消失願望にて #4

 新学期。新学年。桜は満開になり、新しいクラスになった。
 始業式には全学年が集まる。新一年生が真新しい制服に袖を通し、夢と期待に溢れた瞳を輝かせていた。
『やっぱり、春はいいなぁ』
 理系クラスは案の定、男子が圧倒的に多かった。女子はわたしを含めて三人。タチバナさんとオノさんだった。名前と顔は知っていても話した事はなかった。二人は何となくの友人同士らしい。開式までの時間を世間話で潰す。
「理系にしたの、何だか意外」
 オノさんは二つにくくったおさげを揺らして、丸っとした目で呟いた。わたしに向けての言葉だった。
「大学、薬学部にしたいから」
 いつぞや彼に向けて言った台詞をそのまま口にする。本当は大学なんてどこでもいいし、学部に具体的な志望があるわけではない。ただ、深く詮索されるのが面倒なだけだ。それは変わってない。
「男子だらけだと……ちょっと不安だね」
 タチバナさんはハンドクリームを塗りながら、落ち着かない様子で辺りを見回す。少しキツめのバラの匂いが立ち込めた。反射的に眉をひそめたくなるのをグッと我慢する。新品らしいそれは、もしかしたら今日の為に備えたものかもしれない。
 男子は男子で、当然ながらヒエラルキーが存在する。いわゆる陰っぽい人から派手に遊んでそうな人まで。だが、それなりに学力は均一なはずなので、文系クラスよりはマシに思えた。
「かえって気が楽、かもよ」
 曖昧に笑う。苦笑ともいう。少し離れた所で、グループの子たちの笑い声が聞こえる。何が面白いのかも分からないが、けたたましい声はいっそ動物の鳴き声にも思える。きっとあれが彼女らのシグナルなのだ。
 アプリが、ポコンと間抜けな音をさせて通知を投げてきた。いつものグループチャットだったが、一旦それを無視する。
「二人は、部活は何やってるの?」
 新しいクラスメイトのことを知っておきたくて、話題を振った。オノさんは文藝部で執筆活動をしており、タチバナさんは化学部で副部長になったという。
「執筆……すごいね、どんな話?」
 理系を選びながら、文系ど真ん中な部活をしていることに興味が湧く。とても理知的なのかも、と期待したが。
「いや、面白くないよ! 多分、分からないと思う!」
 全力で話を遮られて気持ちが濁った。分からないって、なに。一瞬過ぎったものを飲み込んだ。そっか、そのうち聞かせてねと返すのがやっとだった。
「タチバナさんも副部長なんだ。わたしも」
「吹奏楽だったよね」
「よく知ってたね」
「化学部、実は近所なの。音漏れすごいから」
 ……暗に、うるさいと言われたのだろうか。眼鏡のブリッジを上げながら、何だか素っ気なく返された。
 小さな、本当に小さな段差を感じ、妙な沈黙があった後、式は始まった。
 整列し、前を向く。
『……まだ、二人のことをよく知らないし。元々ああいう子たちなのかも』
 間違いなく投げ入れられた小石を、無視する感覚に似ている。上手くやれるのだろうかという不安を認めなかった。
 
 ◆
 
 HRが終わって、辺りを見渡す。新学年になったので普通であればクラス会を開いたり、何人かでカラオケに行くものだと思っていた。だが誰もそんな事は言い出さず、三々五々、だらだらと駄弁っているだけだった。気が付けばオノさんもタチバナさんも居ない。示し合わせたような蒸発っぷりに、避けられている事を確信してしまった。
 男子だらけの集まりに一人で行く訳にもいかず、立往生する。グループチャットを開いてみたものの、あれ程うるさかった通知は止み、嘘のような静けさだった。
 
 まるで別世界に取り残されたような。
 とある仮説がわたしの脳内にブロック塊を打ち付ける。嫌な汗がドッと噴き出た。
『……わたしを外したグループ、作った?』
 教室ひと部屋の中に、わたしが身を置けるスペースは一ミリも無いように思えた。
 荷物を担いで走る。教室を飛び出し、階段を駆け下り、ローファーを引っ掛け、立ち止まる事なくバス停へ。呼吸を整える中、タイミング良くバスがやって来た。息せき切る行動は端から見ればバスに間に合わせる為に走って来たと見えるだろう。
 しかし、もはや、そんな事はどうでもよかった。
『本当に? 確かめる? どうやって?』
 グループのトークルーム画面と睨み合う。当たり障りないスタンプを送れば済む話だ。私は見ているよ。だからあなた達も見ているよね? と。震える指でモフサムのスタンプを押そうとして、手が止まった。
『散々うざいと思ってたのに、わたし、何やってんの』
 わたしが昼休みに部室に行こうとしたのを小馬鹿にした彼女らと、今のわたしの違いは一体、何処にあるのか。
 バスは進む。いつもなら窓の外をぼんやり眺めるか、単語帳を見るかしている。だが、今日はどちらもしなかった。
 来週は新学年最初のテストだ。学年末テストでやった内容とほぼ同じ内容だから、軽く復習しなくては。頭ではそう分かっていても、身体が糸の切れた人形みたいたった。
 信号待ちの合間、自転車の集団から甲高い笑い声が聞こえたのを、幻聴だと決めて下を向き続ける。揺れ心地に身を任せ、見覚えのある泥の中へ意識を投じた。


 
 呆然とした気持ちは落ち着いて来た。
 クラスに溶け込めないなら、やる事を定めて突き進むしかない。元よりそのつもりで理系を選んだのだから問題ない。そう言い聞かせ、塾までの時間を潰す。
 駅ビルには近隣の高校生徒が集まりやすい。それでもわたしの知る人が立ち寄ることはまず無い場所はある。心を落ち着ける為にまずは本屋へ向かった。
 二年になったので参考書を買わなければと理由付け、足を向けたはずだったが背表紙の文字が頭に入ってこない。気がつけば赤本の前におり、南里大学、という文字だけがわたしの視認出来る形象になっていた。
『うわ、半分も分からない』
 まだ二年になったばかりだから数理は仕方ないにしろ、英語は専門用語が書き連なる長文だった。それなりに自信があった科目だった為に鼻っ柱を折られた心地になる。
『……本当に受けるかどうかは別にして、目標にするだけなら問題ないよね』
 何か後ろめたい気持ちになる。薬学部の偏差値はちょっと頑張れば届く。無理な目標ではない。勉強と部活に集中する他、わたしはもうやる事がないのだから。
 赤本を閉じ、参考書の棚を見て回る。幾つか良さそうな物の目処をつけて店を後にした。
 楽器屋には特に用事は無いが、好きな物が並ぶ場所は無条件に楽しい。店員もこちらを覚えているから、わたしも軽く会釈する。打楽器のフロアへ行けば、煌びやかなシンバルが迎え入れてくれる。
 ようやく、心底安心できる場所に来れた。
『マイドラムが欲しい訳じゃないけど』
 こうやって並べられると、無性に欲しくなる。奏者として仕方がないことなのかもしれない。取り出しやすいように陳列されたスティック。シェルの厚みごとに分けられたスネア。どれもがピカピカで、彼とのセッションを思い出す。
 手垢が付いていない楽器類は、あの日の情景を引き連れる。可愛らしいカラーリングのドラムセット。無意識に同じモデルを探してしまう。
『あっ……。メーカー違うけど、似たのがある』
 バスドラムとタムの色は、スタジオで見た機材と同じだった。フロアタムとスネアは黄緑色で、春らしい色合いだった。
『まぁ、これくらいの価格にはなるよね』
 フルセットで十八万円。ドラムセットとしては破格だ。それでも高校生がポンと出せる値段ではない。安いのには理由があるだろう。不良品かもしれない。そもそも、こんな大きな楽器を置けるだけの物理的なスペースがわたしの部屋には無い。
 それでも欲とは恐ろしい。値段と型番だけスマホで控える。部活の持ち物として買い替え出来ないか、ダメ元で打診してみよう。古い機材は軽音同好会にでも渡せば良い。副部長という役職を押し付けられたのだから、多少我儘に振舞わせて欲しいのが本音だ。
 スマホを開いたついでに時間を確認する。
 塾に行くにはまだ早い。ため息を吐いた。時間の潰し方が分からない。
 服屋や雑貨屋は顔見知りがいるかもしれない。カフェやジャンクフード店もだ。ゲーセンなんて一人では行かないし、漫喫へ行くには時間が足りない。もう少し店を見て回るのが無難だろう。
 近くにあったエレキドラムに何となく気が向いたので、試奏する事にした。ヘッドホンを付けてから叩くと、耳元から抜けの良い音が響いた。いつものルーディメントにより奏でられる音色。本物の楽器では到底出ない電子音は、また違った魅力に溢れている。ロール、フラム、リムショット、カップ、アクセント移動、パラリドル。打ち分けに応じるエレキドラムに対し、最近の機械って凄いなぁと些か幼稚な感想を持つ。やはり叩くのは楽しい。
 
 ふふっ。
 
 油断した微笑は誰も居ない空間に溶けるはずだった。
「やっぱりそうだ!」
 聞き覚えのある声が真後ろでした。驚きで肩が竦み、ビートが止まる。ついでに手からスティックを弾き落とした。
「えっ、嘘。なんで?」
 動揺のままに声が漏れた。満面の笑みでこちらを見下ろす男子。紛れもなく、彼であった。
 彼は楽器屋でも目立っていた。持ち前のスタイルの良さはギターケースに映え、店の雰囲気も相まってカッコよく見える。思いもよらない存在の出現に、取り繕うことも出来なかった。
「塾までヒマでさ。何となく来てたんだ」
 驚かせてごめん! と笑う彼には到底、敵わないと知る。何度も、何度でも思い知らされる。
「ホント、びっくりした」
 目撃された事と、スティックを落とした事による恥ずかしさで、わたしはヘナヘナとした声になった。体勢に気を払いつつスティックを拾う。ヘッドホンがずり落ちたが構ってられなかった。
「こっちもびっくりだよ! 聞き覚えあるルーディメントだったし」
 身体を起こした弾みで、ばちっと目が合う。恥ずかしさが倍増する中、疑問が湧いた。
「……何で分かったの?」
「リズムパターン。この前のセッションの時にやったやつと同じでしょ? ギターの所に居たけど聞こえて来たから」
 聞こえて来た? ヘッドホン出力なのに? 
 嫌な予感がして、スネアを軽く叩く。スピーカーから結構な音量が出た。つまり、ヘッドホンとスピーカー、両方からの出力になっており、わたしが好きに叩き散らかした音は……。
 顔から火が出た。他人に聞かれているとは思っていなかったし、しかも彼に覚えられているなんて! カッと熱が集まり、わたしは顔を覆って天を仰いだ。
「何それ、嘘、恥ずかしい……!」
「待って待って! 褒めてるから!」
 褒めてる? と蚊が鳴くような声で聞き返せば、彼もまた照れた様子で頬を掻いている。
「ほら、上手いとやっぱり目立つから。そのおかげですぐ分かったし。俺もそれで、さっきのパターン覚えてた訳で……」
 他の人もあの子上手いねって言ってたよ。と加えられわたしはとうとう崩れ落ちそうになる。指の間から長い溜息を漏らした。
「今、一人?」
「うん、わたしもヒマだったから……」
 軽い咳払いと共に、仕切り直してくれか彼に感謝した。俯いたままの返事になってしまったが、羞恥と歓喜が渦巻いたままでは顔を上げるのは難しい。
「俺、学校の奴と来ててさ。その子も塾が同じだから、一緒に行かない?」
 誘われた事に嬉しさを感じたのも束の間、離れたところから彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「ああ、ほら。あの子だよ」
 駆け寄ってくる女の子に見覚えがあった。彼の幼馴染で、可愛らしい華奢な子。彼と同じ高校の制服だ。プリーツスカートが膝上で踊る。
「ちょっともう、何で急にどっか行っちゃうかな!」
「ごめんて。この前話した、ドラム上手い子が居たから」
 小柄な身体を使って、彼の腕を叩く。フワリとしたボブヘアーにフープイヤリングが揺れている。彼女も楽器を担いでいた。
「あっ、噂の! 塾で何回か会ったよね?」
「う、うん。よろしく」
 底抜けに明るく、優しい笑顔が特徴的だった。色白で髪のツヤが輝いている。
「ほとんど初めましてだよね。マキっていうの!」
 きゃあきゃあと握手を求められ、されるがままになる。灯った頬の色は自然な桃色で愛らしい。どうしてわたしの周りは華奢で笑顔が可愛い子で溢れているのだろう。
 そうだ、連絡先教えてよ! と急かされるまま、チャットアプリで繋がる。ポコン、と間抜けな音と共に、可愛らしい犬のアイコンで、彼女の名前が表示された。
「ちょっと落ち着きなって。ごめんね、こいつ昔からうるさくて」
「何それ、素直だって言ってよね!」
 気心知れたやり取りに、心臓が冷えていく。わたしはぎこちなく笑った。
「全くさぁ、ちょっとはこの子を見習いなよ。楽器も上手いし、頭良いし、大学もちゃんと決めてるっていうのに……」
「どうせ私は楽器も頭もイマイチですー!」
 どうしようもなく居心地が悪い。彼は見たことも無い表情を見せるし、彼女もまた容易く彼に受け入れられている。喉の奥に、鉛のように重く氷のように冷たいものが詰め込まれる気分だ。
「ね、これからみんなでさ、軽くご飯食べて塾に行かない?」
「この辺は混んでるから、向こうの駅前でいいか。そうしよう!」
 固まっていたわたしは、とある物に釘付けになる。
 彼女の楽器——恐らくベース——のケースに、彼と同じモフサムが揺れている。色違いの、同じシリーズ。
 
 何だ、そうか。そうだったんだ。
 
「……わたし、一旦家に戻るね。忘れ物しちゃったかも」
 一人で舞い上がって馬鹿みたいだ。彼らの顔がまともに見られない。彼が呼び止めようとする声を振り切って、わたしは走り出した。
『バカだ、バカみたいだ! 恥ずかしい!』
 涙がこみ上げる。彼の素ぶりに一喜一憂して、彼にとって、知り合い以上の何かになれると期待して! 
 彼がわたしに持つ価値や存在なんて、[ドラムが上手い他校の子]程度のものだった! 
『クラスも、塾も』
 やっていける自信がない。部活だってきっと、このままじゃうまくいかない。だって、相談も無しに決められるばかりで、わたしの意思は何もない! 
『自分で選んだことなのに!』
 何かが変わると信じていた。春になれば、春になったら! 
 根拠もなく何かが変わると!

 
 自宅に戻り、制服を脱ぎ捨てた。その辺にあったワンピースを着て、タイツに履き替える。今や自室さえ居場所が無い。例のさざ波はとうとう目の前まで迫り、溺れてしまいそうだった。
 スマホを置いて、鍵とお財布、定期券だけを持って家を飛び出した。電子パスの中にチャージされた分で行けるだけの駅で降りる。誰もわたしの事を知らない所へ行きたかった。
 辺りは薄暗くなり始めている。スマホを持っていないので自分が今いる場所を調べられない。見覚えのない土地の名前と、疎らにある店。ほぼ住宅街である以外に分からなかった。
 スマホが無ければ分からない事を調べられない。手ぶらで歩くわたしは地元に住んでいる人間に見えるだろう。たまに立っている地図看板は住宅地区の番号が振られた物しかなく、わたしはあてもなく歩いた。
『恥ずかしい。消えたい。なくなっちゃいたい』
 突然逃げ出して、マキという子も彼も不自然に思ったはずだ。初めて塾をサボった。次にどんな顔をして行けばいいのか分からない。
『消えれば、みんなに会わなくて済む……?』
 風に吹かれた砂のように。水に溶ける氷のように。
 わたしを消し去ってくれる所はどこなのだろう。死ぬなら静かで、緑が多い水辺が良い。そう願ったのは遠くない過去だ。現実味を帯びなかったただの淡い願望だった。今やそれは一縷の光にさえ思える。ぐずりと鳴る鼻は、俯いた姿勢と長い髪で隠せているだろうか。
 すれ違う誰かは、誰かが作った家屋に入る。誰かが住む家は明かりを灯す。団欒を思わせる夕飯の匂いが鼻をくすぐった。
 そういえば、家族と夕飯を一緒に食べたのはいつだっただろう。誰かが作った家の中、誰かが育てた野菜や肉を、誰かが料理して、誰かが食べる。ごく普通の事だ。なのに、わたしには到底入り込めない。こんな時になって、それが非常に価値あるものに思えて仕方がない。
『消えてしまいたい』
 虚しさと悲しさが膨れ上がる。塾が始まれば先生や、もしかしたら彼が連絡を入れるかもしれない。けれどそれは電話やチャットの一報に過ぎない。わたしそのものを探し出してくれる訳ではない。そして、彼らが何度も、わたしの所在を気にしてくれるほど、きっと世の中は優しくない。
 
 そうだ、この世の中は誰かが作ったものだらけだ。
 
 道路も、街路樹も、柵も、家も、服も、鞄も、靴も、何もかも。わたしはそこに放り出されて、何かを生み出すでもなく、何かを作り直すでもなく、ただ息をしてる。生きてるなんて到底思えない。かといって何かを作り出すなんて全く興味も無い。あてもなく歩き回るだけの影みたいなものだ。
『消えたい』
 再び涙が出てきた。周りには誰もいない。それでも大声をあげて泣くほど気力もない。フラフラと彷徨う姿が道路の鏡に映る。辛気臭い若い女はまるで亡霊だ。
 お腹が減ってきたけど、コンビニも無い。第一、消えたいと願っている。それは生きていたくないと言っているのも同然だ。なのに、何か食べるなんて。
 
 消えたい。トラックでも通らないかな。
 消えたい。不慮の事故に遭わないかな。
 消えたい。このまま幽霊にならないかな。
 消えたい、消えたい、消えてしまいたい! 
 
 わたしの足は、遭難できそうな山や落ちたら浮かばなそうな水辺を探しはじめていた。
 
 ◆
 
 日は沈んで、辺りは更に暗くなっていく。
 下を向いて、ただ只管に歩いていた。だらだらと足を動かしていたのは止まる事が怖いからだ。止まったら、きっともう一歩も動けない。駅からはもう、随分離れたところにいる。
『消えちゃいたい』
 同じフレーズが思考を埋め尽くす。歩き続けて、否が応でも現実が見えてくる。消えたいけど、それは無理なのは分かっていた。誰も彼もの記憶から居なくなるのに、わたしという物体は大きすぎる。喉の渇きを感じて、手のひらに爪を立てた。
『なんで生まれちゃったんだろう』
 考えても仕方ない事は分かる。それでも苦しさを感じるから、考えざるを得ない。誰に聞いても、きっと「そんな事を考えるなんて変人だ」とか「若い頃はみんなそうなんだよ」としか答えないだろう。その苦しみをどうやって飲み込んだのかを知りたいのに。考えない事が正解だというのなら、なおの事、それを知りたいのに。
 風に乗って水と土の匂いがした。森林公園と書かれた立て札に、わたしは吸い込まれる。そこは芝生と雑木林が広がっていた。
 石で出来たステージみたいな建物に近づく。昼間なら子どもがたくさん来るのだろう。建物のそばには噴水があったが、止まっていた。
 ここなら一晩いれるかも、と覚束ない足で更に進む。
 街灯がほとんど無い公園は誰もいない。変質者やカップルがいるかもと思ったけれど、誰もいなかった。
 
 誰も。
 
『バカみたい。人が居たら嫌なのに、居なかったら寂しいなんて』
 自嘲したところでわたしを満たす波は引かない。昼間でも人が寄り付かないところを探そう。せめて、なるべく消えたように見えるように。
『息を止めても、何を考えても、消えられない』
 死体にはなりたくない。
 ここで死んだら、どんなニュースになるのだろう。自殺、事故、事件。どう判断されるのだろう。女子高生変死事件、と銘打たれて、ワイドショーを二、三日賑わすだろうか。仮に自殺と思われないなら死んでも良いかもしれない。わたしの死を、わたしのせいにされたくない。
 彼は葬儀に来るだろうか。最後に会った人として誰かに何か聞かれるかもしれない。ミキやカオリはどう思うだろう。両親は悲しむだろうか。新しいクラスメイトは哀れんでくれるだろうか。
 仮に、そうだとしても。
『忘れられるから、無意味だって分かってるのに』
 渇いた涙は頬に張り付いて気持ち悪い。自分が哀れで無価値な存在だと肯定している。悲劇は無く、誰も加害者でなく、ただわたしが一人、取り残されただけなのに。
 誰かのせいに出来ない。自分のせいだ。でも自分のせいで死にたくない。
 ぐるぐると巡る思考を遮る様に、足元に桜の花びらが舞い込んできた。
 そよ風に転がる小さな花弁。どこかの詩人が、浜辺に漂う桜貝とも表していたが、今なら少し分かる気分だった。
 ああ、もう散り始めて散るんだ。散った後も綺麗なんて、羨ましい。あてもなく転がっていても、それが許される存在で、しかもそれが美しいとまで思って貰えるなんて。
 的外れな羨ましさに、鼻の奥が突っ張る。新しい涙が出て来るのが嫌で、顔を上げた。
 
 薄桃色の幕が、そこにあった。
 
 見開いた目に飛び込んで来たのは、粗末な街灯よりも背の高い桜だ。横に広がった枝は幾重にも連なり、濃淡と明暗が複雑に絡んでいる。淡いピンクは夜の闇をかぶって、学校で咲くものとは別物に見えた。
『……きれい』
 下らない渦を描いた卑屈な単語は、さっぱり押し流された。
 桜が咲いている。満開で、ささやかに散らす花びらは淑やかだ。その姿にわたしは言葉を失くし、圧倒された。誇らしげ、と言っていいほどだ。
 誰も居ないところで、誰に見せるわけでも無い。
 誰かが作った公園に、誰かが作った街灯に照らされ、誰かが植えた桜の木が。
 
 今が最も美しいと、ただ、咲いている。
 咲く花は、静かに輝いて、ただそこにあった。
 
「きれい……」
 その桜が織りなす景色と共に、自分の心臓の音がする。ドキドキしてる。それは耳元に鳴り響き、鳴り止まない物だと知る。
 誰かが作った服を着て、誰かが作った靴を履いて、ひたすら歩き回ったわたしの身体が鼓動してる。
 誰かに聞かせるわけでもなく、誰かに言われたわけでも無い、わたしの心臓が、脈を打つ。
 
 心地よいリズムは、わたしだけの、心だ。
 
「う、あ」
 涙がとめどなく溢れる。温かい。決壊したダムみたいにぼたぼたと落ちる。鼓動は何か、ずっと鳴り続けていた祝福の鐘にも思えた。
 渇いた喉からはまともな声が出なかった。カサカサした呼吸のために開いた口に、涙が流れ込む。
「うう、う、」
 塩からい、けどこれは、わたしの涙なんだ。
 
 生きている。
 わたしの為に、わたしの身体は生きている! 
 
 桜の木にそっと抱きついて、涙を流しきった。湿った幹はデコボコして、お世辞にも抱き心地が良いわけではない。草と土の匂いがわたしの肺に充満する。
 桜はただ、黙って咲いていた。
 わたしの心臓は、誰に言われるでもなく、その鐘を鳴らす。わたしの為だけに。
 得るものを得、無くすものを無くしたとして、ただ次に続くわたしの未来へ、ひとつずつ打ち鳴らす。
 
 これから、まず確かめなければならない。
 わたしの為に動いているものと、わたしとは無関係のものを。
 わたしが好かれているかではなく、わたしが好きかどうかを。
 わたしが良いと思われているかどうかではなく、わたしがしたいと思っているかを。
『なんだ、たった、それだけの事なんだ』
 排出した涙につられて、わたしを満たしていた波は水位を下げていく。
 本来、泣く事は簡単なんだ。何でもない振りをしながら消えたいと思う事こそが、裏返しだったのだ、と。
『好きなこと、したいこと、やりたいこと』
 手のひらに一つずつ載せる。握り締める。熱と決意が形となる。
『わたしは、』
 優しく息を吹き、ひらひらと舞うのを見送る。
 
『わたしの為に』
 
 風に乗って渡る綿毛のように。
 春に溶け、川となり海へゆく雪のように。
 溶けても形を変えて、わたしは、わたしの果てを目指して。
 
 わたしの為に、生きて行く。