M先輩の飯を食い、小舟を置いている停泊地へと向かう事にした。日は沈んでいるが、ただ自宅の階段を下れば良いだけだ。寝間着にツッカケを履いただけの出で立ちで、手摺りを頼りに歩みを進める。虚脱や脱力はあまりなく、人魚病に罹患してから最も体調が良く感じた。
乗降場の木の板を踏むと、波がぶつかる度に噴き出ていた海水が、アテもなく表面を滑っていく。海風は潮の香りを含んで、俺の身体を撫ぜた。不快に感じる暑さを随分と和らげる。
人魚の為に置いていた棚や簡素な木の椅子が、寂寞の彼方に取り残された儘である。椅子を乗降場の中心に引き寄せて、そこに座れば、夜の帳と夕焼けの色彩が目一杯に楽しむことができた。
黄昏時とも、逢魔時とも言える頃合いであるならば、またあの人魚が顔を出してもおかしくはない。本来ならば、幻想の生き物なのだ。決して、人間と交わるはずのない、生物なのだ。
ロケットペンダントを開ければ、空想上の存在と瓜二つな恋人が明るく笑っている。人魚と同じ美貌を持つなど、俺のSは此の世で最も美しいのだと誇らしささえ湧いてくる。
不意に自らの手首にある鱗が気になり、思い立つより早く引き抜いた。最早手癖になりつつある。鱗がなくなり、肌が見えると幾分安心感を覚えた。
大きな鱗は剥がせなかったが、まだ育ちきって居ない物は、比較的容易に取り除くことが出来る。ただ、処分には気を払っていた。塵を暴く者は居ないだろうが、用心するに越したことはない。海に捨てたら、漁師の網に掛かかるとも限らぬ。引き抜いた物は全て白衣のポケットにしまっていった。
あの人魚の鱗は、自分のものよりも厚みがあり、色合いもまた美しい。鱗の差異と生えてくる物の状態から、まだ手立てはあると思える。
何しろ、両脚が問題なく動くのだ。故に俺は、人間であると言える。
「人間、か。」
そうとも。如何にSが、《翡翠の天使》と言われようが、人魚とそっくりであろうが、Sは人間だ。俺と共に育ち、共に生きた人間である。榛色の瞳に恋い焦がれ、あの素肌に惹きつけられたのだ。其れに負けず嫌いで、努力を惜しまない所。何かにつけて勝負をした事。僅差で俺に勝って、その度に犬が転がり回る様に喜ぶ性格。取っ組み合いだってしたし、温泉で湯を掛け合う合戦をした事だってある。
彼奴はただ、美しいだけの人間ではなかった。誰の話でも耳を傾け、微笑み、目を合わせて話ができる奴だった。同様の事を同等にやれる、好敵手だった。
だから俺は、Sに強く惹かれていたのだ。愛していたのだ。其れは今でも続いている。
愛は永遠であると、戯曲や演劇が語り継ごうとするのは、其れだけ人間が忘れっぽいからなのだろう。
緩やかに死ぬ者は緩やかに忘却し、終末に走馬燈として思い出す。そうして後悔する。
では俺に、何か後悔はあるだろうか。
もっとこうすれば良かったと思うことがあるとするならば。其れは結論を知った今だからこそ浮かぶ物ばかりだ。
広大な海の果てに夢を見た。留学した先では刺激的な日々を送れた。俺の隣にSが居て、共に語り合えたらと思った事はあるが、後悔とは違う物だ。遺灰の指輪とピアスは常に肌身離さず持ち歩いた。語り合えずとも、共に歩き回った。俺は其れで満たされていた。
目が覚めた様に、ふっと改めて海を見渡した。
日はとっくに沈んでおり、青かった海原は濃紺となって蜿っていた。眠たげな穏やかさが空と海の果てにまで広がっている。仄かに明るいのは星明かりのお陰だろう。昼間に見た、絶望に染まった色ではない。
人魚に贈ったあのチョーカーは、失くさずに持ったいるだろうか。独特の光を載せた硝子の輝きへ、星空を通して思いを馳せる。人魚も人魚で、結局俺をどうしたかったのか、真意は分からぬ儘だ。俺に仲間になれと言ったのは覚えている。そそのかして人間を食うのかもしれぬ。惑わせて仲間を増やすのが目的で、其処に恋慕があったと断言できぬのだ。
結局俺は、人魚に対して恋慕を抱いたのではなく、Sとの日々を想起させる存在として執着したに過ぎないのかもしれぬ。弥次郎兵衛の如き気持ちを表すかの様に、木床が海に押し上げられて揺れている。
身体をこれ以上冷やしても良い事は無い。椅子から立ち上がろうとした所で、水面が波以外のものによって揺れていることに気が付いた。座ったまま、目を凝らす。底から大小の光が湧き上がったかと思えば、人魚が姿を現した。
人魚の事ばかり考えた所為で、幻でも見ているのかと思った。人間と人魚の境界を彷徨い、披露と虚脱の合間に見た、
濡れた髪を掻き上げ、俺を目を合わせる。海の中を泳ぎ続けているとは思えぬほど、赤々とした唇は弧を描き、目許は弓の様に
「やあ、僕のK。」
気安い挨拶をされ、呆気にとられる。声が出せず口をパクパクとさせるだけになってしまった。弱った魚と見分けが付かぬほど間抜けな貌だったことだろう。
強い光源が無くとも光り輝いている存在は、改めて見ると奇妙であり、同時に幻想的であった。
「声、失くしちゃった?」
何も言えなくなった俺に対し、柔らかに優しく接してきた。春の鳥が歌うような、まろみがある声音だ。水面から木床に身を乗り出して頬杖をつく姿は、林檎を剥いてやった時と同じ体勢だ。
「そろそろ良い頃合いかと思ってたのだけど、時間が掛かっているね。」
何の話をしているかは、分かる。俺の人魚病の進行度合いについてだろう。人魚の口ぶりからして、瀉血の効果があったと見える。
無邪気な仕草で俺を見上げる姿勢は、ベッドの海で昼寝をした時に見せた物と同じだった。互いにじゃれて、学校指定の洋シャツを乱した、夏になる前の思い出が彩りを復元していく。
──此の記憶にある情景の、愛しい相手はSであって、此の人魚では無い。
「……矢張り、お前の血が、身体を作り変えているのだな。」
絞り出した声は、酷く掠れていた。俺が淡く発声した事に意外そうな表情を見せたが、直ぐに元の笑みに戻った。榛色の瞳に熱が込められる。
「そうとも。僕のエトワル。」
エトワル。仏蘭西語で星を意味する言葉だ。その呼び名に、特別な親愛が込められていることは直ぐに分かった。胸の中に何かが点火した様な、仄かな温かみを感じた。
俺を其の様に呼ぶのは、Sが俺を珪石に例えていたのを思い起こさせる。俺の名前を
話が飲み込めぬ様子を察知したのか、人魚は何か合点がいったといった貌をした。
「僕にとって、君は遠い星と同じさ。僕は海の深い所で暮らしていて、星はずっと高い所にある。星も無数にあるけれど、こうして出会うことができた。」
人魚が俺に特別な想いを寄せている事に対する打ち震えるほどの歓喜と、そんな事はあってはならぬという禁則に触れた畏怖とも恐怖とも付かぬ物だ。
「僕等は気に入った人間を仲間に出来るんだ。体液の交換は仲間意識の表れと、意思表示。君から接触してくれたから、とても嬉しかったんだ。」
白魚の指先で濡れた髪を巻きつけ、上機嫌な様子でそう言った。
酷い目眩に頭を抱えた。あの時だ。人魚の怪我が治り、海に帰れと言った時だ。別れに対して半ば錯乱し、人魚の唇を奪ったのが切掛ならば、俺が原因である。
「では、お前も元は人間だったと?」
「いいや、それは違う。」
勢いを付け、人魚は陸に上がった。海に向かって腰掛ける体勢になり、尾鰭を水面に付ける。波にぶつかったところから、水玉が弾けた。
「人魚という存在は、人間が早死にすると発生する事があるんだ。誰かの外貌を得て、母なる海原に抱かれる。僕は、そういうものなんだ。人間だった頃は無い。」
人魚の口からはっきりと、Sでは無いと告げられる。然し、外貌はSそのものである。つまり……
「君のSは、早死にしたんだろう? 僕にそっくりだもの。」
いや、逆かな? と照れ臭そうにする。恥じらいにも見える姿はまるで乙女である。
「君の血や唾から、君のSの振舞いや声、喋り方を知った。一度知ってしまえば、声の出し方なんて簡単だった。」
何なら歌えもするさ、と両腕を広げて喜びを表した。元々人懐っこい性格だったのが、より一層磨きかかっている。
「僕は、君のこと好きだよ。とても優しいし、賢いし、面白い。」
真っ直ぐに見つめる人魚からは好意しかない。期待と希望で満ち溢れ返っている。だからこそ、心苦しさで胸が支えた。
溜め息混じりに椅子から立ち、人魚の側へ跪いた。寝間着が濡れるのも構わない。冷たい海水が、いくらか冷静さを生み出してくれた。
「口付けが、お前と同じ人魚になりたいという意思表示であるとは知らなかった。俺にそのつもりはない。」
人魚は先程の、花が咲きそうなほど緩んでいた空気が嘘の様に、凍りついてしまった。人魚からの告白は甘美な誘いには違いないが、話に乗る事は出来ない。
人魚の面影に感極まってしまったが故の行為など、人魚にとって迷惑な話だ。
「俺がお前に近づいたのも、初めはSが人魚となって会いに来てくれたかもしれないと、舞い上がっていた所為なのだ。」
今でも、間違いなく心の何処かで、渇望している自らが居る。此の人魚がS本人であったのならば、俺は両手を上げて海に飛び込むことだろう。
世界がひっくり返ってしまった錯覚から覚めようとするか、悪い夢を見ているのを抜け出そうとするかの様に、人魚は両頬を抓ったり軽く叩いたりした。唇はこわばって震えている。
俺は髪を梳かしながら、何度も詫びた。人魚病での変化は経験したこともない程の肉体的な痛苦を伴うものだが、人魚が今受けている辛苦の足元にも及ばぬだろう。
謝り続ける以外に手段がなく、髪以外に肩や背中を擦りながら、何度も謝罪の言葉を口にした。
「今でもSが好きなら、僕でいいじゃない。」
やっとの事で言葉を発した人魚は、苛立ちを強く表に出していた。むくれる表情は、子供の様でもあり、年頃の娘がする様でもあった。
良く話し、良く見れば、Sとは瓜二つであり、全く違うものであると実感する。
「俺は、Sと共にあると決めた。……だから、奴を置き去りにして、お前に連れ回される訳にはいかない。」
其の台詞が、人魚の癇に障ったらしかった。鋭い目つきで俺を睨みつけ、眼底に炎を燻らせる。麗人が怒るのは迫力があるものである。
「だから、僕がSなんだ! 世界中探したって、Sと同じ物は僕以外に居ないんだったら!」
「Sが死んだ時点で、Sは此の世に居ない。」
分かっていた様で、分かっていなかった事かもしれぬ。俺はSの総てを手に入れた。ずっと手元に居た。だが熱があり、息を弾ませ、愛を囁くSは居ないのだ。
「お前はSではない。」
人魚を傷つけたい訳ではない。だが、此ればかりは言っておかねばならぬ事だった。人魚は体の一部をもぎ取られた様な痛みに耐えている。
「お前は、お前自身だ。……分かってくれ、俺のメーア。」
俺が人魚にとって星ならば、人魚は俺にとっての海だ。海を意味する独逸語であるが、人魚には通じた様だった。静かに鼻を鳴らし、瞳から小さな光の粒を一つ二つと落としていく。
「そんなこと言っても、君の身体は作り変えられていくよ。」
「俺が蒔いた種なら仕方ない。これでも医者だからな。何としても治すさ。」
暫く、お互いに黙った。波の音だけが二人の間に響く。奥行きばかりがあり、厚い壁に化けた様だ。手に触れる事が出来そうな沈黙は、此の洞窟が丸ごと閉じた貝であると思えそうな程であった。
人魚は込めた思いを眉に集め、きつく息を吸った。見開いた眼に、俺の情け無い貌が映っていた。
「確かに僕は君のSではないけれど、凄い確率なんだよ? 海に面している陸に、僕の外貌を知る人に会えるなんて……。しかもそれが、恋人なんて!」
頬が上気し、薄っすら紅に染まる。癇癪手間の熱烈な告白であった。
──白状すれば、俺も此の人魚に心奪われている。Sとは違えど、血肉と熱のある愛しい存在だ。如何して無碍に出来ようか。
だが此の先、人魚と共に居ようとするならば、人魚化は避けられぬ。俺は人間の儘でなければ、Sと共にある事は出来ない。俺は黙った儘、ゆっくりと首を左右に振った。
「止められないんだよ、それは。」
頑として態度を変えぬ俺に対し、胸が張り裂けそうだと言う程、人魚は声を詰まらせた。
泣き濡れていく肌が、更に光を含んでいく。
「人魚の血は薄まらない。手立てがあるとすれば、君の一部を取り除いて、そこに異物を埋めるしかない。」
腰に現れた薔薇のような傷は、体内にある俺の部分を隅々まで届き、変化させていくのだという。俺の一部を切除し、そこに俺ではない物を埋めれば、傷から内部を探る働きが止まり、結果的に変化も止まるという理屈だった。
「君の眼が良い。」
しなやかな腕が俺の貌に伸び、しっとりとした手が頬を包んだ。俺の瞳を見つめるその双眸は、涙で洗われて底光りしている。
「それでもやるかい?」
強い決意を確認するものだった。激しい感情を押し込んで、唇を引き結んでいる。
嗚呼、と半ば吐息にも聞こえる声で頷いた。後戻りが出来ぬのは今更なのだ。人魚とならずに済む手立てがあるだけ、良い結果に向かえる。
それに、《異物》と聞いて頭に浮かんで離れない物がある。
「古い、他人の目玉がある。其れを俺の中に入れても、変化は止まるか?」
急く声となったかもしれぬ。異物というのは、《俺のものではない何か》である。義眼ならば硝子製でも良いかもしれぬが、俺は一も二もなく、Sの目玉を選んだ。
「Sのだね。」
全く妬けるな、と苦笑いされた。他人のと言ったものの、人魚には筒抜けであった。俺の記憶を読み取っているのだから当然である。
「なら、こうしよう。Sの片眼を君に。君の片眼を僕に。僕のは……余ってしまうな。」
「俺が預かる。」
人魚の提案は願っても無いものであった。即答した俺に、人魚はパチパチと音が鳴りそうな瞬きをした。
「俺が、お前の眼を、生涯大切にする。」
俺は人魚にも心を奪われているのだ。Sを体内に、そして人魚を手元に置けるなど、此れ以上にない僥倖だ。……Sには、浮気者と叱られるかもしれぬが。
「僕も、君の真っ黒なその眼が手に入るなら、素敵な事だ。」
互いに見つめ合い、手を取る。人魚が大きく頷いたのを合図として、俺は立ち上がった。Sの部屋から保存していた瓶を取りに戻る為である。
階段を登り、廊下を渡り、今度は降る。Sの部屋までが遠く感じる。急いで施錠を解き、開け放てば、何処からか風が吹いていると思えた。
Sの目玉は片方ずつ保管している。どちらの眼もホルマリンによって収縮し、黄色かかっているが、美しい。此れが俺の片目になると思うと焼け焦がれそうな心地がする。眼は移植することは出来ぬ。視神経が離れてしまった段階で再起不能となるのだ。
慎重に運び出している最中、人魚は此の状態の眼を腐らぬ様にする事が出来るのだろうかという疑問が頭を擡げる。停泊地に到着し、早速人魚にそ見せると、眉を顰めてしまった。
「随分古そうだね。」
液体を乱雑に捨て、目玉を手のひらに載せる。非常に近しいが、ある意味恋敵の様に感ずるのだろう。渋々といった気配は何となく滲み出ていたが、次の光景に釘付けとなる。
両手でそれらを包むと、強い光が放たれたのだ。指の間から漏れる光から見ても、蛍を何匹も捉えて初めて得られる様な光量だ。
直ぐに光が減衰し、そっと開かれた両手の中には、丸で取り出した直後の様な、新鮮な目玉があった。白目は青白く見えるくらいだ。そして俺を捉えて離さぬ榛色の虹彩は、瑞々しく潤っている。
医学的にあり得ない事ばかりだ。眼を白黒させている俺が面白かったのか、人魚は自慢気に踏ん反り返った。
幼い子供の様な振る舞いは、強張った胸の内を解してくれる。緊張感の無い様に見えて、態と明るくしているのかもしれぬ。
此れから執り行われる儀式は血腥いだろうか。
「取り替えるのは、矢張り痛いのか。」
「なるべく優しくするよ。」
医者なのに痛いのは嫌かい? と揶揄う姿が、Sと重なる。そんな姿に、堪らなく胸を締め付けられる。
「いいや、お前も痛いのか。」
人魚は再び、睫毛を
「どうとでもなるさ。僕は、人間ではないから。」
どう言葉を掛けたら良いか分からなくなる。眉をハの字にして寂しく笑う人魚を、そっと抱き締めた。贈ったチョーカーが至近距離で輝いているのが見え、控えめに口付けを落とす。人魚は俺の髪を撫で付け、丸い鱗がついた指先で溢れた涙を掬った。
「寝転んで、目を閉じて。」
言われた通り、木床の上に仰向けになる。背中を伝う海水が心地よい。瞼を閉じると、冷たい唇の感触がした。
左瞼の裏が溶け出すかと思う位に熱い。熱された棘が次々に刺さっていく様な感覚がする。神経の奥が焼き切られ、熱い飴が眼窩に溜まっていく様にも感じられた。
息を詰まらせながら、漏れる声を押し殺す。太陽と水平線の境目にあった飴色が、目の裏で弾けていった。
身体が強張る其の度に、慈愛に満ちた口付けが、額や頬に降り注いでいく。激しく爆ぜた音が頭内に響き、衝撃とともに口から意識が抜けていった。
◆ ◆ ◆
「僕は僕として、君が好きだよ。僕のエトワル。」
◆ ◆ ◆
酷暑が続き、毎日の様に暑気あたりで患者が担ぎ込まれる。往診先でもほとんどが夏の病ばかりだ。
危ないと思ったら水風呂に浸かる事、打ち水をして涼む事、日が高い時こそ休む事……。同じ事を言って回るのも非効率である。ビラでも作って配ろうか。町長にでも言って呼びかけして貰うのも良いかもしれぬ。
そんな事を考えながら扇子で仰いで町を歩く。今朝降った雨はとっくに乾いており、蒸し暑さを覚える。此のままでは俺も倒れてしまう。一息つける所を探していると、大きな声で俺を呼ぶのが聞こえた。
「K、仕事中か!」
三軒先の食堂辺りで、M先輩や屈強な男達が手を振っているのが見える。どうやら休憩の様だ。
「これから、休む所です!」
「ならオレ達と一緒にどうだ!」
普段あまり出さぬ大声に更に体力が削れてしまうが、一団に混ぜてもらう事にした。
今日の定食、と皆が注文する中、俺はざる蕎麦を頼んだ。そんな物では腹の足しにならんだの、医者こそもっと食えだのと言われながら、冷茶を啜る。
「いつだったか、K先生、酷い風邪を引いたらしいじゃないですか。」
「そうそう。Mさんたら通い妻よろしく面倒みたって聞きましたよ。」
M先輩は、歳下の若い衆にも慕われているらしかった。まだ嫁を貰っていない先輩は、余計なお世話だと言い肩を叩く。
「嗚呼、此の目の時か。」
左だけ伸ばした髪を退け、左目を見せると皆が驚愕に包まれた。左右で違う目など、日本人であればまず間違いなく見ることはない。
「医者の不養生だと反省しているが、こればっかりはな。」
「それ、見えてるんですか。」
「視力はある。生活に問題はない。」
不思議な事もあるものさ、と付け加えれば、皆まじまじと俺の貌を見た。後天的な虹彩異色など世界に数える程度しか例を見ぬだろう。俺と同じ事例は皆無かもしれぬ。
M先輩は何とも言えぬ様な表情だ。無茶な事はやめておけ、と言うに留め、茶のお代わりを食堂の女給に求めた。
「綺麗なモンですね。」
「お前、病で出来たモンなのに失礼だぞ!」
「構わんさ。俺も気に入ったからな。」
Sの瞳は、S足らしめていた最も重要な部分だ。其れが俺の黒い眼と同じ位置に並ぶ様子は、丸で俺とSが何処へ行くにも肩を並べていた頃の様だ。
「K先生、もっと笑ったらイイのに。」
「本当になぁ、色男が勿体ない!」
どうやら、知らず知らずの内に頬が緩んでいたらしい。
「莫迦を言え。俺の様な凡百、愛想よくした所でたかが知れている。」
そういえば、Sとも此の様なやり取りをしょっちゅうしていた。その都度「僕のKが鈍くてなによりだ」と、肩を竦められたものだ。
「ねぇMさん、Kセンセって昔からこうなんですか。」
「昔っからこうだ。自覚無い奴の面倒は本当に大変だったんだワ。聞いてくれるか!」
俺とM先輩との昔話に花が咲く。入学した時から花道が出来ていた、信奉者が集まっていた、柔道部の部長と揉めた、等々。どれもこれも懐かしく、そしてSと共に過ごした日々の物だ。
其の頃の話が出来る事は、幸福な事だ。幸福の中心は今でも変わらずSである。俺の眼窩に嵌って、世界を共に見られる今でさえ、否、今が最も幸福である。
なお、運ばれて来たざる蕎麦は山盛りであった。
◆ ◆ ◆
日差しが強い、と呟けば、M先輩は「夏真っ盛りというやつだナ」と言って笑う。その姿は、知り合った当時から変わらない。俺の身体が人間離れしてしまった今も、気にする事無く接してくれる。
海に面した此の町は、天気が変わりやすい。だが穏やかに、そして活発に時を刻むのは此の先も続いていくのだろう。俺は此の町の、そういう所が好きで身を置いて居るのだ。
「俺が此の地を離れて、海外で医者を続けると言ったらどうしますか。」
M先輩は俺に倣ったのか、夏空を見上げて眩しそうに目を細めた。そうだなぁ、と呟いた声は、波が引くように宙に溶けた。
「そういえば、海外の拠点づくりもやらねばならん事の一つだったワ。」
ぱっと音を立てて咲く向日葵の様な笑顔で、俺を見下ろす。眩しさを感じるのは、夏の日光だけでは無いのは明らかだ。つくづく此の人には敵わないと、釣られて笑った。
造船所は完成に向かって突き進む。完成は来年に差し掛かると言っていたが、その後も俺が此処に住み続ければ、M先輩は何かと理由を付けて居座る事だろう。
「俺なんぞに構わず、嫁を貰ったら良いでしょうに。」
「莫迦言え。お前の様な、危なっかしい弟を他所に一人で放っておけるか。」
弟。以前にも、俺を《他所の家の弟》と称した事があった。然し今の言い回しでは、丸で……
「人生の半分近く、お前と付き合いを続けているンだ。家族みたいなモンさ。」
烈々とした空の下、蝉の声が降り注ぐ中でも聞き逃す事はなかった。兄がいた事は当然無いが、照れ隠しに額を指で突いてきたのを含め、確かにM先輩は兄らしい。
一団と別れる頃には、雲が日差しを遮り始めていた。湿気る匂いが鼻を掠めたので、夕立が来るかもしれない。町全体が此の町特有の昼時の静けさを持ち始め、俺は道中、先輩の言葉を反芻した。
M先輩と人生半分の付き合いがあるというのは、心に重石を置かれた様な心地だった。
俺も、Sが死んでから人生の半分が過ぎているのだ。
総てを手に入れ、全てを無くし、そして今。Sの眼を通して此の町を見ている。Sと一つになれたばかりか、Sに近しい存在を手元に置いている。
結果的に人生の半分を費やしたとしても、お釣りが来る。Sと共にあった日々と同じだけの長さの時間が過ぎても尚、色濃く思い出せるのだ。寧ろ、俺は神に嫌われて居ない存在だとも思えて来る。
Sと二人で願いを捧げた、湖での流星群。あの時の願いを、長い年月を掛けて叶えてくれたのかもしれぬ。
「今日は帰ろうか、S。」
前髪を横に流し、隠していた眼を曝け出す。本来、隠す必要はないのだ。Sの瞳が賞賛されるのは気分が良い。だが目立ってしまえば、人の口に登る。そうなれば些細な糸口から人魚の存在が知られてしまう可能性がある。
俺は、あの人魚の事も愛している。Sよりも幼く、血塗れになる事も厭わず、煌めく肌は、今思い返しても心を焦がす。
自宅に戻り、真っ先に向かったのはSの部屋だ。古い布の香りに混ざって、何処からか潮の匂いを感ずる。
「ただいま、俺のS。俺のメーア。」
人魚の眼は、ホルマリンの中で静かに佇んでいる。Sより青みがかった虹彩を見つめ、瓶の硝子越しに口付けた。
Sの片目と並べると其の違いが良く分かる。二人を眺めるのは飽きが来ない。
俺の鱗と人魚の鱗は、とある硝子職人に頼んでサンキャッチャーに仕立ててもらった。ハンガーの様に左右に広がった針金に、様々な長さのチェーンの先に鱗と硝子の雫が垂れ下がっている。硝子は透明であるが、光によって複数の青色が見えるものだ。気泡を含み、丸で水中の
Sと人魚との日々に想いを馳せれば、Sとの最後の一年と、人魚との一週間が鮮やかに蘇る。
桜舞う花道、海での一幕、艷やかな赤、純白の約束、病床での誓い、煌めく暗闇……。
頭上にある海に、溺れる様な多幸感が俺を満たしていく。
人魚は今も、チョーカーにあの独特の光を載せて、海を闊達に泳ぎ回っているだろうか。林檎の味を懐かしんでいるだろうか。俺をエトワルとして、空に手を伸ばす事があるのだろうか。俺の黒い眼を、水面に映して想ってくれているだろうか。
人魚も、夜空に溺れているのならば、俺にとって悦ばしい。こうしてヴェルヴェットのソファーに腰掛ければ、会えずとも身近に感じられる。
俺の心の中にある、此の二人掛けソファーに、Sと人魚が座っている。今迄は十五の俺がSと共に腰掛けていた。だがSは、俺の一部になり、俺もまたSの一部となれたのだ。
その席から過去の俺が退いたとて、褪せる事は無い。俺を住み着かせておく必要など、無くなったのだから。
ソファーの滑らかな布に触れ、肌触りを楽しむ。Sの猫の様にふわふわとした髪や、人魚の素肌を思い起こさせた。
「愛している。」
囁きは誰の耳に届いていなくとも良い。二人に愛を囁ける事それ自体が、俺にとっての慶福である。
今まで以上に、此れまで以上に、俺は二人を連れ回す事が出来る。此の事実だけで、次の朝になって自分が死して見つけ出されようとも満足であるし、同時に長く生きて世界を股にかける医者となるのも悪く無いと思えるし、そしてずっと此の部屋で変わらず在り続けたいとも思う。
軈て降り出した大粒の雨音を聞きながら、俺は眠りに落ちていく。
美しい切り花が浮かぶ、甘い海の中の情景が確かに見えた。
了