消失願望にて #rit.al fine

 帰宅した時には零時手前だった。それでも両親が帰宅する前だった。終電の帰宅となるのだろう。何か悟られる前に風呂に入ると決めた。
 かなり歩き回ったけれど、割と近場をぐるぐると回っていただけで遠くには行ってなかった。わたしにとっては人生の分岐点となったけれど、世の中が何か変わったわけでもなければ、世間がひっくり返るような大冒険をしたわけでも無い。
 お風呂から上がると、メルが足元にまとわりついて来た。ずっと眠っていたのだろう。欠伸混じりに甘えた声を出したので、抱き上げて自室に連れて行った。
 放り出した荷物からスマホが覗く。
 確認するのが恐かったが、逃げるのは止めると決めたのだ。
 意を決してチャットアプリを開くと、通知があった。
 彼からだった。
〈コマ始まるけど、間に合う?〉
〈欠席の理由は上手くやっといたよ!〉
〈大丈夫?〉
 申し訳なさと、気遣われた嬉しさと、自らの情けなさに頭を抱えた。
 子供っぽく……いや、正に子供そのものの思考で後先考えず立ち去って、既読すらも付けないで、彼に何をさせてしまったのだろう。
 最後の発言は夜の九時過ぎだった。多分、塾のコマが終わったあたりの時間帯だ。
 まず、謝ろう。それからお礼を言おう。そう思って文字を入力していると、新たなスタンプが届いた。
 モフサムが、ハッとした表情で振り向く物だった。
〈大丈夫!?〉
 すかさず飛んできたメッセージにあたふたとする。もしかして、既読になったことに気がついて送ってくれたのだろうか。
 メルが迷惑そうな声を上げたので、反射的に謝った。
 いや違う、謝るのはメルではなくて……。
 文字の続きを入力する。何回か見返し、意を決して送信した。
〈心配かけてごめんね。欠席の理由も、ありがとう。
 家の事でちょっとあって。でももう大丈夫! 
 本当にありがとう〉
 発言してから、あまりに素っ気なく思えて来たので、慌ててスタンプを添える。
 また嘘を吐いている事に気付いたのは、しばらくした後だった。すぐに変わることは出来ないという事実を痛感した。
〈俺でよければ話聞くよ〉
 いい人だな、と思う。わたしには勿体ない。彼女がお似合いだと、心底感じる。
〈ありがとう。でも本当に大丈夫だから! 
 また明日、塾でね〉
 モフサムが三日月にぶら下がるスタンプは、わたしの無愛想さを和らげてくれる。おやすみ! とポップに跳ねる文字に助けられている。
 それだけ送って、濡れた髪もそのままにベッドに転がった。メルがお腹の横辺りに寝そべって、喉を鳴らす。
『これで良い』
 彼が好き。優しく接してもらえて嬉しい。それだけで良い。
 それから、グループチャットからは、間違いなく外されてる。学校が終わってから今まで一つも通知が来ないなんて、いつもの稼働状況からしたらあり得ない。
 でも、これで良い。
 わたしにとって、これで良い。
 メルが温かい。何となく慰められている気持ちになったが、階下で玄関が開く音でメルはさっさと立ち去っていった。お父さんかお母さんのどちらかが帰って来たのだろう。
 ハクジョーモノめ。
 少し笑って、わたしは微睡みに溶けていった。
 
 ◆
 
 翌朝、わたしはほんの少しアイメイクを薄くして登校した。ついでに伊達メガネも。黒と青のマーブル模様な縁が気に入っている。髪の毛も、緩く三つ編みにして、小ぶりなレースバレッタを軽く留めた。
 好きな物を身に付けて気分を上げれば、想像以上に身軽になれた。
 悪目立ちしない程度の格好で、と思うから退屈に拍車をかけるんだ。いちいち、グループのみんなが行う[可愛い品評会]に掛けられるのが面倒で小物を着けるのは避けていたけれど、もう何だって良い! 
 オノさん達と無理に打ち解ける必要も無い。そもそも人と仲良くなれるのは、ラッキーな事なんだと思う事にした。
 今日は新学年テストしかない。それが終われば部活。新歓向けの、派手なパフォーマンスができる数少ない曲が練習できる。カオリがやりたいと言っていたセプテンバーと、イン・ザ・ムードをやる事になった。ドラムソロがあるアレンジになったので、ビシッと決めてやると心に決めた。
 帰りはカオリに色々話そう。ファミレスに行って、たまには駄弁るのに付き合ってもらおう。
 それが終わったら……また塾だ。本格的に薬学部を目指そう。彼と同じ大学でなくとも、自分が納得できる未来のために、勉強しよう。
 わたしの為に生きると決めてから、急に道が拓けた気分だった。今までとやる事やする事は変わっていない。周りも何一つ変わっていない。
 たった一つ、わたしの気持ちの向きだけが、変わったのだ。
 
 ◆
 
「それで、今日そんなカッコなんだ」
「変かな」
「いーんじゃない? メガネ、意外と似合うじゃん」
 カオリに半分からかわれて、わたしは笑う。昨日起きた事を、何もかも話した。流石に、桜の木に抱きついたのは話さなかったけれど、吹っ切れて前向きになれた事実だけは伝えたかったのだ。
「好きなままでいられたら十分、ねぇ」
「変に伝えて、一緒にスタジオ入れない方が、わたしは寂しい」
 音楽好きだね、とニヤリとされる。安っぽいファミレスはとにかく居心地が良い。まぁね、とわたしも少し笑って、ドリンクバーのメロンソーダを啜った。
「そもそも、早とちりってことは?」
 早とちり。わたしは鸚鵡返しして、瞬きする。
「同じシリーズのモフサム、付けてただけでしょ。バンドメンバー同士のお揃いってこともあるんじゃない?」
 あ、とわたしは声を漏らした。
 十分にあり得る。部活でも同じ物を揃える機会があるくらいだ。寧ろ何故、真っ先にそれが浮かばなかったのか。
 かといって、それをわざわざ確認する術がない。
「そんなの、何となしに聞けば? それ可愛いね、とか言ってさ」
「タイミングが合えば……」
 もし、カオリの言う通り早とちりだとしたら、わたしは再び恥ずか死ぬ事になる。
 不意に、ポコンと間抜けな音がスマホから聞こえた。チャットアプリが何かを通知している。
 マキちゃんからだった。
「え……、何だろう……」
 二人してトークを覗き込む。
〈おつかれさまっ! 昨日は大丈夫だった?〉
 なんて事ない内容だった。文字を入力して返事をしようとしている間に、もう一通届いた。
〈ところで、モフサム好きだったりしない?〉
 大量の、モフサムのキーホルダーやぬいぐるみの写真が送られてきた。
「…………」
「…………」
 カオリと顔を見合わせて、無言になる。
 まだだ。まだ確定してない。
 もしかしたら、ものすごく間抜けな未来の可能性が高まっていたとしても! 
 しかし、気の抜けた通知音が、決定打となった。
〈クレーンゲームで取りすぎちゃって、モフサム好きな人に配ってるんだ! 
 もし好きだったらもらってくれない?〉
 泣き笑いしているスタンプに、わたし達はとうとう噴き出した。
「ほらー! 早とちりだったじゃん!」
「いやー! もう、いやー!」
 お腹の底から笑ったのなんて、いつぶりだろう。机をバシバシ叩いて、極めてジョシコーセーらしい事をしている。その事そのものにも、笑いが込み上げた。
「昨日に帰りたい!」
「いいじゃん、吹っ切れたんだから感謝しなよ!」
 きっかけなんて些細な物だと良く言われる。陳腐なポップスが恋愛の次に歌ってる位に。
 きっとそれには、勘違いも含まれるんだと思う。
 
 もちろん、モフサムは譲ってもらう事にした。
 
 ◆
 
 塾のラウンジに行って、真っ先に彼に声を掛けた。昨日の事について謝ると、優しく受け止めてくれた。
「何も無くて、本当に良かった」
 ものすごく照れ臭くなって、お礼の言葉は小声になってしまった。赤面している気がして、顔を合わせることができず、俯いてしまう。
「あのさ、変な事、聞くけど……」
 彼は幾分、かしこまった声音で声を潜めた。辺りは生徒の声で少し騒ついているので、聞き逃さないように少し近寄った。
「彼氏、居る?」
「えっ」
 ものすごく真面目な顔をして、そう尋ねるから、わたしは何も考えられなくなる。
 思考が麻痺したせいで余計な言葉が口から滑って行った。
「マキちゃんと付き合ってるんじゃ……?」
 我に返った頃には遅かった。慌てて口を両手で抑えたが、覆水盆に返らず。余計な事を言うなんて、わたしらしくない。
「ないない! ないよ!」
 オーバーな位に否定される。慌てる仕草は、彼のクールっぽい見た目に反していて、わたしは呆気にとられた。
「いっつも勘違いされるけど、本当に違うから!」
「そ、そうなんだ」
 勘違いされるくらい、仲が良いのも事実だ。いつも、と言うことは学校でもそう見られるのだろう。
 彼はそう思ってなくても、マキちゃんが彼のことを好きな可能性だってある。
「あっ、いたいた!」
 明るく弾ける声が聞こえた。小走りで駆け寄るマキちゃんだった。簡単な挨拶もそこそこに、カバンから何かを取り出して、わたしの前に掲げた。
「はいっ! これ、さっき送ったやつ!」
 ボールチェーンにぶら下がるモフサムは水色の星に跨っていた。多分、二人が付けていたキーホルダーと同じシリーズ。
「あ、ありがと……」
 勢いに押されて為すがままに受け取る。ゆらゆら揺れる長耳が可愛い。小ぶりなので、何にでも付けられそうだった。
「また配ってるの?」
「うん。モフサム好きって聞いたから!」
「とうとう俺たちだけじゃなく、他校にまで……」
 彼はげんなりしたように肩を落とした。座ろっか、と脱力して言うので、空いていた四人がけの席に着く。
「あのさぁ、バンドメンバーから断られたからって、迷惑だと思わないの」
「しょうがないじゃん! あったら欲しくなるし、彼氏も取ってくれるし」
「彼氏もお前も自重しなよ……」
 彼氏、いるんだ。じゃあ、本当に二人はただの幼馴染なんだ。
 そう確信が持てると、昨日の行いを思い返して死にたくなった。
「あの……。昨日は、急に居なくなってごめんね」
「ううん、気にしないで! 何かあったの?」
 家の事で、と小声で付け足して、心の中で頭を抱える。マキちゃんもマキちゃんで、何か相談に乗れることがあったら聞いてね! と言ってくれた。
 揃いも揃って優しい人たちだと思い知る。自分が恥ずかしくて、ちっぽけな存在に思えてしまう。
 だからこそ、これからはきちんとした人にならなければ。
 それからは、バンドの話や新歓の話、今日の課題について会話の花を咲かせた。
 自分の中で解決してしまえば、なんて事ないんだ。わたしは、二人に対して間違いなく壁を取り払えていける。
 優しい人と仲良くなれることは、素敵な事だ。
 
 ◆
 
 誰かが作った建物の中で、誰かが作った制服を着て、誰かが作った机で授業を受けて、誰かが作った電車に乗って、誰かが作った駅に降りて、誰かが作った道路を歩く。
 誰かが作ったモフサムは、誰かが作ったスマホケースに付けた。
 誰かが作った歌を歌って、誰かが作った街路樹を眺める。
 
 帰路に着くまでの道程で、一つずつわたしは辺りを眺めた。
 作られたものと、そうでないものを見分けていく。
 誰かが作った並木道に、誰かが植えた桜の木が咲いている。足を止めて見上げれば、花びらがひらひらと落ちていく。
 桜越しに、春の月が見えた。
『咲いてる。浮かんでる。どっちも、光っている』
 自然は、作られたものじゃない。生まれたものは作られたものじゃない。
『わたしは……』
 わたしの為に生きて、わたしの為に何かを生み出そう。
 それが何か、今は何も決まって無いけれど。
 チャットアプリを起動して、彼へ宛てたメッセージを書く。
 誰かが作ったアプリで、わたしは言葉を綴っていく。
〈土曜日、良かったら楽器屋に行かない?〉
 そう送ろうとして、手を止めた。どうせなら。言葉にするなら……。

 思い切って通話ボタンを押す。出るまでの間が途轍もなく長く感じる。
 もしかしたら出ないかもしれない。今なら切っても誤爆だと思ってくれるかも。目まぐるしく襲う言い訳を隅に追いやっていく。
 数コールあって、彼が電話を取る。桜と月の下で、息を整えた。
 
「あの、……あのね、」
 
 誰にも作られない気持ちと言葉が、例え良くある物だとしても。
 わたしの気持ちと、わたしの言葉は、きっとわたしだけのリズムとなって駆けてゆく。


消失願望にて 了