、彼は道案内をし始めた。路地を曲がり、繁華街寄りの方面へ向かう。いかがわしくなっていく雰囲気に、わたしは少しだけ尻込みした。
「何となく、スタジオって怖いイメージあるな」
「大丈夫だよ。見た目は激しい人もいるけど」
 道すがら、コンビニへ寄った。パン屋の話をしたからか、二人ともメロンパンを買った事に気がついて、思わず笑い合った。
 小さな入り口から伸びる上下の階段。到着したスタジオは二階にあり、地下がライブハウスになっているらしい。
「こっちだよ」
 コンクリに煉瓦がところどころ埋め込まれた壁面にガラス扉が設置されていた。縁を黒く塗られ、切り取られたかのような入口。彼の手で、その先の空間が拓かれる。
「わっ……」
 市松模様の床に、赤色のカウンター。黒の革張りソファーが対面で並び、広いテーブルが設置されている。練習しに来たバンドマンがおり、思い思いに過ごして居る様子が伺えた。同い年くらいの子たちもいた。学生服の人もいる。
「この空間、気に入ってるんだ」
「わたしも。こういう雰囲気、好き」
 よかった、と笑う彼は、わたしの背中を少し押して空いている席へ誘導する。触れた背中に動揺する暇もなく、ちょっとこれ持ってて、と彼はギターを預けてきた。カウンターへ行き、部屋の予約を取り始めたようだ。
『ギ、ギターってどこ持ったらいいの……』
 慣れない楽器の扱いに慌てる。触ったらいけないところが分からない。中身には触れずソフトケースの持ち手をとり、手前に引き寄せた状態で腰掛けた。
『……は、恥ずかしい……』
 抱き込んでるような体勢と、何と言っても彼の所有物が密着している事実に赤面する。
 不意に、ケースのファスナーにキーホルダーが着けられているのが目に入った。耳がゆらゆらと揺れる、長耳うさぎのモフサム。男女問わず人気あるゆるキャラで色んなグッズが展開されているキャラクターだ。
『こういうの、好きなんだ』
 逆らうと、こうだ! という台詞と共に過激なプロレス技を繰り出すモフサムは、わたしも好きでいくつか持っている。意外な一面と共通点を知り、わたしはニヤケようとする頬に力を入れた。
「お待たせ。十五分後から入れるよ」
 彼が当たり前に隣に座る。ふわっとした匂いが漂い、そのまま留まった。楽器を返しながら、改めて彼を間近で眺める。いつもより近い距離に、つい意識し過ぎてしまう。
「メロンパン、食べちゃう?」
「食べちゃおっか」
 かっこいい空間の中、深く沈むソファーに身を任せて甘いパンにかじりつく。何ともアンバランスな組み合わせに幸福を感じた。自分の好きなものについて話すのも、彼が好きなものについて語るのを聞くのも、とても楽しいものだと知った。
 定刻になりスタジオへと足を運ぶ。重厚な二重扉を開くと、様々な機材が目に飛び込んできた。
「わ、すごい」
「個人練だから一番狭い部屋だけど、テンション上がるよね」
 鏡面張の壁一面に防音措置が取られた木の壁。部屋に鎮座するのはマーチャルのアンプとモニタースピーカー、それからドラムセット。黄色のボディが可愛らしい、ヤマダ製だった。
「可愛いし綺麗!」
「軽くセッティングしよっか」
 うきうきとドラムセットに触れる。学校の機材は古く、少々傷んでいる。シンバルはくすんでいるし、ヘッドもぼろぼろだが、音が変わるのと資金不足で買い換えることはできない。初めて触れるピカピカの機材に、子供っぽいくらいはしゃいだ。
 椅子、ハイハット、トップシンバルの高さを整えていると、聞いたこともない大音量で、空間を斬るような音が響いた。
「あっ、ごめん! うるさかった?」
「ちょっとびっくりしただけ」
 彼が発するギターの音だった。よくあるバンドのCDで聴くのとは随分違うものに感じる。音圧を全身で感じ、音色に圧倒された。
『似てる』
 初めて合奏に参加した時の、全楽器が出すB♭。ただのチューニングでも、当時中学生だったわたしにとっては衝撃的であり、一瞬で引き込まれた。今、同じように彼の音に魅了されている。
 左手と右手が複雑に動き、それに合わせて弦が震え、アンプからギターの歌声が鳴る。物理で考えたら当たり前のことだけど、何もかもが新鮮な仕組みだった。
 少しして我に返る。わたしもビシッと決めたい、と柄にもなく意気込むが、ミスをしても恥ずかしい。いつも通りフラム気味にスティックを振り、リムショットでスネアを叩く。小気味良い、抜けた打音。ドラム練習でのルーディメントを流し、タムの位置を調整しながら、徐々にブレイクを長く叩いていった。
「すごっ。てか、上手いね!」
「えっ、」
 彼が手を止めて驚きの声を上げる。瞳が輝いていて、初めてわたしは褒められたのだと理解した。
「そう、かな。吹奏楽部だったら、大体みんなこんな感じだと思うけど」
「いやいや! めっちゃ上手いよ!」
 誘って良かった! と笑顔を振りまきながら彼はくるくる周り、愛機を掻き鳴らす。無邪気な振る舞いがとても可愛い。照れ隠しに腕と肘をほぐし、だらしなくなった表情を誤魔化した。
「何か曲、やってみる?」
「うーん、普通の曲ってフルで覚えてないから……」
 舞い上がったのも束の間。彼と合わせられる曲がない。流行ってる曲は分かっても、細かく覚えている訳ではない。ジャンルが違えば尚のことだ。起こることなのに気がつけなかった。
「そしたらさ、セッションしよう」
「セッション?」
「適当にエイトビート、叩いてみて。四拍子で」
 言われるままに叩く。四小節で弱フィル、八小節でフィルを入れておよそ百三十ほどのテンポをキープした。彼がそのビートに合わせ、クリーントーンでカッティングリフを弾く。彼の音が入ってきただけで、急に華やかになった。
「いいね、そのまま」
 展開が増えて行く。十六小節目で強フィル、加えてクラッシュシンバルを鳴らせば、ノイジーなロック調のリードが走る。背中から両腕へ鳥肌が立った。
『すごい、——!』
 リズムパターンをマイナーチェンジしていき、ブレイクビートへ変化させてみる。ディレイエフェクトを咬ませたアルペジオは、ワウを含んだバッキングへ。
 かと思えば、裏拍を強めにとったリズムとメロディを彼が奏で始める。彼の目が一層輝いて、訴えかけてくる。
『二人しか居ないのに!』
 応えるためにスネアとバスドラのアクセントを後ろへと倒す。引っ掛けたビートは正確なリズムではなかったが、ギターにはピタリと合った。
 たった二人でも音楽が成立している。彼がリードし、わたしが呼応し、またわたしから問いかければ彼が返答する。ほぼ感覚だけのコミュニケーション。
 違うやり方の、違う音楽。より正確に、より深く情景やストーリーを組み立てるのが吹奏楽だとすれば、会話しながら冒険譚を綴るのがセッションだ。最小構成でこうならば、ベースやキーボード、ボーカルが入ったらどうなるのだろう。無限に広がる音の裾を想像してゾクゾクする。
 二小節かけたアレンジをきっかけに、バンドのライブでよくある間を盛り上げながら奏でる。彼の表情と素ぶりを見て、その時を待つ。
 ギターのネックが天井を向いたのが合図だった。大きく振りかぶり、シンバルへ向けてスティックを打ち付ける。よく鳴り響いたそれは、それまでのフレーズの余韻を残していった。
 波が止むまで、わたしと彼は見つめ合う。やがてお互いから笑顔が溢れた。
「やばい、楽しい」
「俺も」
 言葉を上まわる何かが充足感となって、二人きりのスタジオルームに充満する。
 汗を拭って、また見つめ合った。
「こんなに楽しいセッション、初めてだ」
 すごい楽しい、と彼は何度も繰り返す。
 強い眼差しは貪欲さを含んでいた。もっと、もっと合わせたい。
 わたし自身が求められているような気持ちにもなって、応えたくなる。わたしはまだ、もっと、一緒に。
 夢中で互いに寄り合うようなやり取りは、胸に火を付けた。



 天井の赤いランプが点滅する。終了の知らせだった。
「うわ、もう終わりか」
「あっという間だったね」
 スローテンポなブルース系、ジャズロック系、ボサノヴァ系と次々に合わせ、引き出しを褒め合った。吹奏楽、やってて良かったと心の中で呟く。
 扉を開けてスタッフが入ってきた。清掃とセッティングを直して次の人達へ明け渡すらしい。軽くシンバルを拭いて、新品だったスティックを袋へと戻す。傷やささくれ、凹みができたそれが、ものすごく愛おしいものに見える。
 熱気が散り、落ち着き始めたところで、例のさざ波が見え隠れする。急激に周囲の温度が下がったような錯覚と共に、風景が異質に浮き上がる。
 誰かが作った楽器。誰かが作った機材。誰かが手入れし、誰かが使う設備。
『ああ、また。こんな時に』
 彼がギターを片付ける様子を眺める。彼は誰かが作った愛機を丁寧にしまっていた。誰かが組み立てたエフェクター。シールド。弦。それからピック。
『……でも、この人は』
 それらを使って、メロディーを奏で、リズムを刻み、ハーモニーを響かせ、即興で弾いてみせた。彼だけの音楽を確かに生み出していた。
『……わたしだって』
 わたしもそうだ。そのはずだ。けれど彼の音楽について行っただけとも言える。わたしからリズムを仕掛けることがあっても、そのリズム単体で、果たして自分だけの音楽と言えるのだろうか。
『……考えちゃダメだ』
 せっかく彼といるのだから。ネガティブになることは止めよう。答えは出ないし、大体それが普通なのだ。
「お待たせ! 一旦ラウンジ行こう」
 晴れやかな彼の表情が、心苦しい。上手く笑えているか自信がない。
「大丈夫?」
「あ、……ちょっと喉渇いたなって思って」
「少し落ち着いてから帰ろっか」
 それでもこの人の側に居たい。
 気遣う彼の背中は頼もしく、スラリとしたスタイルにギターケースがよく映える。
『自分だけのもの、とはなんだろう』
 彼の歩調に合わせて揺れるモフサムは小躍りしているみたいだ。楽しかった。すごかった。間違いなくそうだ。

 彼とわたしの違いは、一体どこにあるのだろう。

 会計をするために財布を出したが、既に済んでいた。カラオケと同じようなシステムだと思い込んでいたが前払いだったという。
「今日は俺が誘ったし、それに個人練なら安いしさ」
 一人あたり八百円だと聞き、不意に駅前で見かけたヘアクリップを思い出す。やっぱりアレは高かったんだ。
「じゃあ、……。また一緒に、どうかな」
 しどろもどろになりながら、次の約束を持ちかける。打算なく純粋に思ったし、次はわたしが払うという意味も込めてだ。
「いいの? もちろんだよ!」
 わたしにとって、音楽とは何だろう。わたしにとって、この人は何だろう。渦巻く疑問や不安はあるけれど、無垢な楽しさの魅力から離れるのはどうしたって難しい。セッション中に見せた彼の眼差しが、身体中に焼き付いて忘れられない。もう一度見たい。もう一度、感覚だけの世界を味わいたい。

 強い輪郭を描き出した遠くの波を、強い光で散らせるならと願った。